二 異変
一通り校内を見回り、学校の西側から教室に戻った悠飛とルネ。教室の黒板側のドアを開けると、皆の視線が一斉にこちらへ向いた。
不安に揺れる瞳は変わらない。先程、悲鳴を聞いて悠飛が飛び出した時と居る場所もさほど変わってはいない。廊下側に寄る事も、雨風の音が凄まじい窓に寄る事も出来ないと言うように、教室奥にある棚の傍の床と、その傍の机の近辺で身を寄せ合っている。
それでもすぐに、旧友の輝と慶太が傍に寄って来た。
「悠飛、無事だったん」
「うん。今はまだ職員室にしか居ないみたいだし」
「他には、誰もいなかったの?」
「一階から三階まで、ざっと見たけど誰も居なかったよ。テスト最終日だから、当然かもしれないけど」
生徒が校舎の中に居なかったのは、幸いだっただろうか。
悠飛が輝や慶太と話している最中、ルネは教室内にいる生徒達をじっと見つめて観察していた。今のところ、誰一人として特に目立って変わった様子はない。出現したファントムオーガは一体だけなのだから、まだ存在に変化や影響が現れる段階ではない。
今は、まだ。
微笑を浮かべたまま皆に視線を向けているルネに、そう言えばと輝が思っていた事を口にした。
「悠飛、その姉ちゃんは?」
「この人は……」
どう説明したものかと言いよどんだ悠飛だったが、訊かれた悠飛ではなく、ルネ本人が答える。
「オレはルネ。エクソシストとか、祓魔師って呼ばれてる」
エクソシストという言葉に、教室内が少しざわついた。
「じゃあ、あれって悪魔の仕業なの……?」
女子生徒の一人が躊躇いがちに問いかけてくる。
彼女を見て、ルネは先ほど悠飛に聞いた事を思い出していた。
ミルキーベージュのサラサラとしたセミロングの内巻きの髪の女子生徒――水沢ひまり。おっとりしていて、いつでものんびりマイペース。慌てる事は殆どなく、話し口調ものんびりと間延びしている。
「ああ、そういう事だ」
「悪魔なんてバカバカしい! そんなもの、いるわけないじゃん!」
怒鳴り声を上げる、赤茶色の髪を短いポニーテールにしている女子生徒――芦名実紅。行動力があり、思い立ったらすぐに行動する。短気で、自分の考えは曲げない頑固者。そして、オカルトの類を全く信じていない現実主義者。
「信じなくても事実だ。それとも、人間がやったっつーのか? だとすりゃ、こん中に猟奇殺人鬼がいる事になるな。それでも否定すんのかよ」
この中に殺人鬼が居ると言った時、皆の表情が変わり、互いの顔を確かめた。それはまるで、本当にこの中に教師を殺した者がいるかのように。
「そんな言い方しなくても良いじゃないですか。芦名さんだってそんなつもりで言った訳ではないでしょう」
実紅のフォローをするように弁護したのは、眉上で切り揃えられた前髪が特徴的なセミロングの黒髪の、眼鏡をかけた女子生徒――柳可純。具合の悪そうな沙耶花を宥めているのは面倒見の良さからだろう。眼鏡をかけていて落ち着いた雰囲気からか、この中では大人に見える。
「帰れればどっちだっていいよ、そんなの」
興味がないと言いたげな、どこか冷めた目をした、こげ茶色の長めの髪の男子生徒――白藤司。楽しい事は好きだが、それ以外の事には殆ど興味を示さない冷めた性格。
「この天気で帰れるとも思わないが」
窓の外を見る、青みがかった黒髪の、真面目を絵に描いたような男子生徒――黒田彰斗。冷静沈着で、真面目すぎるほどの生真面目人間。正義感が強い熱血漢だが、外面には出ない。
「……もう、どうしたらいいのよ……」
今にも泣き出してしまいそうな、赤みがかった茶髪を緩くおさげに結っている女子生徒――土岐沙耶花。気が弱く、とても臆病で消極的。引っ込み思案で、周りに流されるタイプ。
一通り見回し、開いたままになっている黒板側のドアの前にいる悠飛達の方へ視線を向けた。
共にファントムオーガの囮となった、輝くような金髪に黒いメッシュの入った髪の男子生徒――近江輝。明るいムードメーカーで、運動神経が良く大抵の事は何でも出来るが方向音痴。
机に腰掛けている、杏色のウェーブのかかったショートボブの髪の女子生徒――瀬戸内祐。クールで、言葉にはトゲがあるが根は優しい。空手の全国大会で優勝する腕前を持ち、ファントムオーガを蹴り飛ばす事も出来る。
そして、悠飛と同じタチバナである、前髪も後ろ髪も短い黒髪の男子生徒――橘慶太。素直すぎるというほど素直で、他人の言う事は大抵信じる。
皆が沈み、空気が淀みを増した頃、空気を変えるように悠飛が口を開いた。
「そう言えば、慶太と輝はどうして学校にいたの?」
すぐ帰ったと思っていたのにと言えば、簡単に話してくれた。
先ず、口を開いたのは慶太。
「オレと司と実紅とひまりの四人で、公園に行ってたんだよ。近くに泉がシンボルになってる公園あるだろ? あそこで遊んでたら急に雨降ってきたから、バス待つより学校行った方が早いだろって話になってさ」
だからこうして学校まで戻って来たのだと慶太は言う。小学生の頃に戻ったかのように、スタンダードな鬼ごっこを初め、色鬼や氷鬼、缶けりなど体を使う遊びをとことんやり切った。もうそろそろ場所を移動しようかと思った矢先に、雨が降り出したのだと。
「俺は祐と彰斗が、テスト勉強で体鈍ってっから異種格闘技やりたいってんで、格技場で延々手合せして、満足したってーからカギ戻しに行ったら悲鳴が聞こえたんよ」
空手部の祐と剣道部の彰斗。更には、合気道と柔道の実践的な事を得意としている輝が参戦する事で、三つ巴の異種格闘技が実現し、思いの外白熱した為にこの時間まで居残ったと言う。
こうして二組の居残りの理由が分かった為、自然と、視線が沙耶花と可純に向く事となった。
今、この場にいる者の中で彼女達が学校に居る理由を、本人以外は知らないのだから。
それは自分達が一番良く分かっているからだろう。可純が口を開いた。
「私と沙耶花さんは、カフェでお茶をしていました。暫く話をして、沙耶花さんが忘れ物をしたと言うので、学校に戻って来たんです。途中、職員室の前を通った時に妙な物音がしたので、中を覗いたら……」
そこで言葉が途切れた。見たものは同じだが、悠飛と菜々が最初に見た時よりも後に職員室を訪れているので、より惨い惨状を目にしてしまったのだろう。実際、悠飛が目にした職員室も、一度目よりも二度目の方が遺体の損傷も激しく、血腥く、血みどろだった。
すぐに家に帰っていれば、このような事件に巻き込まれる事など無かったのに――。
多かれ少なかれ、皆がそう思っている事だろう。
暗く沈んだ空気を変えたいと思うけれど、上手くいかない。現状を忘れる事など出来ないのだ、空気を変える事など出来ないのかもしれない。今、出来る事などほんの僅かな事しかないのだから。
「なあ、ケーサツ呼ばないの?」
慶太の言葉に、ファントムオーガの存在を知っている悠飛は言葉を返す事が出来なかった。
警察を呼んだところで意味がない。何故なら、警察が解決できる事ではないのだから。先程、ルネが職員室で教師が亡くなった原因を悪魔の仕業だと言った為に、他の者達も警察を頼ろうとは思っていないらしい事は、その表情を見れば分かった。期待などしていない、そんなもの無駄だろうと、物語っている。信じ切っている訳ではないだろうが、それでも、猟奇殺人鬼が居るとは思いたくないといったところか。
ファントムオーガの事を抜いても伝えなければならない事があり、酷だとは思ったが悠飛は黒いスラックスのポケットから青いスマートフォンを取り出した。
「それが、圏外になってるんだよ。外と連絡は取れないみたい」
悠飛の言葉に皆が一斉に自分の携帯電話を取り出し画面を見るが、アンテナは立っている。だから不思議そうに皆が悠飛を見るが、悠飛は首を横に振った。
「試してみたんだ。でも、コール音はしないし繋がる気配はなかったよ」
そう言っても信じられないと言うように何人かが電話番号を押してかけてみたのだが、四台の携帯電話からコール音が流れる事は無かった。
「さっき、コンピュータールームのパソコンのインターネットと、事務室の電話も確認してみたけど、どちらも繋がらなかったんだ」
スマートフォンで連絡が取れないかと思って家に電話をかけてみたのだが、コール音は鳴らず繋がらず、その他の通信機能も全て試してみたけれど全滅だった。
嫌な予感がして、一階にある事務室に行って固定電話を使用してみたが、結果は同じ。こちらは、回線が切れているような電子音しか流れてこなかった。次いで三階のコンピュータールームに行き、ルーターを見てみると切断されていた。
嵐により外に出る事の出来なくなった学校は、陸の孤島になってしまったという事だ。
「でも、どうして繋がんなくなっちゃったのかなぁ?」
今朝は普通に使えていたのに、と言うひまり。
長い坂を上り切った丘の上に建った学校ではあるが、今まで電波が無くなった事など一度もない。今だってアンテナは三本立っている。普通の状態であれば使えないという事は無い筈なのだ。
学校に設置されている電話やインターネットまで使えなくなるというのも不自然だ。
ルネと二人で確認している時にルネが話していたのだが、これも鬼師の影響なのだと言う。強い負が学校に集まり取り巻いている為、風が荒れ、雨が降り、暴風雨となり嵐に変わったのだと。
「この嵐で、電線が切れたのかも知れないな」
「じゃあ、わたし達、もう家に帰れないの……?」
「……ウソだろ……」
家に帰れない、外と連絡を取る事が出来ない、教師が死んでいる、悪魔という得体の知れない化け物が校内に居る。
それらの事実は、まだ子どもの域を出ない高校生を絶望させるには十分すぎた。
より一層、暗く重苦しい空気に包まれる教室内。本当は今、話すべき事では無かったかもしれない。けれども、携帯電話が使えないという事はそう遠くない内に知れ渡っていただろう。電話を探して校内を動き回り、別のファントムオーガに襲われたならば、パニックでは済まされなかったかもしれない。
これ以上の犠牲を出す事は絶対に阻止しなければならない。そしてこれ以上、彼らを追い詰める事も。
ルネの話では、この教室にいる全ての人間が鬼師化する可能性があるという事だ。それ以前に、半狂乱となり、錯乱し、クラスメイト同士で殺し合いが起きたとしてもおかしくはないのだ。これ以上不安を煽るような事は避けるべきだと、鬼師の話はルネと悠飛だけの秘密にしておこうと思った。疑心暗鬼になって争う事などあってはならないのだから。
一刻も早く鬼師を見つける事。それが今できる最善の事なのだ。
けれども今は、その手がかりは何も得られていないと言っていい。
これからどうするべきか、思案しようとした時だった。
「ドアを閉めろ!」
突然、ルネが声を上げた。それも、怒号に近い声音。
未だ開いたままになっている黒板側のドア。それは、悠飛とルネが入って来た時に開けたドア。ルネは窓側に居るので、近場に居る悠飛・慶太・輝に閉めろと言っている。今のは、要求ではなく命令だ。
何故、と問うている場合ではない事はその声から悟っていた為、一番近くに居た悠飛がドアを閉めた直後――ビタンッと黒い何かがドアの大きなガラス窓にぶつかるように、べったりと張り付いた。
音と衝撃に、教室内に緊張が走る。
顔は長く、狐のように口の方が三角になっている、虫のような顔をした人の体を持つファントムオーガ。ギョロリとした紅い二つの目が、教室の中を覗き込んでいる。
瞬間、もうすぐ夏だというのに寒気がした。
ズ、ズズ……。
徐々にドアがずれている。ドアのガラス窓に張り付きながらも、そのドアを動かしている。
「やべえ! ドア押さえろ!」
ルネが言うが早いか、悠飛が動くが早いか――マズいと感じた悠飛は反射的に、ドアにつっかえ棒をするようにドアを横から押そうと手をかけ体重をかけたのだが、ドアはビクともしない。
「……重い……!」
こちらが圧倒的に有利で、渾身の力を籠めて体重をかけているというのに、全く動く気配がない。それどころか、少しずつ押し返されているのを感じる。
悠飛一人ではとても耐えられないと思った輝と慶太も加わり、三人でドアを閉めに掛かったけれど、状況は何も変わらなかった。
影で出来た指が、ドアにかかる。
指だけだが侵入された瞬間、ルネが舌打ちをした。
「遅かったか」
「……どう、するの……?」
「鬼退治は専門外なんだが、しゃーねえ」
言葉とは裏腹に緊張感のないルネは面倒くさいと言うように頭を掻き、右腰についている橙色の宝石・カーネリアンコアに触れる。
「シュバルツクロワ」
声に呼応するようにカーネリアンコアから溢れ出した橙色の光が棒状に伸びていき、中心部に装飾の施された橙色の楕円形の宝石のついた、緩くリボンの巻かれた黒い棒状の十字架がルネの右手側に出現し、強く握り締める。
シュバルツクロワと言うのは、その黒い十字架の名称だろう。
「窓際の一箇所に集まれ。ドア押さえてる以外のヤツで腕に自信のあるヤツは護ってやれよ。おめえらも、オレの合図で手ぇ放したら臨戦態勢とれ」
ルネの指示に文句を言う者は誰一人としておらず、ファントムオーガがドアに張り付いた為に距離を取ろうと窓の方に避難していたので、身を寄せ合うと、空手を得意としている祐と剣道を得意としている彰斗が、他の生徒を護る為に前に出る。
シュバルツクロワを握り締めたルネは、職員室の時とは違って十字架の長い部分を掴んでいる。恐らくはこれが本来の持ち方なのだろうと、悠飛は横目で見ながら思った。
少しだけ身を縮めるルネ。戦闘が始まる合図。
にゅ――と、影で出来たような黒い人の手が伸びてくる。
「離れろ!」
ルネの言葉に、三人は一斉にドアから手を離し、距離を取った。これまで抑えていた力が無くなった事で、壊れそうなほど勢いよくドアが開ききると同時にファントムオーガが教室内に飛び込んで来た。
窓際にいる女子生徒から短い悲鳴が漏れる。
けれどもルネは動じる事無く、飛んで来たファントムオーガをシュバルツクロワで受け止めるものの、ファントムオーガはすぐさま飛び退くようにルネから距離を取り、天井に逆さまに張り付いた。キキ……と喉を鳴らすような音がファントムオーガから漏れる。
挑発するような声。
直後、ファントムオーガはぐるんと顔の向きを変えて悠飛達の方へ向かおうと、床を蹴って跳び出した。
「させるか!」
投げ槍の要領でシュバルツクロワを投げればファントムオーガの右足に突き刺さり、伸びたファントムオーガの手の爪が悠飛の髪にかかる寸前で動きを止めた。
十字架を引き抜いた瞬間にファントムオーガの横っ腹を蹴り飛ばせば、ファントムオーガは黒板にぶつかった。グシャッと何かが潰れるような音がしても気にする事無く、ルネは追い討ちをかけようと黒板へ近付き、教卓の横、ファントムオーガの前に立った。
ずるずるとずり落ちようとしているファントムオーガの腹部に、シュバルツクロワの尖った先端を突き立てる。
黒い十字架に貫かれ、黒板に磔にされているファントムオーガは逃れようともがき蠢いているが、深く刺さっている十字架が外れる事はない。
両手でシュバルツクロワを握り、力を込める。
「ワリィな」
雨と風の音に遮られ、誰にも聞こえない小さな呟き。
「天昇! アルファ・ドラードゥス!」
シュバルツクロワが刺さった所から、ファントムオーガは白い光の粒子に変化していく。「ギギギギ!」と断末魔の叫びにも似た音が漏れ出す。それでも逃れようのない粒子化は進んでいき、次々に白い光の粒子になっていて数秒で全てが光の粒子となり、光は空気に溶けるように消えていった。
ファントムオーガが居なくなり、ルネは何かを振り払うようにシュバルツクロワを振り下ろした。今一度シュバルツクロワの中央の宝石に触れると、シュバルツクロワは橙色の光の粒子に変わり、右腰のカーネリアンコアの中に入っていった。
数秒目を閉じ、それからすぐに振り返るとルネは悠飛を見やる。
「おい。さっきみてえに、カギかけらんねえのか」
「教室は、かけられないよ。普段からカギをかける場所じゃないから、どこにカギがあるのか判らないんだ」
「そうか……」
職員室にあったカギの保管箱に入っていたのは、特別教室のカギだけだった。事務室にもそれらしいものは無かったので、他にカギがあるとするならば監理員室だろうが、それでもあるかどうか定かではない。
顎に手を当てて思案していたルネは、覚悟を決めたように腰のカーネリアンコアを右手でなぞる。
「ブランシュクロワ」
橙色の光の粒子が、プレート状の白い十字架――ブランシュクロワを形成し、トランプのカードを持つように掴んだ。そして重なっていたブランシュクロワを、親指をずらして開くと四つのブランシュクロワが握られている。
空中に放り投げるように手を開けば、ブランシュクロワは廊下側の天井と床の四隅に突き刺さった。
「結界を張った。とりあえず、これで侵入される事はねえ」
とりあえず侵入される事はない。つまり、脅威が無くなった訳ではない事を意味している。ここに居れば安全だが、ここに居続けなければならないのだと。
つまりもう、学校から出られないどころか、この教室からも出る事すら出来なくなってしまったという事だ。
覚悟を決めなければならないと、悠飛は思った。
「もう沢山!」
しかし、腹を括るのが少しばかり遅かったようだ。
声を荒げ、立ち上がったのは実紅。
「こんなところ、いつまでもいられるわけないじゃん! ウチは帰る!」
護るように前に立っていた彰斗を押しのけ、ずかずかと後方のドアに向かって行く。
「この雨の中で帰るなんて、やめた方がいいよぉ」
「煩い! こんなとこにいる方がおかしいでしょ!」
「けれど、悪魔がいますし……」
「馬鹿じゃないの? 悪魔なんているわけない!」
「じゃあ、さっき見たの何なんだよ。アホくせえ……」
険悪な雰囲気が漂い始めた。焦り、不安になり、他人を信じられず、虚勢を張る。このままでは何も見えなくなり、己の心さえも見失い、皆が鬼師になってしまう。
何とかして宥めなくてはと悠飛が口を開こうとした時、遮るようにルネが口を開いた。
「無駄だぜ。こっからは出らんねえよ」
軽い口調のまま言い放つルネに、ドアのすぐ傍まで来て立ち止まっていた実紅は振り向き、黒板の前にいるルネを睨みつける。
「公園から学校まで来れたのに、出られないわけないじゃん!」
「だから、無理だって」
「アンタに指図される覚えない!」
逆上するように吐き捨て、ドアを乱暴に開けると実紅はそのまま教室から出て行ってしまった。
「芦名さん!」
慌てて悠飛が呼び止めたけれど実紅が止まる事はなく、すぐに後を追おうと悠飛は開けっ放しの後方のドアに手をかけた。
「もう無理なんだよ」
聞こえてきた、溜め息混じりの呟くようなルネの声に立ち止まり、振り返る。
「外に出ることなんかできねえんだよ。どうやってもな」
目を伏せ、諦めたような哀しんでいるような口調のルネ。
何か嫌な予感がして、悠飛はすぐに教室を飛び出して一番近い東階段へ向かった。学校から出ると言っていたのだから正面玄関に向かった筈だ。もうすでに、玄関に辿り着いているかもしれない。
早く、止めなくては。
「悠飛!」
背後から聞こえた声に、走ったまま横目で見ていると、後ろから走ってきた慶太と輝が両隣に並んだ。
「ケイ、輝」
「オレも行く。実紅も悠飛も心配だし」
「教室はあの姉ちゃんいるし、祐と彰斗もいっから平気やん」
「ありがとう」
ルネの言葉から危険を察知したらしい慶太は、友人である実紅の事が心配になったという事か。それに先程、ファントムオーガを目にしたから悠飛一人で行くのも危険だと判断しての事だろう。
それに更に続いたのが輝というところか。ルネ、空手部の祐、剣道部の彰斗が揃っていて、更に結界が張られているとなれば教室は安全であり、教室の外に出た悠飛と実紅の方が圧倒的に危険なのだから、慶太一人が加勢するより輝も居た方が安全度は上がる。実際、職員室でルネと共に囮を引き受けて対峙した輝は、ルネに助けてもらってはいたけれど後れを取るような事はなかった。
心強い。
三人で行けば実紅を止められる。そう思い、東階段に差し掛かった時だった。
「いやあああぁあ!」
突如、響き渡る悲鳴。教室からではない。これは下から、玄関からだ。
一刻を争う状況になったのかと階段を三段飛ばしで駆け下り、すぐ傍にある開放的な正面玄関に来た時、悠飛達は目に飛び込んだ光景に呆然とした。
大きく開け放たれた、一枚の外開きのドア。その取っ手に両手で掴まり、強風に学校の外へ引き込まれそうなのを、体が浮き上がっていても必死に堪えている実紅の姿。竜巻に巻き込まれるかのような光景。
「助けて!」
何がどうなっているのか考えている余裕はなさそうで、悠飛はすぐに一歩、足を踏み出した。
「僕が行く。二人共、援護をお願い」
覚悟を決め、頷く二人を背に悠飛はドアの方へ向かって歩いて行く。校舎の外で凄まじい風が吹き荒れているという事は、実紅の体が浮き上がっている事から分かる。しかし、ほんの数メートルしか離れていない靴箱の所にいても風は微塵も感じられないという事は、外の嵐は自然のものではないという事を示している。
玄関の端、外に出る一歩手前で立ち止まっても風の影響はない。つまり、外にさえ出なければ引きずられる事もない。慶太も輝もすぐ後ろにいる。大丈夫だ。
境界線の手前に立ったまま悠飛は、扉の横幅いっぱいに備え付けられている手摺を左手で掴み、右手を実紅の方へ伸ばした。
「手を……絶対、離さないから」
手摺から離させるのは危険かもしれないが、このまま体力が奪われ続ければ、いずれ手摺から手が離れて嵐に引きずり込まれてしまうだろう。多少の危険を冒しても、時間をかけるべきではない。
手に力が入らなくなっていくのが自分で分かっているからか、実紅は意を決したように左手を悠飛の方へ伸ばす。小刻みに震えている手。恐怖の色は消えない。
それでも、大丈夫だと安心させるように微笑を浮かべ、悠飛は一歩、校舎の外へ足を踏み出した。
途端、外に向かって強風が吹き荒れる。知らなかったなら、油断していたなら、悠飛も実紅と同様に体が浮き上がっていただろう。しかし、身構えていた事で何とか床に足をつけて踏み止まれている。
それでも危険を少しでも減らす為に、すぐ後ろまで来ていた慶太が手摺を掴んでいる悠飛の左腕を両手で掴み、更に輝が慶太の体に腕を回して支える。三人分の体重と、風の影響を全く受けない慶太と輝が居てくれれば持ち堪えられる。
だから悠飛は更に一歩、足を踏み出すと目一杯手を伸ばし、実紅の肘まで到達したところで実紅の二の腕を掴んだ。力を込め、自分の方へ引き寄せる。
「僕にしっかり捕まって」
右手一本では限界があるからと告げれば、実紅は右手を手摺から離して悠飛へ手を伸ばし、首に腕を回してしがみ付く。ぎゅっと強く抱き着いているのを感じ、掴んでいた実紅の二の腕から手を放すと実紅の背に腕を回して更に引き寄せ、右手だけで抱きしめる。
「輝、ケイ、引っ張ってもらえるかな」
「任せて!」
「いっくぞ。せー、の!」
掛け声と共に、綱引きのように足で踏ん張りながら輝が渾身の力を込めて慶太の体を引き、慶太が悠飛の左手を両手でしっかりと掴んだまま足を動かして校内に引き摺り来んだ。
悠飛と実紅の体が校内へ入った瞬間、風の影響がまるでなくなった。
「っ、げ!」
突然、外へ引っ張る力がなくなった事で対応しきれず、輝は尻餅をつくように床に倒れ込み、輝が倒れた事で雪崩式に、慶太も悠飛も実紅も、輝に重なる形で床へ倒れ込んだ。仰向けに床に転がったまま、輝が声を発する。
「まー……そうなるよー。すまん、気ぃつかんかった」
「ううん、僕の方こそ、気付かなくてごめんね。輝もケイも怪我はない?」
「オレは平気だけど……」
「俺も平気なんけど、どいてくれっと助かるわー」
三人分の体重がのしかかっている為にそう言うと、実紅が慌てて這い出るように悠飛から離れたのだが、すぐに痛みが走ったらしく床に座り込んでしまい、立ち上がった悠飛は実紅に近付いて足を診る。
どうやら吹き荒れる風が鎌鼬になっていたらしく、実紅の足には赤い線が無数に入っていて血が滲み出ている。切り刻まれたハイソックスはすでに原型を留めていない。それでも、あまり深い傷ではないらしく血が流れ出してはいないのが救いだろうか。
実紅の足を診ている悠飛に、立ち上がった慶太が声をかける。
「どう?」
「うん、そんなに酷くはなさそうだよ」
すぐに応急処置をしたいからと言う悠飛に、三人の中では背が高く力もある輝が座り込んでいる実紅を横抱きにし、玄関近くの水道に向かった。まさか、俗に言うお姫様抱っこをされるとは思っていなかったらしい実紅は恥ずかしそうにしていたけれど、無理をさせる訳にもいかないので大人しく我慢してもらう事にした。
水道に着くと、輝に抱いて貰ったまま悠飛が靴と靴下を脱がせ、実紅の足を蛇口の下に向けると蛇口を捻って水を傷口にかける。
「っ!」
「滲みると思うけど、もう少し我慢してて。菌が入って感染したら大変だから」
水道水で傷口を洗っている間に、慶太に薬と包帯を持ってくるよう頼むと慶太は頷き、すぐに玄関横にある保健室に向かった。
「……凄いね、立花くん。そういう事、分かるんだ」
「姉さんが、昔からよく怪我をする人だったんだけど、あまり気にしなくてね。僕が無理に手当てしてたんだよ」
懐かしむように微笑む悠飛。
姉の手当てをしていた頃の事が思い起こされる。どこかへ遊びに行く度に、擦り傷や切り傷を作っている人だった。高い所から落ちたり転んだり川に落ちたりと、怪我の絶えない人だった。怪我をしてもただ笑って「大丈夫」と言うだけで病院に行こうとしないものだから、悠飛が手当てをするしかなく、医療の書物を読んだりインターネットで調べたりしながら治療法を身につけたものだ。
「僕に出来るのは、応急処置だけだけどね」
そう言って苦笑を浮かべた時、保健室から慶太が薬を持って戻って来た。
慶太に礼を言い、長居は出来ないからと輝にそのまま実紅を任せて教室に戻って行く。東階段を昇っている最中、悠飛は横を歩く輝と慶太に声をかけた。
「ありがとね、輝、ケイ」
「ん? いいってことよ。こんくらいしか役に立てんしな」
「お礼言われるようなこと、何にもしてないし」
そう言ってニカッと笑う輝と、苦笑を浮かべる慶太。二人共、出会った時から変わらない。
中学二年生で慶太と同じクラスになって、人懐こい性格の慶太が話しかけてきた事で仲良くなった。それから一ヶ月ほどで転校して来た輝が、楽し気に話していた悠飛と慶太に声をかけ、三人でよく遊ぶようになった。
その後、高校二年生の今までずっと同じクラスだ。親友がどういうものなのかが悠飛には分からないが、それでも、輝や慶太のような存在なのだろうかと思った。同時に、そうであってほしいとも思った。
三階の中ほどにある二年四組の教室に入ると、皆の視線がこちらへ向いた。不安でいっぱいだというような、鬼気迫る視線は突き刺さるようだ。そう感じているのは、悠飛だけだろうか。
そんな空気を壊すように口を開いたのは、教卓に座ったルネ。
「よう。おかえり」
それはあまりにも軽い口調で、教室内の空気との差が激しいせいか悠飛も皆もぽかんと口を開け、状況が呑み込めないという表情になっている。だが、反応がお気に召さなかったらしいルネの眉間には皺が寄り、一気に不機嫌な表情になる。
「何だよ、その顔。おかえりっつってんだから、ただいまだろ、普通」
「あ、えっと……ただいま」
「おう!」
再び、満足そうに笑うルネ。晴れ晴れするような笑顔に、何だか不安や恐れが消えていくような気がした。
それからルネは座ったまま教卓から飛び降り、その足で後方のドア近くの椅子に座った実紅に近付き、片膝をついて実紅の前にしゃがみ込んだ。無数に刻まれた脚の傷を見て目を細め、実紅を見上げる。
「悪かったな、イラついてあんな言い方しちまって。そのせいで、ケガさせちまった」
真っ直ぐな目と謝罪。
それは、完全な不意打ちだったのだろう。実紅が慌てたように声を出す。
「えっ? あ、ウチの方こそ、ごめん。ウチの為に言ってくれてたのに、無視しちゃったからこうなったんだし」
「そっか……そんじゃ、あいこっつー事でこの話は終わりな!」
立ち上がり、握手を求めるルネ。その手を握る実紅。先程までの険悪な空気が嘘のように晴れやかな空気が漂っている。
ルネがイライラしていた理由は分からないが、ルネという子は、本当はこのような明るい性格なのだろうと悠飛は思った。
最初に会った時から、彼女は笑っていた。ゲームをしている子どものように笑い、教師が亡くなった職員室を目の当たりにしながらも、その状況を愉しんでいた。狂気とも思えるようなその明るさは、彼女を取り巻いているマテリアという力の影響だろうか。
実紅と和解できた事で満足したらしいルネは振り返り、教室後方の棚の前まで行って仁王立ちになると、皆を見回した。
「今、この学校には負が溜まってる。外の嵐はそのせいだ。んでもって、負っつーのは悪い気の塊みたいなもんでな、こうやって暗く沈んでっとどんどん溜まってく。つまりだ。怖がってねえでいつもみてえにしてろ! クラスメイトっつーのは、一種の友達だろ。だったら普通に過ごしてりゃいい」
一種の友達というのとは少々違うような気がするけれど、それでもルネの言葉で教室内の空気は更に軽くなったように思う。
怖い話をしていると幽霊が集まるという話もある。怖がったり卑屈になったり、そういった悪い空気は悪い気を呼び込んでしまうという事だ。だからこそ空気から変えねばならないと言い、ルネは笑ったのだろう。
その笑顔に、空気に、ひまりは決意したように頷くと可純を見た。
「あの、柳さん! さっきカフェに行ったって言ってたけど、カフェはよく行くの、かなぁ?」
思い切って声を出したようなひまりと、突然の話に驚いた様子の可純だったが、可純は話の内容が内容だったからか、すぐに口元に微笑を浮かべた。
「ええ。よく、友人と行きます。甘いものに目がないものですから」
「そうなんだぁ。わたしも甘いもの大好きなの。オススメのお店ってあるの?」
「そうですね。大学通りにあるクラウンリーフのパンケーキは、生クリームたっぷりで絶品ですよ。シュクレのニューヨークチーズケーキも、ふわふわでしっとりしていて、口の中でとろけてしまいます」
「わぁ。聞いてるだけで美味しそう。今度、行ってみようかなぁ」
「よろしければ、ご案内しますよ。大学通りはスイーツが沢山ありますので」
「いいの? 嬉しい!」
先程までの暗い雰囲気はどこへいってしまったのか、ひまりと可純の女の子らしいスイーツの話は止まる事を知らず、次第に笑い声まで聞こえてきた。いつもの楽し気な笑い声とはどこか違うけれど、それでも楽しく話が出来る事は喜ばしい。
花が咲いたように話の尽きないひまりと可純の姿を見、声を聞き、他の者達も心境の変化が出てきたらしく、それまで傍観していた司が声を出した。
「何か腹減ってきたなー。鬼ごっこしてたし」
「あ、わたしお菓子持ってるよ。みんなで食べよう」
鞄の中をごそごそと探れば箱に入ったスティック状のチョコレート菓子を取り出し、箱を開けて袋を開け、ひまりは皆に配り歩く。
何だかいつもの教室に戻ったような気がして、悠飛は息をついて微笑を浮かべ、それから、窓側の椅子に座っている実紅に近付いた。教室に着いた時から変わらず慶太と輝もそこに居て、傍にしゃがんでいる彰斗に声をかける。
「傷口は洗い直したよ。ケイに薬と包帯も持って来て貰ったから、それで治療できると思うんだけど」
「ああ、助かる」
礼を言い、慶太から薬と創傷被覆材と包帯を受け取ると、慣れた手つきで治療を施していく。足首から膝下まで包帯を巻いていく動きにはまるで無駄がなく、感嘆の息が漏れる。
「黒田、何で手当うまいの……」
「彰斗んち、診療所だったんよ」
「父も母も医師で、町医者を営んでいた。幼い頃から間近で治療を見、いろいろと教わったものだ。その点は悠飛と似ているかもしれない」
「僕の独学と、医者から教わるのとを一緒にしないでもらえるかな。彰斗とじゃ、次元が違うよ」
苦笑を浮かべる悠飛。こんな風に楽し気に話をしている彰斗は初めて見るかもしれないと、とても貴重なものを目にした実紅はボーっと悠飛達を見ている。
てきぱきと慣れた手つきで包帯を巻き終えると、すぐに心配そうなひまりと可純がやって来るなり普段と変わらない様子で話し始める。輝達も怪我の話から武術の話へ話題が移り盛り上がっているので、悠飛は廊下と教室を隔てている壁の方へ向かった。
壁に背を預けて立ったところで、タイミングを計ったようにやって来たルネが、腕組みをして悠飛の隣に立った。
「ありがとう、ルネ」
声をかけようと思っていたルネよりも先に悠飛が声を出した為か、少々驚いたような顔を見せたルネだったけれど、すぐに笑みを浮かべる。
「どうって事ねえよ。オレが拍車かけちまったしな」
「それでも、だよ」
悠飛には決して出来ない事だったように思う。宥める事は幾らでも出来るが、恐怖を取り除く事までは出来ない。それは、絶対の自信がある訳ではないから。
けれども、ルネにはその自信がある。今の状況を打破し、皆を家に帰す自信が。
それは恐らく、テイマーとしてルネがこれまで過ごしてきた中で培われたものだろう。どのくらいの期間をテイマーとして過ごし、どれほどの事があったのかを悠飛は知らない。けれど、覚悟と自信をつけるには十分だったのだろう事だけは分かる。
だからこその礼だった。
「今はまだ、みんな実感できてないんだ。ただ状況に流されて、分からないから不安になってる。けど、実感もしてないから、こうして普通でもいられるんだ」
「まあ確かに、現実味はねえな。悪魔も、死も」
空想上のものである悪魔が、現実味がないというのは言わずもがな。死でさえも、日本という国では身近なものではない。人の死を間近で見る事は、一生の内にそう何度もあるものではないのだから。看取る事があるのは病死くらいなものだろうか。生々しい血の流れた遺体を目にする事など、一度もないという人間が大半だ。
ドラマや映画を見ている感覚。それが今、クラスメイト達が抱いているもの。だからこそ今、こうして笑って話す事も出来る。
「一つ、訊いてもいい?」
「何だ」
「ルネが苛立ってた理由って、ファントムオーガを倒したせい?」
訊ねると、ルネは一瞬驚いたような顔をして、すぐに笑いを堪えるようにククッと喉の奥で笑った。
「おめえはホントによく見てんだな」
そう思ったのは、職員室前で、どうカギを取りに行こうかという話をした時だ。
ファントムオーガを倒す事は出来ないのかと確認をとった際、肯定も否定もしておらず、返答は「核になっている人間を浄化しなければならないから」というものだった。
あの時点では、《ファントムオーガを倒す事はできない》と解釈をしていた。その理由は、ファントムオーガを職員室に閉じ込めたという事と、職員室内で危険な状況下にあっても倒さなかった事からだ。
しかし、教室に現れたファントムオーガは簡単に倒してしまった。それは、ファントムオーガを倒せる事を示している。
つまり職員室の時は、出来るけれどやらなかったという事。倒さず閉じ込めるという選択をした事には意味がある筈だと悠飛は考えていた。考えられる事は、ファントムオーガを倒したくないという事。詳しい理由までは分からないが、確実にルネの機嫌を損ねる理由なのだ。
そう、考えた事を伝えると、ルネは静かに頷いた。
「ファントムオーガはそいつの分身みたいなもんだっつったろ。つまり、影が消えた分だけ鬼師の影も薄くなる。ファントムオーガを浄化すればするほど存在が薄くなってくんだよ。その状態で鬼師を浄化しても、消えた影は戻んねえ」
「それで、避けてたんだね」
「まあな。けど、鬼師を気にして他のヤツが殺されたんじゃ意味ねえし」
影が薄くなってしまう事と、命を落としてしまう事。どちらの方が重要かなど、考えるまでもない。
本当ならば、ファントムオーガを全く倒さずに鬼師を見つけたかったのだと思う。けれども予想外の事が多く、護る事もままならない状態だった為に仕方なくファントムオーガを浄化したのだろう。悠飛のクラスメイトを死なせない為に。
今、こうして悠飛達が話している内容は、いつもの教室のように他の者達が話をしてガヤガヤとしている為に皆には聞こえていない。慶太と輝は早々に窓側に居る司と彰斗の方に行き、怪我をしていても歩けた実紅は教室後方のひまり達の方へ行った為に、悠飛とルネの周りに誰もいないから話をしたのだが。
「そうだ。おめえに良い事、教えてやる」
そう言って、ルネはより一層声を潜めた。
真っ直ぐに前を見たまま、悠飛の方は見ずに言葉を紡ぐ。声を潜めた事とこちらを見ていない事から、悠飛も真っ直ぐ前を見たまま、口を挟むような事はせずにルネの言葉を聞いている。聞き洩らさないように。
文字の羅列のようなそれを聞き終えた頃、不意に輝がこちらに近寄って来た。
「なあ、姉ちゃん! あんた何もん?」
「だから言っただろ、祓魔師だって。っつーか、姉ちゃんって、歳違わねえだろ。ルネって呼べ」
「んじゃ、ルネ。あの武器とかさ、どうやって出してんだ? 魔法か?」
「あれはだな……」
言いながら、輝と共に窓の方へ向かって歩き始めたルネ。輝もルネも、初対面だという事を一切気に掛けない性格の為、ルネもクラスメイトであるかのように軽口を言い合っている。
良い雰囲気だ。
女子はスイーツやテレビや雑誌の話で盛り上がり、男子は軽口を叩いてふざけて笑っている。男子の方にルネと祐が混ざっている事には触れない方がいいだろうか。
一人になり、これからの事について思案しようとした悠飛だったが、一人の生徒が近付いて来ている事に気が付いた。顔を上げてその人物を確認し、声をかけようとしたけれど彼女はそのまま悠飛の前を通り過ぎ、あろう事か、黒板側のドアから廊下に出て行ってしまった。
今はファントムオーガはおらず、少なからず安心していられるとは言え、一人で出歩く事が危険な事に変わりはない。
止めなければ――。
そう思い、すぐさま後を追いかけて開け放たれているドアから廊下に出た。
廊下の先を見ると、隣のクラスを通り過ぎようとしていた彼女の後ろ姿が見えて、彼女の背に声を投げかけ走り出す。
「土岐さん!」
しかし、悠飛の声が聞こえていないかのように沙耶花はそのまま歩き続けていて、これ以上、教室から離れる事は危険だと判断しスピードを上げた。歩いている沙耶花の手首を掴んで後ろに引き、反動を利用して立ち位置を入れ替えると進路を塞ぐように沙耶花の前に立ちはだかった。
「土岐さん……どうしたの?」
つい先程まで脅え、震えて縮こまっていたというのに、一人で教室から出て行ってしまうなど思いもよらなかった為に、悠飛もその行動に驚いている。
けれどもここで恐怖心を煽るわけにもいかず、努めて優しく訊ねてみた。責める事のないように。
すると俯いたまま、沙耶花が口を開いた。
「……嬉しい……」
「……え?」
思いがけない一言に、悠飛は驚きと戸惑いを隠せなかった。
一体、どういう意味なのだろうか。質問と答えが合っていない為に、その真意が理解できない。それ以前に、恐怖で動く事の出来なかった沙耶花から出てくる事のない言葉だ。独り言という程の音量ではなかった上に、今の言葉は確実に悠飛に向けていた。
真意を、訊くべきだろうか。
そう思い、けれどもどう返したら良いものかと悩み、躊躇っていると沙耶花の左手首を掴んだままだった悠飛の右手に、沙耶花は掴まれていない自身の右手を重ねてきた。
ひやりと冷たい手だ。
「土岐さん……?」
予測できない彼女の行動に、悠飛は名を呼ぶのが精一杯だ。
頭が働かない。考えが浮かんでこない。何かが思考の邪魔をしているかのように。頭の中に何かが侵食してくるかのように。
痛みは無い。ただ、じわじわと波が押し寄せるように、何かが入ってくる。
「悠飛くんが、私の事を心配してくれるなんて思わなかった」
頭はハッキリとしないのに、沙耶花の声だけはハッキリと聞こえている。その他の音は何も耳に届かないというのに。風で揺れる窓の音さえも聞こえないというのに。
「悠飛くんといると、不安なんて消えてくのよ。今はもう、何も怖くないわ」
言葉を紡ぐ沙耶花の口には笑みが浮かんでいる。
沙耶花が顔を上げた事で目が合い、瞬間、背筋に悪寒が走った。
目は、恐怖の色を宿して揺らいでいる。その表情は違和感でしかない。不揃いのピースを無理矢理はめ込んだような、そんな彼女に、それでも何か声をかけようと悠飛が口を開いた時だった。
「うわあああ!」
「きゃあああ!」
突如、廊下に悲鳴が木霊した。それは沙耶花の後方、悠飛の視線の先にある教室から聞こえてきている。場所など見るまでもない。他に誰もいない今、声の主はクラスメイト以外には有り得ないのだから。
何が起きているのかを考える事は、思考のままならない今の悠飛の頭では出来なかったけれど、それでも理解した事がある。
悠飛の視線は、悲鳴が聞こえても外れる事は無かった。
そして、悠飛の脳内でルネの声が響く。教室で二人並び、皆の輪から外れている時にルネが言っていた言葉が。
『良いこと教えてやるよ。鬼師を見つける方法だ……一つ、鬼師の顔を知ってる事』
顔を知っている、憶えているという事はその人物と繋がりがあるという事。人は他者と繋がり生きている。すれ違っただけでは繋がりは持てず、その者を憶えている限り繋がり続ける。鬼師化は、その繋がりを絶つ行為である。依って、繋がりの無い者に鬼師を見つける事は出来ない。
『一つ、鬼師の名前を知ってる事』
名はその人を表すもの。その人の存在そのものでもある。即ち、名は魂と同じであり、鬼師を浄化するには光種の宿った魂を浄化せねばならない為に、名を知らねば浄化する事は出来ない。
『一つ、鬼師に触れてる事』
触れるという事は、その存在を肌で感じ、認識するという事。見えるだけでは知覚している事にはならず、見て、触れて、初めて存在を認識する事が出来る。
『一つ、鬼師の核となった負を知ってる事』
流星河の日に触れた、空から降る光。それはマテリアの結晶であり、植物の種のような物質なのだとルネは言った。触れた者の体内にある光種は、強い負の感情をエネルギーとする事で鬼師として開花する。
源となる負の感情は十一。嫉妬、絶望、憎悪、陶酔、孤独、破滅、憤怒、空虚、虚飾、憂慮、恐怖。負の感情の中に隠れた鬼を見つける為には、根底にある負の感情を言い当てる必要がある。
『そして最も重要なのが、マテリアだ。強い正の感情であるマテリアに反応して、負の感情が溢れ出して鬼師はその正体を現す。必ずな』
マテリアである強い正の感情がなければ、その他の事をクリアしていたとしても鬼師は反応を見せる事は無いのだと言う。正と負、相反する強い感情が引き合う事で鬼師としての姿が出現する。
普通の人間の体内には、マテリアというものは存在していない。だが、ルネの言葉が頭を巡ったからなのか、それまで靄がかかったように何も考えられなかった脳内が晴れたように感じられ、思考が巡り始める。
鬼師の名は、土岐沙耶花。顔は、目の前にいるのだから当然知っている。幸いな事に、手にも触れている状態だ。
核となった負の感情。普通に考えれば恐怖だろうか。職員室前から離れて教室に来ても、沙耶花はずっと震えていた。人が死んでいる事と、得体の知れない悪魔が居る事に対する恐怖を抱いていると考えるのが妥当だ。
しかし悠飛には、引っかかっている事がある。
教室に来たファントムオーガは、職員室にいたファントムオーガとは違う姿をしていた。つまり、他の鬼師から生み出されたファントムオーガである可能性が高い。
あの時、ファントムオーガは黒板側のドアに張り付いていた。ドア近くに居たので一瞬見えたのだが、ファントムオーガは廊下の奥から来ていた。そちら側には中央階段があり、二階に降りればすぐ近くに職員室がある。
あのファントムオーガが沙耶花の影から生まれたと仮定して、もし職員室の方から来たのであれば、沙耶花が職員室前で蹲っていた時にはすでに鬼師として開花していた可能性がある。悠飛達が職員室から離れて誰も居なくなり、燻っていた筈の火が大きく燃え上がってしまったように、ファントムオーガが形を成して教室へと来たというのであれば、その時点で抱いていた感情が核となっている筈だ。
先程、沙耶花は悠飛に対してこう言っていた。『悠飛くんが、私の事を心配してくれるなんて思わなかった』『悠飛くんといると、不安なんて消えてくのよ』と。
加えて、教室で唯一発した言葉は『……もう、どうしたらいいのよ……』というもの。
可純から聞いた話では、学校に戻って来たのは沙耶花が忘れ物をしたからだという事だった。
心配、不安。これからどうなってしまうのかという心配と、先の見通せない不安。それらが導く負の感情は――憂慮。
真っ直ぐに沙耶花を見、目を合わせると悠飛は息を吸い込んだ。
「土岐沙耶花。憂慮の鬼師」
呼ばれ、呼応するように沙耶花の影が一度、大きく揺らめいた。そして沙耶花の左胸に、胸を内から突き破るように、拳程の大きさの蕾が出現し花が開く。
それは花弁が何枚も折り重なっている、くすんだ艶やかな紫色の薔薇の花。
見つめていた沙耶花の目の色も、いつの間にか紫色になっている。目というよりそれは、まるで宝石のアメジストのようだ。
これが、正体を現した鬼師。
そっと沙耶花が悠飛に右手を伸ばし、悠飛の頬に触れる。
「悠飛くん」
声が耳から体内に入り込み、全身に巡っていくような感覚があったかと思うと、突如、体中に力が入らなくなった。何かに支配されているかのように、何かが意思を妨害するように。自分の体ではないような気がして動く事が出来ない。宝石のようなその目に吸い込まれそうだ。
「どけ、ユウヒ!」
怒声にハッとして視線をずらすと、動けなかった事が嘘のようにすんなりと沙耶花から離れる事が出来た。
掴まれていた手もルネの声に反応したからか解かれていて、悠飛が距離を取ったからだろうか、それまで微笑んでいた沙耶花から表情が消え失せた。
「どうして、邪魔するの……」
呟くように言い、振り返る沙耶花。悠飛もつられるように正面を見ると、教室を出た所にルネが立っていて、こちらを睨むように見ている。
「貴方も、私から悠飛くんを奪うの……?」
沙耶花の言葉が理解できていないのか、ルネは眉を顰めた。何の話をしているのか、悠飛にも理解できない。
「何、言ってんだ」
「っ、やっぱりそうなのね! 嫌よ、もう奪われるのは沢山よ!」
急に激昂し始める沙耶花の精神状態が正常ではない事は、ルネにもすぐに伝わった。だからなのか、冷静に言葉を返す。
「奪うつもりはねえよ」
「嘘よ! だって今まで、みんな奪われた。大事なものは全部、盗っていったじゃない! 悠飛くんだけは、絶対、絶対に渡さないわ!」
「……なるほど。憂慮の鬼師か」
不安からくる疑心暗鬼に陥っているのだと、今のやり取りで理解したらしい。やはり、テイマーとしての経験ゆえだろうか。
長く息を吐き出し、ルネは右手で左耳についている、緑色の石だけがついているシンプルなピアスに触れた。
「デュオンヘリオス」
エメラルドのような緑色の石から、緑色の光の粒子であるフェーデマテリアが溢れ出し、ルネの右手に集まると形を成していく。
光が弾けるように消えると、中央にピアスと同様の緑色の宝石が埋め込まれている、三枚の刃を持った戦輪が握られていた。
それは、十字架であるシュバルツクロワと違い、武器と呼ぶに相応しいものだ。人を傷つけ殺す為のものであり、ルネが言っていた《浄化》という言葉とは、ひどく不釣り合いなものだ。
「ルネ、それ……」
「心配ねえよ。ちょっと離れてろ」
そう言ってニヤリと楽し気に口元に笑みを浮かべると、デュオンヘリオスの刃が回転し始めた。スピナーと呼ばれるその武器は、悠飛も目にするのは初めてだ。バトル系のゲームの中でしか見た事がないので、どれ程の威力があるのかは計り知れない。けれど、ノコギリとチェーンソーのどちらの威力が上かと問われれば、断然チェーンソーだろう。
回転しているデュオンヘリオスの刃に触れれば、沙耶花は怪我では済まない筈だ。
「ユウヒ、オレを信じろ」
不安が、顔に出ていたのだろうか。今ここで悠飛が不安に思っていてもどうにもならないという事は分かっている。鬼師を浄化する方法など、悠飛は知らないのだから。
悠飛には今、信じる以外の選択肢はないのだ。
覚悟は、決まっている。
「お願い、ルネ!」
「任せろ!」
悠飛の決心に満足そうに笑うと、ルネは床を蹴って沙耶花の方へ跳び出した。
迫ってくるルネに、沙耶花の顔が恐怖に歪む。
「嫌! 来ないで!」
沙耶花の拒絶に反応するように、彼女の影が大きく揺らめき、三体のファントムオーガが出現した。それは、教室に入って来た狐のような尖った顔のファントムオーガと全く同じ姿をしている。やはりあれは、沙耶花のファントムオーガだったという事だ。
三体のファントムオーガは真っ直ぐ、ルネの方へ向かって来ている。短い廊下だ。すぐに両者はぶつかると思われたのだが、ルネは強く床を蹴って飛び上がった。
すると、三方向から向かって来ていたファントムオーガ達は一点に向かっていた為に三体でぶつかり、ぐしゃりと音を立てながらその場に崩れ落ちた。
一瞬で障害のなくなったルネはそのまま沙耶花との距離を一気に縮め、沙耶花の眼前まで来た。
「おめえの憂慮、オレが受け取る」
沙耶花の左胸に咲いた、くすんだ紫色の薔薇の花。それは沙耶花の憂慮そのもの。
デュオンヘリオスを装着している右手でそっと、沙耶花の左胸に咲いた薔薇の花に手のひら全体で触れる。
呆然と立ち尽くしている沙耶花には、もう表情も感情もない。ただ、そこに立っているだけだ。それでもルネは変わらない。
「憂慮は英知へ還り、信頼となる……天昇! ロー・アクィラェ!」
デュオンヘリオスの刃が回転すると中央の緑色の石から緑色のフェーデマテリアが溢れ出し、沙耶花の体を包み込んだ。
暖かく柔らかな光に包み込まれた沙耶花の、宝石のような目から紫色の光の粒子が出てきて、体を包むフェーデマテリアへ溶けていく。
「もう、何も、盗らないで……」
沙耶花の口から、掠れるような声が漏れる。
「私はもう、何も持ってないの……全部持ってるのに、もう盗らないで……」
悲痛な叫びのような沙耶花の声。それは誰に対してなのか、何に対してなのか。
「土岐さん」
それでもただ聞いている事は出来なくて、声をかければ耶花は振り返り、涙は出ていないけれど泣いているような沙耶花の目と、目が合った。
「大丈夫だよ。もう、心配しないで。誰も奪ったりなんかしない。それに、何も持ってないなんて事ないよ」
握手を求めるように、右手を沙耶花へ差し出す。
「沙耶花さん。僕達はクラスメイトで友達でしょ? 大丈夫、僕達がついてるよ」
優しい声、暖かい言葉、穏やかな雰囲気。
沙耶花の目に映る立花悠飛は、太陽のような人。入学式の日に隣のクラスで斜め前に座っていた悠飛を見てから心を奪われ、目が離せなくなった。体育の授業や選択授業で一緒になると、いつも見ていた。二年に進級して同じクラスになって、けれどそれだけで一年生の時と何も変わらなかった。クラスメイトの一人で、明るいムードメーカーな慶太と輝と常に一緒にいて、地味で暗い自分とは縁遠い人だと思っていた。それでも、気が付くと目で追っていて、ただ遠巻きに見ていた。
遠い存在だと思っていた悠飛が今、目の前にいて、手を差し伸べてくれている。友達だと言ってくれている。
この人なら信じられる。きっと、信じられる。
だから右手を出し、悠飛の手を握った。
「ありがとう」
すうっと、沙耶花の体を取り巻いていたフェーデマテリアが空気に溶け込むように消えていくと、目を閉じ、ふっと力が抜けたようにするりと沙耶花の手が離れ、床に倒れこんだ。
回転していたデュオンヘリオスの刃が止まり、左手でピアスに触れればデュオンヘリオスはフェーデマテリアに変わり、ピアスの中へ入っていった。
鬼師が浄化された、という事なのだろう。
ルネは心配ないと言っていたので、沙耶花はじきに目覚めるだろうと一先ず安堵の息をついた。
このままここで目覚めるのを待っていようかなと思った矢先、右手首が掴まれ、ぐいっと強く引っ張られたかと思うと隣のクラスの教室の中へ引きずり込まれた。
中に入ってすぐに乱暴に手を振り解かれた直後、ぴしゃりとドアが閉まる。
ドアの前には、厳しい表情のルネ。
「急にどうしたの、ルネ。ちょっと痛かったよ」
掴まれていた右手首を摩りながら、苦笑してルネを見る。
「おめえ、何もんだ」
しかし、返って来たのは厳しい声音。
それが何に対する言葉なのかは、予想がついている。それは、どうして鬼師としての沙耶花が姿を現していたのかという事に対してだ。鬼師が姿を見せる条件の中で、唯一つ、悠飛が持ちえないものがあった。
それは、マテリア。
けれども、ルネが来る前に鬼師は姿を現した。その要因は、その場にいた沙耶花ではない者――悠飛でしか有り得ない。
だからこその言葉だ。
理由が分かっている悠飛は、ルネを見たまま微笑を浮かべる。
「僕は、人間だよ。けど、そう言うルネは異世界の人、だよね」
そう言ってニコリと優しく笑うと、ルネはもう表情を変えなかった。
警戒するように怪訝そうに悠飛を見ているルネ。けれど悠飛の言葉は、確認ではなく核心だ。彼女が何者なのかという事は、出会った時からすでに知っていたのだから。




