第66話 人間たちの反旗
結晶砲が地面へ崩れ落ちた瞬間、王都騎士団の陣形もまた総崩れになった。
爆発から逃れようとした兵士たちが丘の斜面を駆け下り、負傷者を運ぶ者と消火に向かう者が入り乱れる。指揮官たちの命令は黒煙の中を飛び交ったが、互いに食い違い、何一つ大きな流れにはならなかった。結晶砲を中心に組まれていた部隊は進むべき方向を見失い、装着式兵器を纏った兵士たちも、動力を奪われた重い甲冑の中で立ち尽くしている。
折れた砲身から漏れた魔力が、青白い火となって土の上を這っていた。
先ほどまで王国の力を象徴していた兵器は、今や兵士たち自身を遠ざける巨大な残骸に変わっている。
「隊列を戻しなさい! 結晶砲がなくとも戦いは終わっていません!」
タルデが声を張り上げる。煤に汚れた顔には、焼けた掌の痛みよりも、失われた兵器への執着が滲んでいた。
「前衛部隊は魔王を包囲するのです! 装着式兵器が動かないのなら、剣を使えばよいでしょう!」
だが、兵士たちはすぐには動かなかった。
街道の先に立っているのは、魔族だけではない。壊れた荷車や精霊遮断杭を積み上げた防壁の前で、エザーレ村の人々が騎士団を見返していた。
剣も甲冑も持たない者たちだった。土に汚れた服を纏い、手にしているのは鍬や斧、家屋の修繕に使う金槌ばかり。それさえ騎士団へ振るうためではなく、自分たちの暮らしへ踏み込ませないために握っている。
「俺たちは反乱軍じゃない!」
村人の一人が声を上げた。
「王都を攻めたことなんか一度もない! 税だって納めてきた。騎士団が来れば食べ物を渡して、眠る場所も用意した。それなのに、どうして俺たちが王国の敵になるんだ!」
「魔族を村へ入れたからだ!」
騎士団が言い返す。
「魔王を庇い、王都の命令に背いた! それを反乱と呼ばずに何と呼ぶ!」
「先に俺たちへ砲を撃ったのは、あんたたちだろう!」
別の男が怒鳴った。
「魔王はそれを止めた! あんたたちが壊そうとした村を、魔王が守ったんだ!」
兵士たちの視線が、村の入り口に立つエザフォスへ集まった。
右腕から流れた血が指先を濡らしている。外套は裂け、砲撃を受け止めた掌には深い傷が刻まれていた。それでも彼は村人たちの前から退かず、騎士団へ静かな眼差しを向けている。
彼の背後にある家々は、崩れていない。
王都が放った砲撃から人間の村を守った者が誰なのか、もはや誰の目にも明らかだった。
「騙されるな!」
隊長が再び叫ぶ。
「魔族は人間の敵だ! 奴らの言葉を信じれば、いずれ――」
「私たちを攻撃したのは王都だ!」
鋭い声が、その言葉を断ち切った。
防壁の後ろから、何人もの男女が歩み出る。エザーレ村の住民とは違う、ひどく痩せた者たちだった。袖や襟元から覗く肌には、古い傷と黒ずんだ痕が幾つも残っている。
ローカ村の生存者たちだった。
「ローカ村の炭鉱が崩れたとき、私たちは何度も王都へ助けを求めた。その後だって、畑が枯れ、家畜が死に、地面が崩れ始めていると訴えた。それでも騎士団は来なかった!」
女の声は震えていた。けれど、その震えを押し込めるように両手を握り、騎士団の紋章を睨みつけている。
「ようやく王都から人が来たと思ったら、助けるためじゃなかった。私たちの身体で結晶の力を試すためだった!」
隣に立つ男が服の前を開いた。
胸から腹にかけて、皮膚が不自然に引き攣れている。その中央には、何かを埋め込まれていたような丸い痕が残っていた。
「王都はローカ村を守るつもりなんかなかっただろう? 村がボロボロだったのをいいことに、兵器の威力を確認しに来ただけだったじゃないか! 俺たちが生き延びたのは、王都に救われたからじゃない。実験に耐えた者だけが、たまたま死なずに残ったんだ!」
騎士団の列から、掠れた声が漏れた。
「嘘だ……」
若い兵士が結晶銃を下ろしている。隣の兵士が咎めようとしたが、その男も引き金へ指をかけたまま動かなかった。
彼らが身につけている兵器にも、精霊の結晶が埋め込まれている。王都が人間を守るために作ったと教えられてきた力だった。だが、その力が何を奪い、誰の身体で試されたものなのか、目の前に立つ者たちの傷が語っていた。
「私の弟は、王都へ連れていかれた。実験に協力すると言って。だが……帰って来なかった……」
「村が崩れたのは魔族のせいだと言われた。でも、違ったのか……」
「魔王のせいであちこちで村が滅びていると聞いていたのに……」
押し殺されていた声が次々と溢れ出す。
初めは数人の告発だった。それがエザーレ村の人々の声と重なり、騎士団の前へ押し寄せてくる。長いあいだ土の下に閉じ込められていた水が、わずかな亀裂から一気に噴き出したようだった。
兵士たちは顔を見合わせた。
王都を守るために剣を取った者。故郷に家族を残してきた者。魔族に怯える人々を救うのだと信じ、ここまで歩いてきた者。
その誰もが今、自分の剣先にいる人々を見ていた。
彼らは王都を焼こうとしているのではない。王国を奪おうとしているわけでもない。ただ、自分の家と、自分の隣に立つ者を守ろうとしていた。
後方から、荷車の倒れる音が響いた。
「補給部隊が襲われました!」
伝令が息を切らし、丘の上へ駆け込んでくる。
「北側へ回した結晶の輸送車が横転! 南の食糧部隊も足止めされています!」
「誰に襲われたんです?」
タルデが血走った目を向けた。
「わかりません。御者が突然馬を放し、案内役も姿を消しました。予備の剣や矢を積んだ荷車は、車輪の留め具を抜かれています。水樽にも穴が――」
「馬鹿な。出発前に点検したのでしょう!?」
「その点検をした者たちが、見つからないのです!」
戦場の外縁で、さらに二台の荷車が傾いた。外れた車輪が斜面を転がり、積まれていた木箱が地面へ投げ出される。
箱が割れ、中に入っていた矢が土の上へ散らばった。回収へ向かった兵士たちの前で馬が嘶き、切られた手綱を引きずりながら森の方角へ駆けていく。
それは偶然の連続などではなかった。
補給部隊へ紛れ込んでいた者、街道を案内していた者、村々で騎士団へ物資を売っていた者。オゲーラと繋がる人々が、それぞれの場所で動き始めていたのだ。
「西側の部隊からも撤退の許可を求める伝令が来ています!」
「却下しなさい!」
「しかし、結晶も食糧も届きません。このままでは負傷者を運ぶことすら――」
「現地で調達すればよいでしょう! 目の前に村があるのですから!」
タルデの言葉に、周囲の兵士が息を呑んだ。
その村を、ほんの少し前まで結晶砲で焼き払おうとしていたのだ。そこから食糧や水を奪えという命令が、何を意味するのかわからない者はいなかった。
「もう終わりにするべきだ」
ダスクが剣を鞘へ収めた。
甲高い音が、騒然とした陣中に不思議なほどはっきりと響いた。
「結晶砲は失われ、補給線も断たれた。前衛は命令に従わず、負傷者も増えている。このまま戦闘を続ければ、我々は魔王を討つ前に軍として立ち行かなくなる」
「兄上は、また弱音を吐くのですか」
「戦況を見ろ、タルデ」
ダスクは弟の前へ歩み寄った。
「エザーレの人々を斬って道を開き、ローカ村の生存者を口封じし、食糧を奪って進軍する。それで魔王を倒せたとして、我々は何を守ったことになる?」
「王国です」
タルデは即座に答えた。
「魔王が存在する限り、人間は永遠に脅かされ続ける。今、目の前にいるのですよ。これほどの機会は二度と訪れないかもしれない。多少の犠牲を恐れて千年の禍根を残す方が、よほど愚かです!」
「その多少の中にいるのは、王国の民だ」
「大きな目的のために小さなものを切り捨てる決断も、我々には必要でしょう!」
「お前が切り捨てようとしている者たちは、小さくなどない!」
ダスクの怒声に、タルデが口を閉ざした。
「撤退を進言します、ルーナ将軍」
ダスクはルーナへ向き直る。
「これ以上は戦ではありません。王国の民を敵と定め、踏み潰すだけの虐殺になります」
ルーナは答えなかった。
彼女は折れた結晶砲を見つめていた。その残骸の向こうには、傷を負ったエザフォスがいる。魔王も無傷ではない。今なら、すべての兵を一度に動かせば届くかもしれない。
一方で、自軍の兵士たちは剣を下ろし始めている。怯えているのではない。命令そのものを疑い始めているのだ。
恐怖で縛られた兵は動かせる。だが、自分たちの正義を失った兵は、命令だけでは前へ進まない。
ルーナの手が剣の柄に触れた。
「全軍――」
その声に応じたのは、僅かな兵士だけだった。
「前衛を再編。残存するすべての戦力をもって、魔王へ最後の突撃を行う」
沈黙が落ちる。
誰もが命令を聞いていた。聞こえなかった者などいない。それでも、地面に下ろされた剣は持ち上がらなかった。
やがて一人の兵士が、胸元から騎士団の紋章を外した。
金属の板が、乾いた土の上へ落ちる。
「俺は……村の人間を斬るために、騎士団へ入ったんじゃない」
隣にいた兵士も結晶銃を地面へ置いた。さらに後ろで一人、もう一人と武器を下ろしていく。
「命令違反は反逆だ!」
隊長が叫んだが、その声にはすでに人を動かす力がなかった。
「違う!」
戦場の中央から、少女の声が響いた。
セラスが丘を上ってくる。
両手は焼け、衣服は土と煤に塗れていた。足を進めるたびに膝が僅かに揺れる。それでもオニロの手を借りず、自分の足で騎士団の前へ歩いていく。
「この人たちは、反逆者じゃない」
ルーナがセラスへ目を向ける。
兵士たちのあいだにも緊張が走った。結晶砲を破壊した魔王の娘が、誰にも守られず、剣の届く場所まで近づいてきたのだ。
数本の剣が反射的に持ち上がる。それでもセラスは足を止めなかった。
その背後にはエザーレ村の人々がいる。ローカ村を失った者たちがいる。傷ついた父親と、精霊の力を兵器に変える王都を止めようとしてきた仲間たちがいる。
そして目の前には、王都の命令へ従うことをやめた人間たちがいた。
「人間だから守られて、魔族だから殺される。精霊だから何をしてもいい。そんなふうに、命の価値を誰かが勝手に決める世界を、私はもう許さない」
掌の傷から、細い血が流れ落ちた。
その一滴が土へ染み込むと、足元で小さな草が身を起こした。地の精霊が戻っている。頬を撫でた風の中にはオニロの気配があり、遠くでは水が流れ、焼けた大地の奥にも穏やかな熱が残っていた。
「王都は精霊を道具にした。ローカ村の人たちも、騎士団の兵士も、自分たちの目的のために使おうとしてる。人間も、魔族も、精霊も、誰かのために使い潰されていい命じゃない」
「魔族が王国の在り方を語るつもりか、魔王の娘よ」
ルーナの声は冷たかった。
セラスは彼女の眼差しを受け止めた。
以前なら、魔王の娘と呼ばれればエザフォスの背中へ隠れていたかもしれない。その名が背負う憎しみも、恐怖も、自分にはよくわからなかった。
けれど今、背後にいる者たちを守るためには、その名から逃げるわけにはいかなかった。
「私は王国を奪いたいんじゃない。人間を支配したいわけでもない。でも、力を持つ者が弱い者を道具にして、その痛みさえなかったことにするなら、私はその力を止める」
セラスは胸の前で、傷ついた手を強く握った。
「私は魔王になる!」
その言葉は戦場を覆うどの怒声よりも遠くまで届いた。
「パパが守ってきたものを受け継ぐ! 人間だけのためでも、魔族だけのためでもない。精霊も、この大地に生きる誰も、勝手に奪われない世界を作る。そのために必要なら、王都にだって立ち向かう!」
風が戦場を渡った。
黒煙が左右へ裂け、セラスの姿が騎士団のすべての兵士の前に晒される。華美な衣装も、王冠もない。血と泥に塗れた小さな少女が、王都の軍勢を前に一歩も退かず立っている。
***
丘の下で、エザフォスは娘を見つめていた。
その横顔には驚きも、笑みもない。ただ、長い時をかけて待ち続けた答えを、自分の耳で確かめるように目を細めている。
魔王という名を、エザフォスは憎しみを引き受けるために背負った。
セラスは今、その名を、奪われる命を守るために選んだ。
同じ道ではない。だからこそ、エザフォスは何も言わなかった。娘が自分で選び、自分の言葉で示した道へ、父親の答えを重ねる必要はなかった。
ルーナがゆっくりと剣を抜いた。
その切っ先が、セラスへ向けられる。
「全軍に通達する」
静まり返った戦場で、ルーナの声だけが響く。
「目の前にいるのは、もはや『魔王の娘』ではない。エザフォスの力と意志を継ぎ、王国へ敵対することを宣言した、次代の魔王だ」
兵士たちはセラスを見つめた。
その瞳に宿っているのは、魔族への恐怖だけではなかった。戸惑い、疑念、そして自分たちがこれから何を選ぶのかという問いが、それぞれの顔に浮かんでいる。
王都騎士団はこの日、二人の魔王と対峙した。
一人は、千年にわたって人間の憎しみを背負ってきた魔王エザフォス。
もう一人は、人間も魔族も精霊も道具にさせないと誓い、自らその名を選んだ次代の魔王セラス。
だが、騎士団のすべてがルーナと同じ敵を見ているとは、もう誰にも思えなかった。




