第70話 選択
「パパ!」
広間の扉を押し開けると、エザフォスは先ほどと同じ椅子に座っていた。ラティオたちの姿はもうない。傍らの窓から射し込む月明かりが、黒い外套の輪郭を白く縁取っている。
エザフォスは、胸に日記を抱えたセラスを見ると、静かに目を伏せた。それだけで、セラスがどこまで読んだのかを悟ったようだった。
「全部、読んだのだな」
「パパの命が長くないって、本当なの?」
「ああ」
迷いのない答えだった。
セラスは息を呑んだ。否定してほしかったわけではない。嘘をついてほしくもなかった。それでも、あまりに短い一言で認められると、足元から床が消えたようだった。
「あと、どれくらい?」
「わからない」
「どうして、今まで言わなかったの」
エザフォスは答えなかった。組んだ手の上へ視線を落としたまま、長い沈黙を置く。その横顔には戦いで負った疲労が濃く残り、頬は以前よりも僅かに痩せて見えた。ほんの少し前までなら、気づかなかった変化だった。
「私が知ったら、魔王を継がなきゃって思うから?」
「……お前には、お前の生き方を選ばせたかった」
低い声が、広い部屋へ落ちた。
セラスは日記を抱く腕に力を込めた。包帯の下で傷が疼いたが、離すことはできなかった。
「ママは、パパの命が長くないから、私を産んだの?」
エザフォスはすぐには頷かなかった。窓の外へ目を向ける。その瞳が見ているのは夜の空ではなく、もうどこにもない時間なのだと、セラスにはわかった。
「それだけではない」
やがてエザフォスは、ゆっくりと口を開いた。
***
エザフォスは、誰かと生きるつもりなどなかった。
魔王として背負うものは、初めから自分一人のものだと決めていた。世界から向けられる恐れも憎しみも、そのために奪われていく時間も、他人に分け与えてよいものではない。
ラティオがそばにいることさえ、エザフォスには重い負い目だった。俺は俺の意志でここにいるんだよ。何度そう言われても、自分の運命に彼を巻き込んだという思いは消えなかった。
だからリーリエに想いを告げられても、エザフォスは受け入れようとしなかった。
「私といても、幸福にはなれない」
突き放すように告げた言葉に、リーリエは少しだけ頬を膨らませた。
「それを決めるのは、私じゃないかしら?」
「私は魔王だ」
「知ってるわ」
「いずれ、お前を苦しませる」
「そうかもしれない。わかってるわ」
何を言っても、リーリエは引かなかった。柔らかく笑っていながら、その足は大地に根を張ったように動かない。
「ラティオがいる。私には十分だ」
そう言ったとき、リーリエは困ったように眉を下げた。
「ラティオだけじゃ、あなたの心を守り切れないわ」
エザフォスが黙ると、彼女はそっとその手を取った。
「あの人はあなたと一緒に戦ってくれる。でも、戦いが終わったあとまで、ずっと剣を握っていたら疲れてしまうでしょう? だから私は、あなたの鞘になりたいの。武器を納めて、何者でもないエザフォスになれるように」
「必要ない」
「もう。そうやってすぐ、大丈夫なふりをするんだから」
リーリエは呆れたように笑い、けれど手を離さなかった。
「私はあなたと一緒に行くわ。あなたが嫌だと言っても」
あまりに勝手な宣言だった。エザフォスは拒み続けたが、リーリエはそのたびに笑って隣へ戻ってきた。追い返しても、翌日には何事もなかったように話しかけてくる。その明るさは、閉ざした扉の隙間から入り込む陽射しのようだった。わずかな光だったはずなのに、いつしか彼女のいない暗さの方が不自然になって――
やがてエザフォスは、リーリエと生きることを受け入れた。
***
「リーリエは、本当に私の心を護った」
エザフォスは淡々と語った。だが、椅子の肘掛けに置かれた指だけが、古い傷を確かめるようにゆっくりと動いていた。
「私が何を背負っても、そばにいた。泣き、怒り、笑っていた。あれがいたから、私は魔王でいられた」
セラスは黙って父の声を聴いた。
日記の中で笑っていたリーリエが、目の前にいるエザフォスの隣に重なって見える。毎日のように泣いていたと書かれた父が、今は一滴の涙も見せず、失った人のことを語っている。その胸の内側では、どれほど長いあいだ同じ別れが続いていたのだろう。
「それから、ラティオがトゥルマリナと出会い、恋をして、共に生きることを選んだ」
エザフォスの声が僅かに和らぐ。
「魔族は群れない。ごく稀に集落として成り立つ場もある。が、長くは続かない。にもかかわらずこれほど長きにわたり四人で暮らすなど、考えたこともなかった」
リーリエとトゥルマリナが話し始めると、ラティオが間へ入り、最後にはエザフォスまで巻き込まれた。静かだった城に笑い声が響くようになり、誰かが戻れば、別の誰かが迎えた。魔族にとってはひどく珍しい、騒がしく穏やかな日々だった。
「幸せだった?」
セラスが尋ねると、エザフォスは目を閉じた。
「ああ」
その一言が、ほかのどんな言葉よりも鮮やかに、四人の時間を伝えた。
だが、その日々は永遠には続かなかった。
***
エザフォスは、自分の魔力が弱まり始めていることに気づいた。傷の治りが遅くなり、以前なら容易く届いた場所へ力が届かなくなる。老いによって命が尽きようとしているのだと、認めざるを得なかった。
魔王がいなくなれば、世界から憎しみが消えるわけではない。行き場を失った恐れと憎悪は人々の間へ溢れ、争いとなって世界を覆う。エザフォスが長い年月をかけて保ってきた均衡も、彼の命とともに崩れてしまう。
「子どもを残しましょう」
そう言ったのは、リーリエだった。
エザフォスは即座に拒んだ。
「必要ない」
「必要よ」
「お前は死ぬ」
「ええ」
リーリエは笑って誤魔化さなかった。彼女は、自分より強い魔力を持つ子を産めば、命を落とすと知っていた。それでも、エザフォスがどれほど止めても、考えを変えなかった。
「私は、世界のためにお前を失うつもりはない」
「世界のためだけじゃないわ」
リーリエはエザフォスの胸へ手を添えた。
「あなたのためよ」
エザフォスは眉を寄せた。リーリエは少し寂しそうに、けれどいつものように柔らかく笑った。
「あなたは世界の安定を護りたいのでしょう? だったら、その願いを叶えましょう」
「そのために死ぬと言うのか」
「私が選んだの。あなたと生きると決めたときと同じよ」
どれほど拒んでも、その言葉は揺らがなかった。やがてエザフォスは、リーリエの選択を受け入れた。
二人が次代の魔王となる子を持つと決めたとき、ラティオとトゥルマリナもまた、同じ頃に子を持つことを選んだ。魔王の子が、たった一人でその役目を背負わずに済むように。次代の魔王を支え、隣でともに歩く者が必要だから。
そうして宿ったのが、セラスとオニロだった。
***
「ママは、私を産まなきゃいけなかったんじゃないんだね」
長い沈黙のあと、セラスは言った。
「……私は止めた」
エザフォスの声が僅かに掠れた。
「何度も」
セラスは胸の中の日記へ目を落とした。
自分が生まれたために、リーリエは死んだ。その事実は変わらない。どんな言葉を重ねても、失った命は戻らない。それでも、セラスが母を殺したのではなかった。
リーリエは、自分で選んだ。
愛した人が守ろうとした世界と、彼が生きた証を、まだ見ぬ娘へ託した。日記に残された明るい文字の一つ一つが、暗い水の底に沈みかけていたセラスの手を取り、引き上げてくれる。
「私、ずっと怖かった」
セラスはゆっくりと顔を上げた。
「魔王になるって決めたら、もう私じゃなくなる気がしてた。パパみたいに何もかも背負って、誰にも頼れなくなって、いつか自分の力で誰かを傷つけるんじゃないかって」
焼けた村の炎も、エザーレを襲った兵器も、傷ついたオニロの顔も、今なお瞼の裏に残っている。力を得れば、それらを忘れられるわけではない。むしろ、忘れてはいけないものとして抱えていくことになる。
「でも、パパはひとりじゃなかった。ママがいて、ラティオがいて、トゥルマリナがいた。私にも、オニロがいる。ミリーも、助けてくれた人たちもいる」
今の自分なら、ひとりでは届かない場所があると知っている。手を伸ばすことも、差し出された手を取ることも、自分で選べる。
「私は、ママから命を託されたんだね」
口にした言葉は、まだ胸の奥で痛んだ。母の死を知ったばかりの心に、きれいに収まる答えなどない。それでも、その痛みごと抱えて進みたいと思った。
セラスは日記を椅子の上へ置き、エザフォスの前に立った。
「パパ」
エザフォスが娘を見上げる。
「私は、魔王になる」
父の余命を知ったからでも、母の犠牲に報いなければならないからでもない。その事実から目を逸らさず、それでも自分の足で選び取った言葉だった。
「パパとママが護ろうとしたものを、私も護りたい。人間も、魔族も、精霊も。私が大切だと思ったものを、もう誰にも勝手に奪わせたくない」
エザフォスは何も言わなかった。
ただ、娘の顔を長く見つめていた。やがて立ち上がり、大きな手をセラスの頭へ置く。その手は幼い頃と同じように温かく、けれど僅かに震えていた。
「わかった」
短い言葉のあと、エザフォスは静かに頷いた。
「お前に、魔王のすべてを託す」




