グラス
西暦2730年2月 とある海岸
「やはりここでもいなくなっている・・・」
統合大学中央学舎海洋生態学サクマ研究室のハンズ・サクマは、ここ数週間様々な海岸線を訪れていた。
「調査したところでは、全て消えている」
サクマが調べているのは、海洋に生息するムタという3センチほどの小さな魚の一種だった。
これは海岸線付近ではどこにでも姿を見かけるようなごくありふれた生物で、成れの果て物質の影響を進化と変異で乗り越え生息域を広げていた。
しかし、そのありふれた生物が、ここ数週間で全く見られなくなっていたのだった。
「成れの果て物質の影響にも負けず生き続けてきた生物だ、簡単にいなくなるはずはない」
サクマは手で日差しを遮ると沖を見た。
「海岸線から移動したのかもしれない。それにはもっと沖を調べる必要がある。そうだ。死滅した痕跡がないかも調べたほうがいいな」
次の調査に向かうため、サクマは周囲に置いてある観測機器を急いで片付け始めた。
2086-02-15 ヴァリアブルシップ 食堂
消灯時間を随分と過ぎた頃、アスが食堂に行くと先客がいた。
「アイナ隊長、珍しいですね」
そこにはグラスを手にしたアイナがいた。
「いや、珍しくはないんだ。最近はこうして飲むことが多い」
アイナは手に持った氷と褐色のアルコールが入ったグラスをアスに見せるように持ち上げた。
「最近は、どうもあのメディカルカプセルが好きになれなくて、こうしてアルコールに頼って眠るようにしている」
いつもより話すアイナは、すでに酔っているようだった。
「気分を勝手にコントロールされるのは、自分の中にある感情が否定されているような気がしてくる。それが良いもの悪いものにかかわらず・・・」
そこでアイナは立ち上がると、カップボードからアスのグラスを出した。
「あ、自分でやります」
アイナはアスの動きを手で静止して、グラスに氷を落としアルコールを注いだ。
「ありがとうございます」
アスはグラスを受け取ると、アイナに向かい合うように座った。
「実は、自分もメディカルカプセルを少し避けるようになっています。カプセルに入ると気持ちは楽になるのですが、何か大切な気持ちも消されてしまうような気がして」
「それは、アルビオンの施設を見てからか?」
「そうかもしれません」
「子供か」
アイナの問いにアスは答えなかった。
「みんなで検討した結果、あの少年少女は施設で生活しているスタッフの家族だと言うことで一致したじゃないか。わたしは今でもそれで違いないと思うぞ」
アスは手に持ったグラスを見ていた。
氷が弾け音を立てた。
「それでは不満なのか?」
アスはいただきますと言い、グラスを口に運んだ。
「最初は、あの少女だけが変わった子なのかと思いました」
「ショートカットの子か?」
アス以外の皆もアルビオンの施設でのアスの視界を共有していた。
「わたしには少女として見えていますが、あの子にしたらこっちは化け物に見える敵です。それなのに、どうして、そんな化け物に対してあえて接触するような行動をとったのか不思議でした」
アスは手にしたグラスを見つめながら、記憶を辿っていた。
「そればかりか、他の子供達も自分には不思議な存在に思えました。と言うのも、その時・・・」
アスはその時に感じた温かな波のことを口にしようとしたが、波と言う言葉が果たしてそれを適切に表現しているのだろうかと不安になった。そして、もっと的確な別の言葉を探した。
しかし、どれだけ探しても、出てきた言葉はどれもうまく表現できるものはなかった。結局、言葉にすることを諦めた。
アイナは言葉に詰まって考え込むアスを見て、どうしたのだ?と声をかけようとしたが、すぐにそれを止めた。ひょっとしてアスは、自分と同じものを感じているのではないかと思ったからだった。
それは波か・・・、アイナは口にする寸前でその言葉を飲み込んだ。
お互いにそれを口にすれば、感じたことを共有することができるかもしれなかった。しかし、一つの言葉で共有したものは、その言葉が示すものでしかなくなってしまう。
それは自分の中では波と言えばよかった。しかし、相手に波と伝えるには、あまりに漠然としていたのだ。それでは本当の意味が伝わらないのではないか。一つの言葉で簡単に言ってしまうのが、惜しくもあり怖くもあった。
アイナもアスも、それ以上は何も言わず、それぞれの感じた波を思い出していた。
アイナの感じた波・・・。
アスの感じた波・・・。
言葉に出来ない波。
言葉にしない波。
きっと同じものなのだろう・・・。
アイナもアスも漠然とそう考えていた。
二人が同時にグラスを口に運んだ。
氷がグラスに当たる音がする。
「この任務が終わったら、気兼ねなくゆっくりと飲みたいものだな」
「そうですね」
アスは、まだどこか遠くを見つめているようなアイナの目を見た。




