第46話 理想の世界
「強い者に怯えるのは、人間も魔族も同じだ」
ラティオが語る言葉に、エザフォスはじっと聴き入っている。
「圧倒的な力を前にすれば抵抗する気力を失う。逆らってもダメだとわかれば言うことを聞くしかなくなる。常に切っ先を向けられたままなら、迂闊な行動はとれなくなる」
「……それは、常に私が脅威だと思わせなければ意味がない」
「そうだ。言っただろ? お前が世界を統べるんだ、って」
「統べる……」
「世界で最も恐ろしいのはエザフォスだ、っていうことを世界中に見せつけてやるんだよ。そうしたら、誰もお前に逆らおうなんて思わなくなる」
エザフォスは納得したように息を吐いた。世界を統べる。その言葉を、大切な宝物かのようにゆっくりと繰り返した。
しかし、ラティオは眉間に皺を深く刻み、ただ、と続けた。
「ただ問題は、世界の全てにお前の力を見せつけるにはどうしたって時間がかかる。一朝一夕に出来るようなことじゃない。それに、お前を脅威と思わせ続けなければいけないというのもある。もしかしたら、勇敢なやつはお前を倒そうと向かってくるかもしれない――お前が静かに暮らせる日々は、たぶん、なくなる」
本当は穏やかな日々を望むエザフォスにとって、それは恐ろしいほどの負担になるだろう。だからラティオは、提案はしたものの、断ってくれと心の底から願っていた。そんな過酷な一生をエザフォスに送らせるのは、いくらなんでも酷な話だ。わかっていて提案した自分にも問題はあるとはいえ、世界中の悪意を一人で引き受けるというのは――
「構わない」
エザフォスは、そう言った。ラティオの願いを引き裂くように。
「エザフォス、お前、言っている意味がわかってるのか?」
「……お前が提案しただろう?」
「そうだよ。俺が提案したことだよ。でも、迷いもせずに即答していいようなことじゃないだろ?」
「いや、構わない」
「でも――」
「私一人がお前に護られて生きるくらいなら、世界の敵として悪意を受けて、皆が平穏に暮らせるほうが、ずっといい」
そう言った瞳に迷いはなかった。まっすぐな眼差しがラティオを捕らえて、今までに見せたこともないほどの穏やかな表情で笑っている。
――こいつは本当に、そういう男なのだ。ラティオは半ば諦めたように息を吐く。誰かのために自分を犠牲にすることなんて、なんとも思っていないのだ。一生を悪意に晒されても、それを自分の使命と思ってしまえるのだ。
あらゆる精霊に愛されたエザフォスは、無償の愛を、生きとし生けるものに注ぐ。返って来るのは黒々とした感情だと、わかりきっているというのに。
「……わかった。それなら、やろう」
だからラティオは決めたのだ。
「俺が一生、お前の隣にいてやるから」
そう言ったら、エザフォスは今にも泣きそうな顔で、無邪気に笑った。
***
――そこから先も、細かい記述は続いていた。エザフォスとラティオがどんな風に、どんな順番で、世界を統べていったのか。
ただ、ラティオは入念に作戦を練っていた。建物や土地は破壊する。でも、誰の命も奪わない。圧倒的な力を見せつけるために、あらかじめ精霊と交渉して、土地をえぐって湖を作ったり、山を吹き飛ばして谷を作ったり。そんな風にして逆らえばどうなるかわからないと思わせて、武器を持つのをやめさせた。
もちろん簡単にいったわけではない。それでも粘り強く、争いが起こるその場所に現れ、力を見せつけ、武器だけを破壊し、争いを収める。そうこうしている間に人間も魔族も徐々に意識の底に刷り込まれていく。争えば圧倒的な力を持った王のような魔族が現れ、恐怖を振りまいていくのだ、と。
そうしてやがて、エザフォスは「魔王」と呼ばれるようになった。
『エザフォスはきっと、強い力なんてほしくなかったんだと思う』
ラティオの文字は、ところどころ、インクの染みで汚れていた。
『力を持って生まれたことを恨んだっておかしくないはずなのに、あいつは誰も恨まないし、呪わない。自分に出来ることを探して、実行する覚悟もある。まるで、神だ。俺にはそこまで割り切れない』
その言葉は誰かに向けて記されていた。これを書いていた頃は、読ませる相手なんていなかったはずなのに。
『それでも、エザフォスに世界を見せてしまったのは俺だ。だから、その責任はとる。そう決めた』
文字は太く、力強かった。
『だけどもし、いつかそれが出来なくなる日がきたとしたら――そのときは、次の世代に託させてほしい』
「……それで、この手帳をオニロに渡したんだ」
セラスは呟く。魔王を支える人という役目を託す相手を、ラティオは自分の子どもに決めて、ずっと前にこの手帳を渡していたのだろう。けれど、エザフォスは今でもセラスを魔王にはしたがっていない。その理由も、この手記を読んで、なんとなく理解できたような気がする。
エザフォスはただ、世界中の人を救いたかっただけなのだ。力で世界を威圧して、抗う意志をそぎ取った。そうやって千年以上の間、世界に平穏をもたらした。
それなのに人間は恐ろしい兵器を作り上げて、そんな魔王を倒そうとしている。――いや、きっとそれだけでは終わらない。
きっと力を持った人間は、そのまま世界中をめちゃくちゃにする。兵器の実験をするために、まだ人間が住んでいる村を焼き払うことができてしまうのだ。そんなことをする人間が、エザフォスのように世界を平穏に導けるわけがない。
でも、それなら、自分は? と、セラスは自問する。ふざけた理由で村をひとつ焼き払ってしまった自分が、世界に平穏をもたらす魔王になれるのだろうか。
セラスはギュッと拳を握る。その答えは――
***
自室に戻ったオニロはベッドに寝転がり、頭の中を整理しようと目を閉じる。セラスが今、何を思い悩んでいるのか。それを想像しようとして、しかし、嫌な言葉が頭をよぎる。
――お前には、セラスの気持ちは理解できないよ。
そんな父の言葉が、呪いのようにこびりついて離れない。
わかっているつもりだった。生まれたときから――いや、セラスが生まれてくる前から、自分たちはずっと一緒にいた。オニロのほうが早く生まれてきたけれど、まるで別の親から生まれただけの双子のように、同じ時間を過ごしてきたのだ。
それでもオニロには世界を統べる力がない。セラスが魔王になりたくないと言っても、変わってやれない。だから代わりに世界中の知識を全て習得しようと思ったのだ。セラスに出来ないことを全て、オニロが引き受ける。セラスが独りで傷つかなくても済むように。
なのに結局、セラスは今、たった独りで閉じこもっている。肝心なときにオニロは何もしてやれない。
ラティオもずっと、こんな気持ちだったのだろうか。世界を征服する前、旅に出る前――エザフォスを石室から解放する前。どの時点でも、エザフォスとラティオの力の差は大きすぎるし、考え方も性格もあまりにも違う。違うと意識する度に、ラティオは苦い気持ちを噛みしめていたのだろうか。
どうにも出来ないことを、ただ、見守る。その歯がゆさは、乗り越えるしかないのだろうか。何十年も。何百年も。千年以上の時間が過ぎても。
――そんなことが、自分に出来るのだろうか。
全身から力が抜けていく。そんな感覚に陥りそうになったとき。
コンコン、と――扉が、叩かれる。
「オニロ、ちょっと入ってもいい?」
扉の向こうから聞こえた声に、オニロは驚いて半身を起こす。聞こえて来たのは珍しい声だった。
「……母さん?」
こういうとき、今まではあまり口を挟んでこなかったのに。たいていは、いちいち釘を刺してくるのは、ラティオのほうだったのに。
オニロはふらふらと起き上がり、歩み寄り、扉を開く。
そこにはパンの入った籠を持ったトゥルマリナがいた。




