第20話 過去
――オニロには、産まれてすぐからの記憶がある。彼はそう語った。
「そういう子どもは、人間でも魔族でも、稀に生まれる。今まで読んできた本の中でも、何度かそういう記述を見かけた。だから、俺だけが特別ってわけじゃない」
そう前置きをして、オニロはじっと自分の手を見つめた。
「さすがに最初から言葉を話せたわけじゃないから、父さんたちがそのことを知ったのはだいぶ後だけど」
「……それって、まずいの?」
「まあ、本来は赤ん坊に聞かせるつもりじゃなかった話も全部覚えてるからな」
「めちゃくちゃ記憶力いい赤ちゃん、っていう感じ……?」
「雑に言えばそんな感じだな。父さんが赤ん坊の俺相手に愚痴ってた内容とか、披露したらめちゃくちゃ焦ってたよ」
肩を振るわせながら笑っているが、その声はどこか乾いている。その違和感が、セラスの背筋を凍らせる。どうしたの、と、聞きたい気持ちもある。けれど、迂闊に声をかければ何かが壊れてしまうような恐怖が全身を駆け巡る。
オニロは一度、二度、息を吐いてから、ゆっくりと語りだす。
「生まれた直後から、俺が聞いたもの、見たもの、体験したことは全部記憶にある。だから、母さんが休んでいる時にリーリエ様が代わりに世話をしてくれた時のことなんかもよく覚えてるんだ」
「……ママに、抱っこしてもらったことも、あるの?」
「あるよ。何度もあるし……お前がお腹の中にいる時に、リーリエ様と二人で話したこともある」
「ママと……」
セラスは思わず息を呑む。セラスはリーリエを知らない。リーリエが死んでしまった時には、オニロはまだ二歳だった。だから自分と同じように、リーリエのことは覚えていないと思っていたのだ。
なのに、覚えている。――でも今思い出してみれば、その片鱗はいくつもあった。セラスが忘れてしまったようなことも、オニロは全て覚えていた。例えば自分たちが三歳とか、四歳とか、それくらいの頃のこと。そんな頃のことはセラスはほとんど覚えていない。けれどオニロは見てきたように口にして、からかってくる。
それは全て、彼が過去のことを覚えていたからだったのだ。
「なんで」
セラスは思わずこぼす。
「なんでママのこと、知ってるなら、教えてくれなかったの……」
「……そうなるよな」
苦笑いして、彼は一瞬だけ口を閉ざす。それから、言った。
「エザフォス様が、話したがらなかったんだ。リーリエ様が死んですぐは、お前を育てるので必死だったからまだ大丈夫だったけど、それが落ち着いた頃にめちゃくちゃ落ち込んだんだ――うっかり魔術が暴走しそうなくらい」
「ぱ……パパが、暴走、って……」
「うっかりそうなったら、世界が滅びるな」
オニロはさらりと言ったが、それがどれだけとんでもないことなのかは想像するまでもない。圧倒的な魔力量を誇り、誰にも使えないような魔術を使う。そんなエザフォスが魔力を暴走させたとしたら――それは、世界の滅びの時だ。
「だから、みんな黙ってたんだ……」
「……そうだな」
オニロは苦々しく笑い、ため息をついた。
「お前が知りたがるだろうことはわかってた。俺が逆の立場だったらなんで黙ってたんだって言いたくなると思う。それでも……エザフォス様の暴走だけは、防ぎたかったんだ」
「……それは、責められないじゃん。パパが暴走したら困るのなんて、誰にだってわかるんだから」
「だよな……」
「だから、これから教えてよ。ママのこと。オニロだってその気があるから教えてくれたんでしょ?」
「ああ。これから行くのがジュピア村だから、黙っておくのもちょっとなー、って思って」
「ジュピア村のこと、ママと話したことあるの?」
「話したっていうか、あの頃はまだ俺はまともに話せなかったから、どっちかっていうとリーリエ様が一方的に話してたっていう感じなんだけど」
そう前置きをしてから、オニロは過去のことを口にする。まだセラスがリーリエのお腹の中にいて、他の大人はどこかに出掛けていて、オニロとリーリエが二人きりだったという時のことだ。
「リーリエ様は、お前を妊娠する前に一度ジュピア村に来たらしいんだ」
「里帰り、みたいなこと?」
「……ああ、多分。これから暫く村に帰れなくなるから、その前にめいっぱい結界をかけてきた、って。だけどそれは永遠に保つというものじゃないから、何十年か経ったらセラスを連れて行って、結界を強化してほしい、って」
「私が? オニロがやるんじゃなくて?」
「そう、俺じゃなくて」
オニロはそう言うと、優しく笑った。まるでずっと年上の大人のように。
「リーリエ様は、お前ならリーリエ様と同じ魔術が使えるようになると思ってたんだろうな。ただ予定外だったのは、思ったよりも早く結界の効力が薄れたことだ」
「……機械の存在は、ママも把握してなかったんだ」
「誰も把握できてなかったと思う。世界の変化の情報を一番細かく把握してるのは父さんだけど、その人でさえ機械に精霊の結晶が使われてるなんて知らなかったはずだ」
「なんか……やな感じだね。これから、よくないことがたくさん起きそう」
「俺もそう思う。だから少なくとも、ジュピア村の結界は元に戻して、水の精霊の流出は防ぎたい」
うん、と、セラスは頷く。だが同時に疑問も浮かんだ。
「……結界の強化って、私がやるんだよね?」
「ああ。俺がやるより、お前の方が適任なはずだ。リーリエ様の血筋の魔族がやる方が、綻びは少なくなる」
確かに理屈ではそうなのだろう。基本的に魔術は知識と技術によってコントロールするものだが、同じ魔力が流れている方が同じ魔術は成功しやすい。だからリーリエの血を引き、その魔力を受けたセラスなら、きちんと魔術が使えれば、結界も強く貼れるはずだ。
でも、今のセラスにそれが可能なのか。
……簡単にはできないから、何十年か先の話とリーリエは言ったのではないか。
「まあ……難しい魔術なのかもな、とは思うよ」
「だったら――」
「だから、俺が手伝う。結界の貼り方は聞いてる。で、俺は魔術の行使を補佐する魔術が得意だ。エザーレ村でもやっただろ? あれと同じことをするんだよ」
「……うん」
胸を張って頷くことはできなかった。以前、成功したのは単に必死だったからだ。魔術だって、ほとんどオニロがやってくれた。自分はただ魔力を注ぎ込んだだけ。それと全く同じでも問題ないのなら、気にせずに行動できるのだが――
母と同じことを、自分がやる。そのプレッシャーが、セラスを押しつぶす。
「……やれるようにならないとダメなんだよ」
不意に鋭い声が聞こえて、セラスはハッとして顔を上げた。
「不安だろうがなんだろうが、やれるようにならないとダメだ。正直、機械がどこまで広がってて、どれくらい影響があるのか、今の時点ではわからない。けど……だからこそ、お前はとにかく早く成長してもらわないと困る」
「こ、困るって言われても……」
「困るもんは困るんだよ。無茶を言ってるのはわかってる。本来は時間をかけて育つのを待つべきなのもわかってる。けどそんな余裕はない。それはわかってるだろ?」
「わ……わかる、けど……」
頭でわかるのと、気持ちがついていくのとは別の話だ。もっとも、オニロはそこまでわかった上で言っているのも理解している。だからこそ、逃げるという選択が残されていないことに、セラスは怖じ気づく。
――ママが護った大切な場所を、私が壊したらどうするの。
だがそんな弱音を吐いたところでオニロが赦してくれるとは思えない。腹を決めるしかないのだ――そう覚悟を決めながら顔を上げたときだった。
「あ……」
眼前に、巨大な建造物が広がる。恐ろしいほどに細かな彫刻がびっしりと刻まれた外壁。窓は一切なく、ひとつの石から掘りだしたかのようにつなぎ目が見当たらない。大きく三つの形に分かれていて、真ん中だけ円形の屋根、その両側には鋭く尖った三角の屋根の構造物が塔のようにそびえている。高さにしておよそ十メートル。それは――
「これが、ママのいた村の神殿……」
蜃気楼で一度だけ見た神殿の実物は、想像以上に荘厳で、セラスの視線を奪っていった。
***
神殿には窓がない。ということは、神殿の内部は真っ暗だということでもある。
「うわ、何も見えない……」
扉を開き、一歩足を踏み入れただけで視界を奪われる。こんな場所で、本当に儀式を行っていたのだろうか。訝しむセラスに、オニロはポンと背中を叩く。
「魔術を使え。それで灯りをつけて中を照らすんだよ」
「あ、なるほど」
言われてみれば、とセラスはハッとして両手をそっと前にかざす。そうして静かに意識を整え、手のひらに魔力を集中させる。
「光よ――」
そう唱えた瞬間。
――ザアッと、身体を冷たい何かが撫でていく。まるで、水流の中に飲まれたような、可笑しな感覚。足元から掬われて、流されていくような――
ハッと、息を呑む。
……次の瞬間、眼前はなぜか明るい森の中になっていて。
そこには二人の男女の姿――エザフォスと、それと、もう一人。
「……リーリエ様」
オニロの声だけが聞こえて、セラスは知った。
薄い水色の長髪で、エメラルドの色の瞳の細身の女性が、リーリエ――自分の母なのだ、と。




