第64話 魔王の娘とその右腕
「右手、街道から三本目の杭。地中で隣の杭と繋がってる。根元だけを狙え」
オニロの声に、セラスは迷わず右手を向けた。
焼けた掌に熱が集まり、ひび割れた皮膚の奥まで鋭く痛む。それでも指先へ力を込める。広い範囲に衝撃をぶつけてしまえば、近くにいる兵士や村人まで巻き込んでしまう。セラスは地中へ意識を向けて、オニロが示した一点を探った。
硬い土の中に、異質な魔力が深く食い込んでいる。
「見つけた」
「そのまま。周りの土に意識を向けて、杭の根元にだけ圧をかけろ」
力を流し込むと、地面の下から鈍い音が響いた。精霊遮断杭が大きく傾き、表面に亀裂が走る。すかさずオニロが風を細く束ね、亀裂の内側へ叩き込んだ。
杭が砕けた瞬間、全身を覆っていた重苦しさが僅かに薄れた。
横から装着式兵器を纏った兵士が迫る。セラスが振り向くより早く、オニロの風が甲冑の膝裏へ滑り込み、駆動部を繋ぐ金具を弾き飛ばした。兵士は勢いを止められず、重い甲冑に引かれて前のめりに倒れる。その身体が地面へ打ちつけられる寸前、風が下から受け止めた。
「次は左。倒れた荷車の向こうに二本並んでる。手前を壊せば、奥の杭も纏めて壊れるはずだ」
「わかった」
セラスは地面を蹴った。正面から結晶弾が飛来する。オニロが起こした風が弾道を僅かに押し曲げ、セラスの頬を掠めて後方へ逸らした。
「今だ!」
荷車の陰へ滑り込み、両手を地面へ叩きつける。
大地が隆起し、杭の真下だけを突き上げた。浮き上がった杭へ、オニロの風が横から衝突する。杭は半ばから折れ、地面を転がった。もう一本の表面を走っていた魔力も途切れ、青白く脈打っていた結晶が沈黙する。
セラスは息をつき、赤く腫れた手を胸元へ引き寄せた。以前の自分なら、二本まとめて地面ごと吹き飛ばしてしまっていただろう。細かなコントロールは今もまだ苦手だ。それでも、隣にオニロがいてくれるから、なんとかできるような気持ちになってくる。
「オニロ、次は?」
尋ねると、オニロは一瞬だけ目を見開いた。やがて口元を緩め、戦場の北側を指す。
「あの丘の下。騎士団が守りを固める前に行くぞ」
「うん」
二人は同時に駆け出した。
オニロの風が砂塵を巻き上げ、兵士たちの視界を奪う。その中をセラスが駆け抜け、大地から突き上げた土壁で敵を左右へ押し分けた。開いた道をオニロが先へ進み、背後から迫る装着式兵器の肩を風で打つ。結晶と甲冑を繋ぐ導管が裂け、持ち上がりかけた大剣が重い音を立てて落ちた。
「止まるな、セラス!」
一瞬立ち止まりかけたセラスは、オニロの言葉に背中を押されて足を動かす。
丘の斜面に打ち込まれた杭は、これまでのものより太かった。周囲に幾重もの術式が刻まれ、近づくだけで胸の内側を押し潰されるような息苦しさが増していく。精霊の気配が遠ざかり、セラスの意識も揺さぶられて、気が狂いそうになる。
「ねえあれ、いくらなんでも太すぎるんだけど! あんなの魔術をぶつけただけじゃびくともしなそう……!」
「だったら、下から攻撃するんだ」
「下?」
「ここからだったら地の精霊の力を借りられる。離れたところから地中を移動して、打ち込まれてる真下から吹っ飛ばすんだよ」
「なるほど……!」
セラスは足を止め、大地に両手を当てる。
瞼を閉じ、遠のいていく大地の気配を辿る。深く、さらに深く。杭の先端が地中の力を絡め取り、周囲から精霊を締め出している。その根を掴むように、残された魔力を細く伸ばした。
「三、二、一――今だ!」
オニロの合図と同時に、セラスは魔力を放出した。
――大地が唸る。
杭の周囲だけが盛り上がり、地中へ深く刺さっていた先端が露わになる。セラスの身体が大きく傾いた。膝をつく前に、オニロの腕が腰を支える。
「まだ……!」
セラスは歯を食いしばり、持ち上げた杭を地面へ倒した。オニロが放った風が術式の中心を正確に貫く。甲高い音とともに結晶が砕け、杭を巡っていた魔力が霧散した。
その途端、押し殺されていた精霊の気配が、遠くから潮のように戻り始めた。
***
戦場の西側で、ラティオはゆっくりと息を吐く。
幾重にも重なっていた遮断の力が、一つ、また一つと途切れていく。張り詰めた縄が端から解けるように、土地を縛っていた術式が弱まり始めていた。
ラティオは目を閉じ、意識を広げた。森の奥、枯れかけた草の下、乾いた川底。騎士団の侵攻に怯え、村から遠ざかっていた精霊の気配が、そこかしこに残っている。
「道は開いたよ」
声を風へ乗せる。
「エザーレへ戻っておいで。あの村には、君たちを待っている者がいる」
返事はない。それでも、散り散りになっていた気配がゆっくりと動き始めた。地を伝い、水の流れを辿り、吹き抜ける風とともに村へ近づいていく。
乾いていた土が僅かに湿り、踏み荒らされた草が身を起こした。
ラティオは力を抜いた。遠方で、再び大地が揺れる。続けて風が駆け抜け、もう一つの遮断杭が力を失った。
地と風。二つの魔力が互いを補い、同じ場所へ向かっている。
「あいつめ、やっと選んだか」
小さく呟き、ラティオは顔を上げた。口元には、ほんの僅かな笑みが浮かんでいた。
***
村の南側では、装着式兵器を纏った部隊が防壁へ迫っていた。
一歩ごとに地面が沈み、大剣が土壁を削る。村人たちが積み上げた板や石は、あの甲冑の前では薄い木の葉ほどの効果しかない。ひとたび防壁を越えられれば、家々へ辿り着くまで幾らもかからないだろう。
トゥルマリナは迫る兵士たちを見据え、両腕を広げた。
指先から落ちた炎が、乾いた地面を走る。細い火筋は兵士たちの足元を避けながら部隊の横を駆け抜け、その背後で一気に燃え上がった。
炎の壁が、装着式兵器の部隊と村とを分断する。
後方から続いていた兵士たちが足を止めた。前へ出ていた者たちは引き返そうとするが、甲冑の駆動部が熱を帯び、動きが鈍る。無理に炎を越えれば、背中に積まれた結晶まで熱が届く。
「ここから先に行きたかったら甲冑を脱いでいらっしゃい」
トゥルマリナの声が、燃え盛る音を越えて響いた。
「そのまま進もうとすれば、蒸し焼きになるわよ」
兵士たちの足が揃って止まる。
トゥルマリナは炎の勢いを保ったまま、遠くを駆ける風へ目を向けた。荒々しさを残しながらも、触れるべき場所を選び、傷つけてはならないものを避けている。幼い頃から見守ってきた、息子の魔力の気配だった。
そのすぐそばで、大地が応える。
トゥルマリナの瞳が細められた。やがて彼女は戦場へ視線を戻し、再び指先を掲げる。
「あの子が自分で選んだのなら、母親が邪魔をさせるわけにはいかないでしょう」
炎が高く立ち昇り、騎士団の進路を完全に閉ざした。
***
「伏せろ、セラス!」
オニロの声に、セラスは反射的に身を屈めた。
頭上を結晶弾が通り過ぎ、背後の土壁に突き刺さる。破裂した魔力が土塊を撒き散らしたが、オニロの風がそのすべてを二人の左右へ弾き飛ばした。
「次の杭は?」
「次は――」
と、作戦を告げようとしたオニロがハッと息を呑み言葉を止める。
「……大型砲が動く」
「えっ!?」
二人は振り返る。
騎士団の後方で、遠距離砲の砲身がゆっくりと持ち上がっていた。周囲の兵士たちが次々と結晶を運び込み、砲身の奥へ魔力を注いでいく。壊れかけた金属が耐え難そうに軋み、青白い光が砲口へ収束した。
狙いの先には、エザーレ村がある。
「駄目……!」
セラスは手を伸ばした。だが、砲弾が放たれる方が早かった。
凝縮された魔力が空を焼き、村へ向かって一直線に走る。その進路へ、一人の男が歩み出た。
「パパ!」
エザフォスは逃げなかった。
掲げた右手へ砲弾が直撃し、凄まじい爆発が戦場を揺らす。衝撃で地面が捲れ上がり、セラスの髪と衣服が激しく煽られた。立ち昇った土煙がエザフォスの姿を呑み込む。
セラスは駆け出そうとした。オニロの手が、その腕を掴む。
「大丈夫だ」
土煙の中から、エザフォスの腕が現れた。
砲弾が放った魔力は四方へ広がることを許されず、彼の掌の前で渦を巻いている。荒れ狂う力を、さらに大きな魔力が外側から押さえ込んでいた。
エザフォスが指を閉じると、轟音を放っていた魔力が握り潰されたように消えた。
足元には深い亀裂が走り、外套の端が焦げている。エザフォスの右腕からも血が滴っていた。それでも、その背後にある家々には、傷一つ届いていない。
「この程度の力で、私の民を奪えると思うな」
静かな声が、戦場の端まで響き渡った。
兵士たちが後ずさる。砲撃を受け止めたエザフォスの姿を前に、次の結晶を運ぼうとする者はいなかった。
セラスは胸元で拳を握った。
かつて村人たちが恐れていた魔王が、今は彼らの前に立っている。その大きな背中は、迫る兵器から村を覆う最後の城壁に見えた。
「セラス、あれを見ろ」
オニロが村の入り口を示した。
ミリーを先頭に、村人たちが壊れた精霊遮断杭を運んでいる。数人がかりで縄を引き、重い杭を街道の中央へ横たえる。さらに砕けた荷車や板を積み上げ、騎士団が村へ進むための道を塞いでいく。
「そっちを持って! 隙間を空けたら押し退けられちゃう!」
ミリーの声に応じ、老人も若者も腕を伸ばす。兵士が近づけば農具を構え、互いの背中を支えるように一歩も退かない。
騎士団の後方でも動きがあった。補給車の列が戦場を離れ、北側へ回り込もうとしている。炎に塞がれた道を避け、大型砲へ予備の結晶を運ぶつもりなのだろう。
その先の窪地から、ルビアが姿を現した。
彼女は補給部隊が進路を変えるより早く、北側へ回っていたのだ。先頭の荷車へ飛び乗ると、驚いた御者から手綱を奪い、馬の向きを大きく変えた。後ろに積まれた箱の隙間から、精霊の結晶が覗いている。
兵士たちが追い縋る前に、荷車は坂を下った。ルビアは追っ手を振り返り、得意げに手を振ってみせる。
遠距離砲の周囲で、再装填を待つ兵士たちが騒ぎ始めた。どれほど強力な兵器も、動力が届かなければ巨大な鉄の塊に過ぎない。
「撃つな!」
村の入り口から、男の声が上がった。
「魔王は俺たちを守ってる! 村を壊してるのは、あんたたちの方だろう!」
「俺たちは王都に逆らった覚えなんかない! どうして俺たちごと焼こうとするんだ!」
「この人たちは、誰一人殺してない! あんたたちも剣を下ろしてくれ!」
声は一つずつ増え、やがて村人たちの大きなうねりとなった。
装着式兵器を纏った兵士が、振り上げていた剣を止める。別の兵士はエザフォスと村人を見比べ、構えていた結晶銃の先を地面へ向けた。命令を叫ぶ声が飛んでも、すぐに動き出す者は少ない。
騎士団の陣中で、ダスクが周囲を見回していた。
「何をしている! 進軍を続けろ!」
だが、命令に応じる声は、まばらだった。
ダスクが再び叫ぶ。返事はさらに小さくなる。彼の視線が、道を塞ぐ村人たちへ向かい、続いて傷ついた腕で村を庇うエザフォスを捉えた。
剣を握る手に力が込められる。だが、その切っ先が示す先を見つけられずにいるように、腕は僅かに揺れていた。
ダスクも、もう気づいているはずだった。兵士たちの心は、もはや崩れ始めている。
「セラス、今なら中央の杭まで行ける。あれを壊したら、魔術も完璧に使えるようになる!」
隣でオニロが告げた。
セラスは頷き、彼と同じ方向を見据える。精霊の気配が、少しずつ村へ戻ってくる。力を取り戻し始めた大地が、足の裏から静かに鼓動を伝えていた。
「行こう、オニロ!」
二人は肩を並べ、騎士団の中央へ走り出した。
セラスの届かない場所をオニロが見つめ、オニロ一人では動かせないものをセラスが打ち砕く。
魔王の娘と、その右腕。
誰かに定められた呼び名を、今、二人は自らの意思で選び取ろうとしていた。




