第67話 撤退
次代の魔王。
ルーナが与えた名は、刃のように戦場へ突き立った。
セラスに向けられた剣の先には、まだ鋭い光が残っている。だが、その命令に応じて前へ出る者はいなかった。兵士たちは武器を手にしたまま、傷だらけの少女と、彼女の背後に立つ村人たちを見比べている。
「前衛部隊、進め」
ルーナが命じた。
だが動いたのは、風に煽られた騎士団旗だけだった。
「聞こえなかったのか。次代の魔王をここで討つ。エザフォスも負傷している。二人を同時に討てる機会は、二度と訪れない」
兵士たちの列に、僅かなざわめきが広がる。それでも、地面に置かれた結晶銃を拾い上げる者はいない。
ルーナの言葉は正しかった。戦場だけを見れば、これ以上は望めない機会だった。エザフォスは砲撃を受けて右腕を傷つけ、セラスも立っているのがやっとに見える。魔王とその後継者が、討ち果たせるような城外で佇んでいるのだ。
だが、二人の傍にはエザーレ村の人々がいた。戦えない者たちを押し退けなければ、剣は魔王へ届かない。
「できません」
ダスクが、ルーナの隣で告げた。
「進め」
「軍として戦闘を継続できる状態にないと言っているのです」
ルーナが振り返る。その眼差しを受けても、ダスクは退かなかった。
「結晶砲は大破。残存する遠距離砲も、予備の結晶を奪われて沈黙しています。補給部隊とは連絡が取れず、伝令も半数が戻っていません。それに――装着式兵器はどうだ」
最後は傍に立つ兵士に向けた言葉だった。
「……稼働可能なものは全体の三割ほどです。ただし、関節部や導管に損傷のあるものが多く、長時間の戦闘には耐えられません」
「修理すればよいでしょう!」
タルデが声を荒らげた。
「壊れた部品を交換しなさい。予備の装備があるはずです!」
「その予備を積んだ荷車が届いていません」
「ならば、動くものだけで前へ出ればいい! 魔王も傷を負っているのですよ。ここで退けば、我々は何のためにこれほどの兵力を――」
タルデが近くの装着式兵器へ手をかける。兵士を押し退け、自ら動かそうとしたのだろう。だが、背面の結晶は光を失い、裂けた導管からは細い煙が漏れていた。大剣を持ち上げようとした腕部が軋み、すぐに力なく垂れ下がる。
タルデは何度も操作具を握った。甲冑は片膝をついたまま動かない。まるで、戦場そのものが彼の命令を拒んでいるようだった。
「こんなところで……!」
握り締めた拳が、動かない甲冑を打つ。
「こんな村一つを前に、王都騎士団が退けるものか……!」
「村一つではない」
ダスクは静かに言った。
「兵士たちが、もう我々の命令を信じていない」
その言葉に、タルデの拳が止まった。
戦場のあちこちで、負傷者の呻き声が上がっている。倒れた仲間へ布を巻き、水筒に残った僅かな水を分ける兵士もいる。結晶砲の残骸からは青白い炎が消えず、近づくことすらできない。丘の向こうでは補給用の荷車が横倒しになり、逃げた馬の姿はすでに見えなくなっていた。
ここで戦闘を再開すれば、もはや陣形を整えることもできないまま、傷ついた兵を置き去りにして進むことになる。
それでも魔王を討てるなら、ルーナは彼らを前へ進ませただろう。戦場に犠牲はつきものだ。すべての命を救いながら勝てるなどと思ったことはない。何かを守るために、何かを切り捨てる。それができる者だけが軍を率いられると信じてきた。
けれど今、兵士たちはルーナを見ていない。
「ルーナ将軍」
ダスクがもう一度呼びかける。
「ここで全滅すれば、王都を守る兵すら残りません」
「退けば、二人の魔王を野放しにすることになる」
「今日、魔王が攻めたのは王都ではありません。我々の方が、彼らのいる村へ攻め込んだのです」
ルーナの眉が僅かに動いた。
「お前も、魔王を信じると言うのか」
「信じてはいません」
ダスクは即座に答えた。
「ですが、戦場で見たものまで否定するつもりもない。魔王はこの村を守り、我々はこの村を焼こうとした。それが今日ここで起きたことです」
ルーナは再び、セラスへ視線を向けた。
オニロがいつの間にか彼女の隣へ立っている。肩が触れそうな距離にいながら、身体を支えようとはしていない。ただ、セラスが倒れればいつでも受け止められるように、彼女の傍に控えていた。
その後ろにはエザフォスがいる。さらに魔族たちと村人たちが続き、誰も逃げようとはしていなかった。
ルーナの指が、剣の柄を強く握る。
今ここで退けば、敗北となる。王都が作り上げた結晶砲は魔王の娘に破壊され、騎士団は一つの村さえ制圧できずに引き返す。失うのは兵器や兵士だけではない。王国が長い時間をかけて築いた、魔族に対する絶対的な正しさも揺らぐだろう。
けれどルーナがどれほど強く剣を握っても、土に落ちた騎士団の紋章は元の場所へ戻らなかった。
「……負傷者を回収しろ」
低い声が落ちた。タルデが顔を上げる。
「将軍?」
「動かせる兵器と結晶を荷車へ積め。破損が激しく運べないものは、術式を壊して放棄する。前衛部隊を後退させ、北の街道から王都へ戻る」
「お待ちください! 撤退など――」
「これは命令だ、タルデ」
ルーナが剣を鞘へ収めた。
「王都騎士団は撤退する」
敗北という言葉は、最後まで使わなかった。それでも、その場にいた誰もが何を意味するのか理解していた。
緊張に凍りついていた空気が、一気に動き始める。兵士たちは武器を拾うより先に倒れた仲間へ駆け寄り、担架を作るために折れた槍や外套を集めた。動かなくなった装着式兵器から兵士を引きずり出し、甲冑の留め具を外していく。まだ使える結晶銃は荷車へ積まれ、破損した兵器の結晶は術式を刻んだ槌で砕かれた。
撤退の角笛が鳴る。
低く長い音が、黒煙の残る空へ伸びていった。
エザーレ村の人々は、農具を握ったまま動かなかった。勝ったと喜ぶ者もいない。目の前で起きていることが、まだ信じられないように騎士団を見送っている。
傷ついた兵士たちは互いの肩を借り、ゆっくりと街道を退いていく。背中を向ければ、魔族に襲われる。そう教えられてきたのか、何人もが振り返り、そのたびに剣の柄へ手をかけた。
魔族たちは追わなかった。
「今なら、かなりの兵を削れるわ」
戦場の端で、トゥルマリナが遠ざかる隊列を見つめる。纏っていた炎はすでに消えていたが、指先にはまだ赤い光が残っている。
「追い詰めれば、またこちらへ牙を剥くよ」
ラティオが首を振った。
「わかっているわ。確認しただけよ……普段だったらこんなこと言うの、あなたのほうなのに」
「あはは、本当だ。ま、たまにはそういうこともあるよね」
兵士たちの背中が街道の先へ小さくなり、やがて黒い列となって丘の向こうへ消えていく。
最後尾を進むルーナだけが、一度足を止めた。
遠く離れた場所から、セラスと視線が重なる。
そこには勝者の嘲りも、敗者への憐れみもなかった。セラスはただ、王都騎士団が去るまで、その場に立ち続けていた。
ルーナは何も言わず、再び王都へ向かって歩き出した。
――騎士団との戦いは、ようやく終焉を迎えた。




