第62話 届かない手
刃と甲冑がぶつかり合う音が、絶え間なく大気を震わせていた。
装着式兵器を纏った兵士たちは、エザフォスに正面から挑むのを諦め、左右へ大きく展開し始めている。結晶の光を引きながら駆ける姿は、夜の底を這う青白い獣の群れにも見えた。中央ではエザフォスが何人もの兵士を押し留めている。しかし、たった一人ですべての道を塞ぐことは出来ない。
戦場を迂回した一隊が、村人たちの築いた防壁へ迫っていた。
崩れた柵の向こうでは、老人や女たちが板を支え、積み上げた土嚢が崩れないよう必死に押さえている。逃げ込んだローカ村の者たちも混ざっていた。武器を握る手は震え、顔には焼けた土がこびりついている。それでも誰一人として、その場を離れようとはしなかった。
「ここから先へ行かせちゃ駄目だ……!」
セラスは駆け出した。
大地へ意識を伸ばし、魔術を放つ。兵士たちの足元が盛り上がり、土の壁が行く手を塞いだ。先頭を走っていた兵士が勢いのまま壁へ激突する。硬い音が響き、身体が宙へ投げ出された。
セラスは咄嗟に風を起こした。
落下しかけた兵士の身体が押し戻され、土の上を転がる。首を打たないように勢いを殺したつもりだったが、強すぎた風が周囲の兵士まで薙ぎ倒した。その風は防壁にも届き、村人たちが押さえていた板を激しく揺らす。
だが次の瞬間、別の兵士が土の壁を越えている。
「危ない!」
兵士の剣が振り下ろされる。防壁の前にいた男が身を固くした。セラスは二人の間へ風の壁を作り、刃を弾く。持ち主の腕ごと砕きかねない勢いを感じ、すぐに力を緩めた。
その隙を突いて、別の刃が脇腹へ迫る。
セラスは身を捻った。切っ先が衣服を裂き、皮膚の上へ熱い筋を残していく。痛みに息が詰まったが、すぐに炎を放った。兵士の前へ火柱が上がり、進路を遮る。
相手を焼かないように。村人たちへ届かないように。近くにいる精霊を巻き込まないように。
頭の中で幾つもの境界を引く。しかし、一つを整えるたび、ほかの力が傾いた。
炎が想定よりも高く燃え上がった。兵士が後退し、その先で精霊の気配が散る。精霊の結晶が、何もない空間から唐突に現れ、まき散らされる。セラスは火勢を弱めようとしたが、今度は大地の壁へ向けていた意識が途切れた。壁の一部が崩れ、兵士たちが雪崩れ込んでくる。
「駄目……!」
セラスは両手を広げた。
風が唸り、炎を巻き上げる。赤い渦が兵士たちの頭上へ立ち昇った。その中心で火花が爆ぜ、急激に膨らんでいく。
身体の奥へ戻ってきた力が、行き場を求めて暴れていた。押さえようとするほど炎は大きくなり、風に煽られて範囲を広げていく。熱に怯えた兵士たちが散り、その背後で村人たちが悲鳴を上げた。
このままでは、両方を燃やしてしまう。
赤く染まった視界の中に、あの日の村が蘇った。立ち昇る黒煙。焼け落ちる屋根。熱に歪んだ空気の向こうで、崩れていった家々。
セラスは握った両手を胸元へ引き寄せた。
炎の渦が、強引に中心へ押し込められる。押し潰された火が細い指の隙間から噴き出し、袖を焦がした。熱が掌へ食い込み、皮膚の焼ける臭いが鼻を刺す。それでも力を緩めず、炎を小さく畳んでいく。
最後に残った火の塊が弾け、赤い光の粒となって空へ散った――抑えきったのだ。
だが静寂は一瞬しか続かなかった。
装着式兵器の兵士たちが、再び動き出す。倒れていた者も起き上がり、結晶の嵌め込まれた剣を構えた。甲冑の隙間から覗く顔には、恐怖と疲労が浮かんでいる。彼らも無傷ではない。装着式兵器に無理やり身体を引かれるように、足をもつれさせながら前へ出ている者もいた。
あの甲冑の中にいるのは人間だ。
セラスは焼けた掌を握り込み、炎へ向けていた意識を閉ざした。今の自分には使えない。少しでも制御を誤れば、敵も味方も失う。
大地を隆起させ、風で剣を逸らす。攻撃せず、押し返すことだけに徹した。
だが、守る場所が多すぎた。
右から来る兵士を土壁で防げば、左から風の刃が飛んでくる。防壁へ向かう攻撃を逸らせば、足元を青白い光が走る。怯えて散る精霊たちへ意識を向けた瞬間、結晶の光を纏った拳が土壁を砕いた。
砕けた土の向こうから、一人の兵士が踏み込んでくる。
ほかの者よりも大柄な男だった。装着式兵器の継ぎ目は熱を持ち、薄い煙を吐いている。額から流れた血が片目へ入り込んでいるのに、拭おうともせず、セラスだけを睨みつけていた。
「お前だな」
男が剣を振り下ろす。
セラスは風の壁で受け止めた。結晶の光が風へ食い込み、甲高い音を立てる。
「俺の村を焼き払った魔王の娘は!」
息が止まった。
風の壁が揺らぎ、剣先がセラスの肩を掠める。男は一歩踏み込み、装着式兵器の力で強引に刃を押し込んできた。
「家も畑も、そこにいた人間も、お前が炎で焼いた。違うか?」
言葉が出なかった。
焼けた家々を思い出す。倒れていた人々を思い出す。
「……ごめんなさい」
唇から零れた声は、剣が軋む音に掻き消されそうなほど小さかった。
男の顔が歪んだ。
「謝れば戻るのか?」
剣が振り抜かれ、風の壁が砕けた。セラスの身体が後ろへ弾き飛ばされる。地面へ肩を打ちつけ、肺から空気が押し出された。
「そんな奴が、誰を守るっていうんだ!」
立ち上がるより早く、男の剣が迫る。
地面から土壁を突き上げる。刃は止まったが、装着式兵器の腕が土を削り、少しずつセラスへ近づいてきた。目の前で青白い結晶が脈打っている。ここで大地を大きく動かせば、男の腕ごと砕いてしまう。
セラスは力を抑えた。
男の剣が土壁を突き破り、頬を掠める。温かいものが流れ、顎から地面へ落ちた。
「どうして戦わない!」
「あなたも……殺したくないから」
「哀れむな!」
怒声とともに、土壁が完全に崩れた。
男の肩越しに、別の兵士たちが防壁へ迫る姿が見えた。村人たちは板や農具を構えている。戦えるはずもない。それでも、逃げずに踏み留まっていた。
セラスは右手を防壁へ向け、左手を目の前の男へ向けた。大地と風、二つの力を同時に動かす。しかし、焦りに引かれた魔力は左右で均衡を失い、防壁の前へ起こした風が兵士一人を高く跳ね上げた。
落ちる。
そちらへ意識を向ければ、目の前の剣を防げない。防壁を守れば、精霊の光へ青白い刃が届く。
選べなかった。
誰も傷つけたくない。その願いが幾重もの鎖となり、セラスの手足へ絡みついていた。守ろうとするほど指の間から何かが零れ、拾い上げようと屈むたび、別の何かを見失う。
剣の切っ先が、セラスの胸元へ向けられた。
――私は、一人で魔王になる。
オニロへ告げた言葉が、胸の奥で蘇る。
彼がいなくても立てると思った。誰かへ縋らず、自分の力で皆を守れる存在になる。その覚悟さえあれば、前へ進めるはずだった。
けれど、一人の目で見渡せる場所には限りがある。一人の手で覆える範囲も、あまりにも狭い。
オニロなら、落ちていく兵士を風で受け止めただろう。セラスが目の前の敵を引きつけている間に、防壁へ迫る者たちを押し戻しただろう。力を失いかけた精霊にも、きっと誰より早く気づいた。
いつもそうだった。
セラスが見ていない場所を彼が見ていた。躓けば腕を掴み、魔力が乱れれば呼吸を合わせてくれた。自分一人で立っているつもりだったときでさえ、すぐ隣にはオニロがいた。
男の剣が、振り上げられる。
防壁の向こうで、誰かがセラスの名を叫んだ。
呼んではいけないと思った。自分から遠ざけた彼を、苦しくなった途端に求めるなんて、あまりにも身勝手だった。
それでも、胸の内側から溢れた名前を止められなかった。
――オニロ……!




