7.三日目、反撃の合図は水音から
ここまでが短編の内容です。
三日目、朝早く目が覚めたアンドレアは、さっさと動きやすいワンピースに着替えると呼び鈴を鳴らした。
直ぐに小さなノックが響き、リズの入室を求める声がした。
「おはようございます、奥様。御用をお聞きします」
「おはよう、リズ。早く目が覚めてしまったの。着替えはもう済ませてしまったから、洗顔の水を持って来てくれるかしら。水は少し多めでお願い。朝食は決まった時間で構わないわ」
「わかりました、少々お待ちください。明日はお召替えの前にお声がけくださいませね」
パタパタと音を立てて歩くリズを微笑ましく思い、アンドレアは椅子に座り洗顔の水を待った。
「ベッドの上で待てるようになるのは、もう少し時間がかかるかしらね」
新人で、商家の出であるリズは本来はアンドレア付きにはならないだろう。
それでも甲斐甲斐しく世話をしようとする姿は好感が持てた。
テリアもそこを見込んで、騎士の出身ではない彼女を育てていたのだろう。
「奥様、お水をお持ちしました」
「ありがとう、ここでいいわ」
テーブルの上に置かれた盥の水は、程よい温度でリズの心遣いが嬉しかった。
アンドレアはその盥にタオルを潜らせ、しっかりと絞るとゆっくりと顔を拭いた。
一息ついたところでアンドレアはリズに問いかけた。
「ここの家政婦長はどうしているの?まだ誰も紹介されていないのよ」
「……家政婦長は先日体調を崩して療養中なんです。奥様のお世話をするように手配はしてくださっていたんですけど……」
テリアの腰痛は、アンドレアは知らないことになっていた。
アンドレアが別邸に滞在していたことは、殆どの使用人には伏せられていたからだ。
リズが答えたテリアの不在の理由は、レオンハルトがゼルキンに伝えた通りだった。
実際に手配をする時間はなかっただろうが、言い淀むリズの葛藤をアンドレアは見抜いていた。
大方、テリアが復帰するまでにアンドレアを追い出してしまえばいい、と思っている使用人達が結託しているのだろう。
リズの立場では今の答えが精一杯だろうと察せられた。
そんな中でも、テリアを慕うリズはテリアの不利にはならない答えを選んでいた。
顎に指を添えて考え込んだアンドレアの思考を邪魔するように、ヘレンが乱暴に扉を開けた。
「呼び鈴を鳴らさないで下さいと昨日言ったでしょう。全く、田舎のお嬢様は早く食事がしたいんですか?どこまで卑しいんでしょうね!」
「……ヘレン様!その言い方は奥様に失礼です……!」
ヘレンの態度にリズが抗議をするが、アンドレアがそっとその肩を叩きリズを下がらせた。
呼び鈴を鳴らしてすぐに来なかったくせに、とアンドレアは内心呆れていた。
空腹に耐えかねたアンドレアが朝食を渇望しているとでも思っていたのだろう。
「言い返せもしないお嬢様は勇敢なレオンハルト様には相応しくないんですよ、伯爵領では女も立派な戦士ですからね」
ヘレンが洗顔の盥の横に銀のトレーを叩き付けた。
トレーの上に置かれた食事を見てリズは顔を青ざめさせ、アンドレアはすっと目を眇めた。
「さぁどうぞ!」
ヘレンは嘲るように言ったが、パンはカビが生え、とても食べられるような状態ではなかった。
スープからは饐えた臭いがしており、そちらも廃棄するしかない状態だとすぐに分かった。
その状態を見て、アンドレアは一気に怒りを押し出した。
アンドレアは口元だけで笑い、一歩ヘレンの前に踏み出すと同じ目線にあるヘレンの髪を素早く左手で鷲掴みにして洗顔の盥に叩きつけた。
水飛沫が上がりヘレンが藻掻くがアンドレアの力は緩まなかった。
「……っっ!」
洗顔の水は冷めているが、まだ盥の中は水がたっぷりと残っていた。
リズはアンドレアの突然の行動に驚いたが、多めに、と言った理由はこの行動のためだったのだと気が付いた。
「リズ、そのトレーを持ってゼルキンの部屋の前で『奥様が厨房に!』と叫んでから厨房に行きなさい。そのパンとスープを用意したのは、トーマスだと思うけど確認して逃がさないようにね。私もすぐ厨房に向かうから」
穏やかに言いつけるアンドレアだが、その左手はしっかりとヘレンの後頭部を押さえつけていた。
ヘレンは何とかその手から逃れようとさらに藻掻くが、細身のアンドレアの拘束は揺らがなかった。
アンドレアは盥からヘレンの顔を上げさせて顔を覗き込んだ。
「おっと、意識はあるな?……歩けそうだな、厨房に行くぞ」
ヘレンが必死に呼吸をするが、アンドレアは構わずに髪を掴んだまま厨房へ向かい歩き出した。
涙と鼻水でぐちゃぐちゃの顔を拭う間もなく、ヘレンは泣きながら歩き出すしか術がなかった。
厨房には盆を台に置いたリズと、リズを睨み付けるトーマスがいた。
「どうしてこんな物を奥様のお盆に載せたんですか!私達だって食べないものです!」
リズは震えながらも必死に声を張り上げてトーマスに訴えるが、トーマスは不機嫌そうにしているだけだった。
「ああ?文句があるなら食わなきゃいいだろ!田舎のお嬢さんには勿体ないくらいだ!」
「何なんですかその言い草は!」
「――リズ、ありがとう。どいていなさい」
興奮して怒鳴りあう二人にはヘレンの泣き声は届いていなかったが、静かなアンドレアの声は何故かはっきりと厨房に響いた。
「やはりトーマスね……。いい覚悟だわ」
アンドレアは左手は離さないまま、右手で素早くトーマスの首を押さえた。
細い指は確実にトーマスの頸動脈を押さえており、固い掌が喉仏をじわじわと圧迫していた。
トーマスはピクリとも抵抗できず、声も上げられないまま額にじんわりと冷や汗を浮かべていた。
その様子を見たアンドレアは獰猛な瞳で口角を上げた。
「お前たちに教えてやろう。レオンハルト様は立派な騎士だ。伯爵家の男性達は皆そうだろう。だが子爵家はな、傭兵たちの集まりなんだよ。最高の軍馬に乗るんだ。私達も鍛えないと馬に失礼だろう?私達は生まれた瞬間から剣を持つ。女子供関係なく、だ。誰でも等しく国境の小競り合いに参加するんだ。いつ襲ってくるか分からない異民族と、水一滴、パン一欠けらすら無駄にできない極限の状況でな。だからこそ、私は食い物を粗末にする頭の悪い嫌がらせが大嫌いなんだ」
ヘレンのしゃくり上げる声がか細く響くが、アンドレアは気にしなかった。
厨房にいる誰もが小柄なアンドレアの威圧感に何も言えずにいた。
「田舎の小娘と甘く見たか?私が実家に泣きつけばいいと?そうなったらどうなるか分かるか?伯爵家と利権を争っている奴らがな、奏上すればいいんだ。『奥方一人守れぬ次期当主が、鉱夫との契約を守れるのか。領民すら守れぬ貴族がいてもいいのか』とな。お前たちは伯爵家を潰したかったのか?」
たかだが子爵家の令嬢一人、何ができると内心アンドレアを見下していた彼等はやっと気付いた。
この結婚は契約だったのだ、と。
「身支度の手伝いもない、入浴の準備もない、ノックもせずに部屋に入る。お前は何様だったんだ?お前を雇った者が無能だっただけか?」
ヘレンの髪を掴んで顔を引き寄せ、耳元で囁くアンドレアの声は優しいがその威圧感をヘレンはしっかり感じ取っていた。
「答えろゼルキン、家門に仇なす奸臣か、見る目のない無能か、どちらだ」
アンドレアは振り向くと息を切らせたゼルキンが深く頭を下げた。足音と気配でゼルキンが厨房に足を踏み入れたことに彼女は気付いていた。
ゼルキンは三日前に当主と結婚したアンドレアがこのようなことをするとは、その外見からは想像もしていなかった。
ゼルキンだけではなく、彼女を初めて目にした使用人達はアンドレアを見た目だけで判断していたからだ。
豊かな黒髪、漆黒の瞳、小柄で細身の彼女は、柔和な顔立ちと相俟って優しそうな、言ってしまえば気弱そうな印象を初対面の人に与える外見だった。
そのため、彼らは無意識ではあるが、彼女を恐れるべき相手ではないと思い込んでいた。
しかし今、厨房の真ん中で堂々と立つ彼女の威圧感に、使用人達は皆黙りこくっていた。
髪を掴まれたままのヘレンの上半身はずぶ濡れになっており、ゼルキンは状況を整理するために思考を巡らせていた。
「――全ては、私の管理不行き届きで、ございます。大変申し訳ございません、奥様」
ゼルキンは震えそうになる声を抑え込み、再度深々と頭を下げた。
アンドレアはニヤリと口元を引き上げた。
「そうか。お前が責任を取るか。とは言え、何が起きたかも知らず責任を取らされるのも納得いかんだろうからな、説明してやろう」
アンドレアは左手に力を込めるとヘレンの顔をゼルキンに向けた。
「ひっ……!お許しください!お許しください!」
ヘレンは新たな痛みに声を上げるが、アンドレアはその力を緩めなかった。
ヘレンの耳にはブチブチと己の髪が抜ける音が響いており、彼女は更に恐怖に涙を溢れさせていた。
「お前たちが私を気に入らんのは分かっている。田舎の片隅のたかだか子爵家の娘ごとき、仕えるに値しないと思っているだろう。お前らの敬愛する御当主様にはもっと相応しいご令嬢がいるだろう、とな」
アンドレアは声を荒げることもなく淡々としているが、その声の裏にある怒りにゼルキンは気付いていた
「……窶れたな。旦那様が不在の今、寝る間も惜しんで伯爵家のために働いたお前が責任を取るか。やるせないものだ」
アンドレアが呟くとトーマスもヘレンもはっとゼルキンを見つめた。
「顔を上げろ」
アンドレアがゼルキンに命じた。
彼は濃い隈を浮かべ疲弊した顔をしていたが、しっかりとアンドレアを見詰め返した。
「責任はお前にある、と言ったが……。お前が選んだヘレンは私に無礼を働いた。トーマスはくだらん嫌がらせに食料を無駄にした。そして、コレット、ベティ、マーゴ、お前が選んだ私付きの侍女は挨拶にすら来なかった。リズだけだ。私によく仕えてくれたのは。お前のことだ、ヘレンに責任持って世話をする、と言われて時間が惜しくなり任せたのだろう。――旦那様の状況を考えれば仕方がない。今回だけはゼルキンの責は問わん」
ゼルキンの後ろ、名前を呼ばれた侍女達は顔を青くして今にも倒れそうになっていた。
アンドレアは彼女達にも笑いかけたが、決して親しみのある笑顔ではなかった。
「挨拶もしていないから名前を知られていないと油断したか?旦那様から使用人のリストは預かっていた。ゼルキンから馬番のジャックに至るまで、旦那様から見た人柄は把握している。お前たち、私に仕えたくないのだろう?暇をやるから出て行くがいいさ。誇り高い伯爵家の使用人だと胸を張って言えるならば残してやろう。どうだ?」
「――奥様、責任は全て私にございます。どうぞ、どうぞ私だけを罰してください」
言い訳もせず、責任は自分だけにある、と明言したゼルキンにアンドレアはヘレンの髪を離した。
ヘレンはアンドレアの足元に蹲り許しを請うた。
「っ申し訳ございません、申し訳ございません、お許しください……!」
「――騒ぐな。お前たちの処分はゼルキンに一任する。ゼルキン、私を失望させるな」
「……畏まりました」
ヘレンには目もくれずアンドレアは歩き出した。
ゼルキンの横で立ち止まると、その肩をそっと叩いた。
「よく働いてくれているな、感謝する。あいつらは残しても構わんが、――今回だけだ。お前の覚悟に免じてな」
アンドレアは今度こそ扉を潜り、厨房を後にした。
使用人達はその背に深く頭を下げていた。
「尤も、どれくらい残れるのか、今は私にも分からんがな」
アンドレアの呟きを聞いた人物はいなかった。
♦♦♦
【ゼルキンサイド】
最近二年分の報告書を纏めて早馬を手配したゼルキンは、割り当てられている執務室のソファーに深く背を預けていた。
月々の予算、鉱夫達の給金、誰が計算をして誰が届けていたか。
少し休んだらまた遡って報告書を作成しなければいけない。
けれど、徹夜が続いていて疲れが限界だった。
私室のベッドで休みたいが、それでは寝入ってしまう、とゼルキンは座ったまま目を閉じた。
束の間の睡眠を妨げたのは、リズの大きな声だった。
「厨房……?何が……?」
ヴォルフラムの命令を優先してアンドレアを後回しにしていたことにゼルキンは今更血の気が引く思いだった。
ふらつきそうな足に力を込め、執務室から飛び出したのだった。
♦♦♦
【レオンハルトサイド】
ヴォルフラムとレオンハルトが滞在しているホテルの一室、ヴォルフラムが椅子に座り、レオンハルトがその後ろに立っていた。
ヴォルフラムの目に前には、顔を青くしている瘦せた金髪の男が膝をついて震えていた。
「オットー。オットーなぁ。レオンハルトの婚約者を選ぶ時に候補に浮かびもしなかったんだが、何故お前の娘が嫁になるんだ?」
「それは……年も近く……騎士団のことも、よくわかっていて……」
「そうだなぁ。ヘレンは小さい頃から騎士団に出入りしていたな。5歳のレオンハルトの後ろにくっついていたなぁ」
ヴォルフラムが言うとオットーは引き攣った笑いを浮かべ、口早に語り出した。
「そうです!仲もよくレオンハルト様に釣り合う年齢、親の自分が言うのも何ですが、それなりに見れる顔ですので……」
「そうか、顔か。――ふざけたことを抜かすなよ?俺の息子が面の皮一枚で左右されるとでも思ってんのか?」
ヴォルフラムの低い声にオットーの喉は引き攣った。
「どうだ?レオ」
「……私は、アンドレア嬢の顔に傷があっても気にしませんが」
「そういうことじゃなくてだな、ヘレンのことは」
「ああ。幼い頃の関係を未だにそのままだと勘違いして馴れ馴れしい態度で母上に何度注意されても直せない立場を弁えない人間は男女問わず遠慮します」
無表情で一息に吐き出したレオンハルトにオットーとヴォルフラムは言葉を失くした。
「騎士として、女性に対して恥をかかせてはいけないと思っていました。最低限の礼儀で接していたつもりです。まさかそんな勘違いをするとは――。今後はもう会うこともないと思いますが」
レオンハルトの表情はごっそりと抜け落ち、ひたりとオットーを見詰めていた。
「朝ゼルキンから報告書が届いた。やはり予算はここ数年変わっていない。代理人も長く伯爵家に勤めて信頼がある。だが、ここ数年で一つ変わったことがある」
「……ただの補佐の私には、分からないのではないかと……」
「いいや?お前が増えたことなんだ」
「そんな……それは……」
「知っている筈だ。お前、鉱夫達の給金に手を付けたな?」
オットーの震えが激しくなり、顔色は真っ青になっていた。
「……代理人は正しい金額を払っていた。しかしガンズ達の手元にくる金額は少ない。――だれが代理人の館から鉱夫達の給金を運んでいたか。運んだ人間は、お前だな」
考えるように顎を擦るヴォルフラムはレオンハルトに続いた。
「代理人は几帳面でな。代理人を任せてから、いつどこで給金の計算を行って、誰に幾ら支払い、誰が運んだか、誰が受け取ったかを全て記録に残してゼルキンに報告していた。覚えはないか?」
ヴォルフラムの台詞にオットーは気付いたように目を見開いた。
『お帰りなさいオットーさん。重たいのにいつもありがとうございます。今日は誰がいましたか?』
『今日もガンズさんに渡してますよ。すぐ皆に配ってましたので、今日は酒場に行くようです』
『ああ、楽しそうですね』
穏やかな微笑みで労われているだけだと思っていたオットーは、何も言えずにいた。
「お前の家は徹底的に調べる。覚悟しておけ」
冷たく言い放ったヴォルフラムに縋ろうとした時、オットーの肩を強く掴んだ手があった。
「――鉱夫達が命懸けで働いた報酬を掠め取った分、必ず返還させてやるからな……」
レオンハルトの怒りに満ちた声に、オットーは項垂れるしかなかった。
ずるずると一族の男に引き摺られながら、オットーは初めて金を盗んだ時のことを思い出していた。
あの日は、給金を運ぶために馬車に乗っていた。
好奇心から、ガンズと書かれた袋の紐を解いてしまった。
そこには銀貨がぎっしりと詰まっていた。
ヘレンに、新しいブローチを強請られていたことを思い出した。
レオンハルトの隣に立っても恥ずかしくないように、調度品も何もかもいいものを揃えてやりたかった。
伯爵は決して安くはない給金を払ってくれている。それでも、ヘレンには最高級のものを……。
そうすれば、レオンハルトの目に留まりやすくなるだろうと。
最初は数枚、いつ聞かれるか、生きた心地がしなかった。
しかし、誰も何も言ってこない。
やはり、気付いていない。
――どうせ、計算もできない奴等だ。
そこからは、抜き取る袋は多くなり、枚数も増えていった。
ブラックリッジの奴等が来たからだ。
あいつらが、何も言わなければ……。
「ブラックリッジの奴等が、何も言わなければ……」
オットーの怨嗟の声は虚しく消えていった。
続
オットーは逆恨みですよね。まず盗むなって話なので。
小心者が数枚盗んで気付かれないからどんどん額が大きくなっていく、っていう典型的なパターン。




