三 ルネ
ルネがこの世界の人間ではないと、異世界から来たのだと知ったのは、初めて職員室前で出会った時。
色鮮やかな山吹色の髪も、エメラルドグリーンの目も、生まれついてのものだと判ったから。染めた形跡のないナチュラルな色は、作り物では有り得ない。
彼女が髪を染めるという行為をしないと思った事も理由の一つだ。そして、わざわざカラーコンタクトを入れないだろうという事も。どう見ても細かい作業は苦手だろう。コンタクトレンズなど、イライラして指で潰してしまいそうだ。
けれど決め手となったのは、ファントムオーガの存在。影で出来たその存在がこの世界のものではない事を、悠飛は知っていた。
「黙っててごめんね。ずっと気付いてたんだけど、言えなくて」
「……何で気付いた」
「流星河の日、この世界には三つの異変が起きたんだよ。一つ目は、降り注いだ光の種が人々の中に宿った事。二つ目は、世界が繋がった事」
流星から降り注いだ光種と呼ばれる種が人の体内に入り込んだという事は、ルネに説明してもらった通りだ。
そして、世界が繋がったという事実。
空が赤黒く変色し、日食でもないのに昼が夜へ変わった日。闇で覆われた世界を切り裂くように一筋の光が空へ昇り、空一面を流星が覆い尽くした。それは世界各地で同時に観測され、それまでの常識を根底から覆してしまった。
世界中に降り注いだ流星に各国は検証を試み、その中で様々な説が浮上した。宇宙人飛来説、世界滅亡説、太陽消滅説。
最も有力とされたのが、異世界リンク説――他の世界と繋がったと言われる説だ。世界と世界を繋ぐ道があり、その道を通る為の扉が開くようになったのだと。世界の至る所でその扉は開き、この世界から異世界へ行く人も、異世界からこの世界へ来る人も居る。この世界はすでに異世界で溢れているのだが、それを知る者は極一部しかいない。
悠飛は、その極一部の人間だ。
「僕の姉さんは、本で繋がった別の世界、エルグランドという世界で今は暮らしてる。テイマーの事も、マテリアの事も、姉さんから聞いたんだ。ルネは、エルグランドの人だよね」
初めてルネを見た時に地球の人間ではないと感じたのは、直感だった。確信に変わったのは、ルネの口からファントムオーガやテイマーやマテリアの話を聞いた時。
偶然では済ませられない、姉の話との一致。
確証を得るには十分だった。
「地球とエルグランド。本来、交わる筈のなかった二つの世界が整合性を取る為に、エルグランドへ行ってしまった姉さんと関わりの深い、弟である僕にもマテリアが宿ったんだと思う」
流星河の日。悠飛は風邪を引いて自室のベッドで寝込んでいた。そして正午に近付いた頃だった。外が騒がしいと思い、通りに面した窓から外を見ると、空を覆い尽くす程の大量の流星が降り、空から光が雨か雪のように降っていた。とても神秘的な光景だった。この世のものとは思えない程の、幻想的な光景。
窓を開けてその光景を呆然と見ていた時、一層強い光を放つものが落ちてくるのに気が付いた。それはゆっくりと悠飛の前に降りてきて、反射的に手を出すと手のひらの上でピアスへ変貌した。
「エルグランドは、キング・クイーン・ナイトの三人が理を創り、統治する世界。僕のマテリアは、今のキング・クイーン・ナイトの三人と同じ」
右耳にかかっている髪を上げれば、耳たぶに三つの小さな石のついたリング型のピアスが一つあり、藍色、黄色、紅の、コアと呼ばれる小さな石が蛍光灯の光を反射してキラリと光った。
キングの、調和を司るハーモニーマテリア。クイーンの、希望を司るホープマテリア。ナイトの、勇気を司るブレイブマテリア。ピアスの石は、悠飛がそれらのマテリアを体内に有している事を意味している。
そこまで話すと、ルネの表情は柔らかなものへ変わっていた。警戒している様子などまるでなく、纏っている空気はとても軽い。まだ会って数時間しか経っていないが、これまで見たルネは軽いか怒っているかしかなく、感情の起伏が大きいのだろうと思った。
「何だ、そういうことだったのかよ。だったら、おめえに鬼師の見つけ方を伝えたのは正解だったな」
「そうだね。僕以外の人だったら、鬼師は姿を現さなかっただろうから」
「あのサヤカっつーのがおめえを求めたのは、より強い光だったからか。三つのマテリアとか、普通じゃねえからな」
「そうなの?」
訊ねれば、ルネは髪をかき上げて左耳を出した。耳から下がる雫型の緑色の宝石が、キラリと光る。
「通常、一人が持つコアは一つだけだ。オレのはこいつ、ピアス型のエメラルドコア。そして、体内のマテリアは信頼を意味するフェーデマテリアだ」
「けど、ルネはもう一つ持ってるよね?」
それは、腰についている橙色の宝石の埋め込まれた銀の飾り。ルネの服の腰についているリボンの留め具のようなそれは、確かにコアなのだろう。
「ああ、これはオレんじゃねえよ。姉様に貰ったんだ。大切な人の物で、使ってくれって」
「他の人が使う事もできるんだね」
「クイーンの力があってこそだな。チキュウでファントムオーガを浄化すんのに、必要な力だったんだ。普通は使えねえよ」
だからこそ、悠飛が三つのコアを持ち、三つのマテリアを有している事が有り得ないのだとルネは言う。
そんな実感はなく、そもそもマテリアが自分の中にあると思った事など一度もなかった。
そう告げると、そんなのは当たり前だとルネには呆れたような視線を向けられる。通常、マテリアを使用するのは武器を形成する時と浄化する時のみなのだと言う。その他にマテリアを用いる事はなく、普通の人と違うのは負の感情を抱く事が極端に少ないくらいなのだとか。
確かにルネがここまで明るく軽い調子なのは、マテリアの影響なのかもしれないと思った。職員室の惨状を目にしても、得体のしれない恐怖が迫っていても、平然としていられる悠飛もマテリアの影響を強く受けているからだろうか。
「にしても、そうか……おめえが狙われたのは、光が強いからか」
納得したように頷くルネだが、その言葉の意味が悠飛には理解できなかった。
「狙われた?」
「おめえ、あのサヤカっつーのに取り込まれそうになってただろ」
動けなくなり、宝石のような目に吸い込まれそうになったあれが、取り込まれそうになったという事だろうか。
「僕の光が強いのは、コアが三つあるっていう事と、エルグランドの、世界の理であるキング達と同じマテリアだから、かな?」
「だろうな」
「鬼師は、より強い光を求めるって事?」
「だな。光が強いほど影は濃くなるもんだからな。おめえに惚れてたってことも考えられっけど」
その言葉を否定する事は、悠飛には出来なかった。
誰かが自分を好いてくれているなどと自分の口から言う事は出来なかったけれど、高校に進学してからこれまで、沙耶花からの視線を感じる事は少なくなかったから。好意を感じ取れないほど鈍感でもない為に、宿題のノートを回収した時などに彼女が照れている様子から、薄々そうではないかと思っていた。それが、恋なのか興味なのかまでは分からなかったが。
そう言えば、と悠飛はルネに向き直る。
「さっき悲鳴が聞こえたけど、何かあったの?」
「ああ。結界ん中にもファントムオーガが現れてな。二体目、消しちまった」
存在の薄さと人の命では、どちらを優先させるべきなのかは一目瞭然だ。
「他のみんなは?」
「危ねえから逃がした。おめえの方には来なかったみてえだな」
「うん。混乱した中でも、輝達が先導してくれたのかもしれない。それと、こっち側は避けたんだと思う。職員室があるから」
近付けば、嫌でも中の様子を思い出してしまう。せっかく元気を取り戻したというのに、再び気落ちする事は避けたかったのだろう。それに、職員室の中には未だファントムオーガが居るのだ。何かの拍子に職員室から出て来ないとも限らないので、危険の少ない方へ向かったのだと思う。
皆の事を考えたからだろうか。悠飛のスマートフォンから着信音が流れた。
ポケットから取り出して画面を見ると、輝の名が表示されている。やはり電波が遮断されているのは外の嵐の影響らしく、校舎内に居れば繋がるようだ。
応答ボタンを押し、耳に当てる。音量を大きめにし、ルネにも聞こえるようにした。
「輝、無事?」
『おうよ。そっちも無事みたいだな』
「うん。今、どこにいるの?」
『とりあえず、視聴覚室。障害物ないし、カギかけられっし』
「そうなんだ。僕とルネは、倒れた土岐さんを保健室に連れてくね」
だからその後にでも合流しようと言おうとしたが、それは輝の言葉に遮られて声にはならなかった。
『えっ、トキって?』
「え……?」
何を、言われているのだろうか。
沙耶花がどうしてそこにいるのかという問いだろうか。けれど、逃げたクラスメイトが全員視聴覚室に居るのであれば、問う必要など何もない。見ればすぐに足りないという事が分かるのだから。では、他の土岐の事を言っているのだろうか。しかし、今の話の流れで土岐沙耶花以外の人間の話をする事はない。
だったら、輝は何を言っているのか。
『だから、トキって誰なん』
「……土岐さんだよ。同じクラスの」
『え? ……あ、ああ、土岐な。学校にいたっけ? ま、いっか。彰斗とケイ、そっち向かわすわ』
そう言うなり輝は一方的に通話を切ってしまった。
何も聞こえなくなったスマートフォンを耳から離す。
今、実感したような気がした。ルネは教室に入ってきたファントムオーガを一体倒していて、それは確かに土岐沙耶花の影から生まれたファントムオーガだった。ファントムオーガを消してしまえば、ファントムオーガを生み出した人間の影が薄くなるのだとルネは言った。そして、悠飛が教室を出てから二体目も消してしまったのだとも。
この異様な空間に共に閉じ込められたクラスメイトを忘れる事など、有り得ないと言っていい。そんな状況下で忘れてしまう程、影が薄くなり、存在感がなくなってしまったという事だ。
今思えば、ひまりと可純が教室で話している時、可純の口から沙耶花の名は一切出なかった。毎日、学校では常に共に行動し、毎日一緒に帰っているというのに。
突き付けられた事実に愕然としていたが、長居する事も出来ずに悠飛が沙耶花をおぶっった。そのまま保健室まで来る間、ずっと悠飛の頭を埋め尽くしていたのは、影が薄くなるという事についてだった。
輝や可純に起こった事と同じ事が、他の人間にも同様に起こっているのだとしたら。その現象は近しい人間にも適応されるのだとしたら。あまりにも辛い。認識されないという事は、存在を認められないという事。つまり、そこには居ないという事になる。
一階の保健室へ入り、二つ並んだベッドの奥側に沙耶花を寝かせ、ルネはベッドを囲むようにブランシュクロワを配置させて結界を張る。
「こいつなら、心配ねえよ」
声をかけられた事で、呆然としたままルネを見た。
「結界の中に鬼師がいなきゃ、ファントムオーガは入れねえからな。こいつが鬼師になる事は、二度とねえし」
それは、鬼師の基となる光種が体内から消失したからだ。強い光がなければ、呑み込まれてしまうほどの大きな負は、普通の人間からは生まれない。人間には元々、負の感情が備わっているので対処の仕方も心得ている。怒ったり不安になったり泣いたり――それは人間が生きていく上で必要なもので、上手に付き合って生きていけるのが人間なのだから。
「ルネの事は信頼してるよ」
この短い時間で信頼も何もないかもしれない。それでも、ルネの言葉は信じている。最初に職員室で助けてもらった時から。
それから、悠飛はここに来るまでに考えていた事を口にした。
「ねえ、ルネ。たった二体で、そんなに影が薄くなるものなの?」
「あー……濃さはまあ、関係あるけどな。そもそも、人によって影の濃さはちげえんだよ。元々、存在感の薄いヤツっているだろ。そういうヤツは一体だろうと二体だろうと、大半もってかれる。そういうもんだ」
それはつまり、世界的に有名な人が例え鬼師になってしまったとしても数十体ファントムオーガを倒されたところで影響はないが、クラス内でもあまり目立たない人が鬼師になってしまうと数体倒されただけで影に呑まれて消滅してしまうという事だ。
実際、土岐沙耶花という子は目立たない部類の人だった。臆病で、目立つ事を避け、休み時間も机で本を読んで過ごすような、そんな人。
「それと、消えちまった影は二度と戻んねえが、おめえは他のヤツと違って忘れねえだろ。それで十分だ」
マテリアが体内を巡っているテイマーは、鬼師となり消えてしまった人も忘れる事はない。負の影響を受けないからだ。だから、悠飛も忘れてはいない。そして悠飛が忘れない限り、沙耶花はそこに居続ける。存在は消えない。
友達だと言った言葉を、彼女も憶えている。今までと同じではいられないかもしれないが、それでも、新たな関係を築いていけばいい。学校とは、それが出来る場所だ。
そうしていると、ガラッと音を立てて保健室のドアが開いた。
「悠飛、助っ人に来たよ」
そこにいたのは慶太と、竹刀の代わりにしているであろう箒の柄を持った彰斗。本当に二人をこちらに寄越すとは思っていなかった為に、苦笑が漏れる。断る暇もなく切られてしまったのだから仕方がないだろうか。
中に入って来るなり、慶太はベッドに横になっている沙耶花を見やる。
「……大丈夫なの?」
問われ、悠飛は静かに頷いた。
「うん、とりあえずは。結界もあるしね」
「そっか……こっちもみんな何ともないよ」
その点は、正直心配などしていなかった。祐はすでに職員室のファントムオーガを蹴り飛ばしたという事実がある。輝もファントムオーガと戦いペンを投げて動きを封じており、刑事の兄から護身術を習っていて慶太と悠飛も手ほどきを受けている。そして、彰斗は剣道の有段者だ。
この状況下で、戦える者が多く居たのは不幸中の幸いだと言っていい。
けれど今、バラバラに行動していても得は無いので合流をする為に、結界に護られている沙耶花を残して保健室を後にした。
下りてきた東側の階段から、三階の東奥に位置する視聴覚室を目指す事にする。
その道中、歩く速度を落とした慶太が、最後尾を歩いている悠飛に近付いた。
「あのさ、悠飛」
「どうしたの?」
「あ、いや……」
話しかけてきたというのに、随分と歯切れが悪い。普段、思った事はすぐに口にする慶太が口籠るなど、初めて見た。
だから、問うような事はせずに慶太の次の言葉を待つ事にする。どのみち、隠し事の出来る男ではない。すぐに話すだろう。
案の定、待つ時間など数秒ほどだった。
「オレさ、こんな状況で言うのも変なんだけど、今、すごい普通なんだ」
「普通って?」
「いつもとあんま変わんないっていうか、いつも通りっていうか、日常とおんなじ、みたいな。何か変じゃない?」
「でも、ケイは普段からあまり動じないよね? 普通に驚いたり怖がったりはするけど、予想外の事が起きても、いつも平気そうだよ」
「まあ、ちょっとやそっとの事じゃビックリしないけど。でも、これってそのレベルの話じゃないじゃん? なのに変わんないとか、変かなって……って、いや、そうじゃなくって」
うまく言葉が纏まらないのか、話したいと思っていた事から逸れてしまったのか、困ったように頭を抱える慶太。
階段にさしかかり、階段を昇り始める。
「だからさ、オレは普通なんだけど悠飛も普通で、でも何かいつもより悠飛が近いような気がするんだよ」
「近い?」
「そう。ずっと傍に悠飛がいる感じ。何でか分かんないけど、悠飛がオレとおんなじな気がする」
それは一体どういう事なのかと、問いかけようとした悠飛の声は、制止するルネの声にかき消された。
「止まれ」
もうすぐ二階に着くという所で、突然、ルネが足を止めた。二階の廊下を窺うように、身を屈めて手摺の下の壁にぴたりと背をくっつけている。その二段下では彰斗が待機していて、すぐに悠飛も慶太も彰斗のすぐ下まで近付いた。
「どうしたの?」
「誰かいる」
「気配は、二つだな」
彰斗の言葉に、またファントムオーガが出たのかと身構える。それは言った本人である彰斗も同じで、箒の柄を握り締めている。
ルネは一度、深く息を吐き出すと素早く二階の廊下へ跳び出し、彰斗がその後に続いた。
しかし、廊下の先を見てルネはすぐに動きを止める。彰斗も同様に足を止め、後方に居た悠飛と慶太は不思議に思って顔を見合わせると残り数段を昇りきり、ルネ達と同じように廊下の先を見やる。
「どうしてカギがかかってるんだぁ?」
「この嵐ですし、皆さん帰ってしまったんでしょうか」
「残ってる事は森重先生も知ってるのに、帰ったって事はないだろう。まったく、ヒトに仕事押し付けておいて、これだから他の先生は……」
職員室のドアの前で立ち往生している二人の男女。その姿を見止めて、悠飛、慶太、彰斗は職員室の方へ駆け出した。
「先生!」
声を投げかければ、背の高いダークブラウンの髪色をした三十歳前後の男性はこちらを見、セミロングの黒髪をハーフアップにした平均的な身長の女性は膝丈のフレアスカートを翻して振り向いた。
その表情は、驚きと怪訝の入り混じったものだ。
「お前達、まだ残ってたのかぁ」
一人は、悠飛達のクラスの副担任をしている、ポロシャツにスラックス姿の藍原淳平。
もう一人は、落ち着いた色味のオフィスカジュアル姿の、教育実習生である北城香奈。
「先生、どうして……」
「今まで放送室にいたんだよ。機材の調子が悪いって言うもんでなぁ。今日なら、丁度みんないないしな」
放送室は、外の音が入らないように完全防音となっている。扉も分厚く、窓もない。だから今の今まで外が嵐になっている事も、生徒の悲鳴にも気が付かなかったのだろう。
「そうだ、お前達、森重先生知らないかぁ? 職員室にカギがかかってるんだよ」
中に入れなくて困っていると言う藍原に、悠飛達は言葉を失くした。
これまで学校内で起こった事を話すべきか――話したところで信じてもらえるのだろうか。生徒である自分達とて、ファントムオーガを見て、実際に怪我をして初めてルネの話を信じる事が出来た。教師ともなれば、更に話が通じないのではないだろうか。
けれど今、話さずにやり過ごす事は不可能だと言っていい。何故なら、教師二人をこのまま放っておく事は出来ないのだから。何も知らせずに、むざむざ死なせる訳にはいかない。
だから、例え信じてもらえないとしても話さなければならないと、悠飛は口を開いた。
「今、この学校には悪魔がいてな、そのモリシゲとかいうのは殺されちまった」
しかし、声を発したのは後方から彰斗と慶太の間に割り込むようにやって来たルネで、唐突過ぎるルネの言葉に藍原も北城も呆けてしまっている。
「……何だって?」
訊き返されるのは、当然の話だった。
何を馬鹿げた事を言っているのかと怒られるだろうかと思ったが、それより、とすぐに話題が変えられた。
「うちの生徒じゃないだろう。どうして校内にいる?」
藍原にとって、悪魔よりも優先すべきは、どうやら自分の学校の生徒か否かという事らしい。
怪訝そうに眉を顰めてルネを見ている。
「オレは祓魔師だ。この学校に居る悪魔を倒す為に来た」
対するルネは腰に手を当てて仁王立ちのまま堂々と言い切っていて、藍原はその言葉の意味が理解できないと言うように、助けを求めるように彰斗を見た。
「あー……黒田、説明してくれ」
「今の説明とあまり変わりないが、この学校には悪魔が存在しています。実際に目撃しているから間違いありません。職員室はその悪魔に襲われ、そこにいた教師は皆、亡くなっています。それも、見て確認しました」
「……冗談、でしょう?」
「事実です。職員室の中にはまだ悪魔がいるので、カギをかけました」
淡々と話す彰斗は一切表情を変えずに真顔で話していて、それが更に信憑性を増している。
そして藍原は彰斗が軽々しく冗談を言う人間ではないと知っている。だからこそ、彰斗に話を振ったのだろう。嘘も冗談も言わない生真面目人間がキッパリと悪魔の存在を口にした事で、疑う余地はなくなった。
けれどもまだ納得のいかないような顔をしている藍原に、ルネは再度、強い口調で言い放つ。
「信じらんねえっつーんだったら、カギ開けてやってもいいぜ。ま、襲われて喰われてもいいっつーんならな」
現実主義の教師だったなら、何を馬鹿な事を言っているのかと一蹴していた事だろう。そして、悠飛からカギを受け取って職員室のドアを開け、中に居るファントムオーガに食い殺されていただろう。
しかし、藍原は違った。彰斗の話を聞き、ルネの脅しのような言葉を聞くなり顔を青褪めさせたかと思うと、凄まじい勢いで後退り、窓側の壁にべったりと背中をつけただけではなく、そのまま蹲るように頭を抱えて床にしゃがみ込んでしまった。
「……藍原先生?」
ガタガタと震えているその様は、とても教師の姿とは思えない。
「……先生……?」
心配になり、悠飛は名を呼んで近寄ってみると、藍原が小声で何かをぶつぶつ呟いている事が判った。何かの呪文のようにも聞こえるその言葉は、ただ一つの言葉を繰り返しているだけだ。「ごめんなさい」と。
何に対しての謝罪だろうか。
「先生、大丈夫ですか」
宥めようと思い、悠飛が肩に手を置いた瞬間、ビクリと肩を震わせたかと思うと藍原は弾かれるようにその場で立ち上がった。その際に、奇声ともとれるような「ぎゃーっ」という悲鳴が漏れていたので、これは最早、確認するまでもなかった。
思った事を、慶太は率直に訊いてみる。
「先生、オカルト系苦手なの?」
「へ? ……そ、そそそんなわけ、ないだろう……これでも高校の頃は心霊妖怪救助隊という名の文芸部に入ってたし……」
「けど……」
その時、突如として窓の外で爆発音のような雷が鳴り響き、藍原は再び跳び上がった。
「ごめんなさい、ウソです、怖いです、そういうの苦手です!!」
見ていると可哀想になってくるほどの脅えっぷりに、北城からも生徒からもルネからも苦笑と溜め息が漏れる。
とりあえずこのまま廊下に居続ければ悪魔に襲われるかもしれないという事を説明し、悠飛は藍原と北城を、皆が待っている視聴覚室へ促した。
更に人が増えれば鬼師になる確率が上がるという事だが、放っておけない以上は致し方ない。そういう言い方をしては失礼かと思ったが、現状を考えるとそうも言っていられないのだ。
三階の東奥に位置する視聴覚室へやって来るなりドアをノックし、声をかければ錠の開く音がした。ゆっくりと少しだけドアが開き、中から金色の髪が見え、向こう側にいる人物と悠飛の目が合うとドアが大きく開かれた。
「みんな無事なん。良かった。こっちも変わらんよ」
言いながら輝が皆を中へ招き入れてくれる。
中に入り、生徒達の姿を見止めた藍原と北城は思わず言葉を失くした。こんなに生徒が残っていたなど思ってもみなかったという表情だ。
「みんな、うちのクラスなのか……他に生徒は?」
「僕とルネで見て回ったんですけど、居ないみたいです。テストが終わって学校に残る生徒なんていませんから」
「そうだよなぁ。俺も、テスト後は即行、帰ってゲームをしたもんだ」
懐かしいなぁと学生時代と思い起こして物思いに耽る藍原だったが、すぐに今の状況を思い出したのか一度、咳払いをした。
生徒達は、藍原を見て同じ事を思う。
藍原が赴任してから二ヶ月、普段から見ていて常日頃思っていた事だが、藍原淳平という男は忙しない。落ち着きが無く、生徒に注意していてもいつの間にか自身が他の教師に叱られているという場面を何度か目撃している。
「と、とにかくだ。お前達をいつまでもここに居させるわけにはいかない。俺の車で少しずつでも送って――」
「先生、それなんですけど、学校からは出られないんです」
藍原が何を言わんとしているのかを悟り、悠飛は藍原の言葉を遮って伝えたのだが、藍原は何を言っているのか理解できないとばかりに眉を顰める。
「そんな馬鹿な事ないだろう。ただの嵐じゃないか」
巨大竜巻が学校付近で発生していると言うのであれば、確かに外に出る事は叶わないだろう。けれども、窓の外を見る限りでは台風や嵐でしかない。歩いて帰る事は出来なくても、車を使えない程ではないと藍原は言っている。
しかし、外に出られないのが嵐のせいではない事を、悠飛も輝も慶太も実紅も知っている。
「いんや? 実際、俺らは見てるし。玄関のドア開けたら、竜巻みたいなんに吸い込まれるんよ。実紅の脚んは、そん時の傷」
言われ、改めて実紅を見た藍原は初めてその両足に巻かれた包帯を目にしたようで、大丈夫なのかと駆け寄り、実紅の前で膝をついてしゃがみ込む。
「あ、すっごい切れたけど、特には……黒田が手当てしてくれたし。でもホント、外には出ない方が良いと、思う……」
身を持って知った実紅はもう、外に出られない事など有り得ないと否定しない。否定する事など出来ない。ルネの言葉を無視した結果がこの怪我なのだから。
悠飛、輝、実紅の言葉と、実紅に賛成だと言わんばかりの生徒達。ここまで言っている生徒の言葉を捨て置く事は、一教師として、彼らの副担任としては出来なかった。
「分かった、お前達の言葉を信じる。だが、教師としてこれ以上お前達を危険に晒す事はできない。それは分かるな?」
それは、悪魔の話と教師惨殺の話、そして今聞いた外に出られないという話を信じた上での言葉だ。聞いた話から、相当な危険に遭遇していたのだと容易に想像がつく。生徒を護る事も教師の役目だと言いたいのだろう。
そこは譲れないというのがひしひしと伝わってくる。
「けど、先生。悪魔がいる限り外には出られないんですよ」
ファントムオーガが出現し続ける限り、鬼師を見つけて浄化しない限り、危険な目に遭遇する事無く校内で過ごす事は不可能ではないだろうか。
「そこは、スペシャリストがいるだろう。それに、お前達がどうにかできる事でもないんだ」
だから大人しくしていろと藍原は言っている。
確かにルネは強い。一人でも軽々とファントムオーガを倒す事が出来る。それは、ここにいる生徒全員が目撃し、その実力も重々承知している。
けれどそれでも、ルネ一人に任せて自分達は安全な場所で全てが終わるのを待っているという考えには至らない。少なくとも闘う術と力を持つ、悠飛、輝、慶太、彰斗の四人は黙って傍観しているつもりなど無かったのだから。
特に悠飛は、この場にいるルネ以外の人間で唯一マテリアをその身に宿し、鬼師を見つける事が出来る。
ここで引き下がる訳にはいかなかった。
「おめえの言いてえ事は分かった。そもそも、巻き込むつもりなんかなかったんだ。それでいいぜ」
頭を掻きながら、表情もなくルネはそう言った。
それは恐らく、当初から考えていた事。ルネは単身でこの学校へやって来た。今の今まで仲間が現れていないのだから、一人でやり遂げようとしていた事は間違いないだろう。初めから、たった一人で鬼師を見つけて浄化するつもりだったのだ。それを、成り行きで悠飛や輝が手伝ったにすぎない。
そして、ルネが悠飛達の協力を拒む事無く、それどころかファントムオーガの事やマテリアの事を説明してくれたり、鬼師の見つけ方を教えてくれたりしたものだから、それが当たり前の事なのだと悠飛は思っていた。テイマーは、その場その場で協力者となる者を作り、共に鬼師を浄化するものなのだと。
だが、ルネの今の言葉で、そうではないのだという事を知った。それが悠飛には衝撃でしかなかった。突如、突き放されたようなショックを覚え、心がチクリと痛む。
「じゃあ、そういう事で頼む」
「ただ、ここはあんま良い場所とは言えねえな。何かあった時、ここじゃ狭すぎる。もっと広くて何もねえとこがいいな」
ここよりも広くて、障害物の無い所といえば一つしか思い当たらない。
藍原を見上げながら、隣に立っている北城が声に出した。
「広くて何もないなら、やっぱり体育館じゃないでしょうか」
「体育館なら良いかもしれないなぁ」
「カギはかけられんのか?」
「カギ? ああ、かけられるさ」
「じゃあ、そこだな。移動するぞ」
広くて何も無い場所が良いというのは、教室にファントムオーガが侵入してきた時と、職員室で輝とルネが戦っていたのを見て理解していた。障害物は、ファントムオーガの攻撃を避けたり身を隠したりするのには良いが、逆に自分達の逃げ場を失くしたり凶器になったりする。後者の方が圧倒的にこちらに不利な状況を生む。
そして、カギがかけられる場所というのも外せない。指一本侵入されてしまったら防ぐ事が出来なくなるのだから。
つまり、体育館はファントムオーガを迎え撃つのには打ってつけだというわけだ。
視聴覚室から体育館に向かう為には、東階段から一階に降り、廊下を歩いて閉じられた玄関前を通り、校舎西側から北へ伸びる廊下を真っ直ぐに向かえばいい。
しかし、学校に来てからまだ数時間しか経っていないので学校の構造を把握できていないルネを一人で先頭に置いておく事は出来ず、校内を熟知している悠飛がルネと並んで先頭を歩き、菜々と可純とひまり、彰斗と慶太、実紅と司、北城と祐、藍原と輝という順で二列に並んで歩き始める。
戦える者で戦えない者を挟んでいれば、不測の事態が起こっても対処できるだろうという配置をしている。最後尾に輝が居る事に藍原は不満気だったのだが、視聴覚室でも雷の爆音に驚いていた極度の怖がりに一人でしんがりを任せるのは不安すぎるというのが、生徒全員の正直な気持ちだった。
警戒を緩める事無く視聴覚室を出、蛍光灯が点いていても薄暗く感じる階段を歩いて下りて行く。窓が風でガタガタと鳴る度にビクリと肩を震わせる藍原に、隣を歩く輝は絶対に藍原を頼りには出来ないだろうと心から思っていた。
移動するのが危険な事だと理解しているのか、誰も話をしようとしない。戦える者は気を張り巡らせて緊張し、戦えない者はいつファントムオーガが襲って来るかもしれないと、見えない恐怖に脅えている。
静寂に満ちた廊下で、ちらちらと何度か隣を歩いている悠飛を窺い見ていたルネだったが、深く息を吐いてから悠飛に声をかけた。
「何か考え事か?」
よく通るルネの声。けれども、すぐ隣を歩いているというのに、悠飛に届いたのは数秒後だった。
「……え? あ、うん、まあね」
曖昧に笑って返す悠飛。
しかし、訊ねてきたにも拘らず、ルネは「ふうん」と興味なさそうに生返事をし、すぐに顔を背けてしまった。望んだ言葉ではなかったのだろうか。
「ねえ、ルネ」
「ん? 何だ?」
「この世界に来てるテイマーって、ルネだけなの?」
質問に、ルネは落胆したように面白くなさそうに目を伏せた。何か、訊いてはいけない事を訊いてしまったのだろうか。
けれどすぐにルネは口を開いた。不機嫌ながらも、相手はしてくれるらしい。
「いや、オレ入れて十七人だ」
「そんなに少ないんだ」
「世界の移動にリスクはねえが、鬼師の浄化は簡単なもんじゃねえんだ。浄化する為には多量のマテリアを使う。マテリアは正の感情、つまり心だ。同じテイマーでもマテリアに差はある。強靭な心と強い意思を持ったテイマーじゃねえと、心が壊れちまう」
テイマーが強い正の感情の結晶であるマテリアを体内に有し、負の感情に負けない光を宿しているとは言え、人である事に変わりはない。そして、負の感情を抱く事が極端に少ない為に、耐性は常人よりも遥かに低い。
鬼師となった人の影が薄くなる事を恐れて他の誰かが傷つけられてしまったり、元凶となった鬼師を見つけられずに消滅させてしまったり、そうした出来事は心に影を落とす。耐性がないからこそ影響は大きく、テイマー自身が影に呑み込まれてしまう。
犠牲者を増やす訳にもいかず、送り出す事の出来るテイマーはたったの十七人しか居なかった。
そうしてこの世界へルネ達はやって来た。この世界の人を、鬼師として消させない為に。
「テイマーは二人一組で行動すんのが基本だ。オレは鬼師を浄化する事も、ファントムオーガを消す事もできるから一人なだけだ」
「地球に来た他のテイマーは、今どうしてるの?」
「みんなそれぞれ鬼師を浄化してる。知ってんだろ? 流星河は世界中で観測されてんだぜ」
それはつまり、地球全土で鬼師化が起こっているという事。それをたった十七人で解決しようとしているのだ。
何十億という数の人間を、たった十七人で救う事など無謀としか言いようがない。
「どうして、他の世界なのにそこまで……」
「まあ、発端はエルグランドだしな。テイマーの一人が、ある本を扉として偶然繋がったチキュウに来て、負を蔓延させようとした。世界は負に覆われ、負に蝕まれた生き物は命を落とす。恐怖や絶望の中で生き続けられるヤツなんかいねえからな。その、負の蔓延を止める為の措置が、流星河だったんだ」
膨大な量の負を打ち消す為には、それ以上の光が必要だった。二人の男女から放たれたマテリアは天に昇り、形を変え、流星となった。
そして世界を救った光はやがて、世界を滅ぼす光となった。
けれどそれは、ルネが背負うべき事なのだろうか。確かに、ルネの世界・エルグランドの人間であるテイマーが原因で流星河が起こり、そのせいで光種が地球の人間の中に入り込み、鬼師と化してしまう事となった。
だが、裁かれるべきは原因を作ったテイマーであり、責を負うのもその人物だけで充分ではないだろうか。ルネが危険に身を投じる理由にはならない。
「けど、それだけが理由じゃねえよ。エルグランドが崩壊しそうになった時、姉様が、チキュウの人間である姉様が救ってくれたんだ。その、恩返しなんだよ」
流星河が起こる前、エルグランドでも異変が起きていた。負の感情に呑み込まれた人々は影なる者・ファントムに姿を変え、世界は負に支配されようとしていた。それを止めたのが、地球からやって来た一人の少女。彼女はたった一人で、エルグランドの崩壊を食い止めようと奔走していた。そして、少女はテイマーと共にエルグランドの滅亡を阻止したのだ。
だからこそ、その恩に報いたいのだとルネは言う。
そこまで考えて悠飛は、はたっと思考をやめた。
「それって……――」
しかし、悠飛の言葉が最後まで紡がれる事はなかった。
「やべえ、全員、全力で走れ!」
突然のルネの怒号。
全員に、緊張感が奔る。
「行け!!」
緊張に体が強張り動けずに居る皆を怒鳴りつければ、弾かれるように駆け出した。脚を怪我していて全力で走れない実紅を、一番長身で体力もある彰斗がおぶり、皆が走って行く。
隣を走りながら、悠飛はルネを見た。
「急に、どうしたの」
「いいから、ぜってー足止めんな。このまま、おめえが先頭で皆を引っ張れ」
言い切ると同時に、ルネは急ブレーキをかけて突如、方向転換して後方に向かって走り出した。
一体何が、と振り返った悠飛の目に映ったのは、もぞもぞと蠢いている靄か霞のような影。それは、数体のファントムオーガ。これまで見たどちらの姿とも似つかない、スライム状の影。
瞬時に、腰のカーネリアンコアに触れてマテリアを変換し、棒状の十字架――シュバルツクロワを出現させて握り締めた。最後方まで来たルネは十字架を縦に回転させ、スライム状のファントムオーガを足止めする。
「ルネ! この先を右に曲がった奥が、体育館だよ!」
「了ー解!」
直後、廊下を右に曲がった事でルネの姿は見えなくなったが、それでも足を止めず、速度を緩めずに長い一本道を走って行く。
一秒でも早く体育館に入る事が、ルネの為になるのだから。
百メートルほど走り切り、重厚な扉にぶつかる勢いで止まるとすぐに、祐の持っていた体育館のカギで錠を開けて扉を開き、他の者達を中へ誘う。
最後方の輝と藍原が中へ入った時、廊下の奥に鮮やかな山吹色が見えた。
「ルネ! こっち!」
悠飛の声を合図に、ルネはシュバルツクロワを回転させ、そこから溢れ出した光の粒子であるオレンジ色のマテリアがファントムオーガを覆い尽くした。
動きを止めたファントムオーガを尻目に、ルネは全速力でこちらにやって来るなり、そのまま体育館の中へダイブするように飛び込んだ。ルネが入った直後、悠飛と輝によって体育館の扉が閉じられる。
すぐさま内側からカギをかければ、閉じられた事でルネがホッと安堵の息をついた。
「ったく、どんだけいんだよ」
「……倒したの?」
「そう思うか?」
質問に質問で返され、その真意を知るなり悠飛は首を横に振った。
他にもルネに訊きたい事はあるけれど、皆の前でする話でもないのですぐに話を切り上げ、悠飛もルネも他の者を見やる。
三階から一階へ降りた直後からの、東端から西奥までの全力疾走はさすがに堪える。
ファントムオーガという恐怖と外に出られない不安から精神的にも堪えているのだから、疲労の色は隠せず、疲弊しきっていると言ってもいいその姿は見るに堪えない。藍原と北城の表情を見ればそれは明らかで、だからこその藍原の言葉だったのだろうと、藍原の気持ちを悠飛も痛感していた。
このままでは光種が芽吹くのも時間の問題だと、そう告げられているような気がする。
「体育館に来たはいいが、本当に平気なんだろうなぁ?」
先程、ルネが方向を変えた後に振り返ってファントムオーガを目撃してしまったのだろう。問い詰めるような藍原の顔からは血の気が失せている。電気が点いているのに暗く感じる体育館の雰囲気のせいもあるかもしれないが、それだけではないのだという事も、その表情から読み取れる。
「ああ、まあ、見た感じは問題ねえな。人型をとれねえって事は、思考どころか意思すらねえよ。今頃、彷徨ってんじゃねえか」
その言葉に、校内を見回って教室に向かう道中でルネが説明してくれた事を思い出す。
ファントムオーガは、基の人間の性格や感情、影の濃さで性質が決まる。
影が濃い程、人の形に近付き基になった人間に近い存在になる。よって、行動原理も基になった人間に似るのだと言う。
最初に職員室で見たファントムオーガは教師を喰らい、輝やルネをも喰らおうとしていた。その根底にあったのは殺意、もしくは空腹。そして、教室に入って来たファントムオーガは、侵入しようとする意思と知能を持っていた。
どちらも闇に溶けてしまいそうな程の黒で、人の形を成していた。
けれど今し方見たのは、靄のような暗雲のような薄さの、スライム状のもの。ただ動いているだけのようなものだった。
型は四つ。スライム状のファントムオーガのような、何の形も成していない無形型。動物そのものの形を成している獣型。教室に入って来た狐のような顔をしたファントムオーガや人の形をしていても獣のような思考しか持たない、動物と人が入り混じったような獣人型。そして、完全なる意思を持ち、姿も人と何ら変わらない人型。人型は時に、本物の人間と見紛う事があるのだとルネは言っていた。
違いが出るのは、鬼師となったきっかけが関係しているらしいが、詳しい事はまだ判明していないという事だ。
流星河の日から十二年が経過しているが、調査の遅れは、鬼師となった人が影に呑まれて消えてしまうか浄化され記憶を失くすかのどちらかしかないのが要因だった。影に呑まれれば言わずもがなで、浄化されると鬼師になった時の記憶にだけ靄がかかったように曖昧になってしまうのだと言う。
「例えこっちに来ても、扉を開けるって考えもなけりゃ、扉だと認識する事さえできねえ。つまり、この扉が閉じてる限り、あいつらは手出ししてこねえって事だ」
ルネの言葉を受けて、皆が安堵したのだという事は、張り詰めていた空気が変わった事で理解した。
帰れない不安はあれど、脅威はなくなったと、そう思っている。
しかし、悠飛だけは知っている。脅威となりえるものはこの中にあるのだという事を。
外のスライムは、他二つのファントムオーガとは別の人物の影だと悠飛は考えている。形状の違いもそうだが、何より行動原理の違いと性質の違いが大きい事が引っかかっている。
テイマーではない悠飛は、ファントムオーガについて詳しい訳ではない。けれど、沙耶花の影から作られるファントムオーガは全て同じ姿をしていた。それが偶然でないとするならば、同じ鬼師から生まれたファントムオーガは同じ姿をしている可能性が高い。つまり土岐沙耶花の他に、少なくとも二人の鬼師が開花しているという事だ。
今、体育館の中にいる十一人の中に、二人。
一息をついたものの、これからどうするべきなのかを決めるのは教師の藍原だ。流されるままに体育館へ来てしまった不満なのか、先の見えない不安なのか、これまで成り行きを傍観していた司が痺れを切らしたように藍原に声をかける。
「なあ、先生。俺ら、これからどうすんの。ずっとここにいんの?」
もう家に帰りたいのだと声も口調も言っていて、けれどそれが不可能だと分かっているからイラついてもいるようで、藍原は「そうだなぁ」と思案するように顎に手を当てる。
「せっかく体育館にいるんだし、遊ぶか!」
「はあ? 今の状況、分かってんだろ。遊ぶわけねーし」
藍原の提案はふざけているようにしか聞こえないもので、蔑むような目で瞬時に否定し呆れ返っている司。けれどそれは恐らく、藍原なりにこの場の空気を変えようとしての事だったのだろう。だからこそ、司の冷たい視線は藍原に深々と突き刺さっていて、見ていると居た堪れない気持ちになる光景だ。
直感的に暗い雰囲気ではいけないと思ったのか、はたまた暗く沈んでいると怖いからなのかは定かではないが、それでも藍原の気持ちが悠飛は嬉しく、何だか頼もしく感じていた。
風の音に悲鳴をあげる様を見ると、気のせいかとも思うのだが。
「とにかく、今はここにいるしかないだろう」
ふざけた事以外に今の藍原に言える事は、それだけだった。
状況を把握している訳ではないどころか、ただ成り行きを見ていただけの藍原に、生徒達を率いる事は不可能に近い。何も知らず、分からずに行動する事は危険でしかなく、その先にあるものは死のみである。
けれどそれでも、教師としてどうにかしなくてはならないと考えているのだろう。大人であり教師であるが故に。
一人で考えられる事ではないが、それでも藍原は何とかしようと考えを巡らせる為なのか体育館の端の方へ行ってしまい、その後を北城が追いかけて行った。
教師が離れてしまった事でどうする事も出来なくなり、司は不機嫌なまま興味を失ったようにポケットに手を突っ込んでステージの方へ向かって歩いて行き、それを皮切りに、思い思いに過ごす事となった。
その様子を、悠飛はじっと見つめる。
誰かと話をし始めた者達に、今のところ変化は見られない。だが、ずっと黙り込んでいる菜々とステージ上に寝転がってしまった司が心配だ。
鬼師となる条件は人によって異なる。今ここで鬼師となりファントムオーガを生み出せば、再びパニックとなる事は必至。それこそ、全員バラバラになってしまうか、危険を承知で外に飛び出しかねない。そうならないようにする事が一番だが、もしファントムオーガが現れるのであれば、その前に少しでも皆を休ませてあげたい。
そう思いながら司を見ていると、心配していたのか慶太が司の方へ向かうのが見えて、様子を窺っていると何やら話をし始めた。最初は面倒くさそうにしていた司が次第に明るくなっていくのが目に見えて分かる。二言、三言交わしただけで不機嫌など消えていて、冗談を言い合っているのかじゃれ合っている様子は、教室で見ていた光景そのものだ。
司は慶太に任せておけば大丈夫だろう。
だから悠飛は、菜々に近付いた。ステージへ続く右の階段傍の壁に背をくっつけ、膝を抱えて蹲っている菜々に。
「三芳さん」
優しく、驚かせないようにと声をかけたのだが、菜々の肩がビクリと震える。
そしてゆっくりと顔を上げた彼女の顔には明らかな恐怖が浮かんでいて、大きな目をより一層大きく開いて、溢れんばかりの涙を溜めている。
「悠飛くん……」
潤んだ瞳に悠飛の姿を映し、堪えきれなくなった様々なものが溢れ出す。
「もうイヤだよぉ……どうしてこんな事になっちゃうの……?」
「三芳さん……」
震える声。
菜々の言葉は胸に突き刺さるようだった。
何故、どうして。それは恐らく、この場にいるルネ以外の者が考えている事。とんでもない状況に巻き込まれた人間ならば思う事だろう。今頃、家でテレビでも観ていた筈だ。友達とカラオケに居た筈だ。いつもと変わらない日常がそこに在る筈だったのだ。
このまま恐怖に呑み込まれてはいけない。そう思い、宥めようとしゃがみ込む。
「うん……そうだね。僕も正直、混乱してる。だってこんな事、現実で起こるなんて考えた事なかった。今だって全部、夢なんじゃないかって思うんだ。受け止められないのは当然だよ」
そう言って、悠飛は笑んだ。
きっと皆も同じだから。この状況を冷静に受け止められる人間が居たならそれは、ルネと同じようにこうした光景を沢山見てきた人間か、人間の心を持っていないかだ。
だからそれで良いんだと笑いかけると菜々はハッとし、それから小さな両手で顔を覆い隠した。
「ごめんね、みんなだって同じなのに、悠飛くんに当たっちゃって。不安でどうしようもなくなって、でも悠飛くんにぶつけたって意味ないのに……あー、恥ずかしい!」
ツインテールにしている為に露になっている耳が真っ赤に染まっていて、両手の下にある顔も同じように真っ赤なのだろうと思った。それが何だか可愛く見えて、悠飛は思わず笑みを浮かべた。
ああ、いつもの彼女だ、と。
だが、和やかな時間はそう長くは続かなかった。
突如、菜々がバッと勢いよく顔を上げた。
「三芳さん?」
「……何か、聞こえた」
再びファントムオーガの襲撃かと思われたが、「ぐうー」と何とも緊張感のない音が菜々の腹から流れた。慌てて腹を抑えているが時すでに遅く、それが分かっているからか菜々の顔は先程よりも赤くなり、まるで茹でダコのようだ。
「もう、七時なんだね。お昼から何も食べてないし、体にも良くないよ。ちょっと待ってて」
言って、菜々をその場に残し、悠飛は藍原の方へ向かった。
その背後で、そっと、誰かが菜々に近付いていた。
藍原の傍まで行き、悠飛は藍原を見上げる。
「先生。あの、学校に食べ物ってありませんか」
「食い物?」
「もう七時ですし、何か食べないと体がもたないと思って……朝になったら帰れるものでもないですし、水と食料は必要だと思います」
「まあなぁ。腹が減っては何とやらだ。購買には教職員の分が置いてあってな、今日は回収してないからある筈だ。自販機もある」
飲み物・食料共に購買にあるのであれば、効率が良い。一度にいろいろ持って来られるからだ。皆に話をし、悠飛、輝、彰斗、藍原の四人で、生きる為に食料を確保するべく購買へ向かう事になった。
間もなく、時刻は夜七時。
悠飛が職員室でファントムオーガと惨状を目撃してから、実に四時間以上もの時が流れていた。




