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トリガー


 西暦2729年2月 地球統合本部食堂

 

 外の景色を見ることができる日当たりの良い窓際のテーブルで、カオリ・マシスは遅い昼食のあとのコーヒーを飲んでいた。

 窓から見える作り物の木に茂る葉はどれも紫外線で色褪せており、中には風化しているものもあった。

 口に運んだコーヒーカップをテーブルに置くと、マシスはため息をついた。

 『あの時、確かに波の周波数が変わったのに・・・』

 去年の10月、時間の波に明らかな変化が見られ、干渉の効果が発現するのではないかと期待したが、それは大きく外れてしまった。

 そして、それ以降、波は完全な凪状態になっていた。

 「ご一緒していいですか?」

 不意の言葉にマシスが顔を上げると、つなぎ姿のレジェ・シノハラがコーヒーを持って立っていた。

 「あ、どうぞ」

 マシスが笑顔を向けると、シノハラはコーヒーカップをテーブルに置き向かい合うように座った。

 「シノハラさんが作業服なんて、初めて見ました。何かあったのですか?」

 以前の統合軍時代には正式な制服があったのだが、軍がなくなった今では制服というものは存在せず、各々が好きな私服で済ましていた。シノハラは今の季節だと軍時代のフライトジャケットを羽織っていることが多かったが、つなぎの作業着を着ることなど滅多になかった。

 「農業プラントの復旧の指揮に駆り出されてしまって」

 「え、そんなことまで」

 「早急に行わないと食料の供給が途絶えてしまうので、ある程度の決定権を持ったものが現場に必要だったんです」

 「少し前からここのメニューも減っていましたものね。ご苦労様でした」

 マシスはシノハラに軽く頭を下げた。

 「もう数日もすれば、メニューも元に戻るはずです」

 シノハラはコーヒーカップに手を伸ばしひとくち飲むと、話を続けた。

 「あらゆるところでインフラの劣化が激しくなってきています。機能の停止を避けるために出来るだけ早めに対処していますが、一気にこられたらお手上げでしょうね」

 シノハラはカップを置くと、力が抜けたように椅子の背に体を預けた。

 「波もすっかり消えてしまいました」

 マシスも力の抜けたような声だった。

 「そういえば、わたしが農業プラントに行っている間にオオカワ本部長とノジマ所長が会っていたようですが」

 「ええ、わたしも同席しました。一向に干渉の効果が現れないことについて話し合ったんです」

 「内容は聞いても構いませんか? 本部長からも聞かされると思いますが、そちらの考えを直に聞きたいので」

 「問題ないですよ」

 マシスはシノハラに軽く微笑むとその内容を話し始めた。

 「まずは、一向に干渉の効果の現れない原因に関してなのですが、過去に行った小規模の干渉の記録では、パンドラの放ったクサビから発生した生命体は確実にその時代に影響を与えたとノジマ所長は確信しています。歴史によると、過去に発生した生命体はウイルスや細菌だったようです。それはその時代にたまたま偶然に発生したようなものなので、今回のシヴァル計画ではどのようなものが発生しているかは想像もできません。過去のケースのように、ウイルスだったり細菌だったり、もしかしたらウイルスよりも小さなプリオンの可能性だってあります。また、小型の生物や大型の生物になっていることもあるかもしれません。いずれにしても小さなものは数で、大きなものはその力で干渉を与えるものだと思います」

 シノハラも過去の時間に送り込んだ生命体が与えている影響について考えてみた。

 ウイルスや細菌なら感染症としてパンデミックを起こしているのだろうか。動物のようなものだとどうだろう。それならば、捕食者として人を餌とでもしているのだろうか。場合によっては巨大な怪獣として人を襲っていることもあるのだろうか。

 ウイルスや細菌ならばある程度想像がつくが、他のものはうまく想像できなかった。

 「どんな生命体かはわかりませんが、今回の規模の大きさから考えて、場合によっては地球をほぼ壊滅状態にしていることも十分考えられます。いや、してるでしょう」

 マシスの断言するような冷静な言葉にシノハラは背筋に冷たいものを感じた。

 「それは、あっという間の出来事だと思います。生命体が活動を開始して長くても2、3ヶ月でしょう。でも、今になっても干渉による変化は発現していない・・・」

 マシスは『なぜだと思います?』と問いかけるような表情を向けたが、当然シノハラにはわからない。

 「ノジマ所長は、こう考えているようです。干渉の規模は十分だとしても、トリガーとなるべきものが発現していないのではないかと」

 「トリガー・・・、ですか?」

 「はい。いくら人類を壊滅に追い込んでも、それは長い時の流れからしたら一瞬です。その一瞬が長い時の流れの中で大きな変化をもたらすのではないかと期待していたのですが、どうやらそうではないようです。一瞬はやはり一瞬です。そんなものは長い流れの中ではあっという間に修正されて何事もなかったようにまた流れてゆくのです。その流れを確実に変えることに必要なのがトリガーとなるモノなのです」

 マシスの言葉は漠然としていた。しかし、かえってその表現にシノハラは少し理解できたような気がして言葉にしてみた。

 「例えば、人類の進化が大きく変わるような・・・」

 「ああ、そうですね」

 マシスは大きく何度も頷いた。

 「追い込まれた人類が、生き延びるために自分自身を変化させる。それを起こすためのトリガーです。でも、これがなんなのかは分かりません。物なのか、ヒトなのか、事象なのか」

 「つまりトリガー待ち・・・、ということですか」

 「わたしたちも、追い込まれて追い込まれて、それでもわずかな可能性にかけて今回の作戦を行いました。過去の人々も生き延びるために何かをするはずです」

 マシスはそこまで言うと、急に視線を下げた。そして少し考えたあと、話を続けた。

 「以前に、ここでシノハラさんと食事をした時に、わたしは何も変わらないこのままの状態でもいいんじゃないかって言いました。でも、今は違います。過去に行った彼女たちは、わたしたちが想像もできないくらいつらい出来事を見ながらも任務を遂行していると思います。紐だけが頼りでいつ戻れるかわからないのに・・・。あの時、変わらなくてもいいんじゃないかって言ったことを恥ずかしく思っています」

 マシスは顔を上げ、シノハラを見た。

 「きっと、いや、絶対に、トリガーは現れます」

 シノハラは、ゆっくりとそして大きく頷いた。

 「そうですね。信じましょう」

 微笑むシノハラにマシスも笑顔を向けた。

 「それにしても、回収の紐とかトリガーとか、科学者というものはこんな抽象的な表現をよくするのですか?」

 「科学者は夢を追っているようなものですから、現実を見るのが怖いんですよ。現実を見るのは成功した時だけです。失敗したらそれを夢として片付ければいいのです」

 マシスは笑顔を向けたままだった。


 『今回のことを夢として片付けられては困るな・・・』

 シノハラはそう思った。

 



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