第71話 冥界の王、再び
魔王城の屋上にある儀式の間には、消えずに残った傷がある。
焼け焦げた石の床。壁に走った亀裂。その一つ一つが、かつてセラスがここで何をしたのかを覚えていた。
ほんの数ヵ月前の話だ。幼い自分は、魔王の娘にふさわしい力があると証明したかった。誰にも必要とされない者になるのが怖くて、怖いとは言えないまま、冥界の王を呼び出そうとした。結果、術式は崩れ、召喚は失敗した。力に呑まれたセラスを止めるため、多くの者が傷ついた。
その場所へ、セラスは自分の足で戻ってきた。
「中央へ」
ラティオに促され、屋上の中心へ進み出る。床には新しい術式が刻まれていた。以前のものより線が細く、幾重にも重なっている。中央の召喚陣から四方へ伸びた魔力の道が、外側を囲む大きな円へ繋がっていた。
「前回は、君の中から溢れた力を術式が受け止められなかった。だから今回は、流れ込む力を分ける。余分なものは外へ逃がし、必要なものだけを中央へ戻すように組み直した」
ラティオは儀式のために使う杖の先で、複雑に交差する線を一つずつ示した。
「もっとも、術式は道を作るだけだ。どちらへ進むかまで決めてはくれない。冥界の王に届くかどうかは、君次第だよ」
「わかってる」
セラスは召喚陣の中央へ立った。足の裏から伝わる石の冷たさに、指先が僅かに強張る。
右側にはオニロがいた。彼の足元にも小さな術式があり、中央の陣と一本の線で結ばれている。
「前みたいになりそうだったら、止めて」
「止めないよ」
即座に返され、セラスは彼を見た。
「お前の力を奪って終わらせるようなことはしない。流れが乱れたら俺が戻す。お前が見失ったものは、俺が見つけるから」
オニロは床を走る線の先から、まっすぐセラスを見返した。
「だから、お前は自分のことだけに集中しろ――絶対、暴走はさせない」
その言葉に、焼けた掌を庇って戦場を駆けた日の風が蘇る。セラスは強張っていた指を開き、頷いた。
外周では、トゥルマリナが両手を広げていた。赤い火が足元から立ち上がり、召喚陣を囲む。燃え広がることなく一本の壁となった炎は、外から入り込む魔力も、内側から溢れる力も逃さない。
「何が現れても、この場からは出さないわ」
厳しい声とは裏腹に、セラスを見る瞳には揺るがない温かさがあった。
ラティオはセラスの正面に立ち、エザフォスはそのさらに奥で、召喚陣へ右手を向けていた。黒い外套の下、先の戦いで傷ついた腕にはまだ包帯が巻かれている。
「パパ、本当に大丈夫?」
「問題ない」
いつもの短い答えだった。けれど、もう以前のように、それだけで不安を呑み込むことはできない。
「無理をしたら、止めるからね」
エザフォスは僅かに目を見開いた。やがて瞼を伏せ、静かに頷いた。
「お前もだ」
ラティオが杖を掲げる。
「始めるよ」
石床に刻まれた線が、青白い光を帯びた。
エザフォスの掌から、深い闇を思わせる魔力が注がれる。光を塗り潰すような黒ではない。夜の底に沈んだ星々まで抱え込む、果ての見えない色だった。まだ魔王の座にある者の力が術式を巡り、セラスの足元へ近づいてくる。
触れた瞬間、息が止まった。
重い。
一人の身体に収めてよいとは思えないほどの恐れと憎しみが、濁流となって押し寄せる。魔王へ向けられてきた無数の声が、言葉になるより早く胸を削った。
逃げたい、と身体が叫ぶ。
以前のセラスは、その声を押し殺そうとした。恐れを認めれば、自分には資格がないと証明されてしまう気がしたのだ。だから力で踏み潰し、前だけを向こうとして、足元にあったものまで壊した。
今度は目を逸らさなかった。
「怖い」
口にすると、震えていた息がようやく外へ出た。
「聞こえてる」
右からオニロの声が届く。同時に風の魔力が細い糸のように術式へ入り、セラスの中で荒れていた流れを一つの方向へ導いた。
足元からは大地の気配が立ち上がる。一つ、二つと集まった精霊たちが、召喚陣の周囲を埋めていく。淡い光の塊が地を転がり、水が床の溝を満たし、火の粉が呼吸するように明滅する。風の精霊はセラスとオニロの間を行き来し、二人の魔力を結んだ。
ラティオの杖が床を打つ。崩れかけた線が修復され、暴れた力は幾つもの道へ分かれていく。外周へ達した魔力をトゥルマリナの炎が受け止め、再び内側へ押し返した。
「セラス、そのまま前へ」
ラティオの声に、セラスは一歩を踏み出した。
胸の奥で、リーリエの日記の言葉を思い出す。会えないかもしれない娘へ残された明るい言葉。毎日のように泣きながら、それでも娘の前では耐え続けた父の横顔。セラスのために生まれたのだと知って迷い、それでも自ら右腕になると選んだオニロ。
さらに、エザーレの村人たちの顔が重なった。
かつては恐れていた者たちが、傷ついたエザフォスの背中を見て、剣を向ける兵士たちの前へ立った。恐れが消えたわけではない。それでも、彼らは見たものを信じ、自分で立つ場所を選んだ。
ならば、自分も選ばなければ。
セラスは両足で石床を踏み締め、流れ込む魔力を受け入れた。
「私は、ここにいる」
召喚陣の中心から、闇が噴き上がった。
精霊たちの光が一斉に揺れる。トゥルマリナの炎が大きく外へ膨らみ、ラティオが杖を床へ突き立てた。オニロの風がセラスの身体を支え、エザフォスは注ぐ力を緩めない。
立ち上がった闇は天井へ届くと、ゆっくりと人の輪郭を形作った。
大きさも、顔も、身に纏うものも定まらない。見つめるたびに姿を変え、ただ頭上に戴く冠の影だけが揺るがず残っている。その向こうに、幾つもの死と、名を失った者たちの眠りが広がっていた。
冥界の王が、召喚陣の内側からセラスを見下ろした。
『また来たか、魔王の娘』
声は耳からではなく、骨の奥へ響いた。
足が竦む。今すぐ後ろへ下がれば、オニロが支えてくれる。ラティオが術式を閉じ、トゥルマリナが闇を焼き、エザフォスが自分を守るだろう。
けれどセラスは動かなかった。
「今度は、逃げない」
『以前のお前は、力を欲した。その身が魔王の血に値すると示すために』
「うん」
『今は何を示す』
セラスは答えようとして、言葉を止めた。
世界を守るため。父と母の願いを継ぐため。どちらも嘘ではない。だが、それだけなら、また誰かの期待へ自分を押し込めることになる。
「私は、魔王になる」
一語ずつ、自分の中へ確かめるように告げた。
「ママが命を託してくれた。パパがもう長く生きられないことも知った。私の隣に立つことを選んでくれた人もいる。守ってほしいって声も、魔王が怖いって声も聞いた。全部が私をここまで連れてきた」
冥界の王の影が揺らぐ。無数の瞳に見つめられているような圧迫感が増し、膝が軋んだ。
『ならば、お前の選択ではない。死者に託され、父に残され、他者に求められた道を歩くだけだ』
胸の奥を抉る言葉だった。
母の死を知ったから、父の余命を知ったから、断れなくなっただけではないのか。村人の期待を裏切るのが怖いだけではないのか。
迷いが生まれた瞬間、足元の術式が激しく明滅した。
「セラス!」
オニロの魔力が強く流れ込む。だが、彼は答えを与えなかった。ただ風を支えに変え、セラスが立つ場所を守っている。
その在り方が、セラスに思い出させた。
誰かの言葉に動かされたことと、自分で選んでいないことは、同じではない。
「違う」
セラスは顔を上げた。
「みんなの言葉がなかったら、私はここにいない。でも、最後に決めたのは私だよ」
『その力はいずれお前を孤独にする。恐れられ、憎まれ、お前が救った者からさえ呪われる』
「そうかもしれない」
『それでも背負うと?』
セラスは右側へ手を伸ばした。召喚陣を隔てているため、オニロの手には届かない。それでも彼は同じように手を上げ、二人の間を風が渡った。
「一人で全部を背負うんじゃないから。私は間違えるし、また力を止められなくなるかもしれない。だから、止めてもらう。見えないものを教えてもらう。助けてって言う」
父は一人ではなかった。母が鞘となり、ラティオとトゥルマリナがともに生きた。長い時を魔王として立ち続けられたのは、すべてを一人で抱えたからではない。
「それでも逃げない。誰かにそうしろと言われたからじゃない。私が、護りたいものを護るために、この力を選ぶの!」
長い沈黙が落ちた。
やがて冥界の王の冠が、僅かに傾いた。
『かつてのお前は、恐れを隠すために力を求めた』
闇の中から伸びた手が、セラスの額へ近づく。
『今のお前は、恐れを抱いたまま、力の前に立っている』
冷たい指先が触れた。
『その選択を認めよう』
召喚陣が黒い光を放った。
エザフォスの魔力が一気に引き出され、術式のすべてが眩く輝く。彼の身体が僅かに傾き、ラティオが片腕を伸ばして支えた。
「パパ!」
「前を見ろ、セラス」
掠れた声が飛ぶ。
「これは、お前が選んだ道だ」
セラスは奥歯を噛み締め、冥界の王へ向き直った。
額から流れ込んだ力が、血の一滴一滴を塗り替えるように全身を巡る。痛みで声が途切れ、視界が白く染まった。膝が折れかけるたび、右側から届く風が身体を起こす。
精霊たちがセラスの周囲へ集まり、光の輪となって回り始めた。地、水、火、風。異なる気配が一つに混じることなく、それでも同じ中心を選んでいる。
頭上で、冥界の王の声が響いた。
『受け取れ。世界の恐れを背負い、なお世界を選ぶ者よ』
エザフォスの胸から、魔王の力が離れていく。
長い時を世界の均衡へ繋ぎ止めてきた力は、闇の奔流となって儀式場を満たし、冥界の王の手を通ってセラスの内側へ注がれ始めた。
『お前が、魔王だ』
――その瞬間、セラスはこの世界の新たな「魔王」となった。




