第28話 あの日、苛烈な恋を 後編
差し出されたナイフを見据え、トゥルマリナは硬直する。この男は何を言っているのだろう。試す? ラティオを? 言われた意味を飲み込めず、身動きがとれない。
「……あなた、何言ってるかわかってるの?」
「わかってるよ」
「つまりあなた、私に人を殺せと言ってるのよ!?」
「違うよ。死なない」
そう言って、ラティオはトゥルマリナの手にナイフを握らせる。
「君が俺を殺すことはないよ」
「……いくらあなたが回復魔術に優れていたって」
「信じて、なんて言ってもそう簡単ではないと思うけど……でも、一度でいい。俺を試してみてよ。俺は」
真っ直ぐに、彼の澄んだ緑色の瞳が、トゥルマリナの紅い瞳を捕らえて放さない。
そうして彼は、はっきりと言った。
「俺は、絶対に君を独りにしない」
揺るぎのない、真っ直ぐな眼差し。一瞬も逸らすことなく、その瞳にはトゥルマリナだけが映っている。
何か、考えたわけではない。
ほとんどその気迫に飲まれただけだった。
「…………」
無言のまま、トゥルマリナは刃を手のひらで握る。プツリ、と皮膚が切れる音がして、痛みが走った。その手のひらを、ラティオがそっと包み込む。
彼の唇が、血液に触れた。痛みと――恐怖。トゥルマリナは思わずラティオに手を伸ばす。だが、彼はその手を制し、柔らかく、微笑んだ。
――直後、ラティオが胸を押さえる。
「ラティオ!」
駆け寄ろうとするトゥルマリナに彼はゆっくりと首を振る。もう少し、待って。そう言いたげに目を細める。だが、その額には脂汗が浮き、眉間にも深く皺が刻まれていた。苦しいはずなのに。彼の身体の中ではトゥルマリナの毒がマグマのように煮えたぎっているはずなのに。それでも彼は、笑っていた。
静かに風が吹く。精霊の気配がする。
「……無茶を言ってごめんね。俺に、力を貸して」
そう語りかけるラティオの声は、あまりに穏やかで、優しかった。
風の精霊たちはそっとラティオに寄り添うと、その力を彼の体内へと流し込む。瞬間、ラティオの魔力の流れが変わった。涼やかに草原が揺れるように。その魔力が、広がっていく。
「癒しの風よ」
囁くようにラティオが告げる。さあっと、優しい風が彼と、そして、トゥルマリナも包み込んだ。先ほど切った手のひらも、すうっと傷が消えて行く。そして、ラティオは――
まるで何事もなかったように、静かにそこに佇んでいた。
「……無茶、するんだから」
トゥルマリナが泣きそうな声で呟けば、彼は「ごめんね」と言いながら、ゆっくりと歩み寄ってきた。
「君は、自分の魔力が他人を傷つけるのが怖いんだろう?」
「……そうよ」
「でも、見ての通り、俺は死なない。君を独りにすることは、絶対にない」
「…………」
トゥルマリナは俯く。溢れる感情を、彼に見せるのが嫌だった。唇を噛みしめ、気持ちが漏れ出てしまわないように、慎重に息を吐く。
それなのに、その決意をあっさりと切り捨てようとするように、ラティオは優しくトゥルマリナを抱き締めた。
「俺と一緒においで」
――だから、やめてよ。そういうことを言うのは。
文句を言おうと思ったのに、言えなかった。
だから代わりに、彼の背中を強く握った。憤りと――感謝を。そして、溢れ出る気持ちを、指先に全て集めて。
そのままトゥルマリナが落ち着くまで、ラティオは何も言わずにそっと、抱き締め続けていてくれた。
***
「――と、いう一部始終を私は見ていたの」
そうルビアが語り終えたとき、セラスは思わずため息を吐いた。
「ラティオ、すご……情熱的~!」
「ね。なかなか見ないわよ、あんな無茶苦茶な男」
クスクスと笑いながら、ルビアはオニロのほうに視線を向けた。自分の父親と母親の話を聞かされた彼は、今どんな気持ちなのだろうか。少しワクワクしながらそちらに視線を向けると、案の定、苦虫をかみつぶしたような顔で目を泳がせていた。
「オニロ、照れてる?」
「照れてる、っていうか……」
「ラティオって、昔はそんな感じだったんだーって思っちゃった。今はトゥルマリナの尻に敷かれてるって感じなのにね」
「あなた、こういう話って好きなの?」
ルビアに尋ねられて、セラスは全力で頷く。
「こういう話、初めて聞いたし。魔王城って、ラティオとトゥルマリナとオニロと、あとはパパしかいないから、こんな話しないもん」
「だとしたら、恋愛の話自体することないか」
「ないよ。ね、オニロ」
「……ないのに、自分の両親のラブロマンスを聞かされて、俺はもうどういう反応をしたらいいのかわからない」
「でも、そういうことを知るためにこの街に来たんじゃなかったの?」
「そうだよ。それはわかってた。わかってたけど……予想外だった、というか……」
ごにょごにょと言葉を濁すオニロがおかしくて、セラスはケラケラと笑ってしまう。産まれてからずっとそばにいてくれたオニロだけれど、こんな表情を見たことはなかったのだ。
ルビアもしばらくはその様子を見てケラケラと笑っていたが、やがてふと、真剣な表情になる。
「……私は、トゥルマリナを独りにすることしかできなかった。同じ場所に住んでたけど、やっぱり、怖かったのよ。あの子の毒に殺されるかもしれないっていうことが」
セラスもオニロも、同じように笑みが消える。一歩間違えば、殺されるかもしれない――意図せずに。でも、目の前で。
力を暴走させただけのセラスとは、まったく違う。
「あの子がこの街を出て行ったときも、正直ちょっと安心しちゃってさ」
「それは――」
と、咄嗟に反論しようとしたのに、できなかった。何を言うべきかわからなかった。そんなセラスを、ルビアは責めたりしなかった。
「けどね、ラティオはそんな私も、独りにしないでいてくれたの。……オニロ、あなた、知ってた? 数年に一回、ラティオがこの街に来てること」
「……知らない。父さんが世界の様子を見回りに行くのは、割といつものことだったから……」
「そういえば、行き先聞いたことないよね」
「ああ。何かしら、エザフォス様には報告してるから、別にいいかって……」
「なんかそういうとこあるわよね、あの男。そうやって、誰も彼も放っておかないというか、放っておけないというか」
だからね、とルビアはテーブルに手を載せ身を乗り出して、オニロの目を真っ直ぐに見つめた。
「いつか、あなたに会えたらと思ってた。……ありがとね、来てくれて」
トゥルマリナが出て行って、千百年。その間きっと、トゥルマリナはここに帰ってきてはいないのだろう。
それでも、確かに繋がっていた――そしてそこに、オニロがきた。そんなルビアの気持ちを、セラスには想像しきれない。それでも。
「……なんか、パパがずっとラティオと一緒にいる理由、わかった気がする」
セラスは呟く。ルビアは静かに頷いた。
オニロは目を閉じて、ゆっくりと息を吐く。
魔王城から出ようと思わなかったら、こんな気持ちを知ることもなかった。自分の周りの人たちがどんな気持ちで生きているかなんて、考えたこともなかった。
だから、余計に知りたくなってしまったのだ。
「ねえオニロ、私さ――」
と、思いきって口を開いた、その瞬間。
――ドォォォン!
爆発音。そして、地震。
遠くからだが、確かに聞こえる。それに、感じる。
「火の精霊が暴走してる!」
「もう、まただわ! ちょっと私、行ってくるから!」
そう告げるが早いか、ルビアは家を飛び出していく。止める暇も、問いかける余裕もなかった。
「オニロ、私たちも行こう! これって、絶対に機械のせい!」
「ああ!」
セラスとオニロも慌てて立ち上がり、外に出る。その瞬間。
――オ……ォォォ、オォ……ォォォ……オオオオオ……!
押し寄せてきたのは、まるで断末魔のような精霊の呻きだった。




