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第十六話 過去の記憶と、新たな朝



「貴女は今日から、ここに住むのよ」

「……え? ここ、ですか?」


 次男を出産して間もないある夜。

 アルルは突然ベッドから叩き起こされ、寝巻きの上に薄いガウンを羽織っただけの姿で、数人の使用人によって本邸から連れ出された。

 嫁いでからの三年、ほぼ軟禁状態だったアルルは、広大な屋敷のどこに何があるのかすら把握していなかった。おまけに灯りの少ない夜中であったため、自分がどこへ連行されたのかまったく理解できていなかった。

 後になって、そこが使用人棟のすぐそばにある、木と石で造られた古い小さなコテージだと知ることになる。


「ここに住むとは、一体どういう事ですか」


 アルルは部屋のテーブルに持たされたランプを置き、目の前に立つ、どこか異様な興奮を帯びたアマリリアに問いかけた。


「貴女は今までも、そしてこれからも、社交も家政もする事はない。本邸に居なくても何も問題ないからよ」


 淡々と告げられたその言葉に、アルルは瞬きをした。

 意味が、すぐには理解できなかった。


「……アマリリア様、あの……」


 言い終える前に、アマリリアがゆっくりと振り返る。

 ランプの灯りが、その完璧な横顔を照らした。

 整った顔立ち。隙のない化粧。乱れ一つない髪。

 だが、その瞳だけが、どす黒く濁っていた。


「言葉の通りよ。貴女はもう、『役目』を終えたの」


 役目。

 アルルは無意識に、まだ痛みの残る自身の腹部へ手を当てる。

 二度の出産。産んだのは、二人ともペインズ伯爵家の立派な跡取りとなり得る、空色の魔力を継いだ男の子だった。

 アマリリアはその仕草を見逃さなかったのか、美しく塗られた唇の端をわずかに歪めた。


「勘違いしないで頂戴。感謝しているのよ」


 感謝、という言葉とは裏腹に、その声音には一切の温度がない。


「まさか子爵家風情の娘が、これほど強い魔力の子を立て続けに産むとは思わなかったもの。おかげで伯爵家の血は安泰だわ」


 アルルは何も言わなかった。

 確かに、血の底上げをするためだけの政略結婚だった。だが、深夜に赤子から引き離され、あばら家へ追放されるほどの扱いを受けるいわれはない。

 そう反論したかったが、相手は格上の伯爵令嬢であり、実家の子爵家にも圧力をかけられる立場だ。アルルはぐっと唇を噛み締めた。

 しかし、アルルの沈黙をどう受け取ったのか、アマリリアの言葉は止まらない。むしろ、せき止めていた泥水が切れたように溢れ始めた。


「本来なら——」


 アマリリアが一歩、近づく。


「レイフ様の正妻になるのは、私のはずだったのに……!」


 彼女の口から、か細く、怨念めいた声が紡がれる。


「もう少しで結婚という時に、貴女が突然現れた! 魔力が少しばかり少ないからって何よ! 私はずっと、レイフ様の妻になるために、その為だけに完璧な淑女として生きてきたのよ!」


 爪が手のひらに食い込むほど、アマリリアはレースの手袋越しに拳をきつく握りしめている。


「それなのに……」


 声が低く震える。

 それは怒りか、それとも狂気か。


「子爵家の女など、せいぜい愛人が関の山だというのに」


 ランプの火が揺れた。

 重苦しい沈黙が落ちる。


「——許せない」


 やがてアマリリアは、腹の底で押し殺していたものを吐き出すように言った。


「私よりも低位の貴族が、レイフ様の正妻ですって?」


 声がヒステリックに跳ね上がる。


「伯爵家の正門をくぐる資格すらない小娘が!」


 コテージの狭い壁に、その声が反響した。

 アルルは、アマリリアの慟哭にも似た叫びに圧倒され、動けなかった。

 アマリリアは肩で息を荒くしていたが、やがてふうと息を吐き、元の『完璧な令嬢』の顔へと冷静さを取り戻した。


「だから、貴女を本邸に置いておく必要はないの。貴女は優秀な子を産むためだけに迎えられた、ただの『器』。その役割はもう終わったのよ」


 アマリリアはゆっくりと室内を見渡す。

 古びた床。軋む梁。外の景色もろくに見えない小さな窓。


「ここなら静かでしょう? 使用人棟も近いし、最低限の世話はさせてあげるわ」


 そして、最後に微笑んだ。

 ぞっとするほど、美しく、冷たい微笑だった。


「安心なさい。本邸の奥にある、一番日当たりの良い部屋を『病に伏せた伯爵夫人のお部屋』として用意してあるわ。旦那様も子どもたちも、貴女があの綺麗な部屋で静養していると信じて疑わない。……ええ、誰もこんな薄暗い庭の隅のあばら家に、貴女が押し込められているなんて気づかない」


 ああ、私の存在自体が、完全に本邸から消し去られるのか。

 アルルは、自分の状況を正確に理解した。


「……子供たちは……?」


 気づけば、掠れた声が出ていた。

 アマリリアの柳のような眉が、わずかに動く。


「一度も名を呼んだ事すらない貴女に、あの子たちに会う資格などなくてよ。貴女を今後も『母』と呼ばせるつもりは一切ないから」


 アルルは、表情を変えなかった。

 泣き叫ぶことも、すがりつくこともできた。だが、騎士の家に生まれた矜持だけが、今にも崩れ落ちそうな彼女の背筋を支えていた。

 反抗しないアルルを見て、アマリリアは満足げに頷く。


「物分かりが良くて助かるわ。見苦しく騒がれるのが一番面倒なのよ」


 アマリリアは優雅に踵を返し、扉へ向かう。

 そして、思い出したように肩越しに言った。


「外出は私の許可制よ。まあ……私に逆らわなければ、そのうち待遇は改善してあげてもいいわ」


 バタン、と重い音がして扉が開く。

 晩秋の冷たい夜気が、容赦なく室内に流れ込んできた。


「——貴女の役目は終わったのだから、ここで一生、私の目の届かないところで静かに生きていて頂戴」


 扉が閉まった。外から乱暴に鍵がかけられる音がする。

 静まり返った部屋に、ランプの火だけが心細く揺れている。

 アルルはしばらく、その場から動けなかった。

 やがて、ゆっくりと木製の椅子に腰を下ろす。

 静かに、長く息を吐き、顔を上げた。

 暗い部屋の中で、その空色の瞳には、まだ誰も知らない微かな、しかし決して消えない『反逆の光』が宿り始めていた。



◇ ◇ ◇



 アルルの目覚めは、ひどく悪いものだった。

 昨夜、マリィに食事をご馳走になり、色々と話し込んでいる内に日もすっかり暮れてしまった。

 ギルドへ行くのは翌日に持ち越すことになり、そのままメイヤーにこの仮住まいへ案内されたのだ。

 案内されたのは、石と木で出来た、小さいながらも作りのしっかりした家だった。

 建物の造りこそまるで違うものの、「石と木」という共通点が、アルルの心の奥底に沈めていたあの冷たい追放の夜の記憶を呼び起こしてしまったのかもしれない。

 目が覚めた瞬間、胸の奥にまだ冷たい氷が残っているような感覚があった。

 隣の寝台でぐっすりと寝ているクロノを起こさないよう、アルルはそっとベッドを抜け出した。

 身支度を整え、外に出る。

 国境街はすでに目を覚ましているようで、遠くから人々の賑わいが聞こえてくる。風の通りが良い街なのだろう、建物の隙間を抜ける風が看板を揺らし、布がはためく音が心地よく響いていた。

 アルルは、貸し出された家の前で大きく背伸びをした。

 明るい朝の光の中で確認してみると、思っていた以上に立派な家だった。家具も最低限揃っており、短期滞在には十分すぎる環境だ。

 とはいえ、まずは朝食を調達しなければならない。マリィの手が空いていたら、どこか良さそうな店を紹介してもらおう。


「おはよう! 早いのね。よく眠れた?」


 ちょうど、マリィの方から訪ねてきてくれた。


「おはようございます。昨夜は色々とお世話になりました」

「いいのよ、よくある事だから」


 聞けば、夫のメイヤーはアルルのように、街にやってきた冒険者や腕の立ちそうな求職者を見つけては、国境警備隊の臨時要員としてしばしば勧誘しているらしい。


「今は特に腕の立つ人を探しているから、アルルさんが引き受けてくれて助かるって言ってたわよ」

「ふふ、そんなに期待されても困りますね……。私、そこまで飛び抜けて腕が立つ訳じゃないですし」

「大丈夫よ。あの人、人を見る目だけは確かだから」


 ふふふ、と笑うマリィ。

 その腕には、清潔な布をかけた籠が抱えられていた。


「はい、これ。朝ごはんを持ってきたの。あと、この子にもね」


 マリィは籠から葉のついた瑞々しい野菜を取り出すと、家の脇に繋がれていたハナへ差し出した。

 ハナは一瞬だけアルルの方を向き、「食べてもいい?」と許可を求めるように鼻を鳴らす。


「いいわよ」


 その言葉を待っていたかのように、ハナはマリィの手から野菜を受け取り、シャクシャクといい音を立てて食べ始めた。


「本当に賢い子ねぇ」


 マリィは嬉しそうに頬を緩める。


「この子、旅の間ずっと一緒なんでしょう?」

「ええ。もう、私とクロノの大事な相棒です」

「そうよねぇ。動物って言葉は話さないけど、ちゃんとこちらの気持ちは分かってるみたいだものねぇ」


 そう言いながら、マリィはハナの首筋を優しく撫でた。ハナは気持ちよさそうに目を細めている。

 アルルはその温かい光景を、とても穏やかな気持ちで眺めていた。


「さあ、こっちは貴女たちの分よ」


 マリィが籠の布をめくると、中には焼きたてらしいパンと、小瓶に入った蜂蜜、それにまだ温かい包みが入っていた。


「野菜と豆の煮込みよ。簡単なものだけど、朝はしっかり食べた方がいいわ」


 湯気が、ふわりと立ちのぼる。

 先ほどまで胸の奥にこびりついていた悪夢の冷たさを溶かすように、じんわりと確かな温かさが広がっていった。


「……ここまでして頂いて、本当にありがとうございます」

「気にしないで。昨日の今日だから、まだ何も買い出し出来ていないでしょう? それに、慣れない場所で空腹だと、余計に疲れちゃうもの」

「ええ。……空腹だと、心が荒みますから」


 アルルはぼそりと本音を呟く。

 マリィは、ほんの少しだけ遠くの過去を見ているかのようなアルルの瞳に気がついたが、あえて何も聞かず、明るい声で口を開いた。


「そうそう。市場なら、この通りをまっすぐ行った先よ。朝は屋台も多いし、新鮮な野菜も手に入るわ」

「助かります。後で覗いてみますね」

「あとね」


 マリィは少し身を乗り出し、内緒話をするように言った。


「この街、風が強いでしょう? 洗濯物はしっかり留めておかないと、すぐ飛んでいっちゃうから気をつけてね」


 思わず、アルルは小さく声を出して笑った。


「ふふっ、覚えておきます」

 その時、家の中からごそごそと音がした。

「……クロノ?」


 扉が少し開き、寝癖のついた黒髪がひょこりと覗く。


「アルルさん……?」


 目をこすりながら発せられた、まだ眠そうな声。

 マリィがぱっと母親の顔になり、表情を緩めた。


「おはよう。今、朝ごはんを持ってきたのよ」


 『朝ごはん』という一言で、クロノの目がみるみる覚めていく。

 子どもらしい素直な反応に、アルルは思わず微笑んだ。


「お顔を洗っていらっしゃい。その間に温め直しておくから」

「は、はい!」


 ぱたぱたと中へ戻っていく元気な足音。

 マリィはその小さな背中を見送りながら、ぽつりと言った。

「いい子ねぇ。過酷な旅をしてるのに、全然荒んでいないわね」

「そうですね」


 森で拾ってから半年が経つが、クロノは自分でできることは進んでやってくれる、本当に良い子だった。

 生来の性格もあるのだろうが、彼は大人から見捨てられ、たった一人で路地裏を生きてきたのだ。大人を恨み、捻くれていてもおかしくないはずなのに、彼はどこまでも素直で真面目だった。


「さてと。私はそろそろ戻るわね。何か困ったことがあったら遠慮なく言ってちょうだい」

「ありがとうございます、マリィさん」

「あ、大事なこと忘れてた! ウチの人、今日一日中詰所で仕事になっちゃったのよ。本当は午後からギルドに案内する予定だったみたいなんだけど……」

「そういえば、確かに案内してくれると仰っていましたね」

「だから、ギルドへの登録は明日にして、今日はゆっくり街を見て回るか、家で休んでいて欲しいって言ってたわ。好きに過ごしてね!」

「助かります。伝えておいてください」


 それを言い残してマリィが去っていくと、朝の爽やかな風がアルルの頬を撫でた。

 アルルは空を見上げる。

 高く、澄んだ青空。

 伯爵家の偽りの『日当たりの良い部屋』ではなく、自分の足で立ち、自分の目で見上げる本物の空。

 閉じ込められていた頃には、こんなふうに穏やかな気持ちで空を見上げる余裕すらなかった。


「……よし」


 小さく呟く。

 それなら今日は、予定通り市場を見て回ろう。

 水飴に使えそうな材料も探したいし、この街の物価の相場も知っておきたい。明日のギルド登録の後はすぐに討伐に出るかもしれないのだから、今のうちに準備をしておかなければ。

 あれこれと予定を思い浮かべていると、扉が開き、水で顔を濡らしたクロノが顔を出した。


「アルルさん! 顔洗ったよ!」

「じゃあ、朝ごはんにしましょう。その後、市場に行くわよ」

「ほんと!? 行きたい!」


 クロノの弾むような声に応えるように、ハナがフスンと鼻を鳴らした。

 とても穏やかな朝だった。

 思い出した冷たい過去の記憶は、いったん胸の奥の鍵のかかった箱へしまっておく。

 ——ここからまた、私たちの新しい一日が始まる。




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