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生きるための代償

 次に目を開けたとき、あれほど苦しめられた痛みは嘘のように消えていた。

 それだけで、泣きたくなるほど幸せだった。

 生きてる。

 私、ちゃんと生きてるんだ。

 起き上がろうとしたけれど、体に力が入らない。何日も食べていないような空腹と、ひどい喉の渇きがあった。

 どこからか甘い香りが漂ってくる。

「良かった! スカーレットが目を覚ましたわ!」

 シスター・ジュリアだった。

 涙を浮かべて駆け寄ってくる。その姿を見た途端、胸がいっぱいになった。

「シスター……」

 声がかすれた。

 シスターが私の頬に触れる。

 甘い。

 さっきよりも、ずっと強く香る。

 何の匂いだろう。花でも、お菓子でもない。もっと温かくて、胸の奥をかき乱すような――。

「あれから一週間も眠り続けていたのよ。本当に、もう目を覚まさないんじゃないかと……」

 一週間?

 驚いたはずなのに、頭に入ってこない。

 シスターの首筋が目に入った。薄い皮膚の下で、何かが脈打っている。

 ああ、喉が渇いた。

 もう我慢できない。

 気づけば、私はシスターの肩をつかんでいた。

「スカーレット?」

 その声に答えるより早く、体が動いた。

 首筋に顔を寄せた瞬間、背後から腕を引かれた。

「シスター、ここは任せて。飲み物をお願いできる?」

「そうね。アラン、よろしくね」

 アラン?

 聞き覚えのある声だった。けれど、今はそんなことよりも――。

「スカーレット、落ち着け」

 嫌! 離して。

 喉が焼けそうなの!

 私は腕を振りほどき、アランにしがみついた。

 けれど、アランは私を突き放さなかった。

「……仕方ないな」

 小さく呟くと、私の背中に腕を回した。

 その首筋から、たまらなく甘い香りがする。

 もう、我慢できない。

 首筋に顔を埋める。

 いつの間にか現れた小さな牙が皮膚を破った。口の中に、温かい血が流れ込んでくる。

 甘い。

 夢中で飲み込んだ。

 やがて、アランがそっと私の肩をつかんだ。

「……もう十分だろ」

 あれほど激しかった渇きが和らいでいた。私は顔を上げる。

 オレンジがかった茶色の髪。金色の瞳。以前よりも広くなった肩。

 知らない人。

 なのに、この声も、呆れたような表情も、よく知っている。

「アラン……?」

「ほかに誰がいるんだよ」

 アランは眉を寄せた。

 嘘でしょう?

 私の知っているアランは、黒髪に茶色の瞳だったはず。それに、こんなに背が高かったっけ?

 まじまじと顔を見つめる。

 整った鼻筋。少し大人びた目元。

「……王子様?」

「はぁ?」

 アランが片眉を釣り上げた。

 そして、なぜか慌てたようにベッドから降りた。

 何よ。その反応。

 私だって、好きで変なことを言ったわけじゃないのに。

 ……待って。

 今、私、何をした?

 アランの首筋に、赤い傷が見えた。

 けれど、私が見つめている間にも、傷口は少しずつ塞がっていく。

 ……え?

 見間違いじゃない。確かに、さっきまで血が滲んでいたのに。

 唇に残る甘い味。私は自分の口元を手で覆った。

「アラン、私……」

「平気だって」

 アランは首元を手で隠した。その仕草が、かえって胸に刺さる。

 どうして?

 どうして、あんなことを?

「お水とお薬を持ってきたわ。パンは食べられる?」

 シスター・ジュリアが戻ってきた。

 何も知らない様子で、ベッドの脇に腰を下ろす。

「まぁ……」

 私の顔を見て、息を飲んだ。

「急に綺麗になって。なんだか、みんな別人みたいね」

 そう言って微笑んだシスターの視線が、ふとアランへ向けられた。

 その笑顔が、一瞬だけ消えた。

「……シスター?」

「ああ、ごめんなさい。みんな無事で、本当に良かったわ」

 シスターはいつもの優しい笑顔に戻った。

 けれど、なぜだろう。その瞳が、少しだけ潤んでいるように見えた。

 そういえば、ガーネットとブレイドは?

 まさか、二人は――。

「二人とも無事だよ」

 アランが答えた。

「俺ら四人、みんな生死をさまよったけど、生きてる」

「……本当?」

「ああ」

 良かった。誰一人、死ななかったんだ。

「良かった……本当に……」

 涙がこぼれた。

 シスターが優しく頭を撫でてくれる。

 その手にすがりたかった。

 けれど、またあの甘い香りがしたらと思うと、怖くて近づけなかった。

「お姉ちゃん!」

 扉が開いた。

 駆け込んできたのは、見覚えのある女の子。

 でも、思わず目を疑った。

「……ガーネット?」

「そうだよ!」

 駆け寄ってきたガーネットは、以前より背が伸びていた。幼かった顔立ちも、驚くほど大人びている。

 何より、髪が鮮やかな赤に変わっていた。

「その髪、どうしたの?」

「起きたら、こうなってたの」

 ガーネットは髪を一房つまんで、少し照れくさそうに笑った。

「お揃いだね、お姉ちゃん」

「え?」

「お姉ちゃんも変わってるよ」

 手鏡を渡された。

 覗き込んだ瞬間、息が止まった。

 知らない女性が映っている。

 赤い髪。琥珀色の瞳。

 頬も、唇も、顔立ちも。

 確かに私の面影はあるのに、昨日までの私とは違っていた。

 まるで、眠っている間に二、三年も成長してしまったみたいだった。

 私は鏡の中の自分に触れた。

 ……これ、本当に私?

 *

 目を覚ましてから、数日が過ぎた。

 体は驚くほど早く回復した。あれほど力が入らなかったのが嘘のように、今では以前より軽く感じる。

 その夜も、月が綺麗だった。

 孤児院の裏口から左へ進むと、木々に囲まれた湖がある。底から温泉が湧き出していて、私たちは小さい頃からよく入りに来ていた。

「じゃあ、俺たちは向こうにいるから」

 アランが森の入り口を指さした。

「何かあったら呼べよ」

「うん。ありがとう」

 アランとブレイドは木々の向こうへ歩いていった。

 岩の上に着替えを置くと、ガーネットが先に湖へ入った。

 その後ろ姿を見て、思わず目を見張る。

 ガーネットって、こんなに大人びていたっけ?

 私も湯に浸かった。温かい。体がようやく自分のものに戻った気がした。

「お姉ちゃん、肌も白くなったね」

「そう?」

「うん。髪も瞳も変わっちゃって、本当に別人みたい」

 ガーネットは水面に映る自分の顔を見つめた。

 私も隣に並ぶ。

 月明かりの下、赤い髪の少女が二人。

 まるで姉妹みたい。

 ……いや、もともと姉妹みたいなものなんだけど。

「ねえ、ガーネット」

「なあに?」

「目が覚めたとき、喉がひどく渇かなかった?」

 ガーネットの表情が消えた。

「……うん」

 水面に視線を落とす。

「シスターを襲いそうになったの。ブレイドが止めてくれなかったら、どうなっていたか……」

「私も」

 声が震えた。

「シスターに噛みつこうとした。アランが止めてくれたけど、今度はアランに……」

 そこまで言って、唇を噛んだ。

 ガーネットは驚かなかった。ただ、静かに頷いた。

「ブレイドが言ってた。人魚の肉を食べると、不老不死になるっていう伝説があるんだって」

「人魚の肉?」

「私たち、あの人魚が泡になったとき、何かを体に取り込んだのかもしれないって」

 あの美しい人魚。

 水槽の中で眠っていた、赤い髪の女の人。

「じゃあ、私たちは……」

「もう、人間じゃないのかもしれない」

 ガーネットは自分の両手を見つめた。

 否定したかった。

 そんなことないよって、抱きしめてあげたかった。

 でも、できなかった。

 シスターの首筋を見た瞬間の衝動を、まだ覚えている。

 怖い。

 なのに、どこか現実味がない。

 昨日まで当たり前だったことが、一度に変わりすぎて、何から怖がればいいのかもわからなかった。

 その時だった。

 背後で、小枝の折れる音がした。何気なく振り返った私は、思わず悲鳴を上げた。

 木々の間に、一人の男が立っていた。

 くたびれた制服を着た、腹の出た中年の警官。帝都ガルディアから派遣されてきた男だ。

 以前から、私を見かけるたびに声をかけてきた。いつも馴れ馴れしくて、苦手な警官だ。

 どうして、こんなところに……。

 私は慌てて肩まで湯に沈み、ガーネットを自分の後ろへ引き寄せた。

「お姉ちゃん……」

 男は立ち去ろうともせず、私たちをじっと見ていた。

「……いつから見てたの?」

「お前、孤児院のスカーレットだな? 姿が随分と変わったようだが」

 酒を飲んでいるのか、男の顔は赤かった。

「こんなところで会えるとは」

 男の視線が、岸に置かれた私たちの服へ移った。

「さあ、上がってこい。話をしようじゃないか」

「嫌よ!」

 男は私たちの服のそばに立ったまま、動こうとしない。

 どうしよう。

 このままじゃ、岸に上がれない。

 ガーネットが震える手で私の腕をつかんだ。

「お願いです。帰ってください!」

 男が一歩、湖へ近づいた。

「来ないで!」

 私はガーネットを抱き寄せた。そのとき、茂みの向こうから足音が響いた。

「おい、おっさん」

 聞き慣れた声だった。

 アランだ。その隣にはブレイドもいる。

 悲鳴を聞いて、駆けつけてくれたんだ。

 アランの金色の瞳が、男を捉えた。

「そこで何してる?」

「何だ、お前らは。邪魔するな」

 男が苛立ったように吐き捨てた。

 アランは一歩前へ出た。

「その子たちから離れろ」

 いつものアランとは、まるで違う声だった。

「何だと? ガキのくせに、警官に命令する気か?」

 男がアランを睨みつけた。

「警官なら、なおさらだろ。嫌がってるのがわからないのか?」

「貴様……」

 男の顔が怒りで赤くなった。アランは怯む様子もなく、さらに一歩踏み出した。

「アラン、待って」

 ブレイドが低い声で制した。

 けれど、アランは男から目を離さなかった。

「さっさと失せろ」

 男の口元が引きつった。

「……この村のガキどもは、礼儀というものを知らんらしいな」

 そう吐き捨てると、男はゆっくりと右手を下ろした。

 その先には、腰に下げた拳銃があった。

 ……え?

 まさか。

 男の指が、拳銃の柄に触れた。


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