怪物
村で一番大きな宿は、普段なら旅人や商人で賑わっている。
けれど、その夜は役人たちが広間を占領していた。
「田舎は退屈だな」
「シスターどもが来るまで、暇だ」
開いた窓から、酒臭い空気と笑い声が漏れてくる。
私は宿の裏手で、三人を振り返った。
「私が案内する」
「駄目だ」
アランとブレイドの声が重なった。
「一人で来いと言われた」
「だからって、スカーレットが一人で行く必要はない」
アランが眉を寄せる。
「大丈夫。森に誘い出すから」
「相手は兵士だよ」
ブレイドも難しい顔をしていた。
「わかってる。でも、私が行けばきっと話に乗ってくる」
ガーネットが私の袖をつかんだ。
「お姉ちゃん……」
私はその手をそっと握った。
「約束する。危なくなったら、すぐ逃げるから」
アランはまだ納得していない様子だった。
それでも最後には、渋々頷いた。
「絶対に無茶するなよ」
「アランにだけは言われたくないわ」
そう返すと、彼は一瞬だけ笑った。
その顔を見て、少し勇気が出た。
私は宿の扉を押し開けた。酒の匂いが鼻をつく。広間にいた四人の男たちが、一斉にこちらを向いた。
「来たか。スカーレット」
気持ちの悪い笑みを浮かべた中年警官が、待ち構えていたように言った。顔には大きな青黒い痣が残っている。
昼間、教会へ来た役人が口を開いた。
「お前はあそこの孤児か?」
「はい」
兵士の一人が立ち上がった。
「おいおい、ずいぶん綺麗な娘じゃないか。こんなのを隠していたのかよ」
役人は私の髪を見つめた。
「赤毛に琥珀色の瞳……珍しいな。本当にサリオットの人間か?」
「ええ。私はここで育ちました」
男たちの視線が気持ち悪い。今すぐ逃げ出したかった。
「隕石が落ちた場所を知っています」
役人の表情が変わった。
「何?」
「案内してさしあげます。その代わり、シスターたちには手を出さないと約束してください」
男はしばらく私を見つめ、それから兵士たちと顔を見合わせた。
「いいだろう」
嘘つき。
そんな約束、守るつもりなんてないくせに。
「案内が終わったら、お前にもたっぷり礼をしてやろう」
中年警官がいやらしく笑うと、忌々しげに顔の痣に触れた。
「あのオレンジ髪のガキも、一緒に来るんじゃないだろうな?」
「……いいえ。私一人です」
警官はちらりと二人の兵士に目を向け、薄く笑った。
そうこなくっちゃ。あなたたちが悪人でよかった。
「……こちらです」
背を向け、宿の外へ出る。
夜の空気を吸って、ようやく息ができた。
大丈夫。
アランたちが待っている。私は森へ向かって歩き始めた。
*
森に入ると、月明かりは木々に遮られ、足元さえ見えにくくなった。
「おい。まだ着かないのか?」
役人が苛立った声を上げる。
「もう少しです」
「さっきからそればかりじゃないか」
私は歩く速度を落とさなかった。
もう少し。もう少し奥へ行けば――。
背後で枝が折れる音がした。
「誰だ!」
先頭を歩いていた兵士が剣を抜く。
私は思わず振り返った。
木々の間に、人影が見える。
「来ると思ったぞ、クソガキ! 今度こそ殺してやる!」
中年警官が叫ぶ。
その瞬間、人影が消えた。
「ぐっ……!」
兵士が喉元を押さえて膝をついた。
その背後から、木刀を肩に担いだアランが姿を現した。
「こんばんは」
月明かりを受けた金色の瞳が、ひどく冷たく見えた。
「なっ……!」
もう一人の兵士が剣を振り上げる。
けれど、剣が振り下ろされるより早く、アランの姿が消えた。
気づいたときには、兵士が木の幹に叩きつけられていた。地面に崩れ落ちた男は、もう動かない。
見えなかった。今、何をしたの?
最初に倒れた兵士も、地面に伏したまま動かない。
「怪物だ!」
役人が叫んだ。
「違うよ」
別の木陰から、ブレイドが現れた。手にしていた本を閉じ、ゆっくりと歩いてくる。
「お前たちの方が、よほど怪物じゃないか」
「死ね!」
役人が護身用の銃を構えた。
銃声が響く。
私は声を上げそうになった。けれど、ブレイドはわずかに首を傾けただけで、弾丸を避けた。
次の瞬間には、役人の目の前にいた。小さな刃が胸元に沈む。役人は何か言おうとしたように口を開き、そのまま膝を折った。
ブレイドが静かにナイフを引き抜く。
中年警官が、信じられないものを見るようにブレイドを見つめていた。
「お前まで……何なんだ、その化け物じみた力は……!」
アランが中年警官に近づいていく。
「か、怪物……!」
「怪物?」
その声には、怒鳴り声よりも恐ろしいものがあった。
警官は背を向けて逃げ出した。けれど、数歩も進まないうちに地面へ押し倒された。
「やめろ! 金なら払う!」
アランは男の胸ぐらをつかんだ。
「金だと? みくびるなよ。お前はこの村で随分、好き勝手やってくれたな」
「な、何の話だ!」
「理由をつけては、女の子たちを連れていった」
アランの声が低くなる。
「教会で懺悔していた子たちが、自ら命を絶つのを、どんな思いで見てきたと思う?」
私は息を飲んだ。
どうしてアランが、懺悔の内容を知っているの?
そういえば、アランはよく教会の奥で昼寝をしていた。まさか、そこで話を聞いてしまったの?
「し、知らない! 俺は何も――」
「だろうな」
アランは嘲るように言う。
「お前にとっては、どうでもいいことだ」
警官が何かを叫んだ。けれど、アランは聞こうともしなかった。
「怪物は俺じゃない」
金色の瞳が男を見下ろす。
「お前だ」
アランが警官の首筋に牙を立てた。短い悲鳴が森に響き、やがて途絶えた。
私は木の陰で、両手を口に当てていた。
死者なら、これまで数えきれないほど見てきた。
けれど、生きていた人間が目の前で命を失うところを見るのは、初めてだった。
足の震えが止まらない。それなのに、胸がすく思いも確かにした。
*
アランが顔を上げたとき、警官はもう動いていなかった。
ほかの男たちも、地面に倒れたままだ。
私はガーネットと一緒に木陰から出た。足元の落ち葉に、黒い染みが広がっている。
血の匂いがしたその瞬間、喉の奥が熱くなる。
甘い。
あのときと同じ匂い。
シスター・ジュリアに噛みつきそうになったときの。
「……嫌」
私は口元を押さえた。
目の前には、倒れた兵士がいる。
もう息をしていない。わかっているのに、その首筋から目を離せなかった。
飲みたい。
駄目。
死んだ人なのよ。
私たちは、亡くなった人に祈りを捧げてきたじゃない。
どんな人でも、最後は丁寧に弔うものだって、シスターたちに教わったでしょう?
それなのに。
足が勝手に前へ進む。
「お姉ちゃん?」
ガーネットの声が遠く聞こえた。
「……見ないで」
そう言ったつもりだった。けれど、声になっていたのかわからない。
私は兵士の傍らに膝をついた。
冷え始めた首筋に触れる。この人は、もう死んでいる。私が殺したわけじゃない。
だからといって、こんなことをしていいはずがない。
「……ごめんなさい」
私は目を閉じ、牙を立てた。
口の中に血が流れ込む。
甘い。
どうして、こんなに美味しいの?
喉を通るたび、体の奥に力が戻ってくる。
さっきまで震えていた手も、もう震えていない。
怖い。でも、やめられない。
もっと。もう少しだけ。
気づいたときには、何も飲み込めなくなっていた。
私は顔を上げた。
「……え?」
目の前の兵士を見て、息が止まった。
頬が落ち窪んでいる。腕も、首も、さっきまでとは比べものにならないほど細い。
肌は乾ききり、まるで長い年月を経た遺体のようだった。
「嘘……」
私は後ずさった。
血を、全部飲んでしまったの?
少し飲むだけなら、こんなことにはならなかったはずなのに。
アランの首筋に噛みついたときだって、彼は何ともなかった。でも、今、目の前にいるのは、もう二度と血を取り戻せない人間だ。
「お姉ちゃん……」
振り向くと、ガーネットが立っていた。
唇に血がついている。
その足元にも、変わり果てた兵士の遺体があった。
「私も……我慢できなかった」
ガーネットの目に涙が浮かぶ。
「怖い。私、自分が怖いよ……」
私は彼女を抱きしめた。
「大丈夫……」
何が大丈夫なんだろう。自分でもわからなかった。
私たちは、人を殺してはいない。
でも、死んだ人の血を飲んだ。それも、こんな姿になるまで。
私たちが暮らしてきた村では、誰もが死者を大切に扱っていた。
名前を呼び、祈りを捧げ、花を手向ける。
たとえ生きている間にどんな罪を犯した人でも、死ねば静かに眠らせてあげる。
それなのに、私は。
「私も……怖い」
ガーネットの肩に顔を埋めた。
あの兵士にも、家族がいたのだろうか。誰かが帰りを待っているのだろうか。
考えたくないのに、そんなことばかり浮かんでくる。
アランが無言で近づいてきた。
兵士の遺体を持ち上げ、少し離れた場所へ運んでいく。
そこには、いつの間にか穴が掘られていた。ブレイドも遺体を運び始める。
「……アラン」
呼びかけると、彼は振り返った。
「俺は後悔してない」
はっきりと言った。
「放っておけば、あいつらはまた同じことをした」
ブレイドも頷いた。
「当然の報いだよ」
私は何も言えなかった。
シスターたちを守れた。もう、あの警官たちに怯えなくていい。
それは確かに嬉しかった。
でも。
地面に横たわる遺体を見ると、胸の奥が苦しくなる。
死んで当然の人間だった。
私はそう思い込むのに必死だった。




