10. 出動停止ライン
三角公園の影を片づけてから、四日が経った。
リンちゃんとお母さんは、次の日の夕方に六車さんの窓口へ来たそうだ。
未成年の魔力相談の案内を受けて、来月に市立病院で測定をすることになった。
帰りぎわにリンちゃんは受付票の裏に星をもう一つ描いていったらしい。
六車さんはそれをコピーして、僕の机に置いてくれた。
原本は相談記録と一緒に綴じてある。
この四日間の出動は一件だけだった。
市立図書館の自動ドアが、閉館後に一度だけ開いて閉まる件だ。
Dランクで定位だけで済んだ。
ロータリーの柵には交通安全の横断幕だけが残っている。
植え込みのハナミズキはもう半分近くが赤い。
朝夕の風に、乾いた葉の匂いがはっきり混じるようになった。
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九月二十七日、日曜日。
日曜の市役所は静かだった。
正面の窓口は閉まっていて、ロビーの照明も半分しか点いていない。
休日当番の職員が、受付の奥で電話番をしているだけだ。
夜勤魔法班の居室では、エアコンが低くうなっていた。
窓の外の空は高く、雲が薄く筋になって流れている。
十月が近いことは日差しの角度でわかる。
窓際の机に落ちる光が、先月よりずいぶん奥まで伸びるようになった。
五時前になると、六車さんが入ってきた。
今日も休日当番らしい。
紺のカーディガンにジーンズだった。
片手にタブレット、もう片手にコンビニの袋を提げている。
「お疲れ様です、修くん。日曜なのにすみません」
「六車さんこそ。また当番ですか?」
「先週の秋分の日と、交換してもらったんです。本当は来月の当番だったんですけど」
六車さんは袋から缶のお茶を二本出して、一本を僕の机に置いた。
「差し入れです。涼さんの分は、来てから渡してください」
「ありがとうございます」
六車さんは壁のメーターを見上げた。
針は、17%の目盛りをほんの少しだけ越えたところで止まっている。
目盛りの色は、黄色の中でも赤に近い。
そのすぐ下の15%には、赤い細い線が引いてある。
「残量17.1%です」
六車さんの声は、いつもより少しだけ低かった。
「今週は原則一件までにしてください。十月一日まで、あと四日です」
「一件ですか」
「一件です。Dランクなら0.5ポイント前後で済みますけど、Cランクが来たら、一件で2ポイントは持っていかれます」
17.1から2を引くと、15.1。
ぎりぎり、線の上に残る。
けれど、それは何も起きなかった場合の計算だ。
「届出は、最小の構成で準備します」
僕は引き出しから届出の様式を出した。
定位と遮断の二通。
どちらも範囲と時間をいちばん小さく書いておく。
現場で足りなければ、課長に電話で追加をもらえばいい。
六車さんは、僕の手元を覗き込んだ。
「修くんの届出、最近ますます短くなりましたね」
「短いほうが課長が読むのも早いので」
「課長、修くんの届出は二行目で『承認した』って言いますもんね」
「ちゃんと書いているので、三行目までは読んでほしいです」
六車さんは、くすっと笑った。
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二時を過ぎたころ、先輩が居室に来た。
ドアが開くより先に、廊下から鼻歌が聞こえた。
いつものパーカーにショルダーバッグを斜めにかけている。
髪は後ろで一つにまとめていた。
「おはよー。愛ちゃんもいる。日曜なのに」
「おはようございます、涼さん。当番なんです」
「えらい。私なんか、さっき起きたとこ」
先輩は自分の机にバッグを置いて、六車さんの差し入れの袋を覗いた。
「お茶だ。もらっていい?」
「どうぞ。涼さんの分です」
「ありがと」
先輩はお茶を開けて、一口飲んだ。
それから、メーターに目をやった。
「……17.1」
「はい。今週は原則一件までです」
六車さんがそう言うと、先輩は缶を机に置いた。
「一件か。じゃあ、来たらちゃんと選ばないとね」
「選べるといいんですけど」
「選べないやつが来たら?」
六車さんは少しだけ間を置いた。
「そのときは、課長に聞いてください。私は、数字を見ていることしかできないので」
「数字見ててくれるのが、一番助かるんだよ」
先輩は笑って、椅子に座った。
六車さんは何か言いかけて、それから小さくうなずいた。
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夕方の四時になると、六車さんは帰り支度を始めた。
「今夜は家から課の端末で残量を見ています。動いたら、LINEしますね」
「ありがとうございます」
「涼さん、遮断は控えめにお願いしますね」
「わかってるってば」
「この前もそう言って、保管庫で18.6%まで行きました」
「あれは棚が倒れそうだったから」
「だから、今夜は棚が倒れそうでも控えめに、です」
先輩は両手を上げて、降参の格好をした。
六車さんはそれを見届けてから、居室を出ていった。
ドアが閉まると、先輩は椅子の背もたれに体を預けた。
「愛ちゃん、最近ちょっと厳しくない?」
「数字が厳しいので」
「修くんまで」
先輩は天井を見上げて、ため息をついた。
「十月になったら、また100%に戻るんだよね」
「十月一日の午前零時に戻ります」
「あと四日かあ。長いね」
「四日です。夜勤は四回です」
「数えないでよ。余計に長く感じる」
先輩はそう言いながら、指を折って数えていた。
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日が落ちると窓の外の空は早く暗くなった。
九月の初めには七時でもまだ明るかったのに、今は六時前に街灯が点く。
ロータリーの向こうの商店街も、日曜の夜は早めにシャッターを下ろしていく。
先輩は報告書の清書をしていた。
図書館の自動ドアの件だ。
ペンが三行進むごとに手が止まり、チョコレートを一粒口に入れる。
「修くん、図書館のドアって何回開いたんだっけ」
「一回です。閉館後の九時十二分に一回」
「そうそう、一回」
「下書きに書いてあります」
「下書き、字が小さいんだもん」
僕の字が小さいのではなく、先輩の字が大きいのだと思う。
言うとまた長くなるので黙っていた。
八時を過ぎても電話は鳴らなかった。
先輩は清書を終えて、背中を伸ばした。
「今夜は静かだね」
「日曜ですからね」
「このまま朝まで鳴らなかったら、愛ちゃんにケーキ買っていこうかな」
「何のお祝いですか?」
「残量を守ったお祝い」
「まだ守れていません」
「だから、守れたらだよ」
先輩はそう言って窓の外を見た。
川のほうの空が少しだけ明るく見えた気がした。
橋の灯りだろう、と思った。
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二十時十七分。
居室の固定電話が鳴った。
先輩が受話器を取った。
「夜勤魔法班、七星です」
同時に僕のタブレットが震えた。
危機管理連絡室からの要請票だ。
『影見橋の下、高山川の川床。魔力の漏れ、大。Cランク相当。110経由。通報者は近隣の住民。「橋の下が青く光っている」』
僕は画面から顔を上げた。
先輩も、受話器を耳に当てたままこちらを見ていた。
「はい……はい。影見橋ですね。了解です。折り返します」
先輩は受話器を置いた。
「影見橋だって」
「Cランクです」
「うん」
先輩はメーターを見た。
僕も見た。
針は17.1%のまま、動いていない。
「やめとく?」
先輩が言った。
冗談の言い方ではなかった。
本当に、聞いていた。
「Cランクは出ないと被害が広がります」
僕は要請票の地図を拡大した。
「川沿いです。漏れが水に乗ったら、下流の住宅地まで流れます。明日の朝には、Bに上がっているかもしれません」
先輩はしばらく画面を見ていた。
それから小さく息を吐いた。
「だよね。……課長に電話する」
先輩はスマホを出して、二宮課長の番号を押した。
呼び出し音が四回鳴った。
「七星です。影見橋の件、Cランクです。110経由。届出二通、定位と遮断です」
「……読め」
課長の声が、スピーカー越しに小さく聞こえた。
先輩は僕が昼に作った届出を読み上げた。
二行目で、課長が短く言った。
「残量は」
「17.1%です」
電話の向こうが、しばらく静かになった。
エアコンの音だけが聞こえる。
「……行け。承認した。定位は五十嵐、遮断は七星。足りなければ、その場で電話しろ。無理はするな」
「了解です」
先輩は電話を切って、パーカーのファスナーを上げた。
「行こう、修くん」
「はい」
僕が出動用のベストを羽織っていると、先輩がドアの前で振り返った。
「いつもの橋だ」
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裏門を出て、川沿いの遊歩道を走った。
夜風は冷たかった。
昼の熱はもうどこにも残っていない。
草むらの虫の声が走る足音に合わせて途切れては、また鳴き始める。
先輩は自転車を押さずに、裏門に置いてきた。
帰りに取りに戻るつもりなのだろう。
遊歩道の先に影見橋が見えてきた。
高山川に架かる歩行者用の細い橋だ。
欄干の上には、いつもの小さな灯りが等間隔に並んでいる。
その橋の上で赤い回転灯が回っていた。
パトカーが一台、橋のたもとに停まっている。
欄干の両端には黄色いテープが張られていた。
「……いつもの橋じゃないみたい」
先輩が走りながら小さく言った。
夜勤明けの帰り道、先輩はいつもこの橋の真ん中で自転車を止める。
欄干に肘をかけて川の下流を見る。
僕はそこで「お疲れ様でした」と言って、先輩は手を上げて渡っていく。
その場所に今夜は誰も立っていなかった。
テープの前で、制服の警察官が懐中電灯を下ろした。
僕たちの職員証を見て、うなずく。
「市の魔法班の方ですね。お疲れ様です」
「お疲れ様です。通報の方は」
「あちらのお宅の方です。犬の散歩の途中で、橋の下が光っているのに気づいたそうです」
警察官が川沿いの家のほうを指した。
玄関先に年配の男の人が柴犬を抱えて立っていた。
犬は、川のほうを見て低く唸っている。
「橋の通行は、止めたままでいいですか」
「お願いします。解除は、作業が終わってから連絡します」
「わかりました。下の様子は、私らにはどうにもわかりませんので」
警察官は苦笑いをした。
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僕は欄干から下を覗いた。
川床の暗がりに青白い光が漏れていた。
橋脚の根元にある古い石積みのあたりだ。
石と石の継ぎ目から、光が細い筋になって噴き出している。
筋は一本ではなかった。
十本、二十本と扇のように広がって、水面の上でゆらゆらと揺れていた。
「これ、封印だ」
先輩が言った。
「石積みに古い封印がしてあったんだと思う。それが破れてる」
「いつのものかは、わかりますか?」
「わかんない。でも、相当古い」
僕は要請票を見直した。
橋の台帳の欄には、架け替えが昭和の終わりとだけ書いてある。
橋脚の下の石積みは、それよりずっと前からあったのかもしれない。
「下に降ります」
「うん」
橋のたもとに、川床へ降りる階段があった。
コンクリートの段は湿っていて、端のほうに苔が生えている。
僕は手すりをつかんで、一段ずつ降りた。
先輩の靴音が、すぐ後ろからついてくる。
川床に足をつけた瞬間、肌がざわついた。
空気が重い。
耳の奥で低い音が鳴っている。
水の音とは別の魔力の流れる音だ。
石積みは橋脚の根元を囲むように積まれていた。
苔に覆われた石の表面にうっすらと文字のような刻みが見える。
読めない。
継ぎ目のあちこちから、光が吹き出していた。
「多いですね」
「多いね」
先輩は右手を上げた。
「修くん、下がって。遮断、広範囲でいく!」
先輩の右手が、大きく横に振られた。
空気が裂けた。
川床から橋の裏側まで、見えない膜が一気に広がる。
扇のように散らばっていた光の筋が、膜にぶつかって押し戻された。
耳の奥の低い音が、少しだけ弱くなった。
けれど、膜は大きかった。
橋脚の左右、川の流れの上、橋の裏側まで。
全部を一度に覆っている。
僕のスマホが震えた。
『残量16.2%です』
六車さんのLINEだった。
一分も経っていない。
「先輩」
「わかってる」
先輩の声が少しだけ硬かった。
膜を支える右手が小さく震えている。
「でも、これ切らないと広がるでしょ」
「広がります。でも、このままだと膜を張っているあいだずっと減り続けます」
「じゃあ、どうするの?」
僕は石積みを見た。
光の筋は二十本以上ある。
けれど、よく見ると全部が同じ深さから出ているわけではなかった。
いちばん強く光っているのは、橋脚の真下のいちばん大きな石の継ぎ目だ。
ほかの筋はそこから石の隙間を伝って枝分かれしている。
根は一つだ。
「先輩、待ってください。漏れの出口を一点に固定します」
「一点?」
「根元は一つです。そこから枝分かれして、出口が増えているだけです。出口を全部、根元の一点に戻します。そうすれば、遮断はその一点だけで足ります」
先輩は膜を張ったまま、石積みを見た。
それから、僕を見た。
「届出は?」
「追加します。今の届出では、範囲が狭すぎて足りません」
僕はスマホを出して、二宮課長の番号を押した。
呼び出し音が、一回で止まった。
「五十嵐です。影見橋の件、定位の届出を追加します」
「読め」
「漏れの出口を、石積みの根元の一点に固定します。範囲は、橋脚の根元から半径二メートル。目的は、遮断の範囲を縮めるためです」
息を一つ吸った。
「出口を一点にまとめれば、遮断は今の十分の一で足ります」
電話の向こうで、短い間があった。
「承認した。七星には、範囲を絞れと伝えろ」
「はい」
電話を切った。
先輩が膜を支えたまま僕を見ていた。
「聞こえた。いつでもいいよ」
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僕は石積みの前にしゃがんで、いちばん大きな石の継ぎ目に手のひらを向けた。
定位術を通す。
この漏れの在るべき場所は、根元の一点だ。
枝分かれした出口はもともと存在しなかった。
封印が破れて、魔力が石の隙間を勝手に流れているだけだ。
一本目の筋が、ゆっくりと継ぎ目のほうへ引き寄せられた。
二本目、三本目。
扇のように開いていた光が、少しずつ閉じていく。
手のひらが熱い。
石の向こうで、魔力が押し返してくる。
出口を増やしたがっている。
それを、一本ずつ根元に戻していく。
「先輩、半分まとまりました」
「うん」
「あと少しです」
十本目を過ぎたあたりで、押し返す力が急に強くなった。
指先が痺れる。
膝が、湿った石の上で少し滑った。
その瞬間、背中に先輩の手が当たった。
「大丈夫。膜、まだ張ってるから」
先輩の声は、すぐ後ろで聞こえた。
「あわてなくていい」
僕は、うなずいた。
息を整えて、残りの筋を一本ずつ寄せていく。
最後の一本が継ぎ目に吸い込まれた。
川床の光が一点に集まった。
橋脚の根元のいちばん大きな石の継ぎ目。
そこだけが豆電球くらいの大きさで青く光っている。
ほかの継ぎ目はもう暗い。
「固定しました。出口は一つです」
「了解。範囲、絞るよ」
先輩が右手を下ろした。
川床から橋の裏まで広がっていた膜が、すうっと消える。
それから先輩は人差し指を一本だけ立てた。
「ここだけ、遮断」
指先が光る継ぎ目に向けて短く振られた。
小さな膜が継ぎ目を包んだ。
両手で囲めるくらいの大きさだ。
さっきの膜と比べたら、本当に十分の一くらいしかない。
青い光が膜の中で揺れた。
それから、ゆっくり弱くなっていった。
耳の奥の低い音が消えた。
水の流れる音だけが残った。
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僕は定位を外さずに待った。
先輩も指を立てたまま動かなかった。
光が完全に消えた。
継ぎ目は、ただの古い石の隙間に戻っていた。
「……止まった」
先輩が指を下ろした。
僕はタブレットを出して、測定アプリを起動した。
川床の数値は基準の範囲内に収まっている。
念のため橋脚の反対側でも測った。
こちらも基準内だった。
「漏れ、止まりました」
「うん」
先輩は、その場にしゃがみこんだ。
膝に腕を乗せて、長く息を吐く。
「修くん、すごいね」
「先輩が膜を張っていてくれたので、落ち着いてできました」
「それはそうだけど」
先輩は光の消えた石積みを見た。
「私、最初の膜、全部いっぺんに切ろうとしてた」
「Cランクなので、そうなります」
「でも、修くんは根元を見てた」
僕は答えなかった。
答えようとしたけれど、言葉が出てこなかった。
定位術は、在るべき場所を探す術だ。
根元を探すのは、僕にとってはいつもの仕事だった。
先輩は立ち上がって、パーカーの膝の泥を払った。
「上、戻ろ。報告、たぶん長いよ」
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階段を上がると、警察官がこちらへ歩いてきた。
「終わりましたか」
「終わりました。漏れは止まっています。橋の通行は、再開して大丈夫です」
「助かります。橋が使えないと、向こう岸の人が遠回りになるので」
警察官は無線で何か話してから、テープを外し始めた。
柴犬を抱えていた男の人が、こちらに頭を下げた。
犬はもう唸っていなかった。
先輩は橋の真ん中まで歩いていった。
欄干に両手を置いて川の下流を見る。
いつもの場所だった。
僕も隣に並んだ。
橋の灯りが川面に細長く揺れている。
さっきまで青く光っていたことが、嘘のようだった。
ポケットの中でスマホが震えた。
二宮課長だった。
「五十嵐です」
「終わったか」
「終わりました。漏れは止まりました。橋の通行も再開しています」
「……よくやった」
課長の声はいつもより少しだけ長く間を取った。
「報告書は詳しく。石積みの位置、封印の刻み、出口を一点にまとめた手順。全部書け。明日中」
「はい」
「残量は」
僕はタブレットを開いて課の共有画面を見た。
居室の壁のメーターと同じ数字が表示される。
針は15%の赤い線を越えて、その下で止まっていた。
「14.2%です」
電話の向こうが、静かになった。
「……そうか」
「すみません」
「謝ることじゃない。お前たちは、一番少なく済む方法でやった」
課長はそう言って、少し咳をした。
「戻ったら、六車に確認しろ。それから、今夜はもう出るな」
「はい」
電話が切れた。
先輩はまだ川を見ていた。
「14.2?」
「はい」
「そっか」
先輩は欄干の上で指を組んだ。
「最初の膜がなかったら、15%は割らなかったかな」
「最初の膜がなかったら、漏れが広がっていました」
「……修くん、優しいね」
「事実です」
先輩は少し笑った。
それから欄干から手を離した。
「帰ろ。自転車、裏門に置いてきちゃった」
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裏門に戻ると、自動販売機の前に人影があった。
六車さんだった。
夕方と同じカーディガンにスニーカーを履いている。
片手にタブレットを持って、ベンチの横に立っていた。
「愛ちゃん? 帰ったんじゃないの」
「端末で針が動くのを見ていたら、じっとしていられなくて来ちゃいました。確認だけです。すぐ帰ります」
六車さんは少し照れくさそうに笑った。
「家、ここから十分なので」
「十分でも、日曜の夜だよ」
「涼さんたちも、日曜の夜です」
先輩は何も言い返せなかった。
六車さんはタブレットの画面をこちらに向けた。
メーターの表示は、14.2%。
目盛りの色ははっきりと赤に変わっていた。
「出動停止ですね」
六車さんは静かに言った。
「十月一日まで、課長の専決がないと出られません。明日の朝、居室に張り紙をします。届出の様式も、専決用のものに差し替えておきます」
「わかりました」
「それと」
六車さんは画面をスクロールした。
「消費の内訳を見ました。最初の一分で0.9ポイント。そのあとの作業は、全部で2ポイントもかかっていません」
「最初の一分は、私の膜だね」
先輩が言った。
「はい。でも、あの規模のCランクなら、普通は5ポイントくらいかかります。去年の同じくらいの件は、それくらいでした」
六車さんは画面を閉じた。
「だから、少なく済んだほうです。……私、数字しか見られないので、それだけ言いに来ました」
先輩はしばらく六車さんを見ていた。
それから、自動販売機に向き直った。
「愛ちゃん、何飲む?」
「え、いいですよ」
「いいから。来てくれたお礼」
「……じゃあ、ミルクティーで」
先輩はミルクティーのボタンを押して、それから僕のほうを見た。
「修くんは、ブラックでしょ」
「はい」
「覚えてる」
缶が三本、取り出し口に落ちた。
先輩は自分のカフェオレを取ってベンチに座った。
六車さんはミルクティーを両手で包んで隣に座った。
僕は、少し離れて立っていた。
缶を開けると、苦い匂いが夜の空気に混じった。
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しばらく、誰も話さなかった。
裏門の守衛室から、ラジオの音が小さく聞こえる。
野球の結果を読み上げているらしい。
自動販売機のコンプレッサーが、低く鳴っては止まる。
六車さんがミルクティーを半分ほど飲んでから立ち上がった。
「じゃあ、私は帰ります。明日、張り紙を作らないと」
「送ろうか?」
「大丈夫です。涼さんは、報告書を書いてくださいね」
六車さんは、僕たちに頭を下げて裏門の外へ歩いていった。
カーディガンの背中が街灯の下を一つずつ通り過ぎていく。
先輩はその背中が見えなくなるまで見送っていた。
「愛ちゃん、いい子だよね」
「はい」
「数字しか見られないって言ってたけど、数字見てるだけで、わざわざ来ないよね」
「来ないと思います」
先輩は、カフェオレの缶を膝の上で転がした。
それから、僕のほうを見た。
「修くん、ありがと」
「何がですか」
「今夜の。一人だったら、全部いっぺんに切ろうとして、無理してた」
先輩の声はいつもより小さかった。
「たぶん、膜張ったまま根元探して、時間かかって、もっと減らしてた」
僕は缶を持ったまま、言葉を探した。
先輩が一人で、あの川床に立っているところを想像した。
大きな膜を張って、震える右手で支え続けている。
誰も、背中に手を当てない。
それは嫌だと思った。
「先輩のこと、大事なので」
先輩の手が、缶の上で止まった。
僕は、自分の言ったことを頭の中でもう一度確かめた。
間違ってはいない。
けれど、何か足りない気がした。
「……相棒なので」
先輩は少しのあいだ僕を見ていた。
口が、何か言いかけるように小さく開いた。
それから、閉じた。
「……うん。相棒ね」
先輩は、笑った。
いつもの笑い方と、少しだけ違った。
困ったような、それでいてどこかうれしそうな顔だった。
先輩はカフェオレを飲み干して、立ち上がった。
空き缶をゴミ箱に入れて、自転車のスタンドを蹴る。
「報告書、明日中だよね」
「はい。下書きは、明日の四時半に僕が書きます。わからないところは、六時に合流したときに聞きます」
「今夜は、ここまでだね」
「はい。もう一時なので」
先輩は自転車のハンドルを握ったまま、少し考えていた。
「……うん。続きは明日」
「はい」
先輩は自転車を押して、裏門を出ていった。
途中で一度だけ振り返って、片手を上げた。
影見橋のほうへ、ペダルを踏む音が遠ざかっていく。
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僕はベンチに座って、残りのコーヒーを飲んだ。
苦かった。
今夜は、それくらいがちょうどよかった。
十月一日まで、あと四日。
針は14.2%。
出動停止ラインの、下にいる。
明日から僕たちは課長の専決がないと出られない。
要請が来てもまず課長に電話をする。
課長がだめと言えば、出ない。
それでも、今夜のやり方は間違っていなかったと思う。
根元を見つけて、出口を一つにして、先輩の膜を小さくした。
いちばん少なく済む方法だった。
課長もそう言ってくれた。
ふと、さっきの自分の言葉を思い出した。
先輩のこと、大事なので。
相棒なので、と付け足したのは、そのほうが正確だと思ったからだ。
先輩は夜勤の相棒で、僕たちは相性もいい。
相棒を大事にするのは、当たり前のことだ。
けれど、先輩の「うん。相棒ね」という声が、まだ耳に残っていた。
あの笑い方の意味は、よくわからなかった。
僕は空き缶をゴミ箱に入れて、立ち上がった。
裏門の向こうで、影見橋の灯りが小さく並んでいる。
今夜は、先輩はあの真ん中で自転車を止めただろうか。
報告書の続きは、明日の四時半に書く。
石積みの位置、封印の刻み、出口を一点にまとめた手順。
課長が言った項目は、打刻の前にメモへ並べておいた。
明日中に、六車さんの窓口へ回す。
先輩は、夕方の六時に巡回から戻る。
一行目を書き始めたところで、窓の外を自転車のライトが一つ、川のほうから通り過ぎていった。




