第47話 生を受けた意味
いっぱいにパンが盛られた籠を、トゥルマリナがオニロの部屋のテーブルにドンと置く。
「バタバタしてて、何も食べてないでしょ? おなかがすいたままじゃろくな思考にならないわよ」
手招きされ、オニロは思わず吹き出す。その瞬間、全身から力が抜けた。どうやら考え込んでいるうちに無意識に力が入っていたようだ。
「母さんが焼いたの?」
「そう。好きでしょ? もちもちの白パン」
「好き。久しぶりだな、このパン」
「あんたたち、一ヵ月もなかったものね。ちゃんと食べてたの?」
「食べてたよ。俺はともかく、セラスに何かあったら困るし」
「私からすれば、あんたに何かあるほうが困るんだけど」
焼きたてのパンと、バター、ジャム、それからチーズとコーヒーの入ったポットも籠の中には入っていた。そういえば、旅をしている最中はこういうものを用意するのはたいていオニロで、誰かに用意してもらったのはオゲーラでルビアの家に泊めてもらっていた間くらいだった。
こういう感じは忘れていた。何も考えずにぼんやりしているだけで、食事の準備を整えてもらえる。そういえば俺ってまだ子どもだったっけ、と。なんとなく、そう思えた。
「ねえ、母さん」
「なに?」
「父さんが、ルビアさんにちょくちょく会いに行ってることって、母さんは知ってたの?」
トゥルマリナの手がぴたりと止まる。そうか、この人も姉のことを聞かれると気まずいんだな、と。その反応に少しだけ笑いながら、オニロは母の横顔を見つめる。その表情が拗ねたように歪む。
「……知ってるけど、いつからなのかは知らないのよね」
「話してなかったんだ?」
「だいたいあの人は何もかも自分で抱え込むから」
「言えばいいのにな、母さんとか、俺とかにも」
「本当よ。あんたは絶対にあの人みたいにならないでよ? いちいち悪者になろうなんて、馬鹿馬鹿しい話なんだから」
「それ、魔王の右腕になろうとしてる息子に言うことか?」
「なろうとしてるから言うんでしょ。ラティオのやり方じゃあんたが何もかも抱え込むことになるじゃない。あの人には私がガミガミ言ってるけど、あんたにはそういう相手がいないんだから」
指摘されたくないことだった。オニロはわずかに微笑んで、誤魔化そうとする。だが、無理だ。ちゃんと笑うことができていないのは、鏡を見なくても十分にわかった。まだ温かいパンを手に取り、バターをたっぷり塗りつけて、口の中に放り込む。そんなオニロをちらりと見ながら、トゥルマリナもコーヒーを口に運んだ。
「……そもそも、私たちの見込みが甘かったのよね」
「見込み?」
「そう。本当は、私たちで終わらせるつもりだったのよ。世界征服なんてこと」
「ああ……」
「平和な世界を作れれば、魔王なんて必要なくなると思ってた。少なくとも、エザフォスやリーリエはそう信じてた。あの人たち、強いくせにのほほんとしてたから」
「強いから、じゃないの? セラスもそうだけど、力があると周りにどう見られるかとか、全然意識してないよ」
「それはそうかもね……けど、あんたはどうなの」
「俺?」
「あんたのほうが、私やラティオより強いでしょう」
「……今はまだ、実力では勝てないけど」
魔術はどれだけ使いこなせるかで強さは変わってくる。たとえばセラスくらい魔力があれば、何も考えずに放出するだけでも誰にも負けることはないだろう。それは相手がラティオやトゥルマリナでも同じだ。この世界で、セラスを子どものように扱えるのはエザフォスしかいない。
けれど、たとえ三種類の属性の魔力を持っていても、オニロではきちんと魔術を使いこなせなければ大人には敵わない。多少強い魔力があっても、この程度では大した力にはならないのだ。だからオニロは苦笑いして、肩をすくめた。
「いろんなところを巡ったけど、地の精霊だけに守護されてる地域以外では魔術が使えるから、案外不便しないんだなって思ったくらい?」
「それだけ?」
「それだけだよ。リーリエ様ならもうちょっと立派なことを考えてたかもしれないけど」
「どうかしらね。彼女はもっと呑気だったわよ。火属性の魔力だけないことを『私はドジだから火属性が使えたらすぐ火事にしちゃってたかも』なんて言って安心してたし」
「はは……確かにまあ、リーリエ様ってのんびりしてる感じだったけど」
オニロは昔のことを思い出す。とは言っても、たかだか十六、七年前のことだから、トゥルマリナからすれば昨日のことのように思うのかもしれないが。
まだオニロが赤ん坊だった頃、お腹の中にセラスがいて動けなかったリーリエは、よくオニロを預かってくれていた。当時、トゥルマリナは子どもを育てられるような状況ではなかったのだ。産後すぐに体調を崩し、長らくベッドから起き上がれなかった。だからオニロはほとんどの時間をリーリエと共に過ごしたのだ。
「リーリエと、どんな話をしたの?」
「話をした……っていうか、俺はまだ喋れなかったから、一方的に聞いてただけだったけど」
「赤ん坊相手に一方的に話してたの?」
「そう。ほら、セラスがお腹の中にいる頃だから、この子は女の子だからいつかオニロと恋をしたりするのかしら、とか、もし恋人にならなかったとしてもずっと一緒にいてあげてね、とか」
「リーリエらしい。そもそもエザフォスにくっついてきたのも、エザフォスに恋をしたからだものね。全ての行動の基準が恋愛になってるっていう感じ」
「そうなのかも。エザフォス様の話も聞かされたよ。人と話をするのが苦手で、その理由がエザフォス様の言うことを先回りして父さんが察してしまってからだとかって」
「まあ、そうね。でもそれはリーリエも同じよ? 表情で察して、何してほしいかとか、今何を感じてるかとか、勝手に理解しちゃうんだもの。おかげで私は千年以上一緒にいるのに、エザフォスとはあまりちゃんと意思疎通できないもの」
「わかる。俺もエザフォス様が何を考えてるか、あんまりちゃんとはわかんないし。でもリーリエ様は、なんか伝わってるっていう感じだったよなあ。エザフォス様がリーリエ様の部屋に来たときとか、二人とも黙ったままずーっと隣同士に座ってて、何してんのかなって思うこと結構あったし」
「そりゃそうなるわよねえ。自分じゃ動けない赤ん坊じゃ、なんにも理解できなかったでしょうし」
パンを食べながらそう言って笑って、トゥルマリナはそっとオニロのほうへと視線を向けた。
「あんたやっぱり、赤ん坊の頃から意思があったのね」
「……え?」
「喋れなかった頃から全部、大人の言っていることを理解して、覚えてるんでしょう?」
「あー……」
そういえば、と、オニロは苦笑いする。トゥルマリナがあまりにも普通に話を振ってきたから普通に昔話をしてしまったが、生まれたときからの記憶があることはセラスにしか話していない。しまったなあ、と苦笑いしながら、オニロはパンを口に頬張った。それで黙っていられるとは思わないのだが。
「変だとは思ったのよね。あんた、子どもの頃から賢すぎたし」
「うーん……」
「赤ちゃんのときから聞き分けがよくて我がままのひとつも言わないし、セラスを支えなさいって言われても受け入れるし、意味も理解しているみたいだったし……でも、おかしいなと最初に思ったのは、あんたが生まれてきたときね」
「……え?」
「だってあんた、生まれたときから魔術を使っていたでしょう? たぶん、無意識に。死にかけた私を回復させるための魔術を」
その言葉に、さすがに驚いて目を瞠る。まさか気づかれているなんて、思わなかった。オニロが生まれてきた瞬間に、トゥルマリナは死にかけていたというのに。
パンを飲み下すオニロを見て、トゥルマリナは少しだけ寂しげに笑って、言った。
「自分より魔力の強い子どもを産めば、母親は耐えきれなくて死ぬ。私も母親を殺して産まれてきたし、それはエザフォスやラティオも……なのに私は、生き残った。それはあんたのおかげでしょう?」
「…………」
「私だけ、生き残ったのよ。……リーリエは死んでしまったのに」
その言葉の温度がオニロには測りきれず、ただ静かに、息を吐いた。




