第3話 雲上の白い都
ネレスは疲れたように息を吐いた。今まで見せていた顔とはかなり違い、その表情はずいぶん真面目だった。
最初に取り乱したのも無理はない。あれだけのことを味わったあとで、平然としていられる者がどれだけいるだろう。
ようやく逃げ切れたと思ったのに、気づけば人の気配がほとんどしない連中の大群に囲まれていたのだから。
「まずは、自分が何に巻き込まれたのかをちゃんと理解しないとな……神候補? あのでかい門の先は新しい世界? じゃあ、今俺がいるのはどこの世界なんだ?」
周囲では、何千人もの神候補たちがまだ暁の広間をあとにしていた。彼らがくぐっていく門は、その向こうが見えないほど強く輝いている。それなのに、誰一人気にしていないようだった。
普通なら、こんな状況で呆然としないほうがおかしい。だが、ネレスはあまりにも長く生きすぎていた。神の存在も知っている。遠い昔、実際に一柱と出会ったことがあるのだ。あれ以来、たいていのことでは驚かなくなっていた。
「今の優先は情報集めと、この神々の祭典で目立たないことだな……天使ヅラの悪魔に、俺が逃げたって気づかれないように。……でも、もし本当に神に選ばれたら……運命の女神に立ち向かえるのか?」
ネレスはもう一度あたりを見回した。ちょうどそのとき、ひときわ目を引く二人組が近くを通りかかる。実際、周囲の視線をかなり集めていた。
男は背が高く整った顔立ちで、燃えるような髪をしていた。その瞳には自信が満ちていて、まるで空そのものを映しているかのようだ。リリエンと同じく、自ら光を放っているように見えるが、彼女の光が神秘的だったのに対し、彼のそれはさらに強く、眩しかった。
一方、その隣を歩く少女は、きらめく銀の瞳をしていた。光を受けた金髪は歩くたび色合いを変え、深い金色から白に近い淡い黄色へと移ろっていく。
視線に気づいたのか、少女は一瞬だけこちらを向いた。ネレスを見つけると、小さく微笑んで、そのまま通り過ぎていく。
もっとも、ネレスに視線を向ける者は彼女だけではなかった。すれ違う者たちの多くが彼を振り返り、指をさして、ひそひそ笑っている。
ネレスは頭をかき、気まずそうに曖昧な笑みを浮かべることしかできなかった。
「いや……たとえ神に選ばれたところで……」
ネレスは一瞬だけ目を閉じ、また開いた。
「あの老人、肩書きに『至高神』ってあったけど……それでも運命の女神には勝てない気がするんだよな……ん?」
考え込むように顎へ手をやる。
「あの老人も、その孫も生命の神だった……ってことは、運命の神も他にいるかもしれないのか?」
ぶるり、と腕をさすった。
「その可能性は、二度と考えたくないな……」
「君のゴッドスクリプトを見る限り、本当にネレジエルって名なんだな……恥ずかしくないのか? ああいう名を名乗る資格があるのは――」
近づいてきた男を見て、ネレスはすぐに思い出した。顎が割れた、あの男だ。さっき、自分のスピリチュアル・エナジーが二万を超えていると自慢していたやつである。
だが、誰がこんな痛々しい名前をつけたのかも、なぜそうなったのかも自分にはさっぱり分からないと返す前に、男は勝手に口をつぐみ、考え込むような顔になった。
「いや、それより重要なのは……なぜ君の情報が名前しか見えない? ……まさか、俺よりスピリチュアル・エナジーが上だとでも? ありえない……いや、待て。情報を隠す方法はいくつかあると聞いたことがある……」
「まだ一人で話を続けるなら、俺はもう行っていいか? この会話に俺が必要だとは思えないんだが」
「俺はオドリアン。フェレンディルの火神の息子、カレンナの偉大なる光の女神の孫だ。この俺がわざわざ声をかけてやっているだけでも、名誉に思うべきだぞ」
「うーん……このやり取りに関して、やっぱり俺が出せるものは特にないな……」
「なら、まずは自分の血筋を名乗れ。相応しい近親者がいないなら、一族でもいい」
「相応しいって? 神の親戚ならいないぞ、そういう意味ならな。少なくとも、俺の記憶じゃずっと人間だった」
「本気で言っているのか!? 説明しろ、人間風情がどうして神候補なんかに選ばれる! 半神ですら、この域までスピリチュアル・エナジーを高めるのに二百年はかかる。自然霊や下位の存在なら、千年かかってもおかしくない!」
「そう言われてみれば、俺も千はかかったな」
「千年だと? 俺を馬鹿にしているのか? 人間なんて百年も生きられまい」
「いや、千回だ。人生が」
「千回の人生だと!? そんなふざけた嘘を、この俺の目の前で口にして無事でいられると思っているのか!?」
オドリアンは威圧するように近づき、ネレスの顔すれすれの距離で止まった。だが、視線がぶつかった瞬間、その顔から血の気が引いた。男はよろめくように数歩後ろへ下がる。
「し、試練でお前と顔を合わせることになるだろう。逃げるなよ」
そう言い捨てて、半神は再び歩き出し、門へ向かう人波の中へ消えていった。
「輪廻の話なんて、神相手なら普通に通じると思ってたんだけどな……そんな怒ることだったか?」
ネレスは困ったように首の後ろをかいた。
「そもそも、あの呪いをかけたのは運命の女神なんだし……」
自分の生きた回数は軽々しく人に言うべきではない。ネレスがそう心の中で書き留めていると、今度は紫の髪に薄紫の瞳を持つ青年と目が合った。
言葉は交わさなかった。だが、その青年は通り過ぎざまに丁重に頭を下げ、そのまま群衆の中へ消えていく。
「経験上、あいつはただ者じゃないな。(あの試練でも、できれば関わりたくない相手リスト入りだ)……しかし本当に……紫の髪? 薄紫の目? この場所で普通なの、俺だけじゃないか?」
もちろん、自分自身がどう見えているのかなど、ネレスはまるで知らない。そんな自覚のないまま、彼はエフェリオンの門へ向かって歩き出した。
◇ ◇ ◇
ほんの数歩だった。光に目を焼かれ、ようやく開けたと思ったら、またこすり直さなければならなかったほどだ。
その先で彼を迎えたのは、大理石のように白い都市だった。五つの山の頂に広がり、それぞれを結ぶ巨大な橋の柱は雲の中へ消えている。
【エンピリアン・ピークス】
【始原の評議会によって築かれた、この世界そのものよりも古い都。エリュンデアにおける神々の座として設計された】
どうやらゴッドスクリプトは単なるホログラムではないらしい。ネレスが「ここはどこだ」と思っただけで、目の前に小さな説明ウィンドウがふわりと現れた。
「ここが、これから俺たちの住む場所ってことか?」
「自分の領域を治めるのとは別に、神々はここに宮殿を持つことになる。けど、僕たちみたいな候補者は共同の宿舎暮らしさ」
独り言のつもりだった。あるいはゴッドスクリプトが答えてくれないかと期待していたのかもしれない。だが、意外にも返答したのは背後から聞こえた声だった。
振り向くと、そこには引き締まった体つきの茶髪の青年と、金髪を三つ編みにした少女が立っていた。
「失礼、まだ名乗っていなかったね。僕たちは半神だ。僕はアレン、そして彼女がヴィルキーだ」
アレンはそう言って手を差し出した。
「ネレジエル。僕と組んでくれ。君となら、この神々の祭典を一緒に勝ち抜けるはずだ」




