第十八話 水飴の始まりと、親になること
火の音には、不思議と心を落ち着かせる力がある。
かまどに薪をくべると、ぱち、と小さな爆ぜる音がして、薄い煙が煙突へと逃げていった。
アルルは鍋を据え、一昨日買い付けた大麦の袋を抱え直す。
国境の街に来て、三日目。
借りている家は小さいが、作りは驚くほどしっかりしていた。最低限の調理器具も揃い、清潔な水場もある。流石は警備隊の宿舎として使われていただけのことはある。
アルルは、かつて本邸の隅に押し込められていたあの石造りのコテージを思い出し、不意に視線を落とした。あそこも同じ「石と木の家」だったが、今のこの場所には、誰かが生活を営んでいた確かな温かみが残っている。
「じゃあクロノ、水飴の仕込みを始めるわよ」
背後で、布を丁寧に畳んでいたクロノが顔を上げた。
「うん。僕は薬草の用意と、瓶に汚れがないか確認するね」
「お願いね。次のバザーの順番までは少し日が空いちゃったけど、焦らなくて大丈夫。その分、たくさん作っておきましょう」
アルルが仕込んでおいた麦芽を砕き始めると、クロノは手際よく薬草袋を並べ、それぞれの効能別に仕分けていった。
本当なら、明日は待ちに待った初めての出店日になるはずだった。しかし、運悪く討伐隊の合同訓練と重なってしまい、出店は次回の割り当て日まで延期になってしまったのだ。
それを聞いた時のクロノの、あのひどく落胆した顔が脳裏をよぎる。出店できず悔しいはずなのに、わがまま一つ言わず、今自分にできることを精一杯やろうと手を動かしている健気さが、アルルの胸をちくりと刺した。
「ねぇアルルさん。ガラスって、場所によって色んな形や色になるんだね。昨日買ったのは底がすごく厚いし」
「そうね。本当はもっと透き通った綺麗な色ガラスの瓶も使いたいけれど、中身がちゃんと見えないと、お客さんは不安でしょう?」
「そっかぁ。透明な方が、美味しそうに見えるもんね」
作業の手を止めずに言葉を交わす。
半年を共に過ごしたクロノは、今やアルルの先回りをして準備を整えるほど有能な助手になっていた。
そこへ、コンコンと小気味よいノックの音が響いた。
アルルが扉を開くと、そこにはマリィと息子のオズが立っていた。
「おはよう! よく眠れた?」
「おはようございます。昨夜はよく眠れました」
マリィは朝から太陽のような明るさで、籠に入った温かい豆の煮込みとパンを差し入れてくれた。
「ねえ母ちゃん、クロノ遊びに連れてってもいい?」
オズがマリィのスカートを引っ張る。クロノと同じ年頃のオズは、すっかり彼を「探検仲間」として気に入ったらしい。
「アルルさん、どうかしら? 手伝いが必要なら、私が代わりにやるわよ」
「オズくん、クロノと遊んでくれるの? ……クロノ、あなたはどう?」
「いいの……?」
「ええ。せっかくの機会よ。帰ってきたら、また手伝ってちょうだい」
「わーい! ありがとう! 行こうぜ、クロノ!」
元気よく飛び出していく二人を見送り、アルルとマリィは顔を見合わせて笑った。
◇ ◇ ◇
「やっぱり手間がかかるわねぇ。よくこれで行商をしようと思ったわ。感心するわよ」
「……手元にあった知識で、確実に売れそうなものが、これしか作れなかったのよ」
アルルは炊き上げた薬草入りの雑穀を布で搾り、三つの鍋で同時に煮詰め始めていた。琥珀色の蒸気が部屋に広がる。
ふと、幽閉されていた日々を思い出す。本邸の図書館で貪るように読んだ知識。それを、かつての騎士としての生き方ではなく、商人の生きる糧として選び取ったのがこの水飴だった。
「ねえ、アルルさんって、本当はどこかの『貴族』でしょう?」
マリィが鍋をかき混ぜながら、唐突に言った。アルルは思わず手を止める。
「……どうしてわかるの?」
「仕草とか、ふとした時の雰囲気がねぇ、私たち平民とは根本から違うのよ。隠しきれてないわよ?」
「自分では馴染んでいるつもりだったのだけれど」
「ふふ、そんな上品な顔で『食べられる魔獣を教えろ』なんて言う冒険者、初めて見たってメイヤーが笑ってたわよ」
マリィの屈託のない笑い声に、アルルも少しだけ肩の力が抜けるのを感じた。
「ねえ、マリィさん。……私、クロノをちゃんと育てられているかしら。実は、今までまともに『子育て』というものをしたことがなくて」
二人の子を産んだが、抱くことすら叶わなかった。自分は母親として欠落しているのではないか。その不安が、言葉になって零れ落ちた。
「大丈夫よ。あの子、アルルさんのことを心から信頼してるじゃない」
「信頼、ですか?」
「そうよ。さっきだって『帰ったら手伝う』って言ったでしょう? それはね、アルルさんがクロノにとっての『帰る場所』になっているってことなのよ」
帰る場所。
その言葉が、アルルの胸の奥を温かく包み込んだ。
「心配するのが『親』ってものよ。あ、勝手に親なんて言っちゃったわね。でも、傍にいてあげるだけで、十分伝わっていると思うわ」
マリィはそう言って、アルルの背中を優しく叩いた。
「そうだ、アルルさん。メイヤーからの伝言なんだけど、街外れの草地の『草刈り』の依頼が出てるわよ。名目は薬草採取だけど、実質は清掃ね」
「草刈り、ですか?」
「封鎖で人が増えて衛生管理が厳しくなってるの。薬草も生えてるし、何より、食いしん坊のハナちゃんもいるでしょう? ちょうどいいお仕事だと思うわ」
アルルは頷いた。薬草の在庫も少なくなっているし、何よりハナの食欲を満たすには絶好の機会だ。
「瓶詰めが終わったら、行ってみようかしら」
「ええ、その間クロノとオズは家で見ているわ。……あら、もう帰ってきたみたいね」
外から元気な足音が近づき、扉が勢いよく開く。
「ただいま! アルルさん、すごい場所があったよ!」
「クロノ、次はもっと高いところまで登れるぜ!」
泥だらけの顔で笑う子どもたち。アルルはその姿を見て、マリィの言葉を反芻した。
この子を守りたい。この子にとって、誇れる「帰る場所」でありたい。
「おかえり。……じゃあクロノ、準備ができたら『草刈り』の依頼に行きましょう。ハナも連れて行くわよ」
「うん! 頑張る!」
アルルは腰の剣を確かめ、外へと踏み出した。
延期になってしまったとはいえ、次回のバザーへ向けた商品の準備はこれで整った。明日の討伐の合同訓練を無事に乗り切れば、あとは落ち着いて自分の店を開く日を待つばかりだ。
しかし、アルルはこの時まだ知らなかった。
明日の「訓練」と「本来の出店日」の重なりが、悔しさを抱えるクロノの胸の中に、ある小さな決意を芽生えさせていたことを。
平穏な夕暮れの風が、国境の街を静かに吹き抜けていった。
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戦う女の子のファンタジーのお話です。




