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閑話 ペインズ伯爵家①



 ペインズ伯爵家の本邸は、朝から落ち着きがなかった。

 長男ユリシスの、十四歳の誕生日。

 屋敷中が少し浮き立っているおめでたい日だ。

 だが、夜の祝宴が始まり、食堂に並べられた長いテーブルを見たレイフは、ほんのわずかな違和感を覚えた。


「……ん?」


 視線が、自然と中央の大皿を探してしまう。

 いつもなら、当然のようにそこにあるはずのもの。

 ――ホーンボーンの釜焼きロースト。

 皮は香ばしく、肉は驚くほど柔らかい。高価な魔獣肉であり、二人の息子の祝いの日には、必ずメインディッシュとして並んでいた料理だった。


「料理長」


 レイフは給仕の動きを止め、低い声で呼んだ。

 料理長は一瞬だけ戸惑った表情を浮かべてから、足早に近づいてくる。


「はい、旦那様」

「今日の献立に、ホーンボーンは入っていないのか?」

「……いえ、それが」


 料理長は小さく喉を鳴らした。


「例年通りご用意するつもりだったのですが、今年は納品がなく……。慌てて馴染みの仕入れ先に問い合わせたのですが、『今年は届ける予定はない』と言われまして」

「ない?」


 レイフは不快そうに眉を寄せた。


「おかしいな。毎年、誕生日のメインとしてこちらから発注していたのではないのか?」

「はい。それが……」


 料理長は少し言いづらそうに視線を伏せた。


「実は……正確には長男のユリシス様が二歳になられた年(十二年前)からなのですが、ホーンボーンを当家から発注した記録は、一度もないのです」

「……どういうことだ?」


 料理長は言葉を選びながら続ける。


「ユリシス様とクロード様の誕生日が近づくと、必ず屋敷の勝手口にホーンボーンの肉が届けられておりました。送り主の名はなく、ただ『祝宴用』とだけ書かれていて……」


 レイフは、胸の奥が少しざわつくのを感じた。


「誰かが……勝手に納品していたというのか?」

「はい。ですが、品質も極めて良く、毒の反応もなく、量も十分でしたので、当時はてっきりご親戚のどなたかからの匿名のお祝いだろうと判断し、そのまま使っておりました」


 しばし、沈黙が落ちる。

 誰が。

 なぜ。

 どうして、毎年欠かさず。

 問いは浮かぶが、心当たりのある答えは何一つ出てこない。


「……今年は、どうしたのだ?」

「急遽、別の魔獣肉で代用いたしました。祝いの席として不足はございません」


 レイフは一瞬だけ目を伏せ、それから小さく頷いた。


「そうか。ならばそれでいい。今日はユリシスの誕生日だ」


 理由の分からない違和感を、今はこれ以上追わないことにした。



◇  ◇  ◇



 食卓には、色とりどりの料理が並んだ。

 魔鳥のロースト、香草の煮込み、果物の盛り合わせ。

 どれも申し分ない品々だ。


「父上、今年はホーンボーンではないのですね」


 主役であるユリシスが、不思議そうに首を傾げる。


「そうだな。今年は別の料理だ」

「ええ。でも、こちらもとても美味しそうですね」


 十二歳になる弟のクロードも、少し大人びた笑顔を見せる。


「ああ。誕生日だから、何でも嬉しいよ」


 空色の髪を持つ二人の子どもたちの声に、場の空気が少し和らいだ。

 レイフも、形式的な父親の笑みを浮かべる。


「ユリシス、十四歳の誕生日おめでとう」

「ありがとうございます、父上」


 祝宴は滞りなく進んだ。

 笑顔も、拍手も、いつも通りの光景だった。

 けれど。

 レイフの脳裏には、ふとした疑問がずっとこびりついて離れなかった。


 ――なぜ、あれほど高価で手間のかかるホーンボーンが、毎年当然のように届いていたのか。そしてなぜ今年に限って、ピタリと届かなくなったのか。


 祝いの席は皆の笑顔で終わった。

 だが、レイフの胸に残った小さな違和感の種は、静かに、確実に芽を出し始めていた。



◇ ◇ ◇



 誕生日の祝宴が終わり、屋敷はいつもの静けさを取り戻していた。

 子どもたちは自室へ下がり、廊下には見回りの使用人の足音だけが淡々と響く。

 レイフは執務室で書類に目を通していたが、夕食での出来事が脳裏をよぎり、まったく頭に入ってこない。


「……料理長にもう少し聞いてみよう」


 レイフは椅子から立ち上がり、足早に厨房へ向かった。



◇  ◇  ◇



 厨房には、後片付けの最中の料理人たちがいた。


「料理長、先ほどの件だ。例年の納品について、もう少し詳しく聞きたい」


 声をかけると、料理長は奥の棚から一冊の古い帳簿を取り出した。


「こちらが当時の仕入れ記録ですが……遡って調べてみても、当家から発注した記録は一度もありません」

「では、受け取りは誰がしていたのだ?」

「普段から出入りしている肉屋の男が運んできたため、てっきり通常の納品だと思っていたようです。不思議に思い後日業者に尋ねたところ、『匿名の冒険者から、すでに代金と解体料は支払われている』の一点張りでした」


 レイフは腕を組み、しばらく考え込んだ。

 高価な魔獣肉を、十二年にも渡って名も告げず、見返りも求めず届け続ける者など普通はいない。


「アマリリアは、この件を知っていたのか?」

「いえ……少なくとも、アマリリア様から厨房へは何も指示はございませんでした」


 レイフの中で、さらに小さな疑念の欠片が積み重なっていく。



◇  ◇  ◇



 廊下に出ると、窓から差し込む月明かりが床を青白く染めていた。

 レイフはその中を歩きながら、ふと視線を上げる。

 廊下のずっと奥――本邸の最も日当たりが良く、けれど静かな奥まった区画。そこにある豪奢な扉の向こうが、戸籍上の妻であるアルルの療養室だとされている。

 レイフはふと、足を止めた。


 (……そういえば、私はもう数年も妻の顔を見ていないのではないか? いくらなんでも、おかしい。一度くらい、強引にでも見舞うべきではないのか?)


 そう思い立ち、彼が療養室へ向かって足を踏み出そうとした、その瞬間だった。


 ――ふわりと、脳の奥に薄いベールがかけられたような、甘く心地よいもやがかかる。


『レイフ様。アルル様は、弱った姿を旦那様に見られたくないと仰っております。どうか、女心を分かってあげてくださいませ』


 脳裏に響いたのは、いつかアマリリアが悲しそうに微笑んで言った言葉だった。


 (……いや、そうだ。彼女は弱った姿を見られたくないと言っていた。無理に会うのは、彼女のプライドを傷つけるだけだ。今はそっとしておくのが、夫としての優しさだろう)


 レイフは、アマリリアに深く感謝している。

 元々幼い頃から婚約しており、相思相愛だった彼女。魔力の底上げのための政略結婚で正妻の座を奪われても、健気にこの屋敷に残り、病弱な妻の世話と、二人の息子の教育を一手に引き受けてくれた。

 どこまでも心優しく、完璧な女性だ。

 レイフは奥の扉から視線を外し、満足げに踵を返した。



◇  ◇  ◇



 その夜、アマリリアは自室の鏡台の前で、美しい髪を優雅にいていた。

 そこへ、レイフが静かに声をかける。


「アマリリア、少しいいか」

「はい、レイフ様。どうなさいましたの?」


 振り返る笑顔は、いつもと変わらず完璧に美しい。


「ユリシスの誕生日の料理だが……例年出ていたホーンボーンについて、君は何か知っているか?」

「ホーンボーン、ですか?」


 アマリリアは一瞬だけパチリと瞬きをしたが、すぐに不思議そうに首を傾げた。


「いえ、特に何も。毎日の食材の仕入れは、すべて料理長に任せておりますから」

「そうか……何か心当たりはないか?」

「心当たり……?」


 アマリリアは記憶を探るように少し視線を上げたが、すぐに微塵も興味がなさそうに微笑んだ。

 彼女の意識の中では、アルルという存在はすでに「庭の隅のあばら家で朽ちていく、取るに足らない小さな虫」のようなものに成り下がっていた。だからこそ、高価な魔獣の肉とあの無力な小娘が結びつくはずもなく、さらには彼女が数ヶ月も前に屋敷を抜け出していることになんて、気付く由もなかったのだ。


「祝宴は無事に終わりましたし、ユリシス様もクロード様もとてもお喜びでしたわ。それで十分ではありませんか?」

「……ああ、そうだな。少し気になっただけだ」


 アマリリアが小首を傾げて微笑むと同時に、ふわりと、ひどく甘ったるい白いもやがレイフの思考を包み込んだ。

 心地よい痺れが脳の輪郭をぼやけさせ、波立っていた疑念を優しく撫でつけていく。すっかり霞がかった頭で、その通りだ、と誘導された理性が深く頷いた。

 だが。

 完全に甘い靄に覆い尽くされたはずのレイフの心の奥底に。

 今までは決して感じることのなかった、ささやかな異物感がこびりついていた。 

 ふと生じた微かな疑問。

 どうしても魔法の靄で流しきれないその『何か』が、重く冷たい泥のように淀んで残っていた。



◇  ◇  ◇



 その夜遅く。レイフは書斎で一人、窓の外を見つめていた。

 今夜の誕生日の祝いは、何事も無く終わった。

 明日からも、家族も、使用人も、何事もなかったかのように完璧な日常を過ごすのだろう。

 しかし、十二年間、息子たちの誕生日に届けられ続けていた出所不明の贈り物。

 それが唐突に途絶えたという事実だけが、ペインズ伯爵家という完璧で閉ざされた箱庭の中に、静かな、しかし確実な違和感として根を張り始めていた。



ペインズ伯爵家のお話も時々挟みながら、アルルの旅を投稿していきます。

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