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月下の女王

 サリオット村は、川を隔ててアストラ大国と向かい合う、国境近くの村だった。

 帝国とアストラ大国の戦争が激しくなるにつれ、村には大勢の帝国兵が駐屯するようになった。

 兵士たちは教会にまで押しかけ、食料を持ち去り、村の娘たちを連れていった。抗議した者は殴られ、誰も逆らえなくなった。

 いつしか、それが当たり前になっていた。だから、私たちは血を飲む相手選びに困らずに済んだ。

 夜になると兵士が一人、また一人と姿を消した。

「アストラ大国のスパイが潜んでいるらしい」

「昨夜も見張りが戻らなかったそうだ」

「誰かが内通してるんじゃないのか?」

 兵士たちはそんな噂を囁き、互いを疑うようになった。

 血を吸い尽くした遺体は驚くほど軽く、森の奥まで運ぶのも難しくなかった。人目につかない場所に埋めれば、誰にも見つからない。

 少なくとも、そう思っていた。

 やがて、奇妙なことが起こり始めた。遺体を埋めた場所に、見たこともない純白の薔薇が咲くようになったのだ。

 花弁は雪のように白く、近づくと甘く優しい香りがした。

 あまりにも美しかった。だからこそ、恐ろしかった。

 白薔薇は、私たちの罪を数えるように咲いていた。

 私は血を飲むのが恐ろしくなっていた。アランやブレイドに言われても拒み続けていた。理性を失うギリギリまで私は耐えていた。


 ♢


 夜の孤児院の庭で、俺は木刀を振っていた。何度も繰り返してきた動きだ。踏み込み、振り下ろし、また構える。

 そのとき、孤児院の扉が静かに開いた。

 スカーレットだ。薄い寝間着姿で、裸足のまま庭へ出てくる。

「スカーレット?」

 呼びかけても返事がない。

 彼女は月明かりの下を、まるで踊るような足取りで歩いていく。

「おい、どこへ行くんだ?」

 やはり返事はなかった。何か様子がおかしい。

 最近、スカーレットは血を飲むことを拒否している。もう限界のはずだ。

 俺は木刀を置くと、彼女のあとを追った。

 スカーレットは一度も振り返らなかった。村の通りを抜け、帝国兵たちが集まる広場へ向かっていく。

 まずい。

 声をかけようとしたとき、彼女が足を止めた。

 数人の帝国兵が、焚き火を囲んで酒を飲んでいた。

 スカーレットは兵士たちの前に進み出ると、寝間着の裾をつまみ、可憐にお辞儀をした。

「こんばんは、卑劣な兵士の皆様」

 兵士たちが一斉にスカーレットを見た。一瞬、息を呑んだのがわかった。

「おいおい、こんな時間にどうした?」

「俺たちと遊びに来たのか?」

 兵士たちのぎらついた目が、スカーレットの身体を舐めるように眺めていた。

 俺は拳を握りしめる。

 だが、スカーレットは少しも怯えていなかった。むしろ、楽しそうに微笑んでいる。彼女は近くにある石に足を組んで腰かけた。

「私に跪きなさい」

 その瞬間、彼女の瞳が赤く輝いた。淡い赤い光が、兵士たちを包み込む。

 あれは……何だ?

 兵士たちの瞳から、すっと光が消えた。

 一人、また一人とスカーレットの前に膝をついていく。誰一人、逆らおうとしなかった。

 スカーレットはその光景を眺め、満足げに唇を綻ばせた。

「あなたたちみたいな馬鹿な男は、跪く姿がやっぱりお似合いね」

 妖艶に微笑むと、スカーレットに近づいてきた一人の兵士の顎を指先で持ち上げた。

「いい子ね」

 兵士は逆らわなかった。自ら襟元を開き、首筋を差し出した。

 スカーレットはその首に唇を寄せる。

 白い牙が覗いた。

 次の瞬間、兵士の首筋に牙が突き立てられた。

 男は悲鳴ひとつ上げなかった。ただ、恍惚とした表情で、彼女に血を吸われていた。

 俺はその異様さに息を呑む。

 スカーレットは夢中で血を飲み続けていた。

 やがて男の身体から力が抜け、地面に崩れ落ちる。それでも彼女は、何事もなかったかのように次の兵士へ目を向けた。

「次は、あなた」

 兵士は待ちわびていたかのように、首を差し出した。誰も逃げなかった。誰も悲鳴を上げない。

 兵士たちはただ、女王の命令を待つ臣下のように跪いていた。

 背筋に冷たいものが走った。

 何なんだ、これは。

 俺たちが今まで相手にしてきた兵士たちは、命乞いをし、逃げようとし、必死に抵抗した。

 だが、こいつらは違う。自分から命を差し出している。

 スカーレットは一度も武器を使っていない。

 ただ微笑み、命じただけだ。それなのに、誰も逆らえない。

 恐ろしい。

 そう思った。それなのに。

 月明かりの下、跪く兵士たちを見下ろすスカーレットは、息を呑むほど美しかった。

 まるで、本物の女王のようだった。

 そんなことを考えてしまった自分にもぞっとする。

「……スカーレット」

 俺は彼女に近づいた。彼女は血に濡れた唇を綻ばせ、こちらを向いた。

「あら、素敵な男」

 いつもの無邪気な笑顔とは、まるで違っていた。

「あなたも欲しいの?」

「……君は誰?」

 気が動転していたのか分かり切ったことを聞いた。スカーレット以外にはあり得ない。それなのに、彼女が言う。

「私はルナよ。知らないの?」

「……ルナ?」

「ええ。あなたは?」

「え?……アランだけど……」

「アラン。いい名前ね」

 彼女は楽しそうに微笑んだ。その笑顔を見て、胸の奥がざわつく。

 姿も声もスカーレットなのに、俺の知っている彼女ではなかった。

「……もう、充分だ。帰ろう」

「どうして? あなたのこと、もっと教えて」

 彼女は小首を傾げ、俺の顔を覗き込んだ。

 思わず、心臓が跳ねた。

 何を動揺してるんだ、俺は。

「……こんなところで話すことじゃない」

「あら、照れているの?」

 楽しそうに笑う彼女から、俺は思わず目を逸らした。

 まずい。

 完全に調子を狂わされている。

「……とにかく、帰るぞ」

「ふふっ。可愛い」

 ちょっと待ってくれ。

 頭を振った俺はスカーレットを気絶させようと、首筋に手を添えた。その手を、彼女がそっとつかんだ。

「何をするつもり?」

「それは……」

 言い終わる前に、彼女が身を乗り出してきた。

「……っ!」

 唇を塞がれた。

 一瞬、何が起きたのかわからなかった。

 柔らかな唇が押し当てられ、離れるどころか、さらに深く重なってくる。

 彼女の指が俺の頬に触れた。

 逃げようと思えば、逃げられたはずだ。なのに、身体が動かない。

 心臓が、壊れそうなほど激しく脈打っている。

 ……待て。待ってくれって!

 彼女がわずかに顔を傾ける。

 また唇が重なった。

 ……無理!

 こんなの、どうすればいいんだよ。

 ようやく唇が離れたとき、俺はまともに息をすることさえ忘れていた。

 スカーレットは満足そうに微笑んだ。

「いいね、アラン」

 その一言で、心臓がさらに跳ねた。

 もう、やめてくれ。

 これ以上は、本当にどうにかなりそうなんだ。

 そう思った次の瞬間、彼女の身体からふっと力が抜けた。

「……え?」

 倒れかけた身体を、慌てて抱きとめる。

「スカーレット?」

 返事はない。

 腕の中の彼女は、何事もなかったかのように穏やかな寝息を立てていた。

「……どういうことだよ」

 俺は呆然と彼女を見下ろした。いつものスカーレットだ。

 ……嘘だろ。

 俺は片手で口元を覆った。

 まだ、唇に感触が残っている。顔が熱い。心臓も、まるで落ち着く気配がない。

 あんなものを見せられて、あんなことまでされて。

 明日から、俺はスカーレットとどうやって普通に話せばいいんだ。

 ……頼むから、全て忘れていてくれ。

 俺はもう一度、周囲を見渡した。

 地面に倒れた兵士たち。そして、いまだに跪いたまま動かない男たち。

 さっきまでの光景が、頭から離れなかった。

 スカーレットの頬についた血を、指先で拭う。

 あんな姿は、二度と見たくない。

 そう思った。

 それなのに、あの美しい微笑みを忘れられそうにない。

 遺体は後で片付けるしかない。俺はスカーレットを抱き直すと、孤児院へ向かって歩き始めた。


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