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魔法公務員の仕事  作者: 椎名弥生


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9/12

9. 子どもが見ていた

保管庫の棚を片づけてから、五日が経った。


市民祭は先週の土日で終わった。

ロータリーの幟はすっかり外され、出店の案内板だけが柵に一枚残っている。

焼きそばの屋台が出ていたあたりには、月曜まで油の匂いがかすかに残っていた。

今はもう乾いた落ち葉の匂いしかしない。

植え込みのハナミズキが、端のほうから赤くなり始めていた。


この五日間に出動は一件だけだった。

北口の郵便ポストの投函口が、夜中だけ開きっぱなしになる件だ。

Dランクで、定位だけで済んだ。


保管庫の赤の列に移したラベルのない金属の箱のことは、六車さんが課長に報告してくれた。

課長は「……見ておく」とだけ言ったらしい。

それきり、まだ何の連絡もない。

六車さんの机の端には、「赤・中身不明 課長確認中」と書いた付箋が貼られたままになっている。


---


九月二十三日、秋分の日。


祝日の市役所は静かだった。

正面の窓口は閉まっていて、ロビーの照明も半分しか点いていない。

休日当番の職員が受付の奥で電話番をしているだけだ。

夜勤魔法班の居室もエアコンの音しかしなかった。


五時前に六車さんが入ってきた。

休日当番はもうすぐ終わりだった。

今日は休日当番で、夕方の引き継ぎまで出ているらしい。

いつもの制服ではなく、紺のカーディガンにジーンズだった。

抱えているファイルは、黄色が一冊だけだ。


「お疲れ様です、修くん。祝日なのにごめんなさい」


「六車さんこそ当番ですか?」


「そうなんですよ。三か月に一回、回ってくるんです。電話はほとんど鳴らないので、たまった伝票を片づける日にしてます」


六車さんはそう言って、黄色のファイルを僕の机に置いた。


「今夜の予定票です。市の窓口に昨日の夜に電話がありました」


「どこですか」


「三角公園です」


僕は顔を上げた。

六車さんは、少しだけ困ったように笑った。


「また、です。影動系で、Dランクです」


受付票の写しには、近所の人の話が書き取ってあった。

昨日の夕方、公園の遊具の影だけが本体から離れて動いていた。

ブランコの影が、滑り台のほうへ流れていくように見えた。

遊具そのものは揺れていない。

風もなかった。

見ていた子どもが怖がって泣き出したので、近づかずに帰ったとある。


「影だけが動く、ですか」


「はい。日が暮れて、入口の常夜灯が点いてからだそうです」


「三角公園、これで三回目ですね」


「そうですね。使い魔の迷子、街灯の点けっぱなし、それから今回の影」


六車さんは指を三本折った。


「あの公園、もううちの常連ですね」


「常連って言われると、なんだか負けた気がします」


「負けてませんよ。毎回ちゃんと片づけてるじゃないですか」


六車さんは受付票をめくり、裏に貼った付箋を見せた。

道路課の人が書いたメモが写してある。


『影の動きの起点は、入口の街灯柱付近。八月の落書きの魔力の残りか? ごく弱い反応』


「八月の落書きか……」


僕は付箋の文字を見て、あの夜を思い出した。

公園の入口の街灯の柱に描かれた、黄色いクレヨンの星。

五つの角が少し丸くて、線が一本だけはみ出していた。

横には、小さな字で「よる、まっくらでこわい」と書いてあった。


あの夜は星に絡んだ魔力の出口を固定して、四本の街灯の光の広がりを切った。

絵は消さなかった。

道路課にも消さないでほしいと伝えた。


「魔力はあの夜に切ったはずなんですけどね」


「道路課の人もそう言ってました。ほとんど残ってないと。でも、新しい常夜灯のせいかもしれない、とも言っていました」


「常夜灯、ですか」


「八月の終わりに、入口の柱の横につけた灯です。腰くらいの低い位置にあるので、点くと柱の影が公園の中まで長く伸びるんです。しばらくは深夜だけの試験点灯だったんですけど、今週から日没に合わせて点くように切り替わったそうです」


「切り替わったのは、いつですか?」


「おとといです」


受付票の日付は、昨日の夕方だった。


「星に残った少しの魔力が柱の影に移って、そこから遊具の影に広がってるかもしれない、って」


僕はうなずいた。

理屈は通っている。

夏のあいだ、日が暮れたあとの公園に、柱の長い影ができることはなかった。

低い常夜灯が夕方から点くようになって、星から遊具までが一本の影でつながった。

小さな残りでも、影という逃げ道があれば動き出す。


「弱い反応なら定位と遮断で足りると思います」


「お願いします。それと」


六車さんはメーターを見上げた。

針は、18%の目盛りの少し上で止まっている。


「残量、18.3%です」


「出動停止ラインまで、3.3ポイントですね」


「はい」


僕は頭の中で数えた。

Dランクなら、一回で一ポイントくらい。

慎重にやれば、三回は出られる計算になる。


「出動停止ラインまでだと、あと何回出られますか?」


六車さんは、すぐには答えなかった。

ファイルの角を、指でそろえ直している。


「……二回、だと思ってください」


「三回じゃないんですか」


「Dランク計算だと三回です。でも、Cランクが一件来たら、それだけで二ポイントは持っていかれます。九月の最後の週は、毎年なにかしら大きいのが来るんです」


六車さんは、少しだけ声を落とした。


「なので、二回だと思ってください。今回も慎重にお願いします」


「わかりました」


六車さんは、もう一枚、メモを机に置いた。


「それから、今夜は祝日なので公園に子どもが残っているかもしれません。お店の仕事でおうちの人の帰りが遅い家もあるので」


「作業中に近づかれたら、ですね」


「はい。子どもって、魔法班を見るとだいたい寄ってくるんです。消防車と同じで」


六車さんは、真顔で言った。


「去年の夏は、駅前で小学生に囲まれてサインをねだられた職員がいました」


「サインには届出がいりますか」


「いりません。でも作業中は離れてもらってください。術の途中で近くに来られるのが、一番危ないので」


「わかりました」


六車さんは、受付票の付箋を指でとんとん叩いた。


「それともう一つ。この星を描いた子のことです」


「リンちゃんでしたっけ。八月に近所の方が言っていた」


「はい。三丁目の佐藤リンさん。小学四年生です」


六車さんは、少しだけ声を落とした。


「本人の魔力が、知らないうちに外へ漏れて事案になったのは、これで二回目です。街灯と影。どちらも弱いですけど、二回続くと、市から保護者の方に『未成年の魔力相談』をご案内する決まりになっています」


「相談、ですか」


「怒る話じゃないです。この年の子に少し魔力があるのは、珍しくありません。ただ、自分で出したり止めたりのやり方を知らないと、またいつか漏れてしまいます。昼の相談窓口で、練習の仕方とか登録の時期とかを説明するんです」


「今夜、本人に会ったら伝えます」


「その場では何も決めなくていいです。記憶に触る術も、子どもに認知の遮断をかけるのも、届出があっても使えません。お名前と保護者の連絡先だけ、接触記録で私の端末に送ってください。明日、窓口で私がご案内します」


六車さんはそう言って、伝票の束を抱えた。

それから、ふと思い出したように付け足した。


「あと、サインをねだられたら、ちゃんと書いてあげてくださいね?修くん、字がきれいなので」


「ねだられないと思います」


六車さんは、くすっと笑って自分の席へ戻っていった。


---


夕方六時を七分過ぎて、居室のドアが開いた。


「お疲れー。ギリセーフ」


「七分遅刻ですよ。祝日なのに」


「祝日だからだよ。道がすいてて逆に油断したの」


「理由になってないです」


先輩はパーカーを椅子の背にかけた。

今日は中に、薄手の長袖のシャツを着ている。

夕方の風が冷たくなってきたからだろう。


コンビニの袋から、カップのコーヒーが二つ出てきた。

ホットのブラックと、カフェオレ。

それから、小さな袋に入った月見団子が一パック。


「団子ですか?」


「十五夜、もうすぐでしょ。コンビニに並んでたから」


「十五夜は明後日です」


「先取りだよ。夜勤だと、当日見られるかわかんないしね」


先輩は団子のパックを机の真ん中に置いて、蓋を開けた。

白い団子が三段に積んである。

僕は一つもらった。

思ったより、もちもちしていた。


「今日はどこ?」


先輩は、団子をくわえたまま僕の机を覗き込んだ。


「三角公園です」


「また?」


「またです。六車さんも同じ顔をしてました」


僕は受付票と道路課の付箋を先輩に見せた。

先輩は団子を飲み込んでから、付箋の文字をしばらく見ていた。


「八月の落書き。あの星だ」


「はい。入口に新しい常夜灯がついて、柱の影が長く伸びるようになったみたいです。その影が、星と遊具をつないでいるそうです」


「あれ、描いたのリンちゃんだよね。三丁目の」


「覚えてたんですか」


「あの夜、パジャマのおばさんが言ってたでしょ。最近、夜泣きがひどいって」


先輩は、カフェオレのふたを開けた。

湯気が細く立ちのぼる。


「リンちゃん、まだ夜、怖いのかな」


「入口に常夜灯がついたので、前よりは明るいはずです」


「そっか。ついたんだ」


「道路課の相談が通ったと、六車さんに聞きました。柱の横に、低いのが一本」


先輩は、少しだけほっとしたような顔をした。


「それと、星の漏れはリンちゃん本人の魔力だそうです。事案が二回目なので、明日、六車さんが保護者の方に未成年の魔力相談を案内するそうです」


「そっか。リンちゃん、魔力あるんだ」


先輩はカップを両手で持ったまま少し黙った。


「本人、知ってるのかな?」


「たぶん、知らないと思います。夜が怖いって思いながら描いただけなので」


「だよね。私も自分に魔力があるってわかったの、中学のときだったし」


「そうなんですか」


「授業中に隣の子の鼻歌が聞こえなくなったの。私が、うるさいなって思ったら」


「……それ、遮断ですね」


「先生には、耳が悪くなったと思われて保健室に行かされた」


先輩は笑った。

それから、団子をもう一つつまんだ。


「今夜会ったら、どうするの」


「作業中は離れてもらいます。名前と保護者の連絡先だけ聞いて、六車さんに接触記録を送ります。記憶にも認知にも、触れません」


「わかった」


「あと、子どもは魔法班を見ると寄ってくるそうですよ。消防車と同じで」


先輩が、カフェオレを吹き出しそうになった。


「消防車と同じ、か」


「六車さんが真顔で言ってました。駅前でサインをねだられた職員もいたそうです」


「修くん、サイン練習しといたら?」


「しません。届出にないので」


「サインに届出はいらないでしょ」


「いらないそうです。六車さんにもそう言われました」


課長への電話は、先輩がかけた。

祝日の夕方でも、呼び出し音は四回で止まった。


「七星です。三角公園の影の件、届出二通です。定位と遮断」


位置コードを読み上げる。

今回の数字は八月の夜に訂正したものと同じだ。

台帳と、施設図と、あの夜の報告書。

三つとも、同じ場所を指していた。


『承認した。定位は五十嵐、遮断は七星』


少し間があった。


『……子どもがいたら、無理はするな』


「はい」


電話が切れた。

先輩は受話器を置いて、首をかしげた。


「課長、なんで子どものこと知ってるんだろ」


「六車さんが、昼に報告したんだと思います」


「祝日なのに、愛ちゃん働きすぎ」


「先輩が言うと、説得力がないです」


「なんで」


「七分遅刻なので」


先輩は団子をもう一つ口に入れて、聞こえないふりをした。


出動は六時四十分にした。

影が動くのは、常夜灯が点いてからだ。

秋分の今日は六時前に日が沈み、六時半には常夜灯が点く。

夕食どきで人通りが落ち着くころに着けば、ちょうど影の動きが確かめられる。


---


南口の住宅街に入ると、西の空の端にだけ、かすかに青みが残っていた。

山の稜線はもう黒い影になっている。

その少し上で、一番星が小さく光っていた。


家々の窓に少しずつ明かりが灯っていく。

どこかの台所から魚を焼く匂いがした。

祝日の夕方らしく、庭先で花火の燃えかすを片づけている家もあった。


三角公園は住宅街の真ん中にある。

三本の道に囲まれた三角形の小さな公園で、ブランコと滑り台と砂場が一つ。

端の方にはベンチが二つ。

それから角ごとに街灯が一本ずつと、入口にもう一本。


軽バンを路地の脇に停めて降りた。

公園の入口の街灯の横に、新しい常夜灯が立っていた。

腰の高さくらいの小さな柱型の灯だ。

白く丸い光が足元を照らしている。


その上の街灯の柱に星の落書きが残っていた。

黄色いクレヨンの線は夏の雨で少し薄くなっている。

それでも、五つの角も横の字もまだ読めた。


「残ってるね」


先輩が言った。


「消さないでくれたんですね、道路課の人」


僕は星の前に立って、目を閉じた。

定位術を薄く広げる。

星の線の内側に、ほんのわずかな魔力の残りがあった。

八月にまとめた出口は、ちゃんと閉じたままだ。

けれど、その出口のすぐ横を、柱の影が斜めに横切っている。

影の縁に沿って、細い糸のようなものが、遊具のほうへ伸びていた。


目を開けた。


公園の奥で影が動いていた。


ブランコの影が、地面の上をゆっくり滑っていく。

ブランコ本体は止まったままだ。

鎖も揺れていない。

影だけが本体の真下からはみ出して、滑り台のほうへ流れていた。

滑り台の影は、反対にブランコのほうへ伸びていく。

二つの影の先端が、砂場の上で重なりかけていた。


「……ほんとに、影だけ動いてる」


先輩が、小さな声で言った。


「入口の柱の影が、星の残りを拾って遊具まで運んでいます。影の通り道を一本ずつ戻せば止まると思います」


「どうする?」


「遊具の影を先に本体の下に固定します。そのあとで、柱の影から遊具に流れている魔力を先輩に切ってもらいます。最後に、星の出口をもう一度だけ固め直します」


「了解。いつもの順番ね」


僕はブランコの脚に向かって歩いた。

砂場の縁を踏むと、乾いた砂がさらさらと鳴った。


ブランコの影の在るべき場所は真下だ。

常夜灯の低い光でも、本来なら鎖と座面の影は脚のそばに落ちる。

手のひらを影に向けて、定位術を通した。


影の先端がゆっくり戻ってきた。

砂場の上から地面の上へ。

ブランコの脚のあいだにすっと収まる。


次は滑り台だ。

こちらは影が長い。

階段と、傾斜と、手すりの影が、ばらばらに伸びている。

一本ずつ元の形に寄せていく。


そのときだった。


「魔法だ!」


高い声が、公園の入口から響いた。


僕は振り返った。


常夜灯の白い光の下に、女の子が立っていた。

背は僕の胸より少し低い。

小学校の中学年くらいだろうか。

赤いランドセルではなく、紺のリュックを背負っていた。

片手に図書館の貸出袋を提げている。


女の子は僕の手のほうをまっすぐ指さしていた。

目が輝いている。

テレビで見るものを初めて本物で見た顔だった。


「すごい、本物だ!」


女の子がこちらへ駆け出した。


その足元で、影が動いた。

まだ固定していない滑り台の手すりの影が、地面を這うように女の子のほうへ伸びていく。

星から流れ出た魔力が、持ち主のほうへ引き寄せられていた。


次の瞬間、僕の前に先輩の背中があった。


先輩は女の子と伸びてくる影のあいだに一歩だけ出ていた。

パーカーの裾が夕方の風でふくらんでいる。

右手が地面の影に向かって短く振られた。

影の先端が先輩の靴の手前でぷつりと止まった。


「ストップ。そこで止まって」


先輩の声は大きくなかった。

けれど女の子は、言われたとおりにぴたりと足を止めた。


「ごめんね。今、お仕事の途中なの。そこの白い灯のところまで、戻ってくれる?」


女の子はこくんとうなずいて、常夜灯の下まで下がった。

驚いてはいたが、怖がってはいなかった。


「修くん、そのまま続けて」


先輩が振り返らずに小声で言った。


「滑り台、途中でしょ。あの子のほうは私が見てる」


「でも、今の影」


「切った。でも、あの子が近づくとまた寄ってくる。だから先に、そっちを全部固定して」


僕は滑り台のほうに向き直った。

手のひらが、少し汗ばんでいた。


あの子が近づくたびに、影が寄っていく。

それならあの子に近づかないでいてもらうしかない。

一瞬だけ、別のやり方が頭をよぎった。


「先輩。認知の遮断で、あの子がこっちを気にしないようにするのは……」


言いかけて、自分で口を閉じた。

わかっていることだった。


「それ、禁止」


先輩は、背中を向けたまま答えた。


「子どもには使えない。それに、あの子は止まってって言ったら止まってくれる子だよ。それで十分」


「はい」


僕は滑り台の影を片手で押さえたまま、もう片方の手でタブレットを出した。

接触記録の様式を開く。

日時、場所、作業区域に子ども一名が接近、術の影響なし。

備考欄に、影の漏れが接近した子に引き寄せられたこと、星の落書きの描き手の可能性が高いことを書き足した。

送信するとすぐに既読がついた。


『受理しました。お名前と保護者の方の連絡先だけ、お願いします。相談のご案内は明日、私から行います』


祝日でも、六車さんは端末を見ていた。


---


先輩は常夜灯の前でしゃがんだ。

女の子と目の高さが同じになる。


「こんばんは。さっきは止めちゃってごめんね」


女の子はリュックの肩ひもを両手で握ったまま、先輩を見ていた。


「市役所の七星です。夜勤魔法班っていうところで働いてるの」


「知ってる。ニュースで見た。市役所の夜の魔法の人」


「そう、それだよ」


「本物、初めて見た」


「どうだった?」


「すごかった。お兄ちゃんが手をこうやったら、影が戻った」


女の子は手のひらを前に突き出してみせた。

僕のまねらしい。

思っていたより、ずっとよく似ていた。


「そっか。よく見てたね」


先輩は笑った。

住民と話すときの、少し低くて柔らかい声だった。


「お名前、聞いてもいい?」


「さとう、りん」


「リンちゃん。何年生?」


「四年生」


「四年生か。こんな時間に一人で何してたの?」


「お母さん、待ってたの」


リンちゃんは、公園の向こうの道を見た。


「お母さん、駅のほうのお店で働いてるの。今日は祝日だから、忙しいんだって。図書館で本借りて、ここで待ってなさいって」


「ここで?」


「ここ、明るいから」


リンちゃんは、横の常夜灯を指さした。


「前は暗かったの。でも、夏休みの終わりにこれがついた」


僕は、滑り台の最後の影を手すりの下に収めながら、その声を聞いていた。


「影が動いて怖くなかった?」


先輩が聞いた。


「……ちょっと怖かった。でも、昨日も動いてたから、今日はちゃんと見てようと思って」


「昨日も見てたの?」


「うん。昨日は泣いちゃった。近所のおばちゃんが来てくれた」


受付票に書いてあった「見ていた子ども」は、リンちゃんだったらしい。


「今日は泣かなかったんだ。えらいね」


「えらくないよ。お兄ちゃんが来たから」


---


遊具の影は、どちらも本体の真下に戻っていた。


僕は入口の柱のほうへ歩いた。

リンちゃんと先輩の横を通るとき、リンちゃんがじっと僕の手を見ていた。


「先輩、遮断お願いします。柱の影から、遊具に流れてる分を切ってください」


「わかった」


先輩は立ち上がり、柱に向かって右手を軽く上げた。

人差し指と中指をそろえて、短い線を一本引く。

柱の影の縁を伝っていた細い糸が、ぷつりと切れた。


「わ」


リンちゃんが、小さく声を上げた。

何かが見えたわけではないと思う。

ただ、公園の空気が少し軽くなったのを感じたのかもしれない。


最後に星の前に立った。

クレヨンの線の内側に残った魔力の出口を、もう一度だけ固め直す。

影がかかっても、もうそこから漏れ出さないように。

八月のときよりずっと少ない量で済んだ。


目を開けると、リンちゃんが僕の顔を見上げていた。


「その星」


リンちゃんが言った。


「わたしが描いたの」


「知ってます」


僕は答えた。


「八月にこの街灯がずっと点きっぱなしになったことがあって。そのときこの星を見ました」


「もしかして怒られる?」


リンちゃんの声が、少しだけ小さくなった。


「怒りませんよ」


僕はしゃがんで、リンちゃんと同じ高さになった。


「夜が暗くて怖い、って書いてありましたよね」


「うん」


「それで、この入口に灯がつきました。星を描いてくれたおかげです」


リンちゃんは、目を丸くした。

それから常夜灯と星を交互に見た。


「……ほんと?」


「本当です。届出にそう書いてあります」


正確には、道路課への相談票の備考欄に僕が書いたのだ。

近隣の子どもが夜を怖がっている、と。

届出とは少し違うが、市の書類には違いない。


「お兄ちゃん、魔法使い?」


「魔法使いではありません。市役所の職員の五十嵐です」


「でも、魔法使ってた」


「仕事で使っています。市の届出を出して、決められた分だけです」


リンちゃんは首をかしげた。

僕の説明は、四年生には少し硬かったらしい。


「じゃあ、魔法の係の人?」


「……はい。魔法の係の人です」


先輩が横で顔をそむけた。

肩が小さく震えている。


「魔法の係のお兄さん」


リンちゃんは、確かめるように繰り返した。


「すごい。かっこよかった」


「ありがとうございます」


「また見せて!」


「……届出が必要です」


「とどけで?」


「市役所に、お願いの紙を出すことです」


「紙出したら、見せてくれる?」


「見せるための届出は、たぶん通りません」


「えー」


リンちゃんは唇をとがらせた。

それからリュックの横のポケットから、黄色いクレヨンを一本取り出した。

図書館の貸出袋の中から、小さなメモ帳も出てくる。


「じゃあ、描いてあげる」


リンちゃんは、ベンチの上でメモ帳を開いた。

常夜灯の白い光の下で、クレヨンを動かす。

五つの角の、少し丸い星。

今度は線がはみ出していなかった。


「はい。お兄ちゃんに、あげる」


「今度は、柱じゃないんですね」


「紙ならいいでしょ」


「紙なら、いいです」


僕はメモ帳の一枚を受け取った。

念のため、定位術を使わずに手のひらで感じてみる。

魔力はほとんどない。

ただのクレヨンの星だった。


胸ポケットに、折らずにそっとしまった。


---


「リン!」


路地の向こうから、女の人の声がした。

小走りの足音が近づいてくる。


エプロンをつけたままの女の人が、公園の入口に駆け込んできた。

三十代くらいで、髪を後ろでひとつにまとめている。

肩で息をしながら、リンちゃんを見つけて大きく息を吐いた。


「ごめんね、遅くなって。お店、お客さんが途切れなくて」


「お母さん、魔法見た!」


「は?」


女の人はそこで初めて僕たちの制服に気づいたようだった。

足が止まる。


僕は立ち上がって、頭を下げた。


「市役所、夜勤魔法班の五十嵐です。こちらは七星です。公園の遊具の影に少し魔力が残っていたので、今夜それを止めに来ました」


「魔力……ああ、また」


女の人は、額に手を当てた。


「八月にも街灯のことでご近所から聞きました。あの落書き、この子なんです。すみません」


「謝らないでください。魔力はもう止まっています」


先輩が言った。

それから、少しだけ言葉を選ぶように間を置いた。


「お母さん。八月の街灯も今夜の影も、もとはリンちゃんの魔力なんです。ほんの少しですけど」


女の人は、目を瞬いた。


「この子に、魔力ですか?」


「はい。夜が怖いなって思いながら描いた星に、本人も気づかないうちに少しだけ乗っちゃったみたいです。この年の子には、よくあることです」


「よくある……」


「悪いことじゃありません。ただ、出し方や止め方を知らないと、またどこかで漏れちゃうので。市役所に、子どもの魔力の相談窓口があるんです。練習の仕方とか、登録はいつごろからとか、そういうお話を」


先輩は、僕のほうを見た。

僕は名刺を一枚出して、裏に六車さんの窓口の内線番号を書いた。


「明日の午前中、こちらにお電話いただければ、担当の六車がご案内します」


女の人は名刺を受け取って、しばらく見ていた。

それから、リンちゃんの頭に手を置いた。


「あんた、魔法の力があったのね」


「あるの?」


リンちゃんが、僕を見上げた。


「少しだけ、あります」


僕は答えた。


「星に乗るくらいの、少しです」


リンちゃんの顔が、ぱっと明るくなった。


「お母さん、わたし魔法あるって!」


「聞こえてる。明日、市役所に電話するから」


女の人は、困ったように笑った。

でも、その手はリンちゃんの頭から離れなかった。


「すみません、何から何まで」


「いえ。窓口が、ちゃんとご案内しますので」


僕はもう一度、頭を下げた。


「魔法の係のお兄さん、またね!」


「……はい。気をつけて帰ってください」


リンちゃんは母親の手を引いて、路地を歩いていった。

角を曲がる前に一度だけ振り返って、大きく手を振った。

僕も小さく手を振り返した。


角の向こうに二人が消えると、公園には常夜灯の白い光だけが残った。

遊具の影は、どれも本体の真下に落ちていた。

もう、どこにも流れていかない。


僕は現地写真を撮った。

ブランコ、滑り台、入口の柱の星、新しい常夜灯。

いつものように、スマホのカメラで四枚。

一枚目は少しぶれた。


「もう一枚」


先輩が懐中電灯で照らしてくれた。

二枚目は、ちゃんと撮れた。


---


市役所へ戻る軽バンは、先輩が運転した。


住宅街を抜けると空はすっかり暗くなっていた。

西の山の稜線も、もう見えない。

大通りの信号が、規則正しく青に変わっていく。


僕は助手席で、使用報告書を書いていた。

定位術、遊具の影の固定と、星の出口の再固定。

遮断術、柱の影から遊具への魔力の流れの切断。

作業区域に子ども一名が接近、遮断で影の接近を止める。

漏れの原因は接近した子ども本人の魔力の可能性が高い。

翌日、窓口で保護者に未成年の魔力相談を案内予定。


添付欄に、少し迷ってから「接近した子どもより受領、クレヨン画一枚(魔力反応なし)」と書き足した。


「それ、報告書に書くんだ?」


先輩が、前を見たまま言った。


「受け取ったものは、書かないといけないので」


「星の絵も?」


「星の絵もです」


「修くんらしい」


先輩は少し笑った。

けれど、その笑い声はすぐに消えた。


赤信号で、軽バンが止まった。

エンジンの音だけが、車内に残る。


「……さっき」


先輩が言った。


「私が前に出ちゃった」


僕はペンを止めた。


「先輩がかばってくれたんです。助かりました」


「かばった、っていうか」


先輩は、フロントガラスの向こうの赤い信号を見ていた。


「体が先に動いちゃったの。リンちゃんが走ってきて、影があの子のほうに伸びたとき。考える前に、もう前にいた」


「僕は、影が伸びたのに気づくのが遅れました」


僕は正直に言った。


「滑り台のほうを見ていたので。先輩が前に出てくれなかったら、影があの子の足に触っていたと思います」


「触っても、たぶん大したことにはならなかったよ。あの子の魔力なんだし」


「たぶん、では届出に書けません」


「だよね」


「そっか」


信号が青に変わった。

先輩は、ゆっくりアクセルを踏んだ。


「……当たり前だよ。相棒だもん」


先輩の声は、いつもより少しだけ低かった。


僕は先輩の手を見た。

ハンドルを握る指に、いつもより力が入っているように見えた。

夜になって、車内が冷えてきたからだろう。

エアコンの温度を一度だけ上げた。


先輩は何も言わなかった。


窓の外を街灯が一本ずつ通り過ぎていく。

そのたびに先輩の横顔が明るくなって、また暗くなった。


さっきの公園で見た、先輩の背中を思い出した。

リンちゃんと僕のあいだに、何も言わずに一歩だけ出た背中。

パーカーの裾が風でふくらんでいた。

住民と話すときの先輩はいつも頼もしい。

けれど今夜の背中は、それよりもう少しだけ大きく見えた。


仕事のときの先輩は、本当に頼りになる。

僕も、いつかあんなふうに動けるようになりたいと思った。


---


市役所に戻ったのは、八時を少し過ぎた頃だった。


祝日の庁舎は、廊下の明かりもほとんど消えていた。

居室のドアを開けると、六車さんの机の上に書類が一枚置いてあった。

接触記録の控えに、受理の印が押してある。

その横に、手書きのメモが一枚。


『佐藤リンさん(四年生)、お母さんは美咲さん。明日の午前、魔力相談のご案内予定。お疲れ様でした。団子、一個もらいました』


僕は机の真ん中の団子のパックを見た。

三段に積んであった団子が、一つだけ減っていた。


「愛ちゃん、来てたんだ」


先輩がパックを覗き込んで言った。


「当番のついでに、接触記録を受けに寄ってくれたみたいです」


「団子、一個だけ」


「六車さんらしいです」


「ちゃんと書いていくところもね」


僕は報告書を課長の机に置いて、メーターを見上げた。

針は、17.5%を指していた。


出動停止ラインの15%まで、2.5ポイント。

六車さんが言っていた「あと二回」は、これで残り一回になった。


---


裏門を出たのは九時前だった。


自動販売機の明かりがいつもより白く見えた。

空気が澄んでいるからだろう。

植え込みの向こうで、虫が細く鳴いている。

夏の終わりに比べると、ずいぶん声が少なくなった。


先輩は自動販売機の前で足を止めて、小銭を入れた。

ボタンを二回押す。

ごとん、ごとんと缶が落ちた。


「はい。今日はホット」


「ありがとうございます」


ブラックの缶は手のひらに熱かった。

先輩はカフェオレを開けて、ベンチに座った。

僕も隣に座った。


「魔法の係のお兄さん」


先輩が缶を両手で包みながら言った。


「その呼び方は、やめてください」


「なんで。かっこよかったって言われてたじゃん」


「係の名前としては、正確じゃないので」


「じゃあ正確には?」


「危機管理部市民安全課魔法対応班の、五十嵐です」


「長い。四年生には無理」


先輩はくすくす笑った。


「リンちゃん、明日愛ちゃんの窓口に来たら、たぶん『魔法の係のお兄さんいますか』って聞くよ」


「六車さんが受付票に書きそうです」


「書くよ。あの人、そういうとこ真面目だもん」


僕はコーヒーを一口飲んだ。

苦かった。

夜の終わりには、それくらいがちょうどいい。


胸ポケットの中で、メモ帳の紙が小さく鳴った。

取り出して、自動販売機の明かりにかざしてみる。

黄色いクレヨンの星が、白い光の中でくっきり見えた。


「それ、どうするの?」


「報告書に添付したあと、返してもらえたら引き出しにしまっておきます」


「飾らないの?」


「飾るものなのかどうか、わからないので」


先輩は僕の手の中の星を覗き込んだ。


「飾っていいと思うよ。修くんがもらったんだから」


「……考えておきます」


先輩はカフェオレを飲み干して、立ち上がった。

空き缶をゴミ箱に入れて、自転車のほうへ歩いていく。

途中で、一度だけ振り返った。


「明日も六時ね。魔法の係のお兄さん」


「六時です。その呼び方以外で、お願いします」


先輩は笑いながら、片手を上げて走っていった。

今夜は、いつもより少しだけ速かった。


僕はベンチに残って、残りのコーヒーを飲んだ。


九月の終わりまで、あと一週間。

針は17.5%。

出動停止ラインまで、あと一回。


今夜は、星を描いた子に会えた。

手順どおりに片づけて、明日の窓口へつないだ。

それだけで十分だった。

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