第69話 リーリエの記録
リーリエは、セラスを生めば自分が死ぬことを知っていた――
ラティオに告げられたその言葉の意味を、セラスはすぐには呑み込めなかった。聞き慣れたはずの言葉が、知らない国の言葉のように頭の中を滑っていく。けれど、視線の先のエザフォスが顔を伏せたまま動かない。その沈黙が、ラティオの言葉を否定しようのない事実へ変えていく。
「どういう、こと?」
ようやく出た声は、自分のものとは思えないほど掠れていた。
ラティオはセラスの前まで来ると、一度だけエザフォスを見た。エザフォスは何も言わなかった。止めるように持ち上げかけていた左手も、いつの間にか膝の上へ落ちている。
ラティオは一冊の日記をセラスへ差し出した。飾り気のない、厚い本だった。長い時間を経た表紙は色褪せ、角が柔らかく潰れている。
「リーリエが、君を身に宿してから書いていたものだ。産む直前まで、ほとんど毎日ね」
セラスは包帯に覆われた両手で日記を受け取り、膝の上へ置いた。手の中にあるのは一冊の本にすぎないのに、腕を下ろしていなければ支えられないほど重く感じられた。
「……君とオニロが、それぞれ母親のお腹に宿った時期はほとんど同じだった。本来なら、二人は同じ頃に生まれるはずだったんだよ」
隣でオニロが僅かに身じろぎした。トゥルマリナは息子を見たが、口を挟まずにラティオの続きを待っている。
「オニロは普通の子どもと同じような妊娠期間で生まれた。でも、君は違う。リーリエのお腹の中に二年もいた」
「二年……?」
「君の魔力が、あまりに強かったからだよ。……魔王を生むというのは、そういうことなんだ」
エザフォスだけじゃなく、トゥルマリナも、オニロも、息を呑んで俯いてしまう。その事実が、胸の奥にずしりとのしかかってくる。
重苦しい沈黙が横たわる。それをゆっくりと飲み込んでから、ラティオは続けた。
「セラスの身体を作りながら、母親の魔力を使い続けた。リーリエが食べて、眠って、ようやく取り戻したものも、君は生きるために吸収した。君が育つほど、リーリエの魔力は削れていった」
包帯に覆われた指先が冷えていく。セラスは両手を握ろうとして、焼けた皮膚に走った痛みに指を止めた。
「私が、ママの魔力を奪ったの?」
「そうだ」
ラティオは言葉を濁さなかった。
「強い魔力を持つ子を宿した母親には、同じことが起こる。自分よりも大きな魔力を持つ子どもを産めば、出産と同時に残された魔力まで使い果たし、そのまま命を落とすことがある」
セラスの視線が、ゆっくりとトゥルマリナへ向いた。
「でも、トゥルマリナは……」
「ええ。私も、オニロを産んだときにはほとんど魔力が残っていなかったわ」
トゥルマリナはいつものように背筋を伸ばしていた。だが、膝の上に重ねた手の指先が、互いに強く食い込んでいる。
「それでも助かったのは、この子のおかげよ。生まれた瞬間、オニロが私に癒しの魔術を使ったの。泣き声を上げるより先に、オニロの魔力が私の中へ流れ込んできた。あれがなければ、私もここにはいないわ」
オニロは黙って母を見つめている。トゥルマリナはその視線を受け止め、小さく頷いた。それだけで十分だと告げるような頷きだった。
セラスは、自分の胸へ手を当てた。掌の傷が服に擦れたが、痛みは遠かった。
「私は……ママを助けられなかったのに」
「お前のせいではない」
エザフォスが初めて口を開いた。低い声が、静まり返った広間に落ちる。
「そう、セラスのせいじゃない。逆だよ。オニロが特別だったんだ。生まれたときから魔力を回復させるような癒やしの魔術を使える子どもなんて聞いたことがない」
「でも、私がママを助けられなかったのは変わらないじゃない」
答える者はいなかった。
違うと言ってほしかったのかもしれない。幼い日にそうしてくれたように、エザフォスに抱き締められ、お前のせいではないと言ってもらえれば、何も知らなかった頃へ戻れる気がした。
けれど、それは意味のない妄想だ。現実は、変わらない。
「ママは、なんで私を産もうとしたの?」
縋るように見上げて問えば、ラティオは微かに目を細めた。
「それは俺が答えるべきじゃないな。リーリエが残した言葉を、自分で読んだほうがいい」
セラスは膝の上の日記へ目を落とし、そっと表紙を開いた。
最初の頁には、日付と短い文章が記されていた。
『今日、あなたが宿ったのを感じた。私のものじゃない、強い魔力。エザフォスと同じ魔力が、私の身体の中に宿ってる。きっと私は、あなたに会うことはできないままになってしまうと思うの。だからこの日記を残します。いつか、あなたに届けてもらうために』
たった数行を読むのに、ひどく時間がかかった。
次の頁にも、その次の頁にも、細かな文字が続いている。その日の体調。以前より眠る時間が長くなったこと。お腹の中へ呼びかけても返事がないこと。それでも、そこに小さな魔力を感じるたび、今日も生きているとわかって嬉しかったこと。
そこにいるリーリエは、死を覚悟した母親ではなかった。まだ見ぬ子どもを待ちながら、明日のことを書き留めている一人の人間だった。
頁をめくるたび、文字の向こうで時間が進んでいく。
『トゥルマリナの子どもが、今日生まれたの。その子が、今私の隣にいる。トゥルマリナは疲れ果てて眠っていて、赤ちゃんの面倒を見ることができないから。でも、あの子、無事だった。この赤ちゃんが、トゥルマリナを護ったの。だからきっと、あなたのことはトゥルマリナに任せることになるんじゃないかな。あなたを護ってくれる人が一人でも多くて、すごく、嬉しい』
次の日も、その次の日も、セラスは生まれなかった。日記の中で季節が過ぎ、待ち望む言葉の間に、身体の重さや、戻らなくなっていく魔力のことが増えていった。
『あなたは、まだ私の中で眠っているのね。急がなくてもいいと思う気持ちと、早く出てきてほしいと思う気持ちの両方が順番に浮かんでくるの。あなたがここにいる時間が長くなるほど、私はあなたを近くに感じられる。でも、生まれてしまったらもう、お別れだから。だからあなたをお腹の中に閉じ込めていて申し訳ないけど、もうちょっとだけここにいてほしくて。母親とは、ずいぶん欲張りなものですね』
文字が滲んだ。
セラスは瞬きを繰り返したが、頁の上へ雫が落ちた。慌てて顔を背ける。包帯では拭えず、涙は頬を伝って顎から落ちた。
「セラス」
オニロが手を伸ばしかける。
「……ごめん。ひとりで読みたい」
その手が止まった。
セラスは日記を閉じずに、オニロを見た。
「最後までちゃんと、全部、部屋で読んでくる。ママの考えてたこと、ちゃんと、知りたいから」
オニロはしばらくセラスの顔を見つめていた。以前なら、ひとりにしてほしいという言葉の裏にあるものを疑い、無理にでも隣へ残ろうとしたかもしれない。
だが彼は、ゆっくりと腕を下ろした。
「わかった」
短く答え、少しだけ間を置く。
「読み終わったら、俺にも読ませてくれ」
「うん」
「それまでは待ってる」
セラスは日記を胸に抱えた。硬い表紙が傷に触れ、僅かに痛んだ。それでも離さなかった。
エザフォスは、娘の名を呼ばなかった。何かを言えば引き止めてしまうとでも思っているように、椅子に座ったままセラスを見送った。
***
部屋へ戻ると、セラスはベッドの上に日記を置いた。
セラスは日記の前に座り、広間で閉じた頁をもう一度開いた。
先へ進むほど、リーリエの文字は少しずつ乱れていった。長い文章を書けない日が増え、一行だけで終わる頁もある。それでも空白の日はほとんどなかった。
『今日は、あなたが動きました。痛いくらいに強く。驚いたあとで、少し笑っちゃった。元気でいてくれて、ありがとう』
『最近はずっとベッドの中にいるの。きっと、もうすぐあなたに会えるんでしょうね。一度くらいならきっと、抱っこできるんじゃないかしら? あなたの温もりを感じられるのが、とても楽しみ』
『エザフォスが、ずっと泣きそうな顔をしているの。魔王なんて呼ばれているけど、あの人は本当に、優しい人だから。私を犠牲にして子どもを産むことを、どうしても飲み込めないのでしょうね。でも、我慢してる。だって私たちは、魔王の一族だから。次の世代を残さなければいけないから』
セラスは頁の端を押さえたまま、動けなくなった。
リーリエは死にたかったわけではない。すべてを穏やかに受け入れていたわけでもなかった。生きていたいと願い、自分の死を恐れながら、それでも毎日、まだ生まれない娘へ言葉を残していた。
その事実は、優しい慰めよりも深く胸へ刺さった。
シムラクルムで、セラスは母の声を聴いた。あれは、あの場所に残った母の思念だ。だから死に向かう日々のことは、語られなかった。それでもリーリエは、あの言葉を残したとき、既に自分が死ぬことを悟っていたのだ。
「ママ……」
声にすると、ずっと堪えていた感情が、決壊した。
セラスは身体を折り、日記へ額を寄せた。泣き声を押し殺そうとするほど肩が大きく震え、息がうまく吸えなくなる。謝っても届かない。どれほど力を得ても、失われた母の命を取り戻すことはできない。
長いあいだそうしてから、セラスは顔を上げた。
濡れた目で、再び文字を追う。
『あなたの名前を、エザフォスと決めたわ。セラス。あなたが女の子だということも、もうわかったから。エザフォスったら、私が死んでしまうということに悲しんで、毎日のように泣いているの。愛おしい人でしょう? 本当は、どんな命も奪うことが嫌いで、何もかもひとりで抱え込んでしまって、苦しんで、黙り込んで。私ね、あの人のことが心配で仕方がないの。ラティオやトゥルマリナ、それにオニロも、あの人の支えになってくれるはず。でもね、エザフォスにとって一番の支えになるのは、あなたよ、セラス』
そこで一度、筆が止まった跡があった。少し離れたところから、続きの文字が始まっている。
『だから、あなたに全部託すわ。私はあなたのそばにはいてあげられないのに、あの人のことを託すなんて酷いママかもしれないけど……それでも、どうか。パパのことを支えてあげてね。だって――』
――その言葉を見た瞬間、セラスの手がピタリと止まった。
『パパの命も、もうそんなに長くないから』




