行間・獣の魔法
それからしばらくは平穏な日々が続いた。人間達は森の侵略を諦めたようだ。無論、戦いがこれで終わりではないことはわかっていた。士気を回復し、戦力を補填して、彼らは再びやってくるだろう。何度でも追い返せばいいだけのことだ。アゾートは戦いが好きではなかったが、戦力としては彼らをはるかに上回っている。
アゾートは度々ヨゼフの元へやってきた。
そしてヨゼフに森での生き方を教えた。そしてできる限りのヒュルム語の教育を施した。それがある程度できるようになると、彼の知る限りの政治や経済の仕組み、簡単な数学や科学を教えた。幼いヨゼフにはまだ理解できないことも多かったが、ヨゼフは好奇心に任せて楽しそうに聞いていた。
そうした日々が二年ばかり続き、やがて終わった。
その日、軍隊は騒がしかった。他の街からやってきた腕利きの魔導士が戦力として加わり、長らく街を脅かしていた悪魔の討伐に加わったからだ (無論、アゾートは街を脅かしてなどいない。それは対悪魔を掲げることで資金源を得る彼らの方便だ)。
魔導士の名はディべーロと言い、幾多の名のある悪魔と戦ってきた勇者だった。彼らはディべーロを主戦力とする部隊を組み上げて森にやってきた。
大勢の足音が迫るのをアゾートは聞いた。ヨゼフが不思議そうにアゾートを見上げている。殺気立った彼を見るのが初めてで、興味を持っているのだろう。アゾートはヨゼフの頭を撫でると、大人しくここで待つように言った。頷くのを見届け、地面を蹴って高い樹に登った。部隊の全容を見渡す。それはかつてない規模だった。
だが大半が戦闘と関係がなさそうな位置に配置されていた。まるでアゾートを包囲し、逃がさないようにしているようだった。
大層な自信だなと思う。先鋒の部隊が森に侵入してくる。ディべーロのいる一団だ。
アゾートは彼らの元へ向かった。
そして目の前に降りた。攻撃はしない。彼から攻撃する動機を持たなかった。一団の中にいた銀髪の大男が、隣の兵士に「これが目標の悪魔か?」と訊ねた。隣の兵士が緊張しながら頷く。
「わかった。君らは少し離れていてくれ。巻き込んでしまう」
アゾートは覚悟をした。この男はいままでの者達とは雰囲気が違う。殺すことをためらったままでは、勝てないだろう。
大男は一歩進み出る。
鋼色の恐ろしく冷たい目をしていた。
「ディべーロ=ウルエルガ=マキナウォールだ。あなたの名は?」
「アゾートだ」
そして次の一言は、アゾートを激昂させるのに充分だった。
「アゾート、遺言はあるか?」
地面を蹴ってディべーロに殴りかかった。
ぐぎゃりと音を立てて、アゾートの拳が砕けた。銀色の壁がディべーロとアゾートの間を隔てていた。
「鋼の魔法」
ディべーロが呟く。アゾートの拳が再生する。銀色の壁が無数の槍へと変化して、アゾートのほうへ突き出される。それは弓矢の速度の比ではなく、アゾートは幾つかを受けながら飛び退く。
「なるほど本当に再生するのだな」
アゾートは相性の悪さを自覚する。
精製した槍の一本を握り、ディべーロが間合いを詰めてくる。その後ろを銀色の波濤が追う。
この男の魔法は、金属を流体化し、自在に形を変え、即座に硬質化することができる。
強靭な鋼による圧倒的な攻防力を有している。戦闘にこれほど向いている魔法も珍しいだろう。
対してアゾートの魔法は攻撃力に欠けていた。それが問題になることはなかった。アゾートは身体能力の高い悪魔で、打撃と再生力だけでほとんどの敵を制圧できたからだ。
だがディべーロに打撃は通用しない。すべて鋼が防いでしまう。
アゾートは小さく息を吸い込み、魔法を使う。ディべーロが真っ直ぐに槍を突き出す。脇へ躱して顔に拳を放つが、流動する金属が間に入り、すぐに硬質化する。拳が砕け、再生する。同時に腰を捻って下段に蹴りを繰り出す。ディべーロは踏み込んだ片足を上げて回避する。どうやら多方向に同時に金属を動かすのは難しいようだ。
ディべーロはそのまま上げた片足で前蹴りを繰り出したが、アゾートの体はびくともしなかた。元の筋力が違うのだ。アゾートは蹴りだされた足を掴み、膂力に任せてディべーロの巨体を木に打ち付ける。咄嗟にディべーロが両手を頭の後ろで組み、後頭部への直接の衝撃を避ける。一刹那遅れて金属の波濤がハンマーと化し、アゾートを横薙に殴りつけた。数本の巨木をへし折ってアゾートの体が森の奥へと吹き飛んでいく。足を掴んでいた手が離れ、ディべーロが空中に投げ出される。どうにか受身をとったものの、全身に鈍痛がのしかかる。
アゾートが木を支えに起き上がる。潰れた右半身を再生する。
ディべーロは単純な打撃、斬撃ではこの悪魔を殺すことはできないと悟る。
アゾートが片手をディべーロのほうへ突き出した。二人の距離は大きく開いている。何かがくる。直感したディべーロが身構えるよりも少し前に、爆発が起こった。
ホソクビゴミムシ科の虫は、過酸化水素とヒドロキノンを反応させ、100度を超える気体を放出する。獣の魔法によってその機構を作り出し、ガスを放出したのだ。無論100度程度の熱量でディべーロを倒すことはできないだろう。これは単なる牽制だった。ガスを再装填しつつ、アゾートが間合いを詰める。
鋼の壁でガスを防いだディべーロが、再び形状を変えつつ迎え撃つ。ガスの噴射による初手を鋼壁を防ぐと、視界が覆われた一瞬にアゾートが跳躍した。
アゾートの手足が空中で八本になった。それらは茶色の体毛に包まれている。アゾートの姿は異様に大きな蜘蛛科の生き物へと変化していた。ディべーロは手足を防ぐように大きく鋼の形状を変える。と、胴体から針のように細く、鋭い体毛が発射された。タランチュラという蜘蛛の特徴だった。八本の手足と針の両方を防ぐことは、ディべーロにはできなかった。心臓と目を両手で防ぐも、ディべーロの全身に針が突き立つ。代わりにアゾートの心臓の近くにも、刺のある槍が深く突き刺さっていた。
「ぐ……」
鋼がアゾートの知らない形の、筒のような物に変化した。アゾートは反射的に逃げようとしたが、胸の近くに刺さった槍が彼に身動きをとれなくした。
ディべーロが筒の先をアゾートに向ける。次の瞬間、全身に凄まじい衝撃が走った。火薬の臭いが鼻を掠める。筒の先から煙があがっている。
ディべーロは膝を突いた。彼の手にあった散弾銃が形を失って崩れる。アゾートの放った針が激痛を与えていた。痛みが魔法の操作を危うくしている。が、いまコントロールを失うわけにはいかなかった。兵士が衛兵を呼びに視界の端から消える。
少し先ではアゾートがもがき苦しんでいる。散弾銃の弾丸には、ディべーロの魔法が込められている。全身に埋まった小さな鋼が内側から彼の再生を阻み、肉体を掻き回している。
アゾートは死を感じた。血みどろの体を引きずって森の奥へと逃げる。ディべーロの魔法が届く範囲から逃れれば、傷を治せるかもしれなかった。しかしそれが叶わないであろうことは、彼自身がよくわかっていた。あれは相当腕の立つ魔導士だ。このまま自分を逃すことなどありえないだろう。それにどこに逃げようが、兵隊が森を包囲している。
自分の中に恐怖を感じる。それは初めての感情だった。
死ぬのが恐かった。
彼は魔法によってほとんど不死身だった。だからこれまで戦いの中にあっても、自分の死を感じたことはなかった。剣も槍も矢も魔法も、真実彼を脅かしたことは一度もなかった。彼にとって人間は蠅だった。絶えず羽音を響かせている、鬱陶しいだけの存在。人の持つ明確な殺意の槍が、はじめて彼の思考を貫いた。
「く、あぁ……」
一人で死にたくなかった。
一人は冷たくて暗かった。
温かみが欲しかった。アゾートの足は自然と、ヨゼフの元へ向かった。
「アゾート?」
ヨゼフはいつもよりも楽しそうな笑みでアゾートを迎えた。死ぬほどの苦痛を与えられているアゾートを見るのがはじめてだったので、興味を持ったのだろう。
アゾートはヨゼフの手に触れた。
その手はとても小さく、暖かかった。
アゾートの中で鋼の弾丸が、心臓と脳髄と多数の内蔵を抉り、ヨゼフの胸の中で彼は死んだ。
口元が小さく動いた。しかしそれはヨゼフの耳には届かなかった。ヨゼフは相変わらず何も知らなかったが、死ぬことと生きることだけはわかっていたので、彼の亡骸をずっと抱きしめていた。
やがて、治療を受けたディべーロが森の奥へとやってきた。
アゾートが死んでいるのを確認し、ヨゼフを見る。栄養の足りていないみずぼらしい体をしている、人間の子供。
「人質にでもしようとしたのか?」
ディべーロは少し考えたが、自分に対して人質が有効かどうかを思い浮かべ、その線を消した。
彼は悪魔を殺すためなれば、子供ごと刺し殺す。
「こんにちは、あなたは誰?」
不意にヨゼフが言った。
「ディべーロだ。君は誰だ?」
「知らない」
「そうか」
捨て子か何かなのだろう。深く追求することはやめた。
「私と一緒に行こう。そのほうがお前のためになる」
「うん。わかった」
ヨゼフはアゾートから「人間がここを訪れた時は、その人についていくように」と教えられていたので、ディべーロと共に行くことにあっさり決めた。
ヨゼフはまだ幼かったので、月日が経つうちにアゾートのことを思い出さなくなった。




