六 真実
屋上には、雨も降っていなければ風も吹いていない。降りしきる雨も吹き荒れる風も遠くに見えているだけで音すらも聞こえず、まるで屋上だけ空間が切り取られているかのよう。
もう夜も深まっている上に、空は暗雲に覆われていて暗い筈なのに、屋上だけがまるで夕暮れ時のように妙な明るさがある。
それはまるで、心が沈みかけている様子を表しているように見える。
そんな事を考えながら、悠飛は屋上の中央よりも奥側に佇み空を見上げているその人物の後ろ姿を瞳に映した。
ゆっくりと少しだけ近付けば、彼女もこちらを向いた。たった今気付いたというよりは、気付いていたけれど振り向く事がなかったという様子の落ち着いた雰囲気の彼女。その口元には笑みが浮かんでいる。
「よく来たわね、悠飛くん。ううん、来ると思ってたわ」
「まさか、こういう形で再び会うとは思ってませんでした。職員室にいる先生方を皆殺しにしたのは貴女ですね……北城先生」
真っ直ぐに悠飛に見据えられ、北城はウフフと楽し気に笑った。
「そういう言い方はないんじゃないかしら。実際に手を下したのはあの子でしょう」
あの子というのは、職員室にいた獣人型のファントムオーガの事だろう。
明るく笑う笑顔は一週間見てきた北城のものだけれど、今の笑顔は奇妙なものに思えて仕方がない。
悠飛は、目を細めた。
「……自覚はあるんですね。それは、あなたが人間ではなくファントムオーガだからですか」
悠飛の言葉に、北城はピクリと眉を顰める。
けれどすぐに笑顔に戻った。まるで笑顔を張り付けているかのように。
「知ってたのね。私、ちゃんと香奈だったと思うんだけど。ねえ、香奈に見えてたでしょう?」
そう言って、くるりと一回転する北城の姿は、ファントムオーガとは思えない程に人間的だ。思わず苦笑を浮かべる。
「僕もさっきまで気が付かなかったから、完璧ですよ」
「だったらどうして、気付いたのかしら」
「あなたは本当に完璧でした。誰もファントムオーガだと気付かない程に。けど、一つだけ矛盾を生んだ。それが……藍原先生」
その名に、スゥッと目が細められる。
口元に浮かんだ笑みは変わらず、けれども目が細められた事で可愛らしい笑みから妖艶な笑みへと変わった。
だが、何も返してこない北城は悠飛の言葉を待っているかのようで、悠飛はそのまま続ける事にする。
「僕達はずっと、あなたの存在を認識していました。普通に会話も出来ていましたし。だから、あなたはそこにいるものだとばかり思っていたけど、藍原先生だけは認識していなかったんです。二人で並んで立ってるのは見たけど、藍原先生からあなたに話しかけたところは一度も見ていません」
最初の職員室前で会った時も、視聴覚室でも、体育館にいる時も、藍原と会話しているような北城の姿は見ていたが、それでも藍原が言葉をかけているところは見ておらず、それどころか目も合っていなかった。
そして、藍原の止めの一言。
美術室で、最後に悠飛が訊いた事。
【北城先生と、今日ずっと一緒でしたよね?】
その問いに、藍原はこう答えた。
【誰の事を言ってるんだぁ? それに、今日は朝から居なかっただろう】
それが全てを物語っている。
今日はテスト日だから、教育実習生である北城の姿を見る事はなかった。だからこそ、違和感はさほどなかったのかもしれない。
「今回の鬼師化のルール――影響を与えているのは僕で、名前のどこかに植物が入っているって事は分かってたんですが、瀬戸内さんが鬼師化した時に漢字のどこかに植物が入っているだけで影響が出るという事が判ったんです。北城香奈。香の字の上の部分は木になってるから、候補に挙がったのは事実だけど、決め手は、ケイからの電話です。ケイとルネは柳さんが倒れてるのを見たと言っていました。柳さんも鬼師化の兆候は出ていたから開花しててもおかしくなかったのに、ただ倒れていただけだったという話です。僕以外で、あなたが話しかけた人物は三芳さん、柳さん、水沢さんの三人だけ。おかしいと思うのは当然でしょう。ファントムオーガのあなたが何故、柳さんを喰らわなかったんですか?」
ファントムオーガであるならば、人を襲うのが性ではないだろうか。これまで見たどのファントムオーガも例外なくそうだった。標的になる人間は違っていても、人間を襲うという部分に違いはなかった。
だからこそ、北城香奈がファントムオーガだと知った時に疑問が残った。
誰一人、生徒を襲っていないのだから。
その事をぶつけると、彼女は再び可笑しそうに笑った。
「私はね、香奈の心に忠実なの。悠飛くんに語った香奈の夢は本物よ。本当に子どもが好きで、特に高校生の子たちの事を想っているの。そんな香奈が、生徒に手をかけると思う?」
「だから、鬼師化から護ってくれたんですね」
それは可純の事を指している。気を失う事で感情の変化がなくなり、鬼師となる事がなくなる。そして強い光である悠飛と慶太がいる事で、他の生徒がファントムオーガに襲われる心配は殆どない。
「そうよ。教師なんかは知らないけど、香奈の大切な生徒を傷つけるわけにはいかないもの」
北城香奈という人間は、本当に子どもの好きな人なのだろう。彼女が悠飛に話してくれた事が真実で、彼女が演じていた北城香奈が真のものであるならば。そんな北城香奈に忠実である彼女が生徒を傷つける事など有り得ないと言っていい。
そしてそれ故に、鬼師化からも護ったのだ。鬼師化すれば影が薄くなり、いずれ消えてしまう。それは命を落とす事と同義になる。死なせる訳にはいかなかったというところか。
「こうして考えていて、僕はある事を思い出したんです。そもそも、この時期に教育実習生なんておかしいんですよ。わざわざ夏休み前のテスト期間と被せる理由なんて何もない。それに、あなたがこの学校に来た日の事を憶えていないんです」
気が付いた時にはすでに、教育実習生としてこの学校の一員として北城香奈は居た。誰もその存在を不思議に思う事無く、仲良く話をしていた。それは悠飛のクラスの者も、他のクラスの者も分け隔てなく、平等に。教育実習生なので授業中は教室の隅にいて、彼女が誰かと会話をしている時は必ず取り囲まれていたので、教師は誰一人として彼女の存在に気付く事はなかった。
彼女の行動に何一つ不自然なところはなく、彼女がファントムオーガだと気が付くまで悠飛も彼女が来た時の事など考えず、違和感を覚える事もなかった。
そう、彼女は――。
「北城香奈さんは、最初からファントムオーガだったんです。この学校に来た時から、ずっと」
今考えると、北城についての話をしていた時、悠飛の憶えている実習期間がまちまちだった。一ヶ月か、二週間か、一週間か――北城がどのくらいの期間を実習で過ごしているのかが、悠飛自身もまるで把握できていない。いつから居たのか分からないのだから、どのくらいの期間を過ごしたのかなど分かる筈もない。
「あなたがファントムオーガである以上、鬼師となった人がいる筈です。鬼師がどこにいるのか、教えて下さい」
「……答えると思ってるの?」
ニッコリと楽しげな笑みを彼女は浮かべた。訊いても無駄だと、その表情が物語っている。
他のファントムオーガと違い、彼女には知性があり知能もある。一筋縄ではいかないという事は、彼女がファントムオーガであると気付いた時から分かっている事だった。藍原と会話をしているかのように言葉を挟み、共に行動しているかのように振る舞い、巧妙に自分の存在を偽っていたのだから。
目を閉じ、悠飛は右耳のピアスに触れた。
「仕方ありませんね……トリアステル」
ピアスから溢れ出した紅と藍の二色のマテリアが弓矢を形成し、光が弾けた。弓を握りしめ、鏃を彼女へ向けて矢を強く引く。
「こういう方法は好きではありませんが、力ずくで聞き出します」
彼女を、冷たい目で見据える。元凶の鬼師を見つけなければ、皆が学校から出る事が出来ないのだ。迷ってなどいられない。
キリキリと音をたてる弦。目一杯引き絞り、照準を彼女の心臓へと向ける。
そして、矢を放った。
風を切り裂くように真っ直ぐに彼女へ向かう矢。それでも彼女の笑みが消える事はなく、それはまるで消滅を受け入れているかのよう。
そして、貯水槽の横から飛び出した影が、彼女の前に立ち塞がった。彼女を護るように両腕を大きく広げて。
「待ってたぜ!」
嬉々とした声が三人の上空から降ってきたかと思った直後、空から降って来た黒い棒状の十字架が床に突き刺さり、真っ直ぐに北城のファントムオーガへ向かっていた矢は十字架の長い柄に当たり、弾き飛ばされ床に落ちた。
床に触れた瞬間に矢は蒸発するように光の粒子となって消え、弓を持った腕を下ろすと弓もマテリアへと変わりピアスへと戻って行き、悠飛は微笑を浮かべた。
「さすが、最高のタイミングだね、ルネ」
悠飛の隣へ軽やかに降り立ったルネは、ニッといたずらな笑みを浮かべる。
「当然だろ」
並んで立ち、共に北城香奈のファントムオーガの前に立っている人物を見据えた。ルネの手を離れている為にシュバルツクロワがマテリアへ変わり消えていくその奥に居る人物の姿がハッキリと見え、瞳にその姿を映し出す。
「君が、北城先生のファントムオーガを生み出した鬼師だね……菜々さん」
ピンクベージュのツインテールを揺らし、菜々は哀し気に目を細めた。
「……いつから、知ってたの……?」
「ついさっきだよ。北城先生の事を藍原先生に訊ねた時、僕はもう一つ質問をしてたんだ」
それは、美術室で藍原に訊いた事。
【藍原先生、今日は北城先生と一緒でしたよね】
【北城? 誰の事を言ってるんだぁ?】
【……三芳さんは、今どこにいますか】
【今日は朝からいなかっただろう。病欠だって、森重先生から話があったじゃないか】
藍原の言葉は、悠飛にとって衝撃でしかなかった。北城の事も、菜々の事も。
そこまで話し、悠飛は改めて菜々を見る。俯いていてその表情は見えないけれど、それでも真っ直ぐに見据える。
「日直だから残ってほしいと森重先生が言った時、君は大きな声で抗議の声を上げた。その事で僕は、君が日直だと思ってた。だから、僕と当番である三芳さんだと思い込んでたんだ。でも違った。三芳さんは、今日は風邪で学校を休んでる。それに思い返してみれば、君の姿は、僕・ルネ・ケイ・北城先生以外の人には認知されてなかった。教室で芦名さんと水沢さんが声をかけたのは、ケイが先に、君に声をかけたから。そこに人がいると、知覚できたから」
推理を話している間、菜々はずっと俯いたままで、黙って悠飛の言葉を聞いていた。
その拳は強く握り締められていて、それでも表情が見えず、菜々が何を考えているのかまで計り知れなかった。
「……君は一体、誰なの……?」
しかし最後の、優しい声音の問いかけに菜々は、強く握り締めていた拳を解き、顔を上げた。哀しそうに眉根を下げ、笑った。
「やだなぁ、そんな言い方。クラスメイトでしょ。わたしはずっと見てたよ、みんなのこと」
「クラスメイトって……」
「わたしね、春から編入してくる予定だったの。この学校の、あのクラスに。でも、事故で死んじゃった」
そう言う菜々は、やはり笑っていた。
まるで、笑っていないと壊れてしまうかのように、耐えられないかのように。わざと軽い口調で言い、明るく振る舞っていると分かるその言動。
怪訝に、ルネは眉を顰めた。
「死人が、鬼師だと? ありえねえ」
どういう事なのかとルネを見ると、ルネは表情を変えずに説明してくれる。
「ファントムオーガは影から生まれるっつったろ。けど、死んだヤツに影なんかできねえ。光を遮るものが何にもねえのに、影はできねえだろ」
影というものは、光の進行を遮る事で出来るものだ。つまり、そこに存在しているという証明にもなる。しかし、肉体を持たない、いわゆる幽霊と呼ばれる魂だけの状態になった者に光を遮る事は出来ず、影が出来る事もない。
昔から、「足がない」や「影がない」事で幽霊だと判断するという話があるくらいなのだから。
「光でできる影はないよ。でも、おっきい影ならあるの。心に、おっきな影が。学校に行きたくて、それが心残りで、ずっとクラスでみんなと過ごしてたけど、誰もわたしのこと見てくれなかった。傍にいるのに、独りぼっちだった。そうしたらね、黒いものが心にあるのが分かったの。どんどん、それがおっきくなってくの」
事故に遭い、死しても尚、学校に行きたいと願い、その魂は学校に留まっていた。共に過ごす筈だったクラスメイトと、共に過ごす事で学校に通うという願いを叶えようとしていた。
きっと今日、悠飛が見た姿と同じように、誰かに話しかけたり、先生の言葉に反応したりしていたのだろう。授業中に答える事もあったのかもしれない。皆と同じように学校生活を送る事で、無念を晴らそうとしたのかもしれない。
けれど、いくら話しかけても誰も答えてはくれず、見向きすらしてくれない。朝、挨拶をしても返事は無く、放課後になると皆を見送り、独り学校に残る事になる。
それはとても淋しく、とても虚しい事で、独りでいるよりもずっと孤独だったのだろう。
「淋しくて、虚しくて、それがどんどん心に溜まって、影ができたの。影はだんだん大きくなって、わたしと同じくらいの大きさになって、わたしは影に呑みこまれちゃうんだって思った。でもそんな時、お姉ちゃんのこと思い出したの。このまま消えるんだったら、せめて最後に、お姉ちゃんと一緒に学校で過ごしたくって」
そこで区切り、菜々は改めて悠飛を見やる。
真っ直ぐに、一点の曇りもない目で悠飛を見やる。
「わたしの名前は北城菜々。北城香奈の妹だよ」
「北城先生の妹……じゃあ、北城先生は本当に教師を目指してるの?」
「言ったでしょ、香奈に忠実だって。悠飛くんに話した事は、全て本当の事よ」
「お姉ちゃんに会いたいって思ったら、願ったら、お姉ちゃんがそこにいたの。嬉しかった……」
静かに菜々の話を聞いていたルネは眉間に濃く皺を刻んだまま、手を顎に当てて何かを思案していた。けれどもすぐに納得したように一度、頷いた。
「心の影、ねぇ。オレもこんなに人間的なファントムオーガを見んのは初めてだが、心から生まれたんなら納得だ。心を映してんだからな」
褒めてもらえて嬉しいとでも言いたげに北城のファントムオーガはニコリと微笑み、その笑顔にルネが苛立ったというのは表情を見ただけで分かった。こうして本人の口から告げられる前に気付けなかった事が悔しいのだろう。
「お姉ちゃんがいてくれて、ホントに楽しかった。楽しかったんだよ」
不意に、菜々の笑顔が陰った。
突然、太陽に雲がかかったかのように。
「すっごく楽しかったんだけど、でも、お姉ちゃんが出てきた後ね、心の奥底にあった思いが溢れてきたの。そうしたら、あの子が生まれてた。全然そんな事、考えてなかった筈なのに、あの子は、先生を殺してた……」
ぼろっと、大粒の涙が菜々の大きな目から零れ落ち、溢れ出すものを堪えきれなくなった菜々は両の掌で顔を覆い、泣きじゃくる。嗚咽も抑えられなくなり、立っている事すら出来なくなり、その場に座り込んだ。
突然、泣き出してしまった菜々。
話が見えない。今の話の中で、どこをどう繋げたら、教師を殺すという選択に至ったのかまるで理解できない。
泣きじゃくる菜々を切なげに見下ろしていた北城のファントムオーガは一度、目を閉じ、それから悠飛とルネを見やる。哀しみと、憎しみと、切なさと、苦しみと――様々な感情が混ざりあったよう複雑な顔で。
「交通事故だったのよ。あの日は雨だったわ。編入する学校の下見に菜々が来たのは、夜の九時頃だった。菜々は、この学校の前で車に轢かれたの。この学校から出て来た車にね。そんな時間に学校から出て行く車なんて、教師のものくらいでしょ。そう……菜々を殺したのは、この学校の教師なのよ」
一瞬、言葉の意味が理解できなかった。
学校の前で交通事故があれば、ニュースになっている筈。しかし、悠飛の記憶にそのようなニュースはない。自分が通っている高校の前での事故なのだから、知らない筈はないというのに。
だとするならば、ニュースにならなかったという事だ。事故がニュースにならない理由を、悠飛は一つしか知らない。
「まさか、隠蔽した……?」
「そうよ。そいつは、菜々を轢き殺しておいて、発覚を恐れて菜々の遺体を隠したのよ。誰が犯人なのかまでは分からなかったわ。でも、菜々を殺しておいてのうのうと生きてる人を、赦せると思う?」
何の前触れもなく突然、命を奪われただけではなく、その体が家族の許へ還る事もなく、世間に事故を知られる事もなく、犯人が罰せられる事もなく、全てが忘れ去られようとしていたという事だ。
クラスメイトは編入生の存在を知らず、世間では行方不明として処理され、誰にも知られる事無く消えていく。
「でも……」
一しきり泣いて落ち着きを見せ始めていた菜々が、手の甲で涙を拭い、座り込んだまま言葉を紡いだ。
「復讐しようなんて思ってなかった。事故だったんだもん、仕方なかったんだよ。恨むつもりなんてなかったのに……あの子はそうじゃなかった……」
《あの子》。
先程、北城のファントムオーガも《あの子》と口にした。彼女が指していたのは、職員室で教師を殺した獣人型のファントムオーガの事だ。それはつまり、職員室のファントムオーガは、北城の姿をしたファントムオーガとは別の個体という事になる。しかし、教師を惨殺したのだから、菜々のファントムオーガである事も間違いない。先程、《あの子が生まれた》と菜々も口にしているのだから。
だが、心の影から生まれた訳ではないという事が、職員室のファントムオーガに心がなかった事から推測される。そして、光による影が出来る事のない菜々が通常のファントムオーガを生み出す事は不可能だ。
そこまで考えて、悠飛はハッと息を呑んだ。
「影……そうなんだね……あのファントムオーガは君の影から生まれた。だから、これだけ時間が経った今日だったんだ」
一体、悠飛が何の話をしているのかがルネには理解できていない。
話している悠飛自身でさえも、とても信じられないものなのだから、当然の反応だろう。
「どういう事だよ」
「……影が、出来たんだよ。菜々さんの体に。これまで光の差さない所にあった体が、何かのきっかけで光の下に出たんだ。その影が、ファントムオーガになったんだ」
「そうだよ……もう心はないから、ただ最後の瞬間の記憶に従ったんだと思う。悠飛くんがわたしのこと見えてた時に、ちゃんと気づけば良かった」
菜々の話も、北城のファントムオーガの話も、悠飛の話も、すでにルネの許容を超えていた。
今回の騒動は全てにおいて常軌を逸している。これまで見てきたどの事例ともまるで違い、初めての事だらけな上に衝撃的な事実が多く、ルネは話しが始まってすぐに考える事をやめていた。考えれば考える程、頭は混乱するばかりなのだから。
しかしそれでも、一つ一つ自分の中で消化してきた。理解し、答えを導きだそうと努力してきた。
今回が特殊で異常な理由は、様々な偶然によるものだ。
一つ、ルネの世界であるエルグランドの、世界の理――神に等しいキング・クイーン・ナイトのコアを地球人である悠飛一人が所持していた事。
一つ、悠飛が、過去にエルグランドへと赴き、今もエルグランドで暮らしている地球人の少女の弟であるという事。
一つ、強い影響力を持つ悠飛と同じ名字であるが故に共鳴し、悠飛と同様の強い光を宿す慶太がいたという事。
一つ、死した魂の心に落ちた影からファントムオーガが生まれた事。
一つ、死した体からファントムオーガが生まれた事。
これらの出来事が重なるなど、偶然で済まされるものではない。故に、学校を取り巻くものも異常となっている。その表れが、大量の人間の鬼師化と、嵐。
慶太達の話では、学校から少し離れた道でも雨が降っていたという事だった。今、校舎の外で降っている雨はこの学校を取り巻く負の塊から成るもの。それは、ルネ自身も生徒達に語っていた。つまり、影響が出ているのは学校だけではないという事。
このまま鬼師を浄化したところで、それらの影響を打ち消す事は出来ない上に、そもそも通常の浄化が出来ないであろう事も予測できる。死人と魂を浄化した事など、一度もないのだから。
「あー、くそ!」
吐き捨てるように言い、ルネは床を踏みつけた。
「ルネ?」
「浄化はする。が、どうなるか全く分かんねえぞ。そもそもできんのか分かんねえし……」
言い、苛立ちを隠す事無く乱暴に頭を掻いた。どうしたらいいのか分からず、又、募るイライラをどこにもぶつける事が出来ずに、更に苛立ちを増している。
混乱しているというのはひしひしと伝わってきている。このまま有耶無耶にする事など出来ないのだから。
そしてルネが「浄化」と言った事で、悠飛は真っ直ぐに菜々を見つめた。
口に出すのは憚られるが、それでも告げなければならない。
「菜々さん……」
名を呼んたところで言葉は途切れてしまい、それ以上、紡ぐ事が出来なくなった。やはり、告げるのは心苦しい。菜々に言うには酷な事だ。
悠飛が口籠った事で悟ったのか、菜々はそっと笑った。
「悠飛くんは優しいね。そういうところ大好きだよ。わたしには凄くキラキラして見えて、すっごく眩しかったんだけど、隣に居たいって思ったんだよ。だから今日、話かけてもらえて嬉しかった。わたしもクラスの一員にちゃんとなれた気がしたの。ありがとう」
悠飛に霊感と呼ばれるものはなく、菜々をこうして視認したのは初めてとなる。それでも違和感がなかったのは、菜々の自然な振る舞いと、ハッキリ見えていた事で幽霊であるという可能性など微塵も感じられなかった為だ。
こうして目の前にいても、とても信じられない。
「だからね、もう大丈夫だよ。あんなことして……先生を殺して、ホントは罰を受けなきゃダメなんだけど、このままじゃ他のみんなも危ないんだよね」
問いかけではない言葉に、悠飛は眉根を下げる。
「……うん。鬼師化する危険はまだあるから……ごめんね」
影響を与えているのは悠飛だが、嵐を起こしている元凶は菜々だ。鬼師としての菜々を浄化しなければ、学校からは出られない。
「何で悠飛くんが謝るの? 分かってたから、消えることは怖くないの。ただ、一つだけ……」
菜々の言おうとした言葉が分かり、悠飛は首を振って否定した。
「今回の事、きっと誰も誰かを裁く事は出来ないよ。ファントムオーガの事、光種の事、鬼師の事、流星河の事……突き詰めていけば、きっと関わってない人はいないから」
全世界で流星河が観測され、地球全土に流星河が降って光種が人の心に入り込んで以降、鬼師となり消えていった者は数知れず、ファントムオーガが襲った人間の数もまた、計り知れない。
証明するものは何一つなく、記憶からも記録からも消えてしまった者を裁ける者など存在しない。
「それでも、やっぱり伝えてほしいの。わたしの想いと、しちゃったこと……だからこれ、お願いしていいかな」
スカートのポケットから取り出した物を手にし、菜々は悠飛へ近付くと持っていた物を手渡した。それは、可愛らしい黄色い封筒。この大きさと封筒の形、中身は恐らく手紙だろう。
「渡す人は、悠飛くんに任せていいかな」
「僕の判断でいいの?」
「悠飛くんが決めたことだったら、きっと大丈夫だから」
どうして、菜々が悠飛にそこまでの信頼を寄せているのか悠飛には分からない。心当たりは全くなかった。今日のテスト後に初めて菜々を見、言葉を交わしただけなのだから。
しかし、そう考えるとルネにも同じ事が言える。今日、初めて職員室前で出会ったルネの事を、悠飛は信頼している。ルネにだったら命を預けても良いと思えるのだ。きっと、菜々も同じなのだろう。
身長の低い菜々を見下ろし、笑みを浮かべて頷いた。
「しっかり、届けさせてもらうね」
「よろしくお願いします!」
仰々しく、大袈裟なほど頭を下げた菜々を見た悠飛はおかしそうに笑い、頭を上げた菜々は恥ずかしそうに照れたように笑う。冗談を言い合って笑うように、楽しそうに、笑い合う。
不意に、トン、と肩を叩かれた。
「ユウヒ」
すぐ後ろに立っているルネが、悠飛を見上げていた。もう時間だという事だろう。
だから、踵を返して離れようとしていた悠飛の手を、菜々が慌てて掴んで止めた。
「……悠飛くんがいい。悠飛くんに送ってもらいたい」
「けどよ……」
「ルネ」
自分がやると言おうとしたルネの気持ちが何となく伝わってきたので、悠飛は名を呼んだ。
浄化をするという事は、菜々に二度目の死を与えるという事になる。浄化とは、光種を消し去り、失った影以外を元に戻す事を指す。しかし、魂である菜々が戻るべき体はすでにない。浄化に伴い、魂が消える事も予想される。
その事を、悠飛も、ルネも、菜々も、北城のファントムオーガも理解している。そして、悠飛が菜々に告げる事を躊躇った理由も皆、理解している。
だからこそルネは悠飛にはさせず、自らの手で終止符を打とうとしたのだろう。
けれど、菜々の願いを叶えてあげたいと悠飛は考えている。それに、今回の事を傷になどしたくはなかった。
失った事の哀しさや、友が傷つく事の苦しさや、手にかけるという罪悪感や――今回の事はそれだけではなかったのだと思いたい、思っていたい。だからこそ、菜々を送るのは悠飛でなくてはならない。辛い事ばかりではないのだと身に刻む為に。
だから笑んで、菜々に掴まれているのとは逆の手をルネの頭に乗せるとルネは眉を顰めて納得のいかないという表情をしていたけれど、笑いかければ悔し気に唇を噛んだ。そして、ふいっと顔を背けて踵を返し、数歩、悠飛から離れて行った。
ルネが退いてくれた事で悠飛は菜々の方を向いた。
覚悟を決めよう。
一度、息を吐き、左手で右耳のピアスに触れ。
「トリアステル、クイーンズキー」
ピアスから溢れ出した黄色い光が悠飛の左手で星のカギを形成し、チェーンが手首にかけられる。そして、自身の右手を掴んでいる菜々の手に左手を重ねた。菜々は静かに目を閉じた。
「北城菜々、孤独の鬼師」
閉じられていた目が開くが、その目には何の変化も見られない。しかし、その胸元には橙色のバラの花が咲いていて、薔薇の花だけが鬼師として開花したという事を示していた。
菜々の手に重ねている左手に力が入る。拒みたい気持ちを拭いきれていない。それでも、ここで立ち止まる訳にはいかなかった。心を落ち着かせ、菜々の手から自身の左手を離すと菜々は掴んでいた悠飛の右手を放し、悠飛はカギが手のひらにくるように指にチェーンを絡めた。
菜々を見れば、微笑んだまま右手のひらを悠飛へと向けていて、悠飛はそっとカギごと左手を菜々の右手に重ね、手を合わせる。
「孤独な心は感謝へと還り、希望となる……天昇、アスミディスケ」
瞬間、薔薇の花は弾けるように散り、花びらは橙色の光に包まれ、黄色い粒子へ変わり上空へと消えていく。
そして、北城のファントムオーガと菜々の体も橙色の光に包まれ、薔薇の花同様に足元から黄色い光の粒子へ変わっていく。
「わがまま聞いてくれてありがと。わたし、悠飛くんのこと好きだったよ。悠飛くんが悠飛くんだから、好きだったんだよ。ホントに、ありがとう」
「君の想いは必ず届けるよ。それに、僕らは忘れないから。安心して」
「うん……うん!」
溢れる涙が零れ落ち、光の粒子になり消えていく。それでも菜々は笑った。嬉しそうに、幸せそうに。その笑顔はとても満足そうで、キラキラとしていて、悠飛は微笑んで返す。
どうか、来世では幸せにと、そう願って。
全てが光へ変わると上空へと消えていき、暫く悠飛もルネも光の消えた先を見上げていた。
やがて、余韻が消えた頃。
ルネは悠飛へ数歩、近付いた。隣に立ち、悠飛を見上げ、躊躇うような素振りを見せた後、ピタリと体を寄せる。悠飛の腕にルネの体重がかかり、悠飛は驚いたようにルネを見下ろす。
突然の行動。それが意図したものである事はルネの真っ赤な顔を見れば一目瞭然で、そんな姿に微笑み、悠飛は菜々からの手紙をスラックスのポケットへ入れると、ルネの指に自身の指を絡め、繋いだ。
「な、何してんだよ!」
「何って……ルネからしてきたんだよ」
思わず苦笑を浮かべた。どうやらかなり恥ずかしかったらしい。その剣幕は、今にも殴られそうな程だ。
「僕は嬉しかったよ。ルネは、違うの?」
「っ……違わねえ!」
「どうして喧嘩腰なの」
照れると怒鳴る理由は分からなかったけれど、それでも嫌がられていないというだけで良いだろうと思った。きっと今は、言葉をかければかける程にルネのイライラは増していくだろうから。
話題を逸らすように、悠飛は視線を周囲へと向ける。
「それにしても……これ、どうしようね……」
未だ降りしきる雨と止まない風。そして、玄関前から校庭にかけて広がっている巨大な竜巻。
元凶となった鬼師である菜々を浄化しても、異変は治まっていない。それはやはり、菜々の体を浄化していないからだろうか。
そう思ってルネを見てみれば、眉間に皺を寄せて厳しい顔をしている。
「もう、おせーんだよ。今更あいつを浄化したとこで終わんねえ。もう、そんなレベルの話じゃなくなってんだよ。あいつの浄化は必要だったが、もっと広範囲を浄化しねえと、多分、止まんねえ」
「……流星河の時みたいに?」
「多分な。流星河ん時は、エルグランドの男とチキュウの女が起こした」
二つの世界の男女。それが発動の条件であるのならば、問題はない。
「だったら、大丈夫だね。地球人の僕と、エルグランドのルネ。それに僕は、理を創るキング・クイーン・ナイトのコアを持ってる。条件は揃ってるよ」
「けど、またどんなリスクがあるか分かんねえんだぞ」
「でも、このまま放っておいたって何も解決しないよ」
今なら、分かる気がする。流星河を起こした時の、その人達の気持ちが、想いが。今を生きる人の命と、未来に存在するであろう命、どちらを優先させるべきなのか――。
今がなければ未来は存在せず、今があるからこそ未来が生まれる。今を守らずして未来を守る事など出来はしないのだ。
「今後の事は、またその時に考えよう。一緒に考えてくれるよね」
「……しょうがねえからな」
素直ではないけれど、それがとてもルネらしい。
今の言葉の意味がルネに通じたかどうか定かではなかったが、それでも十分だ。一緒に考えてくれると、そう言ってくれただけで心強いのだから。
世界を救う力も世界を変える力も自分にはないけれど、何かが変わるのなら、今よりも良くなるのなら、その可能性があるのなら、可能性にかける。それが今の悠飛にできる唯一の事。
一度、繋いだ手を強く握り、手を離すと悠飛は自身のピアスに触れる。
「トリアステル」
ピアスから溢れ出たマテリアが、炎の弓と太陽の矢を形成し宙に停滞している。左手にかけていた星のカギを矢にかければ、大きな太陽の装飾となっている矢羽で止まった。これで、落ちる事はないだろう。
悠飛の行動の意味が理解できないとばかりに、ルネは悠飛に声をかける。
「どうすんだ、それ」
「この形になったのにも理由がある気がするんだ。だから、とりあえず出来る事からやってみるよ。ルネの力も貸してくれるかな」
「当然だろ」
ニッとイタズラな笑みを浮かべるルネ。この笑顔が、悠飛の中にある不安な気持ちを打ち消してくれる。
今の心はとても落ち着いていて、穏やかだ。
弓矢を構えるよう促すとルネは左手に弓を持ち、右手に矢を持ち構える。ルネの後ろから腕を伸ばし、ルネの手ごと弓矢を持つと矢を引き絞った。方法など知らない。間違っていたのならば、再び出来る事をすればいい。
怖さは、なかった。
目一杯引き絞り、矢を天へと向ける。
二人の口から、自然と言葉が紡がれた。
「光は天へと昇り 影を導く軌跡となる! 天昇! シータ・ピスキウム・タニア・アウストラリス!」
矢を放つと、矢の先端から矢を取り巻くように藍・紅・黄の光が溢れ出し、一直線に上空へと昇っていく。三色の光は絡み合い、一筋の光となり高度と速度を増していく。
雨風を裂き、雲を裂き、遮るものが何もなくなった事で上空に星空が見えた時、壁にぶつかったかのように矢はその場で止まり、かかっていたカギが矢に触れると音が流れ出した。
シャラーン……シャラーン……と、心地良い音が響き渡る。
そして、夜をも引き裂くように光が世界を覆い尽くす。それはまるで、夜が昼へ変わったかのように。否、朝か夕方にでもなったかのように、世界をオレンジ色に染め上げていく。
それは、優しい朱。心が温かくなるような、見ていると安堵するような朱。
太陽を引き連れてきたかのような心に染み渡る心地良い音は、まるで何かを告げるように報せるように、暫くの間、余韻を残しながら鳴り響いていた。




