第22話 黄昏の館
「つまり、あの儀式に俺も出ろってことか?」
ネレスとセリスは今、エンピリアン・ピークスの通りを歩きながら、前を行く最高調停官カシアンと、その補佐であるディリレイの後についていた。
「その通りです、ネレジエル様。始まりの儀は、エリュンデアが独立した世界として歩み始める節目であり、最初の民となる定命の魂を迎え入れるための儀式でもあります」
カシアンは眼鏡の位置を整えながら、よどみなく答えた。
「ネレジエル様って……そんな呼び方まであるのか? ネレスでいいんだけどな……。いや、それより、『最初の民』って何だ?」
「それなら、あたしが説明します! ネレ――ネ、ネレジエル様!」
ディリは最高調停官にひと睨みされただけで、あわてて言い直した。
「最初の民っていうのは、要するに、これからエリュンデアの種族の始まりになる魂たちのことです。人間とか、エルフとか、ゴブリンとか……」
「現時点でこの世界にいるのは、獣や魔物、それにタイタンのような不死の存在だけです」
カシアンが言葉を継ぐ。
「この儀式によって、理性を持つ定命の魂がこの世界へ入れるようになります」
「で、それに俺がどう関わるんだ?」
「生命の女神リリエン様が銀の海への門を開かれる一方で、ネレジエル様には、そこへ帰るための道を作っていただく必要があります」
カシアンはそう説明した。
「つまり、ネレジエル様には、意識で死の川を感じ取って、それを銀の海へつないでもらうんです」
ディリが補足する。
「その通りです。現時点では、この世界に落ちた魂は永遠にここへ留まり続けることになります」
カシアンは再び眼鏡を押し上げた。
「普通、それがすぐに問題になるわけではありません。ですが、それは同時に、この世界には『本当の死』が存在しないということでもあります」
(銀の海に辿り着いても本当の死が得られなかったらどうなるのか、って聞いてみたい気はする。……でも、どうせこいつらも知らないだろうし、余計なことまで聞かれそうなんだよな……)
「つまり、俺に、どうやるかも分からないまま頭の中だけでその死の川を見つけて、銀の海につなげろってことか?」
「ええ」
カシアンはまったく動じなかった。
「この世界で死後の理を司るあなただけが、それを成せるのです」
「……もし行かなかったら?」
「私どもに、あなたを強制する権限はありません」
カシアンは静かに答えた。
「ですが、生命の女神が個人的な侮辱と受け取る可能性はあるでしょう。待たせることになりますから」
「へえ、それいいじゃない!」
セリスが突然口を挟んだ。
「あいつ、見た時から一回やってみたかったのよ!」
「……」
「何よ?」
「やっぱり、行くしかないか……これ以上面倒を増やしたくないしな」
ネレスはため息をつき、完全にセリスを無視した。
「ちょっと!」
「ネレジエル様。死の川は聖なる場所であり、それを支配する者にとっては大きな力の源でもあります」
カシアンが続ける。
「神々が信仰と呼ぶものです。もっとも、それは他の存在にとっても力として利用できるものですが」
「川そのものが信仰をくれるのか? 川にも信者っているんだな……」
「信仰っていうのは、要するにスピリチュアル・エナジーをもっと不純にしたような力なんです」
ディリが明るく説明する。
「人間が神へ力を分け与えられるみたいに、聖なる土地や物にも、それぞれ固有の力があるんですよ」
「あたしも同じこと言ったわよ」
セリスが不満げに唸る。
「なるほどな……。つまり、川が運ぶ魂から生まれる力が、そのまま信仰になるってわけか」
「その通りです」
ディリはにこりと笑ってうなずいた。
「でも妙だな。死の川って、自動的に死の神の支配下に入っててもよさそうなもんだが」
ネレスは顎に手を当てる。
「死の川は、あくまで世界そのものの一部です。ですが、おっしゃる通り、その力を余すことなく扱えるのは死の神だけでしょう」
カシアンは落ち着いた声で言った。
「ネレジエル様。もしその位置を感じ取れたなら、できるだけ早く確保なさることをおすすめします」
「うーん……まあ、死の川があるのは冥界だろ。で、冥界ってことは、要するに洞窟だ。そこから信仰が入ってくるなら、俺ももう貧乏じゃなくなる。そうなれば、その信仰で洞窟を強化して、誰にも邪魔されずに済むかもしれない……。でも、死の川そのものが面倒を引き寄せる可能性も高いんだよな……。理想の洞窟への道は険しい……」
「洞窟?」
ディリは首をかしげ、セリスを見る。
「気にしなくていいわ。ただの口ぐせみたいなものよ」
セリスは肩をすくめた。
その時、カシアンがぴたりと足を止めた。
当然、その背中にディリがまともにぶつかる。
「……よし、ネレジエル様。到着しました」
痛そうな鼻をさすりながら顔を上げたディリの前で、カシアンは手を広げ、全員の視線を一つの建物へ向けさせた。
そこにあったのは、豪奢という言葉でも足りないほどの大邸宅だった。
「エンピリアン・ピークスの物件はどれも、最初の数世紀は税が免除されています。新たに選ばれた神々が、この世界に根を下ろすための猶予ですね」
「神にも税金ってあるんだな……」
「エンピリアン・ピークスを維持するためには必要なのです」
カシアンが説明する。
「もちろん、それはあくまでこの都の話です。ご自身の領域では、何をどう定めるかもあなた次第ですが」
「それにしても、すごい屋敷だな……」
ネレスは、巨大な門扉の向こうに広がる庭園と、その奥に見えるあまりにも大きな建物群を見つめた。
「調停者たちの間では、『黄昏の館』って呼ばれてるんですよ! もちろん、あなたに割り当てられてからの話ですけどね、ネレジエル様!」
「何しろここは、この都で最も高い峰、そのさらに頂に近い場所ですからね」
カシアンが続けた。
「すぐ近くには、生命の女神リリエン様、そして時の神アイオン閣下の館もあります」
(時の神か……。あの紫の髪に、薄紫の目をした男。協和宮の広場へ戻された時、遠目に見たが……どう見ても面倒の匂いしかしなかった)
「すごい場所だな……。でも、こんなの維持するだけで、一つの宗教まるごとの信仰が飛びそうだ……。しかも近所まで物騒ときた……。よし、決めた。あの儀式をさっさと終わらせて、死の川と理想の洞窟を探しに行くしかないな」
「よーし! 冥界の連中に、誰が上か教えてやるわよ! あたしたちの前に立つやつは、まとめてぶちのめしてやる!」
「……いや、まずは話し合いから始めような?」
「ちっ……」
「ところで、最高調停官……」
ディリがカシアンの耳元へそっと顔を寄せた。
「二人が着てる服、もしかしてこの館より高くないですか……?」
「ディリレイ。他人の背後でこそこそ話すのは感心しませんよ」
カシアンはそう言って眼鏡を直した。
「もっとも――さすがは死の神ネレジエル様、といったところですが」
◇ ◇ ◇
黄昏の館。
あるいはネレスいわく、『税金を取り始めるまでは持っててやる場所』。
そこは、いくつもの建物からなる屋敷だった。しかも、そのどれもが単体で王族の館と呼べるだけの規模を持っている。
だが、中は思った以上にがらんとしていた。
高価そうな家具こそいくつか置かれていたものの、それ以外はほとんど何もない。
飾りもなく、庭園に花すらない。
すべてが新しく、まだ初めて主を迎えたばかりなのだから、それも当然ではあった。
おそらくは、新しい主が好きなように埋めていけるように作られているのだろう。
「聖獣用の庭か?」
カシアンとディリレイが去ったあと、ネレスは何気なくそう口にした。
「神話の生き物用でもあるわね。庭の一つは、そういうのを飼うために作られてるらしいわ」
セリスは、広くはあるがまだほとんど何もない居間の高そうなソファに寝そべりながら答えた。
「俺は猫一匹くらいで十分だけどな……」
「あたしは三つ首の犬がほしい!」
セリスは勢いよく上体を起こした。
「……」
「何よ、その間は」
「いや……やっぱりお前の方が、よっぽど死の神っぽいなって思ってさ」
「今さら気づいたわけ? じゃあその流れで、主寝室はあたしのね!」
「却下。それとこれとは話が別だ」
「ちぇっ……ケチ……」
‼
館そのものに結界があるとカシアンは言っていた。
それが関係しているのかは分からない。
だがネレスは、その門の向こうに誰かがいる気配を感じ取っていた。
「うげ……もう今日は、これ以上誰かの相手をする気力が残ってないんだけど……。セリス、お前が行って、また今度にしろって言ってきてくれ」
「はぁ!? なんであたしが!?」
「家賃と飯代くらい、何かしら働いてもらわないとな」
セリスはぶつぶつと文句を言い続けていたが、それでもちゃんと立ち上がった。
普通の人間なら、この居間から正門まで行くだけでもかなり時間がかかるだろう。
だがセリスは窓を開けると、二、三度跳んだだけで視界の外へ消えた。
‼‼‼
次の瞬間、今度は玄関の方でとんでもない物音が響き、ネレスは危うく後ろへひっくり返りそうになった。




