第72話 新しき魔王
『お前が、魔王だ』
冥界の王の声が響き渡った瞬間、エザフォスの胸から溢れた闇が、すべてセラスへ向かって流れ込んだ。
受け止めきれない。
そう思うより早く、視界が黒く染まった。人間たちが魔王へ向けてきた恐怖。魔族たちが縋るように託してきた願い。長い年月の中で積み重なった憎しみも悲しみも、形を失ったまま身体の内側を駆け巡る。血管へ焼けた鉄を流し込まれたような痛みに、セラスの喉から声にならない息が漏れた。
膝が折れかける。右側から吹き込んだ風が身体を支えた。
「セラス、息をしろ!」
オニロの声を辿り、セラスは浅く息を吸った。けれど、流れ込む力は少しも衰えない。召喚陣を満たす闇の向こうで、エザフォスの顔から急速に血の気が引いていくのが見えた。
包帯を巻いた腕は震え、黒い外套の下の身体が僅かに傾いている。それでも彼は右手を下ろさず、残された力を一滴も惜しまないように術式へ注ぎ続けていた。
「パパ、もういい!」
セラスは闇の中で腕を伸ばした。
「もう受け取ったから! これ以上やったら、パパが――」
「止めるな」
掠れた声だった。それでも、セラスの足を止めるには十分だった。
エザフォスは荒い息を繰り返しながら、娘を見つめていた。痛みで歪んでいるはずの顔に、恐れはなかった。
「継承は、二つに分けられるものではない。ここで閉じれば、お前の中に流れ込んだ力も定まらない」
「でも、このままじゃ死んじゃう!」
「死なない」
短い答えに、セラスは息を詰めた。
「私はただ、役目を終えるだけだ」
その言葉とともに、エザフォスの魔力がまた一つ、身体を離れた。
魔王として世界の恐れを引き受け、均衡を護り続けてきた力。幾度傷ついても倒れず、誰にも弱さを見せずに立ち続けるための力。それが失われるたび、目の前にいる父の身体が、長い年月に相応しい姿へ戻っていくように見えた。
「パパが魔王じゃなくなっても、パパがしてきたことはなくならないよ。もう役目なんて――」
「ああ。だから終えられる」
エザフォスの口元が、ほんの僅かに緩んだ。
「お前が続きを選んだ。私が守ってきたものを、そのまま真似るのではなく、お前のやり方で守ると決めた。ならば、私がいつまでも握っている必要はない」
セラスの視界が滲んだ。闇に満ちた儀式の間で、エザフォスの輪郭だけがぼやけていく。
「前を見ろ、セラス」
先ほど告げられた言葉が、もう一度届いた。
「冥界の王の力を――唯一無二の『魔王』の力を、最後まで受け取れ。それがお前の選択だ」
伸ばした手を、セラスはゆっくりと胸元へ戻した。指先を強く握り、足の裏で石床を踏み締める。
「……うん」
震える声で答え、冥界の王を見上げた。
「全部、受け取る」
セラスの決意に呼応するように、召喚陣を巡る光が一際強くなる。乱れかけた魔力をラティオが整え、外へ溢れた力をトゥルマリナの炎が押し戻す。オニロの風は絶えずセラスの傍らを巡り、押し寄せる闇の中に一本の道を作り続けていた。
逃げずに、拒まずに、セラスは流れ込むものを見つめた。
人間の恐怖も、魔族の孤独も、傷つけられた精霊たちの痛みも、互いを憎まずにはいられなかった者たちの声も。どれか一つを正しいものとして選び、他を切り捨てることはしなかった。胸の内側が軋み、身体が引き裂かれそうになっても、オニロの風に支えられながら立ち続けた。
やがて、エザフォスの掌から伸びていた最後の闇が離れた。
それは細い糸のように闇を渡り、セラスの胸へ吸い込まれた。
世界から、音が消えた。
次の瞬間、セラスの内側から膨大な魔力が立ち上がる。召喚陣を満たしていた闇が一斉に彼女の足元へ収まり、周囲を巡っていた精霊たちの光が、夜空へ届くほど高く舞い上がっていく。風が雲を押し広げ、差し込んだ月の光が儀式の間を白く照らした。
冥界の王の姿が、闇の向こうへ薄れていく。
『選んだものを、最後まで見届けよ』
冠の影が消え、召喚陣の光が静まった。
「セラス!」
オニロが駆け寄ってくる。セラスは倒れずに立っていた。身体の奥には、自分のものとは思えないほど深く大きな力が脈打っている。けれど、それを確かめるより先に、奥で崩れ落ちる人影が見えた。
「パパ!」
床を蹴り、倒れかけた身体を抱き止める。いつも自分を抱き上げてくれた腕には、もう力が残っていなかった。瞼は閉じ、呼びかけても返事はない。
「パパ、起きて。約束したでしょ。死なないって言ったでしょ!」
肩を揺らそうとした手を、ラティオが止めた。エザフォスの胸元へ触れ、静かに呼吸を確かめる。
「生きているよ」
その一言に、セラスの身体から力が抜けた。
「ただ、魔王として持っていた力を使い果たして……もう以前のようには動けないだろうけど」
セラスは答えず、父の胸へ額を押しつけた。弱く、それでも途切れずに続く鼓動が、耳の奥へ伝わってくる。
背中へ、オニロの手が触れた。
セラスは声を押し殺さなかった。父の外套を握り締めたまま、幼い子どものように泣いた。
***
エザフォスの部屋には、午後の淡い光が差し込んでいた。
厚いカーテンの隙間から伸びた光が、寝台の傍らまで届いている。エザフォスは大きな枕に背を預け、閉じていた目をゆっくりと開いた。魔王の力を失った身体は指一本動かすにも時間がかかり、以前ならたやすく聞き分けられた城中の気配も、今は遠い雨音のようにぼやけている。
「起きたかい」
窓辺の椅子に座っていたラティオが、本を閉じた。
「……セラスは」
「さっきまでここにいたよ。君が目を覚まさないなら、もう一度冥界の王を呼び出して文句を言うと言っていた」
「それは困る」
声は弱かったが、僅かに笑っていた。
「オニロが屋上へ連れ出した。新しい力が身体に馴染むまでは休むべきなんだけどね。あの子は、自分のことより君の寝台に張りついている方がいいらしい」
エザフォスは瞼を伏せた。その横顔からは、魔王として周囲を圧していたものが消えている。代わりに残ったのは、長い役目を終えた者の静かな疲労だった。
「私には、どれほど残されている?」
「それは俺にもわからない。今日明日という話ではないよ。けれど、もう戦うことも、城を歩き回ることも難しい。君はここで、私たちに世話を焼かれながら余生を過ごすことになる」
「そうか」
エザフォスは拒まなかった。しばらく天井を見つめたあと、細く息を吐く。
「世界は、まだ安定していない」
「知ってる」
「王都との戦いも終わっていない。セラスは強いが、知らないことが多すぎる」
「それも知ってるよ」
ラティオは椅子を寝台の近くへ寄せた。
「俺が教えるよ。魔術も、世界の成り立ちも、人間が積み重ねてきた知識もね。うちの息子をしっかり育てて、立派な右腕に育てるから」
エザフォスがゆっくりとラティオを見る。
「あの子は、セラスの右腕になると自分で選んだんだ。だから、大丈夫。俺と同じだよ」
「……そうか」
エザフォスの喉から、微かな笑いが漏れた。すぐに咳へ変わり、ラティオが水の入った杯を差し出す。自分で持ち上げようとした手は途中で止まり、ラティオが何も言わずに杯を傾けた。
エザフォスは水を飲み、再び枕へ身を預けた。
「お前がいてよかった」
ラティオの手が止まった。
長い年月をともに生きながら、一度も口にされなかった言葉だった。冗談で返すこともできたはずなのに、ラティオはしばらく黙っていた。
「今さら気づいたの?」
「ああ」
「本当に遅いね」
窓から入った風がカーテンを揺らす。ラティオは杯を置き、ずり落ちていた掛布をエザフォスの肩まで引き上げた。
「しばらく眠ったらいいよ。目を覚ましたら、君の娘がまた来るよ」
エザフォスは目を閉じた。穏やかな呼吸が戻るまで、ラティオは寝台の傍らを離れなかった。
***
魔王城の屋上からは、遠くまで世界を見渡すことができた。
西へ傾き始めた光が山々の稜線を縁取り、その向こうには人間たちの暮らす土地が続いている。
セラスは胸壁の前に立ち、両手で縁を掴んだ。新たに宿った力は、まだ身体の中で重く揺れている。目を閉じると、遠くから幾つもの声が押し寄せてくるような気がした。
「大丈夫か?」
隣に立ったオニロが尋ねる。
「わからない」
セラスは正直に答えた。
「魔王になった、って言われても、まだなんか実感がないというか……思ったよりも普通だし、何かが変わったっていうわけでもないし。でも……パパは、動けなくなっちゃった」
声が風に攫われる。オニロは急かさず、その先を待っていた。
「……死んじゃうんだね、パパも」
「今すぐじゃ、ないけどな」
「それでも、必ずそういう日が来るんだ」
セラスは顔を上げた。
視線の先にある王都では、今も精霊を結晶に変える兵器が作られている。命を道具に変え、それを守るためだと言いながら、別の誰かを犠牲にする者たちがいる。エザーレで退けた騎士団も、すべてを諦めたわけではない。セラスが魔王になっただけで、争いが消えたわけではなかった。
「王都とも、きっとまた戦わなきゃいけないよね」
「そうだな」
「今は圧勝してるからいいけど……もしかしたらまた、人間は強い兵器を作るのかもしれない。武器がある以上、きっと戦いは終わらないんだと思う」
「だろうな。だから、見せ続けるしかないんだ」
オニロが遠くを見据えたまま答える。
「お前が強い『魔王』なんだっていうことを」
セラスは彼を振り返った。
「これから、すごく大変だよ」
「知ってる」
「私、きっと何度も間違えるよ」
「それも知ってる」
「逃げたくなるかもしれない」
「そのときは、俺がここまで連れ戻す」
当然のことのように言う横顔を見て、セラスは泣き腫らした目を細めた。
「右腕って、大変だね」
「今さら気づいたのか?」
二人の間を風が通り抜ける。セラスの髪を揺らし、オニロの服を翻してから、まだ見ぬ土地へ向かって駆けていった。
セラスは胸壁から手を離した。
「私は、人間を魔族のための道具にはしない。魔族を、人間の恐怖を引き受けるだけの道具にもしない。精霊を、誰かが力を得るための道具には絶対にさせない」
胸の奥に宿った闇が、静かに脈打つ。恐れも憎しみも消えてはいない。けれど、その重さから目を逸らさずに立つことが、今のセラスにはできた。
「誰かを護るために、別の誰かを勝手に犠牲にする世界を終わらせる。誰が大切で、誰なら失ってもいいのかを、力を持つ者だけが決める世界にはさせないから」
人間も、魔族も、精霊も。
すべてが同じように手を取り合えるなどと、簡単には言えない。許せない痛みも、埋められない溝もある。それでも、命を見ずに力だけを数える者がいるのなら、セラスはその前に立つ。見て、知って、それでも止める者になる。
「それが、私の目指す世界だよ」
オニロはしばらく黙ってから、静かに頷いた。
「だったら行こう、魔王様」
初めて向けられた呼び名に、セラスの胸が小さく揺れた。それは生まれたときから与えられていた「魔王の娘」とは違う。母の命によって縛られた名前でも、父から押しつけられた役目でもなかった。
セラスが自ら望み、選び取った名だった。
「うん。行こう、オニロ」
セラスは世界に背を向けるのではなく、そのすべてを見渡すように立った。王都との戦いも、恐れ合う者たちの声も、これから犯すかもしれない過ちも、何一つ終わってはいない。
だからこそ、歩き出す。
父から渡された未来を、今度は自分の意志で選び続けるために。
世界はまだ、ひとつではない。
そのすべてを背負うと決めた少女が今、新しき魔王として立っていた。




