第59話 精霊のいない朝
森の奥から響く音は、エザーレ村を囲むように場所を変えながら続いていた。
「セラス、しっかりして!」
ミリーが肩を抱き、地面へ倒れ込んだセラスの身体を起こそうとする。けれど、足に力が入らない。どうにか膝を立てても、足の裏が自分のものではないように頼りなく、立ち上がろうとするたびに視界が大きく傾いた。
「大丈夫……ちょっと待って。すぐ、動けるようになるから」
「全然大丈夫に見えないよ!」
ミリーの声が遠く聞こえる。目の前にいるはずなのに、深い水の底から呼ばれているようだった。
セラスは胸元を押さえ、浅い呼吸を繰り返した。息を吸うことは出来る。心臓も動いている。それなのに、身体の内側に空洞が出来たような感覚が消えない。
これまで、精霊の存在を意識しないことなどなかった。眠っているときでさえ、風や水、大地や炎の気配はすぐそばにあった。声を聞こうとしなくても、彼らは世界の隅々で囁いていた。
それが今は、何も聞こえない。手足の半分を突然奪われたようだった。自分と世界を繋いでいたものが失われ、身体の置き場所すらわからなくなっている。
「魔王様たちのところへ行こう。立てる?」
「うん……」
答えてから、セラスは再び立ち上がろうとした。膝が震え、身体が前へ傾く。ミリーが咄嗟に受け止めてくれたが、二人とも倒れかけた。
「やっぱり無理だよ。誰か呼んでくる!」
「待って。ひとりにしないで」
無意識にミリーの服を掴んでいた。自分の声が思った以上に弱々しく、セラスは唇を噛んだ。
護ると決めたばかりだった。もう二度と力から逃げず、必要なときには迷わず使うと誓った。その直後に、立つことさえ出来なくなるとは思わなかった。
ミリーは何も言わず、セラスの腕を自分の肩へ回した。
「じゃあ、一緒に行くよ。ゆっくりでいいから」
「……ごめん」
「謝るくらいなら、ちゃんと私に掴まって」
ほとんど引きずられるように、セラスはミリーと共に村の中央へ向かった。
***
エザフォスたちは宿屋の一階を借り、避難の指揮を執っていた。扉を開けたミリーが助けを呼ぶと、室内にいたエザフォスがすぐに振り返った。
「何があった」
「急にセラスが倒れて……!」
エザフォスは大股で近づき、崩れかけたセラスの身体を支えた。その手は普段と変わらず力強い。セラスを椅子へ座らせると、額に手を当て、顔色を確かめる。
「気分は」
「眩暈がする。それに、精霊の声が聞こえないの。少しは感じるけど、すごく遠い。見えない壁の向こうにいるみたいで……」
言いながら、セラスはエザフォスの顔を見上げた。
「パパは平気なの?」
「ああ」
短く答えたエザフォスには、苦しんでいる様子がなかった。呼吸も乱れておらず、魔力が弱まった気配もない。
それを確かめるより先に、宿屋の扉が開いた。入ってきたラティオは、扉の脇へ手をついて立ち止まる。その後ろにはトゥルマリナもいた。彼女は背筋を伸ばしたままだったが、いつもより僅かに歩みが遅い。
「ラティオも……?」
「俺はさすがに、多少影響があるね。トゥルマリナも同じだ。これは想像していたより厄介だね。他の場所では――」
ラティオは椅子の背に掴まりながら、空いている手を軽く掲げた。指先に風が集まり、その輪郭が一瞬だけ霞む。次の瞬間、彼の身体そのものが揺らいだように見えたが、何も起こらなかった。
顔をしかめ、ラティオは手を下ろす。
「駄目だ。空間転移が使えない」
「まったく使えないの?」
「移動先へ空間を繋ぐには、今いる場所だけじゃなく、向こう側の精霊にも働きかける必要がある。だけど、遮断されたみたいに声が届かない……これじゃあ空間を開けないね」
トゥルマリナも掌を上へ向けた。赤い光が集まり、小さな炎が生まれる。普段なら室内を焦がしかねないほど激しく燃え上がるはずの炎は、蝋燭ほどの大きさにしかならなかった。僅かに揺れたあと、燃料を失ったように消える。
「使える力は、普段の半分程度ね。術によっては、それ以下でしょう」
トゥルマリナは冷静に告げたが、炎の消えた手を強く握り込んでいた。
「魔力を奪われたわけではなさそうだ」
ラティオは窓の外へ目を向ける。再び、杭を打ち込む硬い音が響いた。
「僕たちの中にある力は消えていない。ただ、魔術を形にするための精霊が遠ざけられているみたいだ。騎士団は精霊を殺すだけじゃなくて、一定の場所から締め出す方法まで作ったらしい」
「精霊を遮断して、魔族に魔術を使わせないようにしたってこと?」
「そう考えるのが自然だろうね。杭を村の周囲に打ち込み、その内側を精霊から切り離しているんだろう。僕たちが精霊へ呼びかけても、向こうへ届かないように」
セラスは自分の両手を見つめた。指先はまだ冷たく、力を込めても小さく震えている。
「でも、どうして私だけこんなに……ラティオたちは動けてるのに」
「お前は四つの精霊すべてから、強い加護を受けている」
答えたのはエザフォスだった。
「常に感じていたものを、一度に切り離された。そのために身体が均衡を失っている。私たちのように千年以上も生きていれば対処するだけの経験もある。だが、お前にはない」
試しに椅子から立とうとすると、視界が横へ流れた。床が傾いたように感じ、セラスは慌てて机へ手をつく。
「少し休めば、慣れると思うよ。だから今は少し座ってなさい」
ラティオに言われ、セラスは首を横に振った。
「そんな時間ないよ。まだ村の人たちは全員逃げてない。騎士団が来てるなら、私も――」
一歩を踏み出そうとして、足首が折れた。床へ膝をつく寸前で、エザフォスの腕に支えられる。
「動くな」
「でも!」
「今のお前が外へ出れば、護るべき者が一人増えるだけだ」
エザフォスの言葉が、胸の奥へ突き刺さった。
反論しようとしても、立つことすら出来ない今の自分では、何を言っても空しい。セラスは唇を引き結び、床へ視線を落とした。
「……私、護るって約束したのに」
「ならば、約束を果たすために休め」
低い声とともに、肩へ大きな手が置かれた。
「お前の力が必要になるときは来る。その前に、自分の身体を取り戻せ」
決して優しい言葉ではなかった。それでも、その手はセラスの身体が震えなくなるまで、肩から離れなかった。
***
エザーレ村から少し離れた森の中を、オニロはひとりで歩いていた。
地面には朝露が残り、枯れ枝を踏めば僅かな音でも遠くまで響く。オニロは足を置く場所を選び、木々の影を縫うように進んでいた。
少し先から、複数の足音が聞こえてくる。
オニロはすぐに身を屈め、倒木の陰へ滑り込んだ。息を殺して耳を澄ませると、騎士たちの鎧が擦れ合う音に、重い車輪の軋みが重なっている。荷車は一台ではない。装備の重量から考えても、食料や野営道具を運んでいる音ではなかった。
「北側への配置は終わったか」
「まもなくです。最後の杭を設置すれば、村の周囲を完全に覆えます」
「急げ。大型結晶砲の準備はすでに始まっている」
声が近づいてくる。
オニロはそっと声のするほうへ視線を向ける。木々の隙間から、数人の騎士と金属杭を載せた荷車が見えた。騎士たちは周囲を警戒しているが、魔族が単独でここまで近づいているとは考えていないらしい。
荷車が通り過ぎるのを待ち、再び立ち上がろうとしたときだった。
身体の内側から、急激に力が引いていく。
「……っ」
オニロは木の幹へ手をついた。
血が抜けたわけでもないのに、手足が一瞬で重くなった。風の音が遠ざかり、水を含んだ土の気配も薄れていく。身体の中に張られていた三本の糸を、同時に緩められたような感覚だった。
慌てて呼吸を整え、オニロは指先へ意識を集中させる。足元の落ち葉が一枚だけ浮かび上がり、刃のように回転して近くの枝を切り落とした。普段より威力が弱い。これでは、単独で戦闘になれば人間相手でも生き残ることは難しい。
――父さんたちと合流したほうがいいか?
一瞬だけ浮かんだ考えを、オニロは押し込めた。今戻ったところで、敵が何を準備しているのかわからなければ、同じ場所で追い詰められるだけだ。それに、セラスは自分へ来るなと言った。
彼女から離れるつもりは毛頭無い。だが、今の自分ではセラスを説得するだけの材料がないのも事実。
だからオニロは木の根元へ膝をつき、目を閉じた。そうして精霊たちに問いかける。
「聞こえるか」
――返事はない。
それでも諦めるつもりはない。意識を細く研ぎ澄ませ、木々のあいだに残る風を辿っていく。大きな力で呼び寄せようとすれば、遮断する力に弾かれる。だから、慎重に。小さな穴に糸を通すように、丁寧に。
「ここまで来なくていい。聞こえているなら、そこから答えてくれ」
――しばらくして、頬へ微かな風が触れた。
それはもはや吐息に近いほどか弱かった。触れた途端、怯えた声がいくつも頭の中へ流れ込んでくる。
『入れない』
『黒い石が押してくる』
『道がなくなった』
途切れた声の向こうに、金属杭の姿が浮かんだ。黒ずんだ結晶が精霊たちを押し退け、その力を杭から杭へ繋いでいる。
――これが精霊たちを邪魔してるのか。
「杭は、どこにある?」
問いかけると、風がいくつもの方角から吹いた。
北、東、南。村を包むように、精霊の声が途切れている。西側の森も、すでに騎士団の一部が回り込んでいた。村人が使う予定だった逃げ道の先にも、兵の列がある。
オニロは手帳を取り出し、村と街道、その周囲に打ち込まれた杭の位置を記していった。
「他には」
『大きなもの』
『鉄の口』
『光を食べている』
風が運んできた景色の中に、街道へ並べられた大型結晶砲が見えた。村へ向けられた砲身の周囲で、騎士たちが慌ただしく動いている。その後方には、通常の鎧とは異なる金属装具を纏った兵士たちもいた。
杭を壊しただけで、すぐに精霊が戻るとは限らない。一本ずつが独立して作用するのか、すべてを繋いで範囲を作っているのか、それを確かめる必要がある。
「声が届く限りでいい。杭を繋いでいる力の流れを教えてくれ」
オニロは目を閉じたまま、手帳へ描いた線に指を添えた。
村の中がどうなっているのか知りたかった。セラスが無事なのか確かめたかった。だが、そのために闇雲に走れば、敵へ自分の居場所を教えるだけだ。
焦りを息とともに吐き出し、精霊たちの微かな声だけに意識を向ける。
自分に出来ることをする。
明確な意志を持って、オニロは森の中を探り続けた。
***
精霊遮断杭を打ち込む音が止まってから、さほど時間は経っていなかった。
宿屋の外が急に騒がしくなり、セラスは寝台から身を起こす。眩暈はまだ残っている。壁へ手をつきながら窓まで歩くと、村の入口へ向かって人々が走っていく姿が見えた。
「何があったの?」
部屋へ戻ってきたミリーへ尋ねると、彼女は青ざめた顔で首を横に振った。
「逃げ道が塞がれてる。森へ向かった人たちが戻ってきたの。どの道にも騎士団がいるって」
窓から身を乗り出すと、村の外へ向かっていた荷車が引き返してくるのが見えた。泣き出す子どもを抱えた母親や、足を引きずりながら歩く老人たちもいる。先ほど白い皿を持たせた老人は、荷車の上で布に包んだ皿を胸へ抱きしめていた。
避難は、間に合わなかったのだ。
「私も行く」
「まだ動いちゃ駄目だよ」
「でも、もう騎士団が来てるんだよ!」
ミリーの手を振り切り、一歩を踏み出す。足は動いた。しかし、二歩目で床が大きく揺れ、セラスは壁へ肩をぶつけた。
「ほら、まだ無理だよ!」
「でも、ここにいるだけなんて……!」
ミリーは答えず、セラスの腕を自分の肩へ回した。
「外を見るだけだからね。絶対にひとりで走っていかないで」
「……うん」
ミリーに支えられ、宿屋の外へ出る。
村の入口には、すでにエザフォスたちが集まっていた。ラティオとトゥルマリナは、戻ってきた村人たちを広場へ誘導している。その向こうで、エザフォスだけが村の外へ向かって歩いていた。
「パパ!」
セラスが呼んでも、エザフォスは振り返らなかった。
***
村へ続く街道の先を、王都騎士団が埋め尽くしている。横一列に並んだ盾の後方には、装着式兵器を纏った兵士たちが立ち、そのさらに後ろから大型結晶砲の砲身が覗いていた。森の中にも鎧の光が見える。どこへ逃げようとしても、騎士団の目から逃れることは出来ないだろう。
エザフォスは村と騎士団の中間まで進み、足を止めた。
たった一人だった。
剣も持たず、鎧も身につけていない。それでも、彼がそこに立っただけで騎士たちの列が僅かに揺れた。千五百年ものあいだ、人間が恐れ続けてきた魔王が、何にも護られず正面から彼らを見据えている。
騎士団の列が左右へ開き、馬に乗ったルーナが現れた。数人の騎士を従え、エザフォスと向き合える距離まで進み出る。
「魔王エザフォス」
ルーナの声が、朝の街道へ響いた。
「エザーレ村は、王都に対する反乱に加担した疑いがある。村人全員の身柄を王都騎士団へ引き渡し、魔族はこの場から退去しろ。応じるならば、我々はここで戦闘を行わない」
冷たい声が響く。だがエザフォスは動かなかった。
「村人をどうする」
「王都へ移送し、取り調べを行う。反乱への関与が認められた者は、王国の法に従って裁かれる」
ルーナの返答に迷いはなかった。だからエザフォスも、きっぱりと告げる。
「断る」
その声は低く、それでも村の中まで明瞭に届いた。
「私を信じた者を、私が売り渡すことはない」
「その選択が、彼らを戦いに巻き込むことになってもか」
「ここまで兵を連れてきたのはお前だ」
ルーナは僅かに目を細めた。
「ならば、交渉は決裂したものと判断する」
馬上でルーナが片手を上げる。その動きに応じ、騎士の一人が書状を広げた。
「エザーレ村は魔族を匿い、王都からの命令を拒絶した。よってこの地を反乱軍の居留地と断定し、王国の治安を脅かす勢力として制圧する!」
騎士たちはすでに武器を構えている。大型結晶砲は村へ照準を合わせ、装着式兵器を纏った者たちもいつでも進めるよう身構えていた。
初めから、戦わずに帰るつもりなどなかったのだ。
ルーナの手が振り下ろされた。
「攻撃を開始しろ」
騎士たちが一斉に武器を構えた。大型結晶砲の内部で歯車が回り、砲身へ埋め込まれた結晶が青白い光を放つ。大気が震え、地面の小石が細かく跳ね始めた。
結晶砲の光が、朝靄を白く染めた。
「放て!」
轟音とともに、巨大な光が砲身から解き放たれる。
エザフォスは逃げなかった。
村を背にしたまま片手を掲げ、正面から迫る光を見据える。その周囲で空気が歪み、黒い壁のような魔力が一瞬で広がった。
――瞬間。
朝の静けさを押し潰す轟音が、エザーレ村全体を揺さぶる。
それが、魔王と騎士団の全面戦争の幕明けだった。




