第14話 闇の思念と地の精霊
――吐き気が収まらない。
ぐちゃぐちゃとした感情がセラスの中に忍び込んできて、じわじわと蝕んでいく。全身が重くなり、指先を動かすのもだるくなり、身体の中のありとあらゆるものを吐き出してしまいたくなる。脳が直接かき混ぜられるような感覚に振り回されて、セラスはぐらりと倒れそうになる。
大きな腕が、その身体を支えてくれた。
「落ち着け、セラス」
顔を上げる。オニロがじっと、こちらを見つめていた。
「ゆっくりと息を吐け。吸うことは考えなくていい。吐いて、吐いて、吐き続けて」
そんなことしたら苦しいじゃん――と、口答えする余裕もなかった。言われるがままに、セラスは息を吐く。吸ってもいないのに吐くなんて、正直に言えば難しい。意識を集中しなければ、うっかり吸ってしまう。だから吐いた。しっかりと腹に力を入れて、吐いて、吐いて、吐いて――
「……あれ?」
いつの間にか、視界が明瞭になっている。
「気持ち悪くない……」
「お前が昨日言った通り、ここは思念が強いんだと思う。闇も地もどっちもお前の持ってる属性だからそれをモロに食らいやすいんだよ」
「……オニロが平気なのは、属性が違うから?」
「それもある。けど、思念に関しては対処方がある――っていうのを、父さんに叩き込まれた」
「そんなことしてたんだ!?」
「魔王の右腕やってると、どうしたって思念の強いところに行きがちだからな」
オニロは自嘲するように笑って、セラスから手を離した。もう感覚はおかしくない。吐き気もない。意識もはっきりしている。もう問題はなさそうだ。
「また変になったら、息を吐けばいい?」
「それでいい。できるだけ自分の呼吸だけに集中しろ。そうすると、外の気配を遮断できる」
「ふうん……」
「とはいえ、何かあったらそんなに落ち着いていられないだろうから、また変になったら『なんか変』って言ってくれたらいい。呼吸の仕方とか意識を集中させる方法とか、それは俺がフォローする」
それよりも、とオニロはセラスの目をじっと見つめた。
「俺はここでは魔術は使えない。お前まで巻き込んで暴発する可能性があるから、魔術でサポートするっていうのもできない」
「……ホントにダメなんだ?」
「こんなにドロドロした思念が渦巻いてるとこじゃなけりゃ、多少は使えたんだけどな」
苦笑いしながら坑道の入口に視線を向ける。魔力の属性は異なっても、思念を感じ取ることはできるらしい。変異の気配もきっと見つけてはくれるだろう。
しかし、魔術で対処できるのは自分だけだ――そう思ったら、今度は緊張で身体が硬くなる。
「大丈夫」
固まるセラスの背中をオニロの手のひらがポンと叩く。
「万一のことがあったらエザフォス様を呼ぶから」
「……それ、大丈夫って言わなくない!?」
「言うだろ。エザフォス様なら確実にこの変異に対応してくれるだろうし」
「そういう問題じゃないから! そんなことしたら城に連れ戻される!」
「かもな。嫌なら成功させるしかない。気合い入れていけよ」
「もう……」
自分事じゃないからと、オニロは少し適当な時がある。責任を丸投げして、セラスに妙なプレッシャーをかける。昨日のことをまだ少し怒っているのもあるかもしれない。
だったら完璧にこなしてやる――少し拗ねたような気持ちで、セラスは坑道を埋める土に両手を当てた。
「この奥が全部坑道だったって言ってたよね?」
「ああ。ミリーに坑道の地図ももらってきた。もう二百年近く掘ってる炭鉱だっていうから、奥もかなり深いみたいだな」
ポーチから取り出した紙を広げ、セラスにも見せてくれた。うねうねと曲がりくねって奥へ続き、一番深い場所から戻ってこようと思うとかなりの時間がかかりそうだ。
「なんでこんなにぐねぐね掘ってるんだろ。真っ直ぐにしたら楽なのに」
「岩盤の硬さとかで掘れる場所が違う、とか言ってたな。特に昔は人力だったから比較的柔らかい場所じゃないと無理なんだって」
「ふーん……で、機械を使うようになって、そういうの気にしなくてよくなったって感じ?」
坑道の地図を見ると、ある地点から真っ直ぐに伸びるようになっている。恐らくこのあたりが機械を使うようになったポイントなのだろう。
「そうなるな。うーん……」
「なに?」
「いや、変に予想を立てるより、まずは坑道の変異を確認したほうがいいな。セラス、手順は覚えてるか?」
「覚えてる。大丈夫……たぶん、やれる」
「それでいい。じゃあ、探ってみてくれ。まずはどんな変異が起きているか、思念がどれくらい濃いか、闇の精霊がどれだけ集まってるか、地の精霊はいそうか」
「やってみる」
セラスはわずかに心臓が跳ねるのを感じながら目を閉じた。身体を流れる魔力にじっと意識を向けて、地の精霊に語りかける。
「――土の記憶を」
魔力は無事に発動した。地の精霊の気配はない。だから出力が安定しているようには思えなかったけれど、少なくともこの土に刻まれた記憶は、セラスの中に注ぎ込まれてくる。
――何千年も前からゆっくりと育っていった鉱山の記憶。
――何百メートルという高さまで育った頃、麓に人が住み始めて。
――鉱山で採れる石炭がエネルギーになることに人々は気づく。
――人間たちは山を削り取るようになった。
――巨大な山にとってそれは大した問題ではなかった。
――その頃には地の精霊もいた。
――彼らは人間が好きで。
――大好きで。
――だから人間の生活を護ってやりたくて。
――でも。
――……でも。
――ナゼソノヨウナモノヲモチコンダ……
「ヒッ!」
唐突に流れ込んできたおどろおどろしい声に、セラスは思わず手を離す。瞬間、山の記憶もふわっと消えて見えなくなった。
「どうした?」
「い、今……なんか、不気味な声が……」
「……なんて?」
「えっと……なぜ、そのようなものを、もちこんだ……かな」
「……やっぱりか」
オニロは眉を寄せ、考え込む。
「そのようなもの、って……」
「たぶん、機械だ」
「え、ダメなの? 便利そうなのに」
「人間にとってはな。でも、精霊たちは嫌いなんだよ、機械」
「そうなんだ……」
そもそも機械を見たことがないからというのもあるが、セラスが聞く限り便利で使いやすそうなものにしか思えない。それでも精霊が機械を嫌いなのだとしたら――
「もしかして、地の精霊がいなくなったのって、機械が嫌いだったから?」
「十中八九そうだろうな。今まで護ってやってたのに、なんでそんなもん使うんだ、みたいにへそを曲げて」
「ええー、そんな理由で……?」
「俺たちから見ればそうなんだけどな。けど、土地を護る精霊って重要なんだよ。特に地の精霊は土地を安定させる」
「じゃあ、いなくなったら……」
「雨が降らなくなり、土地が枯れて、空気が乾き、地盤が緩んで――地震や土砂崩れが多くなる」
「それじゃあ……」
セラスは塞がれた坑道の入口に視線を向ける。ここで起きたことの点と点が、線で繋がり形になる。
「……機械がなければ、この村はダメにならなかったんだ」
「そうだな……」
「地の精霊は、もうここには戻ってこないの?」
「どうだろうな……俺も、精霊がいなくなった土地って初めて見たから。聞いたこともなかった」
だからわからない、ということなのだろう。セラスは全身の力が抜けるのを感じる。
変異の気配に気圧されたからではない。
何もできないということに、虚しさを感じたから。
「……たぶん、最後にぐわって聞こえてきたあの怖い声が、変異なんだと思う。今のところ、恨み言をいってるだけみたいだけど……」
「魔力の流れはどうだった?」
「流れは――」
セラスは再び目を閉じて、思い返す。確か、坑道の奥のほうで、黒い塊のような気配を感じた。たぶん、そこで人間が埋まったのだろう。その黒い塊に向かって、ドロドロとした気配が流れ込んでいて――
「……私が聞いた声、たぶん、地の精霊の思念なんだと思う」
「うん、だろうな」
「でも、気配は闇の魔力だった。それに、黒い思念は人間の気配がして……そこに、闇の精霊が集まってきてる、みたいな感じ」
「……そうか」
「これ、この後どうなるの?」
「残念だけど、どうにもならない。まあ、一年経った時点で大きな事故が起きてないなら、これ以上悪化することはない……はず。精霊がいなくなった土地だと、どうなるかはわからないけど」
「曖昧だなあ……」
「仕方ないだろ。俺も初めて見るんだから、こんなもの」
深々とため息を吐いて、オニロは腕を組み眉を寄せる。
「……とりあえず、この状況に関しては父さんに報告する。あとは父さんがどうにかしてくれるだろ」
「また丸投げ!」
「仕方ないだろ。俺にはどうにもできないし、お前にやってもらおうにも何をしたらいいかすらわからないんだから」
舌打ちをしながら、オニロは吐き捨てる。
「……俺なんか、できないことの方が多いんだよ」
その声音には焦りのような苛立ちのような、誰にぶつけているのかもわからない怒りの色を感じる。
――こんなオニロ、初めて見た。
だからセラスは、しばらくオニロに話しかけることもできないまま、その場に立ち尽くした。




