第58話 騎士団進軍
朝靄の向こうに、エザーレ村の姿が見えていた。
街道を進んできた王都騎士団は、村を射程に収められる地点で足を止めている。兵の列を組み直し、ここから先の侵攻に備えるためだ。鎧に覆われた人間と、兵器を積んだ荷車が街道を埋め尽くしている。軍馬の荒い鼻息に、金属が擦れ合う音が重なり、朝の静けさを押し潰していた。
その先頭に立ち、ルーナは遠眼鏡を覗いていた。
小高い土地に築かれた村は、遠目にはひどく穏やかに見える。朝の光を受けた屋根から細い煙が昇り、畑の周囲にはまだ夜露が残っていた。これから戦場になるとは思えないほど、ありふれた人間の暮らしがそこにある。
だが、ルーナの目に映っているのは家でも畑でもなかった。村へ続く道と、その周囲に広がる森。騎士団が展開できる土地と、村人や魔族が逃走に使う可能性のある経路。そのすべてを頭の中で地図と重ね合わせている。
「先遣隊からの報告は」
「村の北側と東側に、今のところ大きな動きはありません。森へ入った斥候も、魔族とは遭遇していないとのことです」
「そうか」
小さく頷いたルーナは、遠眼鏡を下ろし、宣言した。
「予定どおり、村を包囲する前に精霊遮断杭を設置する。一本でも位置を誤れば、そこが綻びになる。地形を確認しながら進めろ」
「はっ!」
騎士が駆け去ると、ルーナは村の方角をじっと見据える。
魔族がどれほど強大であろうと、その力の根源は精霊にあることが発覚した。ならば、精霊との繋がりを断てばいい。魔族が人間には持ち得ない力を振るうのなら、人間は魔族にない知恵と技術で、その力を奪えばいいのだ。
これは魔王という脅威を世界から排除するために必要な作業だった。
前方では、ダスクが兵士たちの隊列を整えている。
「勝手に列を乱すな! 装着式兵器を先頭に置き、その後ろを通常装備の者が進む! 森の中へ入っても、指示があるまで攻撃するな!」
怒声が飛ぶたび、兵士たちの動きが揃っていく。
装着式兵器を纏った者たちは、歩くだけで地面を深く踏み沈めていた。人の身体を覆う分厚い金属装具の継ぎ目から、埋め込まれた精霊の結晶が覗いている。青白い光が脈打つたび、兵士の力だけでは持ち上がらないはずの腕が、鈍い音を立てて動いた。
その威容を目にしても、兵士たちの顔から怯えが消えたわけではない。彼らがこれから向かうのは、魔王を信仰する者たちの村だ。その先には、千五百年ものあいだ世界を支配してきた魔王がいる。幼い頃から、逆らえば国ごと滅ぼされると教えられてきた存在だった。
「怯えるなとは言わん!」
ダスクの声が、ざわめきを断ち切る。
「恐怖を捨てた者から死ぬ! だが、恐怖に足を止められた者も同じだ! 目の前の敵ではなく、隣にいる仲間と私を見ろ!」
兵士たちは武器を握り直した。
その後方では、タルデが結晶兵器部隊を指揮していた。大型結晶砲が荷車から降ろされ、太い脚部を地面へ食い込ませていく。砲身が向きを変えるたび、歯車の噛み合う低い音が街道に響いた。
「まだ結晶は装着しないようにしてくださいね。先に砲身を固定するんです。傾斜を計測してから照準を合わせます」
「しかし、いつ攻撃命令が出るか――」
「急いで壊せば、次に撃たれるのは村ではなく我々です。順序は護ってくださいよ、フフ……」
タルデは作業員の手元を確かめると、森へ運び込まれていく細長い金属杭へ目を向けた。
人の背丈ほどもある杭の中心には、黒ずんだ精霊の結晶が埋め込まれている。先端は土へ打ち込みやすいよう鋭く削られ、その表面には複雑な溝が刻まれていた。
兵士たちは街道から枝分かれし、村を囲むように森の中へ入っていく。選ばれた地点へ杭を立てると、何人もの手で巨大な槌を振り下ろした。
硬い音が森の奥まで響き渡る。
一本、また一本と、精霊遮断杭が大地へ沈んでいく。
杭に埋め込まれた結晶が仄かに光り、周囲の風が不自然に淀んだ。木々の葉は揺れているのに、そこを渡る風からは、命の気配だけが抜け落ちている。
魔力は持たない。それでも、確かに異様な雰囲気は感じられた。……魔族とは、このような世界の中で生きてきたのかと、生まれて初めて感じることが出来た。皮肉な話ではあるのだが。
もっとも、そんな感傷でこれからするべきことが変わるわけではない。
「全地点への設置が終わるまで、村には近づくな」
ルーナは静かに命じた。
「逃げ道を閉ざし、魔術を封じてから進軍する。こちらの準備が整う前に、相手へ戦う機会を与える必要はない」
再び槌が振り下ろされた。
その音は少しずつ間隔を空けながら、エザーレ村の周囲へ広がっていった。
***
エザーレ村では、夜が明ける前から避難の準備が続いていた。
街道から離れた森の道へ、荷車が一台ずつ送り出されていく。歩くことの出来る者は自分の足で進み、幼い子どもや病人、足腰の弱った老人が優先して荷台へ乗せられていた。
「荷物はそれだけにして! 必要なものだけ持っていこう!」
家から大きな木箱を運び出そうとしている老人に、セラスは声をかけた。
「だが、これは家に代々伝わってきたもので……」
「気持ちはわかるけど、その箱を載せたら、人が一人乗れなくなるよ」
老人は木箱と荷車を見比べた。手が、なかなか箱から離れない。
セラスは急かさず、その隣にしゃがみ込む。
「何が入ってるの?」
「妻が使っていた食器だ。もう十年も前に死んだがな。私には、これくらいしか残っておらん」
木箱の蓋が僅かに開き、中から縁の欠けた白い皿が見えた。高価なものには見えない。それでも老人にとっては、家や畑と同じように、置き去りには出来ないものなのだろう。
何もかも捨てて逃げればいいと、簡単に言えるはずがなかった。
「じゃあ、一枚だけ持っていこう」
セラスは箱から皿を取り出し、近くにあった布で丁寧に包んだ。
「残りの箱は、できるだけ安全そうな場所に運んでおくから」
老人は皿を受け取ると、目尻に深く刻まれた皺を緩めた。
「ああ。そうだな」
荷車へ乗る老人を見届け、セラスは次の家へ向かおうと立ち上がった。
「セラス!」
名前を呼ばれて振り返ると、ミリーがこちらへ駆けてきた。両腕には毛布が山のように抱えられ、前がほとんど見えていない。
「ミリー! それ、私が持つよ」
「大丈夫。これくらいなら私にも運べるから。セラスは他のを――わっ!」
そう言いながら足元の石に躓きかけ、毛布の山が大きく傾いた。セラスが慌てて支えると、ミリーは照れたように笑う。
「……半分だけお願いしてもいい?」
「全部持つって言ってるのに」
「私も手伝いたいの」
譲るつもりはないらしい。二人で毛布を分け、子どもたちが乗っている荷車へ運ぶ。
村の中は慌ただしかった。誰かを呼ぶ声と、泣き出した子どもを宥める声があちこちから聞こえてくる。長く暮らしてきた家を何度も振り返る者もいた。それでも、避難を拒む者はいない。エザフォスが自ら家々を回り、ここに残らないでほしいと伝えたからだ。
魔王のために戦うと言っていた者たちも、魔王本人から生きろと命じられれば、従うほかなかった。
荷台へ毛布を敷き終えたところで、ミリーがぽつりと言った。
「私ね、本当は少しだけ、魔族のことを怖いって思ったこともあるんだ」
セラスの手が止まった。
ミリーは荷車の縁を掴んだまま、俯いている。何気なく口にした言葉ではないのだと、その横顔を見ればわかった。
「ラティオさんが村に来て、騎士団のことを教えてくれたときも、最初は疑ったの。私たちを騙して、何かに利用するんじゃないかって。魔王様に助けられた私でも、そう思ったんだよ」
「……うん」
胸の奥に、小さな棘が刺さった。
責めることは出来ない。魔族は人間にとって、恐ろしい存在であり続けた。エザフォスも、ラティオも、トゥルマリナも、その恐怖を否定せずに背負っている。人間を萎縮させ、争いを起こさせないために必要なものとして、自ら恐れられる道を選んできた。
それでも、ミリーの口から聞けば、胸は痛んだ。
自分だけは違うと思いたかったのかもしれない。旅の途中で出会った人たちには、怖がられずに受け入れてほしいと、心のどこかで願っていた。
「ごめんね」
ミリーが顔を上げる。
「どうしてミリーが謝るの?」
「セラスが、悲しそうな顔をしたから」
指摘され、セラスは笑おうとした。けれど、上手く笑えている自信はなかった。
「怖いと思うのは、悪いことじゃないよ。人間に怖がられるために、魔王はいるんだもん」
「……でもね! 怖いとは思ったんだけど、それでも、信じられるってだんだんわかってきたよ」
ミリーはまっすぐセラスを見つめた。
「魔王様たちは、私たちのためになることしか言わなかった。ここへ残って一緒に戦うって言ったときも、喜んだりしなかった。逃げて、生きてほしいって言った。だから私、絶対に信じて味方するって決めたからね」
迷いのない声だった。
その言葉に安堵したはずなのに、胸に刺さった棘は、さらに深くへ潜り込んだ。
ミリーが信じてくれているのは『優しいセラス』だ。傷ついた人を助けようとし、村を護ろうとしている今の自分しか知らない。
でももし、焼け落ちたあの村を見たら。
炎の中で泣き叫ぶ人々を、その手で生み出したのだと知ったら。
それでも、同じ目で見てくれるのだろうか。
「……たとえば」
声が、僅かに掠れた。
「たとえば私が、間違えて村を滅ぼしたことがあったとしても、怖くない?」
ミリーが目を見開く。その言葉の真意を探るように、じっとこちらを見つめた。
セラスは逃げずに、その瞳を見返した。それでも、喉の奥は震えていた。こんなことを尋ねるつもりではなかったのだ。なのに、反射的に出てしまった。一度こぼれた言葉は、もう戻らない。
だからセラスは、グッと奥歯を噛みしめてから、もう一度口を開く。
「たくさんの人を傷つけて、取り返しのつかないことをしてたとしても……ミリーは、私を信じられる?」
「……それは、セラスが実際にやったことなの?」
すぐには答えられなかった。
けれど、沈黙だけで十分だったのだろう。ミリーの表情から驚きが消え、代わりに、今まで見たことのないほど真剣な眼差しが浮かんだ。
遠くで、荷車の車輪が軋む音がする。人々のざわめきも、やけに大きく聞こえてきた。
ミリーは長いあいだ考えていた。考えて、考えて、時間をかけて――やがて、顔を上げる。
「そのことを後悔しているんだったら、たぶん、信じられると思う」
胸の奥を掴まれたように、息が詰まった。
「間違えただけだから仕方ないって言って、忘れて笑っていられるなら、もう信じられない。死んだ人も、なくなったものも、戻らないから」
「……うん」
「だから、もしもそういうことをしちゃったんだとしたら……もう元に戻らないんだとしたら、ちゃんと一生後悔してて。ずっと傷ついて、許されないんだって、思ってて。だけど――」
ミリーは、微笑む。
「後悔してるから、今度は絶対に間違えたくないって思うんでしょう? 誰かが傷つく前に、助けたいって思うんでしょう? だったら、セラスがしたことは消えなくても、今のセラスまで嘘にはならないよ」
赦されたわけではなかった。
焼け落ちた村も、失われた命も戻らない。あの日の罪を、なかったことには出来ない。
けれど、消えない傷を抱えていることと、その傷に足を掴まれ続けることは違う。
胸の奥に閉じ込めていた熱いものが、不意に溢れた。セラスは慌てて目元を拭ったが、涙は次々と頬を伝っていく。
「泣いてるの?」
「泣いてないよ」
「泣いてるよ」
「これは……ちょっと、目に朝露が入っただけだから」
「朝露は空から降ってこないと思うけど」
ミリーが困ったように笑う。セラスも泣きながら笑った。
過去は消えない。これから先も、きっと何度も思い出す。あの炎の熱も、人々の悲鳴も、自分の中からなくなることはない。
だからこそ、忘れないまま進めばいい。
「……一生、後悔する」
セラスは涙を拭い、しっかりと顔を上げた。
「絶対に忘れない。だから、みんなのことは絶対に護るからね!」
「うん。頼りにしてる」
ミリーが差し出した手を、セラスは強く握った。
もう迷わなかった。
自分の力を恐れて、何もしないことを選ぶつもりはない。二度と間違えないために考え、護るために使う。その先でまた傷つくことがあったとしても、立ち止まる理由にはしない。
「まずは残ってる人を確認しよう。私、村の端まで見てくるね」
荷車から離れ、一歩を踏み出した。
その瞬間、膝から力が抜けた。
「……え?」
地面が急に迫り、セラスは咄嗟に手をついた。身体を支えきれず、肩まで大きく沈み込む。
「セラス!?」
ミリーが慌てて駆け寄ってくる。
「大丈夫。ちょっと、足が……」
立ち上がろうとしても、腕に力が入らない。指先がひどく冷たく、呼吸をするだけで身体の奥から何かが抜け落ちていく。
セラスは地面に触れたまま、周囲を探った。
いつもなら、大地の奥で微かに息づいているものがある。木々の間を駆け抜ける風にも、井戸の水にも、朝の光が温める空気にも、精霊たちの気配が満ちていた。
それが、今はほとんど感じられない。まるで世界と自分のあいだへ、見えない壁を打ち込まれたようだった。
「どうして……」
遠くから、硬いものを打ちつける音が聞こえた。
一度。
少し間を置いて、もう一度。
森の奥から村を囲むように、その音は少しずつ近づいてくる。
セラスは青ざめた顔を上げた。
――それは、戦争の始まりを告げる音だった。




