第八十一話 放課後、嵐の前で 3
「も、だめだぁー」
寮の自室へ入るやいなや、私は玄関先にも関わらず、全身を投げ出し倒れ伏す。
「夏ちゃん、夕飯の時間は終わっとるぞ?」
慌てた様子の瑪瑙先輩が、奥の方からやって来た。
そう。あまね先輩の言う『事前特訓』は、あれからさらに数時間続いた。
気付けば門限ギリギリ。空を見れば、とっぷり更けた夜。
(外、もー暗い)
ここまでやってくる道中の空の色を思い出す。
床にくっついた頬が全く動かせない。
体の力も入らなくて、なんならここで寝てしまいたい。
「先輩……」
「どうした、どうした?」
「今日はも、いいです……。明日食べます……」
「夏ちゃんがご飯の話をしない……だと?!」
瑪瑙先輩はショックを受けたように後退る。
そんなことも気にならないくらい、私は疲れ切っていた。
肉体的にじゃなくて、多分、精神的に。
数時間、されど短時間。
災害が起こった際の救助方法。
実際に被害者が多数出た事例の写真や詳細な情報。
短時間に頭がパンクしそうなほどに詰め込まれたそれらは、私の時間間隔を狂わせるほどに濃縮された、例えるなら濃縮還元ジュース。
(いや、例えの意味が分からないって)
きっと、海や陸に話しても、なんでその例えが出てきたって言われて、首を傾げられるような。
我ながら不思議な例えを頭の中に浮かべて、苦笑する元気もなく、作ろうとした苦笑いは「ぷふぅー」なんて、気の抜けた空気になって頬をへこませた。
「浜辺に打ち上げられたクラゲ……?」
瑪瑙先輩がツンツン頬をつついてくる。
つつかれる度に、ぷふ、ぷふ、って残った空気が抜けていく。
「めの……せんぱ……」
「どうした夏ちゃん?!」
「今日は、明日ですか……?」
「今日は今日だよ?! だめだ、夏ちゃん重症!」
起きろ、起きろって揺らされる肩の振動。
まるでうんと眠たいときの車の揺れ。子守唄のように心地いい揺れに感じて……。
「夏ちゃん?! ここで寝たら体痛くなるぞぅ?!」
「ぐぅ」
「だめだこの子寝つきがいい!!」
起きてえぇぇぇ!
瑪瑙先輩の声を遠くに聞きながら、私の意識は深く沈んでいった。
***
「おはよう」
「おはよ……ござ……ます……」
「……」
「……」
「ボロボロね?」
あまね先輩の珍しいジト目。
休日の始まりに私は、苦笑いで誤魔化した。
昨日、結局床で寝てしまった私は、朝になって、とんでもない筋肉痛に襲われることとなった。
「私の若さで勝てない……だと……」
「そりゃ、一晩柔らかくもないフローリングで寝てたらそうなるよねぇ……」
呆れ顔の瑪瑙先輩は、どうやら私を放置したらしい。一晩。
なぜ放置したのか。問い詰めると、曰く。
「だって夏ちゃん、重かったし」
「がーん」
朝からショックを受けたことが、今日一番のハイライト。
(でも昨日の事前特訓とかなら、多分ずっと椅子に座ってられるだろうし……)
頭の中で算段をつける。
今日の予定なんて何も聞いていないのに、あまーく、頭の軽い、お花畑な算段を。
つまり、舐めてた。
私は思いっ切り、舐め腐った思考をして、安心感を得ようとしていた。
次の試験に、生命さえ賭けてるような迫力で啖呵を切った人が、そんなぬるい考え方でいるわけがないのに。
「……ま、着いてこれるならいいわ。行くわよ」
呆れ半分。あまね先輩は歩き出す。
……昨日いた、図書館とは逆方向に。
「……あれ? あまね先輩、どこに行くんですか?」
図書館逆ですけど。
その問いは、言葉にならずに掻き消える。
あまね先輩の目が、また、電気のようにバチバチ光って見えたから。
「外泊許可をもらっているわ」
「外泊?」
「行くわよ。時間がないの」
「行くって、どこに」
あまね先輩に腕を掴まれ引きずられる。
転んでしまいそうなほどに乱暴。転ばないように足並みを揃えることが、私にできる精一杯。
「空港まで」
きっと先輩が呼んで待たせていたのだろう。
校門付近にタクシー一台。
否を言う暇もなく、私は後部座席に押し込められた。
間もなく、と言うには長い時間をタクシーに揺られ、私たちは空港に到着する。
支払いはすべてあまね先輩が。
出そうにも、手持ちはすべて部屋に置いてきてしまった私は、行き場のない手を右往左往させることしかできない。
「気にしなくていいわよ。この休日の支払いは、全部あたしがするから」
なんて、男前な発言を繰り出した先輩に、お願いしますと頭を下げることしかできない。
(久しぶりの旅客機だ)
高校時代のあの日から、一切乗ることがなくなった旅客飛行機。
旅を楽しむための余裕もなく、移動するための手段としても一切選ばれることのなかったそれは、ある種の象徴として印象に残っている。
発作のようなものが起きるのではないか。
そんな杞憂は、疾うの昔に払拭している。
(学校で散々、飛行機に乗ってるどころか運転してるしね)
シミュレーションでも、訓練でも。
私は、こと飛行機の操縦においては、学校の中では群を抜いている自覚がある。
成績がそれを物語っている。
その時も、発作なんて無かったし、きっと私の傷は、そこには無いのだと思っている。
……ただ。飛行機の思い出が、私にとってはその程度だったのかって、少し落ち込むことがあるくらいで。
「……今から、どこに向かうんですか?」
離陸。そして雲の真下。
私は眼下の景色を見ながら、あまね先輩に問いかける。
窓に映る彼女は、こちらをチラとも見ることなく、瞳を閉じて寝る体勢。
答えが返ってこない雰囲気。
肩を竦め、再び景色に集中しようとしたところ。
「……関西」
ポツンと落ちた言葉に、私は思わず彼女に振り返る。
そうして彼女が吐き出した言葉は、ある場所を示す住所。
「……それって」
昨日の事前特訓でも見たし、もっと身近なところだと、鬼沢教官の娘さんが通っていた学校があるところ。
つまり、今から向かうのは。
「二十年前、地震が起きて、多数の被害を出した場所」
光が睡眠の邪魔になるのか、眉をしかめてアイマスクを装着したあまね先輩が、もごもご面倒くさそうに答える。
「被災地よ」
彼女の発したたったひと言は、鉛の重りの如く、非情な重量感があった。




