第八十話 放課後、嵐の前で 2
「……やっと来た」
不機嫌なのか、ただ無表情なのか分からない微妙な表情で、図書館の前にあまね先輩は立っていた。
「お待たせしました。……中で待っていたわけじゃ」
「ないわよ。説明するのに中だと声が響いて迷惑じゃない」
彼女は腕を組んで仁王立ちをしている。
身長はほぼ同じのはずなのに、見下されているような威圧を感じるのはなぜだろう。
「なぜ図書館に?」
先輩の背後に見える図書館への入り口へ視線を向け、彼女に問いかける。
言葉少なく、端的に。
先輩は一言、言葉を吐いた。
「事前特訓」
入った図書館は静かで。
耳鳴りがするくらい静かで。
足音だけがひどく響くその空間で、あまね先輩は司書の女性を通り過ぎて奥へと向かった。
「せ、先輩っ」
足が速く、背中を見失いそうな先輩に、待ってくださいと声をかけるつもりで発した言葉は、思っているよりも大きく響く。
パッと口を押さえた私。硬直した時間も関係なく先輩は先へ進むから、更に距離が離される。
足音が大きくなるのも構わずに、私は駆け足で先輩の後を追う。
やがてその歩みも、奥の机、その一角で止まる。
「ここは……」
その机には、天井まではさすがに届かないけれど、そのくらいと錯覚するくらいに多くの本が積まれている。
その数、ひー、ふー、みー……いっぱい。
「ここにあるの、過去にあった災害の事例とか、事故の事例。大小問わず」
「こんなに」
ここにうず高く積まれたこれは、先人の努力。
過去のことと目を逸らさずに、記録し続けてきた努力。
「この本の中とか、別の本にもあるけど、救助の手順や仕方、注意事項、その他諸々が記載されてる」
あまね先輩は積まれた本の背表紙を指でなぞる。
この本たちは、よく読まれている本たちなのだろう。
放置された本に積もるホコリが、この本たちには一切ない。
彼女は撫でたその指を、私の方に指差してくる。
その唇が、意地悪そうに歪んだ。
「覚えて。全部」
私、あまね先輩のこと、初めて悪魔のようだと思ったよ。
***
あれから、一体何時間書類や本と睨めっこをしていただろう。
もしかすると一時間も経っていないかもしれない。けれど、窓の外はもうとっくに真っ暗だった。
「ふー……」
天井を仰ぎ、目元に腕を乗せて視界を隠す。
窓の外の夜闇よりも真っ暗になった世界で、私の吐息と、向かい側にもう一人分の吐息のみが響いている。
この時間で流れ込んできた情報の量が多すぎて、体感時間が圧縮された、奇妙な感覚。
――気分が悪い。
今の気分を一言で言ってしまえば、そんなところ。
先ほどから叩き込んでいる情報は、今までの災害の詳細な状況。
どこで何が起こった。どんな被害があった。被害の状況は。
それは、災害現場で起こった被害者の状況も詳らかに示されていた。
写真付きで説明されている被害者の最期は、対処法よりも深く心の中に突き刺さる。
吐き気がしてきた。
そこに記された、あまりの生々しさに。
「見ていて気持ちのいいもんじゃないでしょ?」
勝手に休憩を始めた私を咎めることもなく、あまね先輩は静かな声を図書館の中に響かせる。
これっぽっちの声量でも、はっきり耳朶に、脳の奥にまで届いてしまうほど、図書館の中には物音ひとつ存在しない。
これだけ長い時間、そこにいたのに。
「静かでしょ。ここ」
まるで私の心の中を見透かしたような小さな言葉に顔を上げる。
瞬発的に、なんて言葉が似合いそうなほどに勢いよく顔を上げたものだから、髪の毛の音がよく聞こえる。
髪の毛が服に擦れる音。
髪の毛が本の次のページを捲り上げる音。
髪の毛と髪の毛が擦れる音。
そんな些細な音もしっかりと耳に届く静寂の中で、ひときわ大きく聞こえた音は、目の前のめのう先輩の目と、私の目が合った音。
バヂバヂって、電気が弾けるような幻視。
その音が、幻聴となって確かに聞こえた。
「……アタシ」
バヂバヂ、ギラギラ。
手に負えないほどの電流が弾けるその目に、私の姿が確かに映る。
「この試験、命賭けてるって言ってもいいから」
静かに吐き出される声は、覚悟が決まった者の声。
彼女が吐き出す思いは、心の底から叫び声を上げている。
「救助試験ってことは、聞いてるよね」
最早質問でもない、ただ確定させるだけのその言葉に、私は小さく頷く。
先輩は己の髪を人差し指で弄ぶ。
日に焼けた、赤茶けた髪の毛。
初めて会った時の、穏やかに笑う先輩の印象は、苛烈なまでの蛇睨みに掻き消えた。
「あんたのその、ヘラヘラした立ち回りじゃ、救えない命が出てくる」
目から電流。口から毒。先輩の背後に苛烈な炎が立ち上っている幻覚が見える。
静寂の図書館に、もうこの人の声しか満ちない。
きっと先輩は、第一期の試験で私が勝手をしたことを怒っている。
それを今日まで、許せないでいる。
それは先輩の大切にしている、例えば誇りとか。例えば願いとか。
或いは――夢とか。
そういう何かをぐちゃぐちゃに踏みつけるような行いに等しかったからなのかもしれない。
だから、私は口を開くことができない。
あの日の過ちを謝ることも。する気はないけど、反論とか、そういうものを、一切。
先輩は電気が弾ける瞳のまま、変わらず静かに。しかし確かな威圧を持った声で、私に命令をする。
「真面目にやって。この試験だけでもいいから」




