第38話 恋愛の神様?
昼はとうに過ぎていたが、冥界の結晶が放つ琥珀色の光に大きな変化はなかった。
せいぜい、野営地を覆う空間結界に少し手を加えられる程度だ。
サエは疲れていたわけではない。
それでも、胸の奥に満ちた妙な気持ちに押されるように、野営地の外れの木陰へ身を横たえていた。
ここは別の世界だ。
何もかもが新しく、何もかもが違う。
それでも、変わらないものはあった。
自分は相変わらず、あの二人の輪の外にいる。
その一方で、オスヴェルとイリーは今もずっと一緒だった。
しかも――前よりもっと近く見える。
「こんな気持ちを抱くなんて、私って嫌な子なのかしら……」
答えは見つからず、胸の中にたまったもどかしさだけが消えない。
サエはそれを振り払うように、空へ向かって足をばたつかせた。
「……大丈夫か?」
最悪の予感に襲われながら、サエは顔を覆っていた両手をそっと外した。
そして、その予感が当たっていたと知った瞬間、頬が一気に熱くなる。
「ネ、ネレジエル様……!」
近くに穴でもあれば、そのまま飛び込んで隠れてしまいたかった。
これまでヴィシアレの誰ひとりとして出会ったことのないほど高貴な存在に、まるで子供みたいな姿を見られてしまったのだから。
「ち、違うんです、ネレジエル様! その、これは……! ちょっと体を伸ばしていただけで……!」
「そうか? まあ、何か悩みがあるなら、聞くくらいはしてやるぞ」
ネレスは木陰の草の上へ、サエの隣に腰を下ろした。
まだそこまで遅い時間ではない。
けれど一日中そうであるように、琥珀色の光のせいで辺りはもう夕方のように見えた。
「こんなことをネレジエル様にお話しするべきではないと思います……。本当に、つまらない悩みですから」
目を閉じて草の上へ寝転びながら、ネレスは安心させるように笑った。
「そういうつまらない悩みのほうが、俺は別に首を突っ込んでもいいんだよ。神の戦争の話でもされたら、とっくに遠くへ逃げてるけどな……」
(というか、そうなる前に備えて冥界へ逃げ込んだんだけどな……)
「神の戦争の最中なら、誰だって隠れたくなると思います、ネレジエル様……」
「それで? 人の悩みをいつでも聞く気があるわけじゃない。今がその機会だぞ」
サエは膝を抱え込み、しばらくその間に顔をうずめていた。
けれど、やがて顔を上げると、視線を遠くへさまよわせたまま静かに口を開いた。
「怖いんです、ネレジエル様」
ネレスはゆっくり目を開けた。
頭上には、無数の結晶が埋め込まれた巨大な洞窟の天井が見える。
神秘的な地下の風が、谷の匂いを運んできていた。
「それは分かる。新しい世界に来て、今まで知ってたものが全部なくなったようなものだからな……。でも、元いた世界がなくなっても、お前たちみんなが無事だったのは幸運だ。それが一番大事だし、心配しなくても、アヴェルがこれからもそうしてくれるはずだ」
「違うんです、ネレジエル様……。私が怖いのは、オスヴェルに気持ちを打ち明けたあとで、私たちの関係がどうなってしまうのかなんです……。
もしオスヴェルに断られたら、私たち三人は今まで通り友達でいられるのでしょうか。
もし受け入れてもらえたら、イリーはどう思うのでしょう。
そもそもイリーは、オスヴェルのことをどう思っているのでしょうか……」
話せば話すほど、ネレスの顔色はどんどん悪くなっていった。
「なるほど……恋の悩みか……。うーん、正直そこは俺の得意分野じゃない……」
「やっぱり、くだらない悩みですよね?」
ネレスは唾を飲み込み、自分から踏み込んでしまったことを少し後悔した。
若者たちの恋の悩みに比べれば、神の戦争のほうがまだましに思えてくる。
「い、いや、全然くだらなくない……。俺がその立場だったら、夜も眠れないと思う」
「ふふ……ネレジエル様がそんな悩みを抱えている姿、想像できません。きっと奥様が何人もいらっしゃって、お友達も軍勢みたいに大勢いるんでしょう?」
ネレスは、今聞いた言葉の一つ一つが理解できないと言わんばかりの目でサエを見た。
「俺にいるのなんて、餌をやる手に噛みついてくる、半分ペットみたいなやつが一人いるくらいだ……。それに、デートだって一度しかしたことがない。生涯で……いや、この言い方もややこしいな。とにかく、ろくな結果にはならなかった」
今度はサエのほうが、何ひとつ理解できないという顔になった。
「そんなことがあるのですか……? そのデートで、何があったんですか?」
「よく覚えてないんだよな。あまりにも昔のことだから。まあ、ひとつ言えるのは……そのときはいろいろあったけど、そのうちの一つが死ぬことだった」
「し、死……?」
「しかも、それはまだ軽いほうの問題だったしな……」
今度はサエの顔から血の気が引いた。
自分が今、神の隣に座っていることを、一瞬忘れていたのだ。
アルコンテの孫娘であるサエは、アトレニアの神話を隅々まで知っていた。
神々が、普通の人間には耐えられないような出来事をいくつも経験してきたことも。
「申し訳ありません、ネレジエル様……。お聞きしてはいけないことを聞いてしまいました」
ネレスは身体を起こし、気まずそうに頭をかいた。
「いや、気にするな。ずっと昔のことだ。今の俺はただ平穏が欲しいだけなんだけど……どうも、それがなかなか難しいらしい。まあそれは置いといて、今はお前の悩みの話だ」
「私の悩み、ですか……? 死ぬことに比べたら、あまりに些細で、続けて話すのも恥ずかしくなってきました……」
「そんなことない! 詳しいわけじゃないけど、若い女の子にとって恋っていうのは命がけの話なんだろ、たぶん!」
(少なくとも、恋愛小説ではそうだった)
サエは小さく笑った。
さっきまでより、ずっと肩の力が抜けている。
巨大な灯台の上からアトレニアの街を見下ろせば、自分の悩みが小さく見える。
そんな話を聞いたことがあった。
でも、今のこれはそれ以上だった。
「でもネレジエル様、それはつまり……何か助言をくださるということですか?」
ネレスは腕を組み、少し考え込んだ。
「恋愛に関しては初心者だけど、ひとつだけ言えることはある。人生は短い」
「人生は短い……?」
「そうだ。お前たちみたいに何千年も生きるやつらでも、人生は短い。そして長く生きれば生きるほど、どんどん短く感じるようになる」
「祖父も似たようなことを言います」
「実際、面白い話なんだよ。十歳なら十年って永遠みたいに感じる。だってそれが、自分の生きてきた全部だからな。
でも八十になれば、十年なんて人生の八分の一でしかない。昔はあんなに長く感じた年月が、いつの間にか勝手に過ぎていくようになる」
「なるほど……」
「おっと、悪い。話がずれたな。言いたかったのは、言うべきことがあるなら胸の内にしまっておくなってことだ。明日何が起きるかなんて、誰にも分からない。もう誰かに攫われたりはしないと保証するけど、イリーか誰かが先にオスヴェルへ告白するかもしれない。
そのときになって、一度もぶつからずに終わったことを後悔しないか?」
「ネレジエル様……! その通りです! やらずに悔やむより、やって悔やんだほうがずっといいです!」
ネレスは満足げにうなずいた。
どうにか大きな事故もなく、恋愛相談役をやりきったらしい。
「でも……オスヴェルと二人きりになる方法が分からないんです。二人きりで話したいなんて言ったら、みんなすぐ気づいてしまいます」
「それはそうだな……。ヴィシアレの姫が告白するとなると、余計な意味まで持ちかねない。あまり大ごとにはしたくないな」
ネレスは顎に手を当てた。
「オスヴェルとイリーは、朝になると二人で狩りへ出るんです。私も一緒に行こうと思えば行けますけど、そうしたら三人になってしまって、二人きりで話す時間はできません……」
サエはしおれて見えた。
せっかく勇気を出したのに、実行に移すとなると、思っていたよりずっと難しいのだ。
「だったら……俺も一緒に行くか……。二人ずつに分かれればいい。俺はイリーに、このあたりを案内してもらう」
ネレスは、一言ずつ口にするたび後悔が増していくのを感じていた。
「ネレジエル様! なんとお礼を申し上げれば……!」
◇ ◇ ◇
セリスは不本意ながら、野営地の見張りとして残っていた。
計画は、ひとまず予定通りに進んだ。
森へ入ってすぐ、四人は二手に分かれたのだ。
イリーは大喜びでネレスの案内役を引き受けた。
もっとも、その役にはオスヴェルまで名乗りを上げたので、少し揉めはしたが。
だがネレスは、恋愛そのものの経験こそほとんどないものの、それを遠くから眺めてきた経験だけなら何千もの人生ぶんあった。
そのせいで、話があまりにも都合よく進みすぎている気がしてならなかった。
その嫌な予感は、四人が分かれてほどなく、あっさり当たる。
「あたし、邪魔でした?」
道端で見つけた枝をくにくにと曲げながら、イリーがそう尋ねた。
「邪魔?」
ネレスは視線をさまよわせながら聞き返す。
「分かってて言ってますよね?」
イリーはくるりと顔を向け、いたずらっぽく笑った。
「もし、あたしもオスヴェルのことが好きだったら、どうするんです? その時は、あたしには手を貸してくれないんですか、ネレジエル様?」
……
(神様、なんで俺にこんな役回りを押しつける……って愚痴りたいところだけど、この場で神って俺しかいないんだよな……)




