第25話 銀の潮
始まりの儀は、最高調停官のあいまいな説明よりも、むしろネレス自身の勘のおかげで、ここまでは順調に進んでいた。
神へ昇った時の感覚を思い出しながら、彼は今、頭上に浮かぶ青い球体として示されているエリュンデアと、銀の海の両方へ意識をつなぐことに成功していた。
実際、死の川を感じ取り、それを銀の海へ結びつけるのは、思っていたよりずっと容易だった。いや、容易すぎるくらいだった。
まるで銀の海そのものが、彼を歓迎しているかのように。
(うわ……正直、この魂の集まりとはあんまり関わりたくないんだけどな……。せめて、俺自身がその中に直接いるわけじゃないってことくらいか……)
だが、何もかもがあまりにもうまくいきすぎている。そう思った矢先、リリエンの表情が苦しげに歪んだ。
宇宙を映す泉をはさんだ向こう側で、生命の女神はふらりとよろめき、このままでは今にも倒れてしまいそうに見えた。
リリエンの供回りたちは一斉に武器を構え、ネレスへ飛びかかろうとした。
だが、その前にセリスが動いた。
彼女は一跳びで壇上を横切り、その前に立ちはだかった。観客たちは皆、あまりの速さに目を見張っていた。
彼らが敵意を向けた理由は明白だった。
銀の海が、リリエンを呑み込みかけていたのだ。
本来であれば、生と死は輪廻の循環に対して等しいだけの影響力を持つ。
だが、この死の神だけは別だった。
銀の海は、ネレスに対してだけ異様なほど強く引かれていた。そのせいで、対極にある生命の女神が、霊的につながった魂の波に引きずられかけていたのである。
ネレスは事態が大きくなるのを防ぐため、自らのつながりを通じて海を鎮めようと、精神力のすべてを振り絞るしかなかった。
とはいえ、そのあとリリエンから向けられた険しい視線は、感謝とは程遠かった。
「ちっ……祭りが始まるかと思ったのに……」
セリスは巨大な大鎌を消しながらそうつぶやき、元いた場所へ戻っていく。
生命の女神の供回りたちも、同じように引き下がった。
創世の大円蓋の縁から一部始終を見守っていた調停者たちは、ほんの一瞬、本気で命の危険を感じて冷や汗を流していた。
「いったい、今のは何だったんですか……?」
ディリレイが、純粋な驚きに目を見開いて尋ねる。
「生命の女神が、衆目の前で辱めを受けたのですよ」
最高調停官カシアンは眼鏡の位置を整えながら答えた。
「まるで銀の海そのものが、彼女に『死の神に比べれば、お前など取るに足らない』と言い放ったかのように」
◇ ◇ ◇
「うぐ……どこか穴にでも隠れたい……。ああ、そうだった。それが俺の洞窟か……」
ネレスは黄昏の館、その主寝室のベッドにうつ伏せで寝転がっていた。
「いつまでそこで転がってるつもり?」
さっきネレスが閉めたばかりのカーテンを開けながら、セリスが言う。
「始まりの儀なんてものがあったことを忘れるまで」
「何よ、その始まりの儀って。あの気取り屋のセレネですら、笑いながら帰っていったわよ。『まさかここまでうまくいくとは思わなかったわ』とか、『これでエンピリアン・ピークスの第一勢力がどこか、みんな分かったでしょうね』とか言って」
「……」
「冥界を探しに行くんじゃなかったの? もう始まりの儀は終わったんだし。まさか、このまま一日じゅうそこで転がってる気?」
「俺の洞窟……」
「はいはい、洞窟ね、洞窟」
「こんな都、早く離れられるなら離れたい」
そう言って、ネレスはようやく身を起こした。
「じゃあ、もう行けるの?」
「でも、そういえばお前、自分の村に戻りたいとか言ってなかったか? 復讐するとか、自分がもう女神になったって見せつけるとか、そんな感じのこと」
「何であんた、隙あらばあたしを追い出そうとするのよ!? そもそも、あたしを従者にしたのはあんたでしょ!?」
「いや、そういうわけじゃない……。いや、全然そうじゃないとも言い切れないけど……その時はあまりに熱く語ってたから、気になっただけだ」
「……この世界、至高神が決まるまで外界とは切り離されたままだって知らないの? せいぜい行けてセレネの月くらいよ。あんな場所、あたしは願い下げだけど」
「うーん……じゃあヘルクスは、本当に太陽に住んでたりするのか? あいつとは離れてるに越したことはないけど……。まあ、言われてみれば、確かにカシアンからそんな話を聞いた気もするな」
「それに、下位神になったくらいじゃ足りないのよ。あたしの問題は、相手が千年級の精霊だってことなんだから」
「でもお前、半神になる前は精霊だったんじゃなかったか?」
「そうよ。でもあたしなんて、たかだか二百年の若い精霊だったの。千年級の精霊っていうのは……まあ、そのまま何千年も生きてるってこと」
「そういうの、エリュンデアにもいるのか? (いや、今の俺からすると、千年なんて大して長くも感じないけど……)」
「当然いるに決まってるでしょ! しかも、神や定命の者が押しかけてきたことを喜ぶわけないじゃない!」
「何でそんなに嬉しそうなんだよ……」
「原生の半神だって、厄介な相手よ」
セリスの目は、いつも以上にきらきらと火花を散らしていた。
「半神って……昇れなかった連中は、みんなエリュンデアから追い出されたんじゃなかったのか?」
「違う違う。それは神候補だった半神たちの話。こっちは原生の半神よ。この世界にもともと根を張ってて、世界とのつながりも桁違いなんだから、別格なの。半神のくせに神を殺したって話が残ってる奴らだっているのよ!」
「わあ……」
「原生の存在って話なら、土地神たちもいるわ。自分の縄張りを守るためなら、最後の最後まで戦うでしょうね」
「土地神……?」
「そう。山の主とか、湖の主とか、谷の守り神とか。精霊が行き着く形としては、一番ありふれてるのよ。あたしはむしろ例外だったってだけ」
「俺はてっきり、一番の問題は魔物だと思ってたんだけどな……」
「魔物? ははっ、そんなのは定命の者の悩みよ。けど幻獣ともなれば……話は別!」
セリスは胸の前で拳をぎゅっと握りしめ、興奮を抑えきれない様子だった。
一方のネレスは、『死の化身』の異名にふさわしいほど、ますます顔色を悪くしていく。
「で、思うんだけど……冥界って、そういうのが山ほどいそうだよな?」
「当然でしょ。今まさにあそこに住んでる連中が誰だと思ってるの? しかも神にとって一番厄介なのは、たぶんタイタンたちよ。新しい世界には、勝手に湧いてくるのよ、あの厄介ども」
「タイタン……」
「で、行くの? 行かないの?」
「やっぱり……都暮らしも悪くないのかもしれないな」
……
「税を払えなきゃ、この館も維持できないわよ。あんた、自分で言ってたじゃない」
「税とか言われると、このファンタジー世界への没入感が一気に壊れるんだけど……」
「あたし、今の半分も分からなかったんだけど。要するに、都にエネルギーが回らなきゃ、結界も魔導具も、ほかの色々なものも維持できない。だから住民から信仰を集めるんでしょ」
「いつの間にそんな話まで覚えたんだよ……。いや、ありがたいけど、税ってのは殴って倒せる敵じゃないんだぞ。そこをちゃんと気にしてるのは意外だ」
「あたしを何だと思ってるのよ!?」
「うーん……面倒で危なっかしいけど、可愛いところもある。……ただ、そんなに頭の回る方じゃない、って感じかな」
「あんたを……! あんたを……! 噛みついてやる!」
「はいはい、それだよ。そういうのがお前らしい」
「がうっ!」
ガブッ。
「いっ……腕が……痛い。……いや、痛いけど、そこまででもないな。やっぱりこの服、いい買い物だった」




