第七十四話 薬ならざる 3
(調理室、近くてよかった)
内心で深く安堵する。
裏方出入口を出てすぐ調理室のこの立地でよかったと、心底。
そうでなければ隠せない。
こんな……。
「……あ。空、ちゃん……? どうしたの……?」
「ん? 何でもない」
「何でもないことないよ。どうしたの、その顔」
……こんな、ポーカーフェイスさえ忘れてしまった、不機嫌そうな顔なんて。
椅子の脚を揺らしてどっかり座り込む。
深いため息はきっと、今の星羅ちゃんにとって萎縮する材料でしかない。
それでも止めることはできなかった。でないと、人目も憚らず喚き散らしそうだったから。
「……星羅ちゃん」
「はっ、はい」
「あの人、出て行ったからね」
涙の跡が滲む星羅ちゃんにかけられる言葉なんて、怒りを堪えている今、これが精一杯だった。
「……ありがと」
彼女は無理やり笑う。
左頬が不自然に上がっているのに、右頬だけ下がっている、歪な笑顔。
「いつも、あんな感じだったの?」
何気なく聞いただけ。
何の気なしに、何気なく。
「――ごめんなさい」
ただ、それだけなのに、彼女は小さく身を竦ませて、カタカタ小さく震え出す。
その口から溢れる言葉はごめんなさい。
何度も何度も、ごめんなさい、ごめんなさいと繰り返されて、その顔には血の気を感じることができない。
「落ち着いて、大丈夫、大丈夫」
過呼吸になりかけている星羅ちゃんの背中を強く擦る。
空気が漏れる音は、やがて嗚咽へ変化する。
「わたし、わたし、ほんとのほんとはだめな子で」
まるで懺悔。
イタズラを働いた幼い子供が、大人に許しを請うための、縋るような懺悔。
私は彼女の頭を抱きかかえるように覆う。
あやすように後頭部を撫でながら、一言、一言、違う、そうじゃないって言って聞かせる。
「そんなことない。星羅ちゃんは、星羅ちゃんが思っている以上にすっごい人だよ」
嗚咽が大きくなる。
鼻をグズグズ鳴らす彼女の両手は、行き場なく彷徨って。
「だってっ、テストじゃ満点取れ、取れなかった、し、一位取ったこと、ないし!」
「そんなの私もそうだよ。満点なんて生まれてこの方取ったことない」
「海外旅行っ! お母さんが予約したの、知らなくて! わたしっ、友達との約束入れちゃって!」
「知らなかったんでしょ? 仕方ないよね?」
嗚咽はか細い悲鳴のように、その音色を変えていく。
縋りつき、泣きじゃくるかのごとく放たれた悲鳴には、彼女が生きてきた中で、常識であると植え付けられた価値観が顔を出す。
「ううん、ううん! お母さんのやりたいことを察せなかったわたしが! ……わたしが、悪いの」
そんな無理難題、完璧に全うできるなら、それは人間業じゃない。
「未来予知でもしないと分からないでしょ」
呆れを含めて吐き出す言葉。
吐息とともに流れ出たそれは、吐き捨てたとも言うべき響きがあったのかもしれない。
こんな呆れを吐き捨てたいのは星羅ちゃんの母親に。
私が想像していたよりもずっと、星羅ちゃんは理不尽に晒されて生きていた。
理不尽に理不尽を重ねて、自尊心を長い時間かけて奪い取られてきていた。
「よーしよしよし。星羅ちゃんはすごい子。理不尽に遭ってもめげずに真っすぐ生きてきた、とっても偉い子」
頭を撫で続けている内に、気持ちは少し落ち着いてきたらしい。
嗚咽が小さくなって来た星羅ちゃんが、ぽつりぽつりと零していく。
「漫画、好きなの」
「うん」
「だけど、お母さんは小説を読みなさいって」
「……うん」
「大衆小説を読んだら怒られるから、難しい論文みたいな本ばっかり読んでた」
あはは。って、乾いた笑いは苦笑いよりも不自然で。
仮面のような笑い方をした彼女の素顔は、泣いているのかもしれない。
それとも、感情をすべて失って、無感動な無表情を浮かべているのかもしれない。
内に複雑な感情を押し殺して笑う仮面の笑顔は、およそ成人前の女の子がしていい表情ではない。
彼女は無表情の笑顔で、ポツリと。
「つまらなかった」
そう、本音を吐き出した。
「無表情だったり、不機嫌だと他の人に疑われるから笑えって言われて」
何を疑われるかなんて、言葉にするまでもない。
「だけど、笑い方がかわいくないって、ご飯抜かれたこともあったな」
浮かべた苦笑は、さっきまでよりはほんの少し自然な笑い方をしている。
本音を吐くくらいの余裕が出てきたのだろう。
「――お母さんの期待に応えられなかった」
――だから、この言葉もきっと、本心からの言葉。
「お母さんの期待を裏切ったわたしは、ダメな子なんだよ」
駄目な子。
自分でそう呼称してしまうくらい、たくさん、たくさん言われてきたんだろう。
何度も何度も傷ついて、それでも必死に縋ってきたのだろう。
……きっと、お母さんのことが好きだから。
私はおもむろに立ち上がる。
不安そうに揺れる星羅ちゃんの視線を感じながら、椅子の上に上履きのまま乗り、立ち上がる。
すぅ、と大きく息を吸う。
――見ろ。そして聞け。
士官学校で鍛えた、私の肺活量とドデカ声!!
「星羅ちゃんは、駄目な子なんかじゃない!!」
「!!」
調理室の窓が僅かに揺れるくらいの声量で、全身を使って叫ぶ。
突然の大声に驚いた星羅ちゃんは、咄嗟に耳を両手で塞いでいる。
「私知ってるもん! 星羅ちゃんは頭がとってもよくて! 天気予報の大天才!」
お構いなしに、私は星羅ちゃんの良いところを叫んでいく。
外に一人、二人。僅かな見物人が出来てきた。
構うものか。
「その上度胸もすごいんだから! アンタみたいな臆病者じゃないんだから!!」
伝えたい人間には届かないかもしれないけど、私は怒り狂う事も出来ない友達の為に怒鳴ってやる。
喉が枯れるまで。枯れても怒鳴り続けてやる。
「アンタが思うより、星羅ちゃんはずっと、ずぅっと優秀な! 凄い子なんだから!」
すたぁん! 調理室のスライドドアが勢いよく開かれて、直ぐ様閉じられる。
「夏ちゃんどした?! ほれほれ、どうどう。廊下まで聞こえとったぞ?」
その場には瑪瑙先輩。
落ち着かせるように腕をつかんでくるけれど、私は歯をむき出しに、ギリギリ歯ぎしり。
「むぎいいぃぃぃっ!! 星羅ちゃんがいい子だって認められない世界は間違ってるぅ!!」
「そぉね、そぉね。とりま椅子から降りなさい。危ないよ」
瑪瑙先輩に抱っこされ、椅子から降ろされた。
それでもむぎむぎ歯ぎしりは止まらないままだけど……。
「空ちゃん。もういい。もう、いいよ」
星羅ちゃんが、両手を握って止めてくる。
彼女は目に涙を溜め、それでも自然な笑顔で笑って言った。
「ありがとう」
私はようやく、怒りに震える歯ぎしりを止めた。




