第37話 二人の隣の場所
シルヴァレン家のサエリスにとって、朝は早い。
日が昇る前には、サエはもう着替えを済ませ、小さな木のたらいで顔も洗い終えている。
いつもなら身支度も身の回りの世話も、シルヴァレン家の侍女たちがしてくれていた。
だが今は、サエも祖父のタエロルも、彼女たちには自分のことに気を回す時間を与えている。
それも当然だった。
皆そろって、エリュンデアという見知らぬ世界へ連れてこられたばかりなのだから。
できる限り身なりを整えると、サエは黒ヘラジカの皮でできた天幕の戸を開いた。
迎えてくれたのは、朝の最初の光だった。
もちろん、冥界に太陽が昇ったわけではない。
それは、ヴィシアレたちが野営地の周囲に張った仮の空間結界を通して、ようやく差し込むようになった朝の光にすぎない。
冥界の神秘に満ちた谷の澄んだ空気を胸いっぱいに吸い込むと、サエは水を汲みに川へ向かった。
途中、ほかのヴィシアレたちが小さく会釈してくるので、サエも明るくそれに応える。
これから築かれる町のために資材を運び続けている、足の生えた巨大な木々にも、彼女はきちんと声をかけた。
向こうは挨拶を返してくれない。
だが、別に悪気があるわけではない。ただ、反応があまり得意ではないだけだ。
唯一の例外は、セリスが近くを通る時だけだった。
その時ばかりは、みなそろって震え上がる。
まだ名もない大河へ着くと、サエは岸辺で水を飲んでいたイルク二頭としばらく遊んだ。
このおとなしくも堂々とした生き物たちは、今ではかなりの数が彼らと共に暮らしている。
どうやら耳の後ろを撫でられるのに弱く、それであっさり懐いてしまったらしい。
それが、彼ら最大の弱点だった。
祖父と一緒に暮らす天幕への帰り道は、行きより少し遅い。
サエは困っている人を見ると、つい足を止めてしまうのだ。
年配の者の洗濯物を干すのを手伝ったり、朝風呂に入れられそうになって母親の手を逃れた小さな子供たちを捕まえたり。
そうして戻るころには、たいてい祖父ももう身支度を終えていて、二人でささやかな朝食を取るのが常だった。
果物に木の実、それからあれば黒ヘラジカの燻製肉。
「ネレジエル様には感謝せねばならんのう。黒ヘラジカの皮に食べ物、住む場所まで……とても返しきれん」
「ええ、おじい様。ご本人は全部アヴェル様のおかげだとおっしゃっていたけれど、ネレジエル様がいなければ、私たちは本当に谷の肥やしになっていたはずだわ。アヴェル様ご自身がそうおっしゃっていたもの……」
「おお、そうじゃった! 昨日、神殿にぴったりの場所を見つけたんじゃよ、サエ。今度こそネレジエル様を驚かせられるぞい!」
「それはいいけれど、おじい様。みんなの暮らしが落ち着く前に、ネレジエル様の神殿を建てるのは禁止だと、ご本人に言われたでしょう。家も畑も、共同の設備も、そちらが先よ」
「でものう、基礎のために少し掘るくらいなら、誰にも迷惑はかかるまい……」
「おじい様……」
「年寄りには心の安らぎが必要なんじゃ! いつぽっくり逝くかも分からんのだぞ!? 神殿もないままでは、その時どうやってネレジエル様に迎えていただけばよいんじゃ!」
「それを聞いたら、ご本人がどんな顔をするかしら……。第一、おじい様もほかのお年寄りたちも、まだ何百年も生きられるでしょうに。そんなに急ぐ必要はないわ」
タエロルはぶつぶつと不満そうにしていたが、それ以上は食い下がらなかった。
アルコンテである彼でも、孫娘との口論に勝てるとは思っていない。
「サエ……」
「なに、おじい様?」
「黒ヘラジカかイルクは、乳を出さんかのう……。朝のミルクが恋しいわい……」
「……」
二人は朝食を終え、まだ始まったばかりの長く厳しい一日に向けて支度を整えた。
◇ ◇ ◇
「あっ、オスヴェル、イリー。おはよう!」
ドライアドたちが配っている、絹のような新しい布を受け取りに行く途中、サエは幼なじみ二人と鉢合わせた。
「おはよう」
オスヴェルが、いつもの穏やかな笑みで答える。
「サエ、ちょっと聞いてよ!」
イリーはサエの肩に片手を置き、もう片方の手でオスヴェルを指さした。
「この人、狩人ぶって出ていったくせに、みじめなウサギ一匹捕まえられなかったの!」
「そ、そう……それは残念ね……」
「君がずっと横で騒いでいなければ、もう少しましな結果になっていたと思うけど……」
「えええっ!? それってあたしのせいってこと!?」
イリーはわざとらしく目に涙を浮かべ、サエへ向き直る。
「サエ、今の聞いた!?」
「ふふ、二人って本当に仲がいいわね。ちょっと羨ましいくらい」
「サエ、それはさすがに目医者へ行ったほうがいいと思う」と、オスヴェルは言った。
「サエ、何言ってるの!? あたしたちは親友なの! オスヴェルなんて、朝になると毎回顔を合わせるだけの邪魔者よ!」
「君が自分の天幕を僕の隣に張らなければ、毎朝顔を合わせることもなかったんだけどね……」
「だって、お母さん同士が仲良しなんだから仕方ないでしょ!? あっ、お母さんにお昼の手伝い頼まれてたんだった、怒られる!」
イリーはそう叫ぶと駆け出した。
だが途中で一度だけ振り返る。
「それに、ウサギがいないのはオスヴェルが下手くそな狩人だからだって、ちゃんと言いつけてやるんだから!」
「おい……」
抗議する間もなく、イリーはもう天幕の間へ消えていた。
「あの子、本当に嵐みたいね」
サエはくすくす笑いながら言った。
「僕たち三人の中で、一番年上だって信じられる?」
「忘れようがないわ。何かあるたびに、自分で思い出させてくるもの」
サエとオスヴェルは顔を見合わせ、ほっとしたように笑った。
何が起きようと、世界が変わろうと、三人はやはり三人のままだった。
「僕もそろそろ行くよ。剣の鍛錬を休むわけにはいかないから」
「もうこれ以上強くなる必要なんてないんじゃないかしら。しばらく、あなたに勝てる人なんていないでしょう」
「死神様が、いずれネレジエル様には軍が必要になるって言っていたんだ。だから腕を鈍らせたくない」
「イリーも、ネレジエル様にはすごい軍勢があるって言ってたわ。恐ろしくて、でもすごいんだって……正直、どういう意味なのかは私にもよく分からないけれど……」
「そうかもしれない。でも、もし機会があるなら逃したくないんだ」
オスヴェルは最後にサエへ微笑み、手を上げて別れを告げた。
「それに……イリーが僕と一緒にいたせいで攫われたことを、まだ自分で許せていない」
サエも華奢な手を振り返し、その笑みに応えた。
けれど胸の奥が、少しだけ締めつけられた。
幼いころのサエは、ほとんどの時間をアトレニアの宮殿で過ごしていた。
オスヴェルもイリーも、有力貴族の子として時おり顔を合わせてはいた。
だが、本当の意味で幼なじみだったのはあの二人で、自分はただの脇役にすぎないと、サエは分かっていた。




