行間・獣の魔法
ヨゼフ=イトイーティッドは街ではないどこかで育った。正確な位置は自分にもわからない。だからヒュルム語は話せなかったし、文字を書く事もできなかった。ただ森の中は果実がゆたかで、それらは低いところに生えていて飢えることはなかった。ヨゼフは自然の中にいたし、自然はヨゼフの中にいた。陽の光はあまり届かなかったが、腐った草の出す熱がいつも体を温めていた。
ヨゼフは何も知らなかった。魔法のこと、社会のこと、経済のこと、悪魔のこと、人間のこと、成長すること、愛、恐怖、信頼、ただなにも知らないなりに幸せに生きていた。
死ぬことと生きることだけはなんとなく理解していた。森の生き物も死んでいくからだ。そしてヨゼフも生きているからだ。
ある日のことだった。
ヨゼフの住む森に一人の男がやってきた。彼は染め上げたような紅蓮色の皮膚をしていた。姿形は人間のそれと大差なかったが、黒白の反転した瞳と透き通るような水色の髪は人間の遺伝子では決してありえない物だった。
「なんと……。人の子か。こんな森の深くに」
男はヒュルム語ではない言葉で言い、膝を折って、ヨゼフに目の高さをあわせた。じっと覗き込むとヨゼフが手を伸ばす。男はその手を握り返した。パッと明るくなるヨゼフの表情に、男も釣られて笑みになる。それから表情を緩めた自分に気づき、突然険しい顔をした。
人になど心を許すべきではないと彼はよく知っていた。しかし相手は幼子で、警戒するような相手でもないと思い直す。そして今度はヒュルム語で語りかけた。
「おまえは何者だ? どこからきた?」
彼のヒュルム語は決して流暢ではなかったが、ヨゼフはそもそもヒュルム語もわからなかったので小首を傾げただけだった。
彼はヨゼフのことを捨て子だと察した。貧しい街で暮らすものが、食い扶持を繋げないがために子供や老人を捨てることは、昔はままあることだった。ただ最近は街と法律の近代化でかなり少なくなってはいた。
森にやってくる人々は大抵木材が目当てだった。彼らは自然を削り、自分たちの住処を広げようとしていた。幾つも森が消え、動物達は居場所を失った。年老いた悪魔はそれに嘆息し、若い悪魔は激昂した。彼は前者だった。人間が栄え、自然が滅びていく。この流れは最早止められないこともわかっていた。彼らは無限に搾取し、いずれバランスを崩し、自らを滅ぼすだろう。それは悪魔の持つ絶対的な力をもってしても、止められない。しかし抵抗をやめることはできなかった。
さて、この子をどうするべきだろうか。
彼は自分の立場を考え、この子の立場を考え、さらに街の人間のことを考えた。
彼は悪魔だ。人間とは敵対している。この子が成人したときに、悪魔に育てられた子供などいい顔はされない。
この子は人間だ。いまはまだ無邪気だが、人が恐るべき生き物であることを彼は知っていた。いつか自分の背中を刺すときが訪れるかもしれない。
そして捨て子だ。街に返したとしても、これからの短い人生の中で、よい経験になるとは思えなかった。動物の社会でも孤児は辛い目に会うことが多い。
迷った末に彼は現状を維持することに決めた。害を成せば排除する。そうでなければ、別に構わない。人間というだけで森から追い出すのは、彼の好むところではなかった。
どうせなら人間の社会に帰っても困らないようにしてやろうと、彼は思った。ヨゼフはまだ幼く、小さかった。独力で生きていくことはできない。かといってここで生涯を過ごすこともできない。いつかきっと旅立つことを選ぶはずだ。
「アゾート。私の名前だ。わかるか?」
「ア、ゾー、ト?」
ヨゼフが彼の名を呼んだとき、彼は再び表情を緩めた。
結局のところ彼はヨゼフの都合ではなく、自分の都合で動いていた。アゾートは戦いに疲れている。彼は温もりを欲していたのだ。幼く無知なヨゼフと接することで、それを感じていた。
不意に。森の外周で大きな音がした。木が切り倒されたのだ。
「ちっ。人間め……」
アゾートはその場を離れ、森を汚す人間達の元に向かう。凄まじい脚力で木々を飛び移り、二十秒も立たない内にそこへ辿りついた。そこには軍隊が待ち受けていた。
最近では常のことだ。木を切り倒してアゾートを釣りだし、殺すために布陣している。
しかしこのところの彼らの表情には、常に怯えの色があった。おそらく上官の命令で無理矢理戦っているのだろう。度重なる敗北で士気を保てていない。
「剣兵、前へ!」
隊長らしき腹回りの太い男から勇ましい声が飛び、腰の引けた兵士達が前に出る。
「弓兵、構え! 撃てっ」
まだ距離のあるアゾートに向けて三十人ほどの規模の弓兵が矢を放った。魔導兵が中距離への侵入を警戒している。どれもアゾートに致命傷を負わせるものではなかった。立て続けに放たれる弓矢を、足と肩、腹と首に受けたが、アゾートは構わず木を蹴って彼らに突進した。
全身に弓矢と魔法を受けるが、アゾートは止まらず、剣兵達の前に降りた。
「ひっ……」
兵士たちが短い悲鳴をあげる。アゾートが両脇にいて剣兵の腕を掴み、捻った。関節の壊れる嫌な音が響き、二人は剣を手放す。「うああああああっ」絶叫しながら剣を振り上げたもう一人の兵士に足払いをかける。体勢を崩した兵士の剣が肩に突き刺さるが、アゾートはまったく意に介さなかった。肩から剣を抜くと、手近な一人を薙ぎ払った。柄ごとそれを握り締めた指が飛ぶ。本当は手首を切断したほうが早かったのだが、失血で死ぬ可能性を考慮して指に留めた。
「弓兵、撃てっ! 魔法兵、援護せよ」
上官から号令が飛ぶ。
「shrauirlbda (正気か……?)」
アゾートと剣兵達はごく近い距離にいる。いま弓矢や魔法を放てば、多くの兵士が巻き込まれる。弓兵達も躊躇っている。
どうやら指揮官をどうにかしなければならないようだ。アゾートは大きく下がった。森の中へ逃げ込む。弓矢や魔法がアゾートを追いかけてくるが、アゾートが逃げるほうが速かった。
「追え! 殺せ!」
やはり指揮官が厄介だ。アゾートは体中に刺さった矢を引き抜き、魔法を使った。遠目にその場を見ていた剣兵の一人からは、アゾートがその場から消えたように見えた。
兵士は仲間にそれを伝える。彼らは何度もアゾートと交戦しているが、彼の魔法を正確に知らない。自己再生能力に近いモノではないかと想定されている。そしてそれはある程度正しい。
剣兵達は陣形を組みつつ、索敵を続けた。しかし一向にその姿は見つけられなかった。
アゾートはその時、すでにその場を遠く離れていた。魔法兵の脇を駆け、弓兵達の背後を抜けて、指揮官の男の頭上にいた。その場にいた人間達には、アゾートが突然現れたように見えた。
アゾートは鳥に変化していた。
『獣の魔法』
それがアゾートの使う魔法の名だ。自らの形に変化し続けることで、傷を治すことができる。悪魔であるアゾートはあらゆる生物よりも肉体的に強い。よって治癒能力以外にはほとんど用いることがなかったが、鳥に変化して空を飛ぶことなど、動物ごとの特色を使うことができた。
「動くな」
アゾートは指揮官の男の首に手をあて、流暢でないヒュルム語で言った。
突然突きつけられた死の恐怖に、男が固まる。アゾートの爪が皮膚に食い込む。
「死にたくなければ兵を引け」
カタコトであることが奇妙な冷酷を持って耳に届いた。アゾートの手の中で男が震えているのがわかった。男が「武器を、収めろ」と言った。アゾートは少し呆れた。
兵達には死兵であることを強要しながら、自らの命が掛かった途端に矛を収める。戦いというのはそういうものかもしれない。すべてを決めるのは、自分が命を賭けていない人間たちなのだ。だからこそ大局を冷静に判断できるし、ひたすらに冷酷になることができる。死者や負傷者を、ただただ数字にできる。
アゾートはこの男を少し殺したくなった。
だがしなかった。代わりに声を張り上げる。
「見ろ! 貴様らが付き従っているのは自らの身の可愛さ故に貴様らを見捨てる者だ! このような者のために命を散らす価値があるのか?! これは果たして大義ある戦いか」
誰も何も言わなかった。
アゾートは鈍い苛立ちを覚えた。男を放り捨てると、高く跳躍し、兵士達の頭上を飛び越えて森へと帰っていった。
「追え! 殺せ!」
後ろから喚き声が聞こえてきた。振り返ったが、アゾートを追う者は誰もいなかった。武器を捨て、互いの手当に取り掛かっていた。




