11. 二宮課長の夜
影見橋の件から、三日が経った。
二十八日の朝、僕は報告書を六車さんの窓口に回した。
提出したあと、六車さんは表紙に付箋を一枚貼った。
「課長確認済み」と書いてある。
その下に少し小さな字で「詳しくて助かります」と足してあった。
二十九日の夕方、先輩は六時ちょうどに居室へ来た。
遅刻しなかったのは、たぶん今月で二回目だ。
先輩は僕の机から報告書の控えを取って、遮断の欄を黙って読んだ。
「さすが合ってる。私が書くより正確だね」
「先輩に電話で聞いたとおりに書いただけですよ」
「その電話、私半分寝てたんだけど?」
「ちゃんと答えてくれていました」
先輩は「ならいいや」と言って、控えを僕の机に戻した。
その夜も要請は一度も鳴らなかった。
鳴っても出られないのだから、鳴らないほうがいい。
それでも電話が静かなままだと、なんとなく落ち着かなかった。
居室のドアには、二十八日の朝から張り紙が貼ってある。
赤い字で「出動停止中 残量15%未満」
その下には小さな字で「出動には課長の専決が必要です」とある。
六車さんの字だった。
---
九月三十日、水曜日。
上半期の最後の日だった。
五時前の市役所はいつもよりざわついていた。
半期の締めの日はどの課も書類が多い。
廊下を歩く職員がみんな分厚いファイルを抱えている。
コピー機の前には三人ほど順番待ちの列ができていた。
居室の窓から見えるロータリーでは、植え込みのハナミズキがほとんど赤くなっていた。
空は高く、山の稜線がくっきり見える。
今朝は上着を着てくる職員がはじめて目立った。
夜勤魔法班の居室だけは静かだった。
出動停止中の班には締めるほどの書類も残っていない。
僕は上半期の報告書の綴りを日付順に並べ直していた。
八月の地蔵から始まって、狐火、使い魔、街灯、チケット。
研修の同期の視察、坂の上の森下さん、保管庫の棚。
三角公園の影と、影見橋。
綴りの背が指一本ぶんくらいの厚さになっていた。
ドアが開いて六車さんが入ってきた。
今日はいつもの事務服だった。
両腕に黄色と青のファイルを一冊ずつ抱えている。
「修くん、お疲れ様です。締めの日なのにここだけ静かですね」
「出たくても出られないので、仕方ありませんね」
「ですよね」
六車さんは壁のメーターを見上げた。
針は14.2%のところで止まっている。
三日前から、少しも動いていない。
「残量14.2%。十月まであと一晩です」
「明日の零時ですね」
「はい。零時になると半期の配分が入ります。そうしたら100%に戻りますよ」
六車さんは、ちょっとだけ遠い目をした。
「四月一日の朝も、こうやってメーターを見てたんです。修くんの配属の日でした」
「覚えています。最初に見た時は緑でした」
「ぴかぴかの緑でしたね。修くん、緊張しすぎてメーターの前で一回お辞儀してましたよ」
「……それは、覚えていません」
「してました。私、見てましたから」
六車さんは笑った。
僕は綴りの端をそろえるふりをした。
「今日は、何事もなく終わるといいんですけど」
六車さんはそう言って、青いファイルを僕の机に置いた。
「なので、これは相談だけです。出動の話ではありません」
「相談、ですか」
「今朝、市の窓口に来られた方がいて」
ファイルを開くと受付票が一枚だけ挟まっていた。
相談者の欄には坂本トシエと書いてある。
「トシエさん」
「はい。かみまちの地蔵の件の、トシエさんです」
受付票には六車さんの字で聞き取りが書いてあった。
今朝、地蔵の花瓶の水を替えに行ったら花瓶が少し横にずれていた。
地蔵の足元の石がほんのり温かかった。
自分ではもう動かしていない。
孫ともそう約束した。
「また地蔵が動いているんですか?」
「地蔵そのものは、ほとんど。道路課の人が昼前に測りに行ってくれたんです。台帳の定位置から、南に十センチ動いているそうです」
「十センチ」
「それより気になるのは、こっちです」
六車さんは、付箋の貼られたページをめくった。
「石垣の角から弱い漏れが出ています。地蔵の真下です」
八月の夜を思い出した。
地蔵を軽バンで運んで、商店街の入り口の石垣の角に戻した。
苔の生えていない四角い跡の上に、そっと据えて固定した。
あのとき固定したのは、地蔵の位置だけだった。
確かに石垣のほうは調べていない。
「台帳には何か書いてありますか?」
「古い記録がありました。石垣の角に昔の封印がしてあるそうです。ただ、届出の書式がずっと前のもので、今の様式では出し直されていないんです」
「出し直されていない封印」
「はい。だから、うちの台帳にも位置コードしか載っていなくて」
僕は受付票を見直した。
トシエさんが地蔵を動かしていたのは三回だ。
毎晩少しずつ魔法を重ねて、石を浮かせていた。
地蔵は戻ったけれど、下の封印は浮いたまま残ったのかもしれない。
「それもDランクですか?」
「今のところは。でも、明日以降に広がるかもしれない、と道路課の人が言っていました」
六車さんはメーターを見て、それから僕を見た。
「出動停止中なので、通常の届出では出られません。課長にはさっき連絡しました」
「課長は何と」
「『夕方、そっちに行く』だけでした」
いつもの課長だった。
---
四時を過ぎたころ、居室のドアが開いた。
二宮課長だ。
紺のジャケットを着て、肩にいつもの膝掛けをかけている。
居室に来るのは月に数回だ。
来てもたいていは窓際の席に座って、目を閉じている。
今日は座らなかった。
課長は六車さんの机まで歩いて、青いファイルを受け取った。
ページを一枚ずつ、ゆっくりめくる。
台帳の写しのところで、手が止まった。
「……かみまちの、石垣の角か」
課長は小さく息を吐いた。
「昔、ここを封じた」
居室が静かになった。
エアコンの音だけが聞こえた。
「宮司補をやっていた頃だ。商店街の入り口に古い水の道が通っていた。そこから漏れが出たので、石垣の角で封じた。その上に、地蔵を据えてもらった」
「地蔵は、封印の上に置かれていたんですか?」
「そうだ。重しの意味もあった」
課長は台帳の写しを指でなぞった。
「届出が古かった。市に移ったときに今の様式で出し直すつもりでいた。それきりになっていた」
八月の夜、トシエさんは地蔵を少しずつ動かしていた。
重しがずれれば、下の封印もゆるむ。
戻したのは地蔵だけだった。
「……すみません。八月に石垣の下まで見ていれば」
「お前のせいじゃない。台帳に書いていなかったのは、私だ」
課長は、ファイルを閉じた。
「今夜は私が行く」
六車さんが、顔を上げた。
「課長が、ですか」
「専決で出す。封印の補強は私の術でやる。地蔵の定位置と漏れの流れは、二人に支えてもらう」
課長は窓の外を見た。
「七星は」
「六時に、巡回から戻ります」
僕が答えると、課長は時計を見た。
「なら、待つ」
そう言って、窓際の席に座った。
けれど、目は閉じなかった。
---
六時二分前に、ドアが開いた。
「おはようございまーす。……え」
先輩は、ドアのところで止まった。
窓際の席に、課長が座っているのが見えたからだ。
「課長がいる」
「いるぞ」
課長が、短く言った。
「え、なんで。私、何かしました?」
「していない。今夜、出る」
先輩は僕を見た。
僕はうなずいた。
「かみまちの地蔵です。石垣の下の封印がゆるんでいます。課長の専決で、課長も現場に出ます」
「課長が、現場に」
先輩の目が、少しだけ丸くなった。
それから、ショルダーバッグを机に置いた。
「……了解です。届出は?」
「三通です。課長の封印の補強と、僕の定位と、先輩の遮断。課長の分は、課長名義です」
六車さんが専決用の様式を三枚並べた。
課長が万年筆で一枚ずつ署名をする。
細くて、まっすぐな字だった。
「範囲は、最小で」
課長が言った。
「上半期の最後の夜だ。残りは、全部は使わない」
「はい」
先輩は自分の届出の欄を読んでから小さく言った。
「課長と出るの、初めてかも」
「僕も初めてです」
「緊張するね」
「先輩でも、ですか」
「私でも、だよ」
先輩は、パーカーの袖を少しだけ引っぱった。
---
出動は八時にした。
商店街の店が閉まってからのほうが、漏れの流れが見やすい。
六車さんは残量を見るために居室に残ることになった。
「LINE、こまめに送りますね」
「愛ちゃん、今日は帰らないの?」
「上半期の最後ですから。零時まではここにいます」
「残業代、出る?」
「出ません。私が勝手に残るだけです」
先輩は何か言いかけてやめた。
代わりにコンビニの袋から缶のミルクティーを一本出して、六車さんの机に置いた。
「差し入れ。この前のお返し」
「……ありがとうございます」
---
裏門の駐車場で、課長は軽バンの運転席に乗った。
「課長が運転するんですか」
「私が出るんだ。私が運転する」
僕は助手席に、先輩は後ろに座った。
課長の膝掛けが後部座席の端にたたんで置いてある。
軽バンが裏門を出た。
課長の運転は、静かだった。
アクセルを踏むのも、ブレーキを踏むのも、どこからが始まりかわからないくらいゆっくりだ。
交差点を曲がるときも、体がほとんど揺れない。
「課長、運転うまい」
後ろから、先輩が言った。
「宮にいた頃、夜に車で回ることが多かった」
「お祭りとかですか?」
「祭りもある。だいたいは、夜中に呼ばれて行く」
課長は、前を見たまま言った。
「今と、あまり変わらん」
先輩が後ろで小さく笑った。
川を渡ると、かみまちのアーケードが見えてきた。
シャッターはもうほとんど下りている。
開いているのは、角の酒屋と奥の銭湯だけだった。
銭湯の煙突からは白い湯気が細く上がっている。
アーケードの手前で、課長は裏道へハンドルを切った。
裏道は八月より明るかった。
新しい街灯が一本、角に立っていた。
白い光が石畳と家の塀を照らしている。
「街灯、ついたんですね」
僕が言うと、先輩が後ろから身を乗り出した。
「ほんとだ。八月に修くんが話してたやつ」
「僕は案内しただけです。六車さんが窓口で道路課につないでくれました」
「でも、最初に言ったのは修くんでしょ?」
課長は何も言わずに、街灯の下を通り過ぎた。
少しだけ、速度が落ちた気がした。
---
商店街の入り口に、地蔵は座っていた。
古い石垣の角。
赤い前掛けをつけた、膝ほどの高さの石地蔵だ。
足元の花瓶には、白い菊が一本挿してある。
その前に、坂本トシエさんが立っていた。
エプロンの上に厚手の羽織を着ている。
手には八月と同じ小さな懐中電灯を持っていた。
「あら」
トシエさんは、僕たちを見て目を細めた。
「あなたたち、前も来た子たちね」
「市役所の魔法班の五十嵐です。八月はお世話になりました」
「七星です。お久しぶりです」
先輩が頭を下げると、トシエさんはうれしそうに笑った。
「覚えてるわよ。地蔵を車に積んで行った子たち」
「その節は、すみませんでした」
「いいのよ。おかげで、ちゃんと元の場所に戻ったんだから」
トシエさんは、それから課長を見た。
課長が膝掛けをかけずに立っていた。
「そちらは」
「班の課長です。二宮と申します」
トシエさんは課長の顔をじっと見た。
それから、小さく首をかしげた。
「……どこかで、お会いしたかしら?」
「昔、この辺りの宮におりました」
「まあ」
トシエさんは、口に手を当てた。
「もしかして、石垣のお祓いの」
「はい」
「まあ、まあ。あのときの、若い神主さん」
トシエさんは課長の手を両手で握った。
課長は少しだけ困った顔をした。
こんな顔の課長を見るのは、初めてだった。
先輩が僕の袖を小さく引っぱった。
「課長、若い神主さんだったんだって」
「聞こえました」
「想像できる?」
「……少しだけ」
「私、全然できない」
先輩は、声を殺して笑った。
---
トシエさんは、今朝のことを話してくれた。
「花瓶の水を替えようとしたらね、横にずれてたの。私は触ってないのよ。孫とも約束したから」
「お孫さんは、お元気ですか?」
先輩が聞いた。
「元気よ。街灯がついたから、地蔵はもういいって。それにね、来月から早い時間のシフトに替わるの。十時には帰ってこられるんですって」
「それはよかったですね。安心できます」
「ほんとに。毎日夜中の一時に帰ってくるのは、ずっと心配だったから」
トシエさんは裏道の街灯のほうを見た。
「あの灯り毎晩見に行くのよ。孫が通る道だから」
それから、僕と先輩を交互に見た。
「あなたたち、まだ二人で組んでるのね」
「はい」
「前も仲がいいのねって言ったら、お兄さんが『相性がいいだけです』って」
覚えていた。
僕は、少しだけ言葉に詰まった。
「……今は、相棒なので」
トシエさんは、目を丸くした。
それから、おかしそうに笑った。
「あら。出世したのね」
先輩は何も言わなかった。
懐中電灯の向きを、意味もなく直していた。
---
僕は地蔵の前にしゃがんだ。
石の中の重さは、八月に固定したときのまま残っていた。
定位置の跡の上にまだほとんど収まっている。
ただ、ほんの少しだけ南へ浮いていた。
重さの芯が、跡からずれている。
その下からもう一つ別の流れを感じた。
石垣の継ぎ目の奥だ。
細くて冷たい流れが地面の下から押し上げてくる。
地蔵はその流れに押されてずれていた。
「課長。地蔵の下から、押し上げられています」
「水の道だ」
課長は、石垣の角に手を置いた。
「封印がゆるんで、流れが上に出かかっている。地蔵が重しになって、まだ止まっているだけだ」
「地蔵を先に戻すとどうなりますか?」
「戻した重さで、流れが横に逃げる。先に流れを切って、封印を締め直す。地蔵は最後だ」
「了解です」
先輩が、石垣の前に立った。
「遮断、継ぎ目だけでいきます」
「それでいい」
課長は膝掛けを外したジャケットのポケットから、小さな白い紙を一枚出した。
細長く折りたたまれている。
神社で見るような、紙垂に似た形だった。
課長はそれを石垣の継ぎ目に差し込んだ。
「始める」
課長が両手を合わせた。
声は出さなかった。
けれど、空気が変わった。
居室の空気でも、川床の空気でもない。
冬の朝の、境内の空気に似ていた。
先輩が人差し指を一本立てた。
石垣の継ぎ目に向けて、短く振る。
小さな膜が、継ぎ目を包んだ。
押し上げてくる流れが、膜の手前で止まる。
課長の手が、ゆっくり開いた。
石垣の継ぎ目に差し込んだ白い紙が、ほのかに光った。
古い石の表面に、刻みの線が浮かび上がる。
苔の下に隠れていた、細い文字のような線だった。
線が、一本ずつつながっていく。
継ぎ目の奥で、冷たい流れが少しずつ細くなっていった。
「五十嵐」
課長が目を閉じたまま呼んだ。
「地蔵を、跡に戻せ。ゆっくりでいい」
「はい」
僕は地蔵に手のひらを向けた。
この地蔵の在るべき場所は、苔の生えていない四角い跡の真上だ。
八月と同じだ。
けれど今夜は、その下にある封印の形も感じられた。
跡の真下には封印の芯がある。
地蔵は、その上に座るために置かれたのだ。
南に浮いた重さを、跡のほうへ寄せていく。
十センチ。
指の長さくらいの距離だ。
石が小さくきしんだ。
今度は引っかからなかった。
地蔵の重さが跡の上にすとんと落ちた。
その瞬間、石垣の刻みの線が強く光った。
それからゆっくりと消えた。
冷たい流れは、もう感じなかった。
継ぎ目の奥はただの石の隙間に戻っていた。
先輩が指を下ろした。
課長が合わせていた手を下ろした。
誰も、しばらく何も言わなかった。
トシエさんが、地蔵の前で手を合わせていた。
新しい街灯の明かりが、裏道の角から少しだけ届いている。
赤い前掛けが、その光でほんのり明るく見えた。
---
僕は測定アプリを起動した。
地蔵の周りも、石垣の角も、基準の範囲に収まっていた。
念のためにアーケードの入り口のほうでも測った。
こちらも問題はなかった。
「止まりました」
「そうか」
課長は石垣から手を離した。
額に汗が一筋だけ光っていた。
十月が明日に迫った夜なのに、課長のシャツの襟は少し湿っていた。
「課長、すごいですね」
思わず口から出た。
課長は僕を見た。
それから、少しだけ首を振った。
「すごくはない。一人なら、たぶん締めきれなかった」
「そうなんですか」
「封印をやっているあいだ、流れを押さえる者がいる。重しを据える者がいる。だから締められる」
課長は、石垣の白い紙を抜き取って、ポケットに戻した。
「宮にいた頃は、それを一人でやっていた。何度か、やりすぎた」
「やりすぎた、というのは」
「倒れた」
課長は、それ以上は言わなかった。
「公務になったのは、大きな術を一人で扱わないためだ。届出を出す。承認をもらう。決まった範囲だけやる。相棒と組む」
課長は、僕と先輩を順番に見た。
「お前たちに手順を守れと言うのは、そういうことだ」
先輩が小さくうなずいた。
僕もしっかりとうなずいた。
森下さんのお宅に行く前の夜、課長は電話で「手順を守れ」と言った。
あのときは、一言多いと思っただけだった。
僕のスマホが震えた。
『残量12.1%です。お疲れ様でした』
六車さんのLINEだった。
すぐに、もう一通届いた。
『課長の術、思ったより少なかったです。さすがです』
画面を課長に見せると、課長は「……そうか」とだけ言った。
けれど、ほんの少しだけ、口の端がゆるんだ気がした。
---
トシエさんは、裏道の角まで僕たちを見送ってくれた。
「あなたたち、これからも二人で来るのね」
「はい。たぶん」
先輩が答えた。
「たぶんじゃだめよ。ちゃんとまた二人で来てちょうだい」
トシエさんは、先輩の手を軽く叩いた。
それから僕にだけ聞こえるくらいの声で言った。
「お兄さん、相棒は大事にしなさいね」
「……はい」
トシエさんは、満足そうにうなずいて、裏道の奥へ帰っていった。
懐中電灯の小さな光が、新しい街灯の下を通って、角の向こうへ消えていった。
軽バンに戻ると、先輩が後部座席で膝を抱えていた。
「先輩、寒いですか」
「ちょっとだけ」
先輩はパーカーの袖の中に指先を引っこめていた。
石垣の前で、ずっと指を立てていたせいだろう。
僕は後部座席の端にたたんであった膝掛けを見た。
課長の膝掛けだ。
「課長、膝掛け、先輩に借りてもいいですか」
課長は、運転席でシートベルトを締めながら言った。
「使え」
僕は膝掛けを広げて、先輩の膝にかけた。
「……ありがと」
先輩は膝掛けの端を両手で握った。
それから、小さな声で言った。
「修くん、トシエさんに何言われてたの?」
「相棒は大事にしなさいね、と」
先輩は膝掛けに顎をうずめた。
「……ふうん」
それきり、市役所に着くまで先輩は窓の外を見ていた。
---
裏門に着くと、課長はエンジンを切らずに言った。
「報告書は、お前たち二人に任せる」
「課長の術の欄も、ですか」
「封印の経緯は明日の朝、私が口頭で六車に話す。それを付けろ。あとは任せる」
「わかりました」
「七星」
「はい」
「今夜の遮断、よかった」
先輩は、少しだけ目を見開いた。
「……ありがとうございます」
「五十嵐」
「はい」
「八月の地蔵、跡の上にきちんと据えてあった。だから今夜、締められた」
僕は、何と答えればいいかわからなかった。
課長は返事を待たなかった。
「膝掛けは、明日返せ」
そう言って、軽バンは駐車場の奥へ走っていった。
先輩は膝掛けを肩にかけ直した。
「課長、今日しゃべりすぎじゃない?」
「一年分くらい、しゃべっていましたね」
「褒められちゃった」
「褒められましたね」
先輩は、膝掛けの中で笑った。
---
居室に戻ると、六車さんが机で待っていた。
「お帰りなさい。お疲れ様でした」
机の上には、先輩が置いていったミルクティーの空き缶と、新しい報告書の様式が二部並んでいた。
「課長、どうでした?」
「若い神主さんだったらしいよ」
先輩が言うと、六車さんはきょとんとした。
「……え、課長がですか?」
「トシエさんが言ってた。手握られてた」
「課長が、手を」
六車さんは、しばらく想像していた。
それから、首を振った。
「無理です。想像できません」
「でしょ?」
二人が笑っているあいだに、僕は報告書の様式を広げた。
六車さんは呼び出しで戻ってきていた。
居たのは、締めの数字を書くあいだだけだった。
上半期の締めの欄に、12.1%と書き込む。
それからファイルを閉じて立ち上がった。
「零時のリセットは、家の端末で見ます。ここにいると、課長に怒られますからね」
「愛ちゃん、送ろうか」
「大丈夫です。涼さんたちは、報告書を仕上げてください」
六車さんは、ドアのところで振り返った。
「上半期、ありがとうございました」
「こちらこそ」
先輩と僕が、同時に言った。
六車さんは笑って、ドアを閉めた。
---
居室には僕と先輩だけが残った。
向かい合った机で、ペンを動かす。
僕は定位と封印の位置。
先輩は遮断と、専決の経過。
エアコンの音と、ペンの音だけが聞こえた。
先輩は課長の膝掛けを肩にかけたままだった。
返すのは明日だからと言って、外そうとしなかった。
十一時半を過ぎたころ、先輩が給湯室からカップ麺を二つ持ってきた。
「上半期最後の夜食だよ」
「ありがとうございます」
「しょうゆと、シーフード。どっちがいい?」
「どちらでも」
「じゃあ、修くんがしょうゆ。私がシーフード」
先輩は僕の前にしょうゆを置いた。
三分待つあいだ、先輩は報告書の自分の欄を読み返していた。
「ねえ、修くん」
「はい」
「課長、長く班にいるんだよね」
「市に移ってから、ずっとだと聞いています」
「一人でやって、倒れたことがあるって言ってた」
「はい」
先輩はカップ麺のふたを指で押さえた。
「それで、今は一人でやらない仕組みのところにいるんだね」
「そうだと思います」
先輩は、少しのあいだ黙っていた。
それからふたをはがした。
湯気が先輩の顔の前で揺れた。
「修くんとは、長く一緒に続けたいね」
僕は、顔を上げた。
「はい。先輩と」
先輩の箸が、止まった。
「一緒に──」
先輩はそこまで言って、口を閉じた。
湯気の向こうで、先輩の目が少しだけ揺れていた。
僕は、続きを待った。
先輩は、箸を持ち直した。
「……うん。仕事、頑張ろう」
「はい」
先輩は麺をすすった。
少し、熱そうだった。
僕も自分のカップ麺のふたをはがした。
しょうゆの湯気が、眼鏡を少し曇らせた。
一緒に、のあと先輩は何と言うつもりだったのだろう。
一緒に頑張ろう、かもしれない。
一緒に残ろう、かもしれない。
どちらでも、意味は同じだと思った。
それなのに、聞き返せなかった。
聞き返したら、違う答えが返ってくる気がした。
---
報告書の最後の行を書き終えたとき、時計の針は零時の少し前を指していた。
先輩は膝掛けを肩にかけたまま、椅子の背にもたれていた。
目は、壁のメーターを見ていた。
「あと、一分」
「はい」
針は、12.1%のところで止まっていた。
赤い目盛りの中だ。
四月の朝には、この針は緑のいちばん端にあった。
六車さんの言うとおり、僕はあの朝、メーターの前でお辞儀をしたのかもしれない。
覚えていないけれどしたような気もする。
秒針が、十二を過ぎた。
壁のメーターの中で、小さく機械の音がした。
針が、ゆっくりと動き始めた。
赤を抜けて、黄色を抜けて、緑のほうへ。
少しずつ、少しずつ上がっていく。
先輩が、膝掛けの中で小さく息をのんだ。
針は緑のいちばん端で止まった。
100.0%。
「……戻った」
「戻りましたね」
「半年ぶりの緑だ」
「四月以来です」
先輩はしばらく針を見ていた。
それから、ふっと笑った。
「なんか、ほっとしたら眠くなってきた」
僕のスマホが震えた。
『上半期、お疲れ様でした』
六車さんからだった。
家に帰ってからも、課の端末を見ていたのだろう。
すぐに、もう一通届いた。
『下半期の初日の昼に、ちゃんと数字を確認しますね。今夜はおやすみなさい』
画面を見せると、先輩は「愛ちゃんらしい」と言って笑った。
先輩は、膝掛けをたたみ始めた。
きちんと四つにたたんで、課長の席に置く。
それから、もう一度だけ広げて、また肩にかけた。
「……やっぱり、朝まで借りとく」
「明日返せと言っていましたよ」
「明日って、もう今日だよ」
「そうでした」
先輩は笑って膝掛けの端を握った。
窓の外で十月の最初の風がロータリーを渡っていった。
植え込みのハナミズキが、街灯の下でかすかに揺れている。
明日の合流は、六時だ。
届出はもう二通書いてある。
先輩の分も、僕の分も。
僕は報告書の綴りを閉じて、緑の針の下でもう一度だけ背筋を伸ばした。




