↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
魔法公務員の仕事  作者: 椎名弥生


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
12/12

12. 次の夜勤も

十月一日の五時前、僕は居室のメーターの前に立っていた。


零時に針は百まで戻った。

夜中の蛍光灯の下でもそれは見ていた。

けれど、夕方の光の中で見る緑は少し違って見えた。

ブラインドの隙間から入った日差しが、針の上に細い縞を落としている。


100.0%。

緑色、いちばん端だ。


ドアの出動停止の張り紙は、今朝になって六車さんが剥がしたらしい。

四隅にセロハンテープの跡だけが残っていた。

その上に、新しい紙が一枚貼ってある。


『下半期 よろしくお願いします』


六車さんの字だった。

最後の「す」だけ、少しはねている。


---


十月の市役所は、九月とは空気が違った。


廊下の掲示板では、上半期の行事のポスターが外され、年末調整の案内に替わっていた。

ロビーには、来月の市民文化祭のチラシが積まれている。

窓口に並ぶ人も半袖より長袖のほうが多い。

地下の食堂からは、今日から始まった秋の定食の匂いが上がってきていた。

きのこの炊き込みご飯らしい。


居室の窓の外では、ロータリーのハナミズキが赤い葉を落とし始めていた。

清掃の人がほうきで植え込みの根元を掃いている。

掃いても少し風が吹くとまた落ちてくる。


ドアが開いて六車さんが入ってきた。

両腕にファイルを抱えている。

今日は黄色が一冊だけだった。


「修くん、お疲れ様です。下半期、初日ですね」


「お疲れ様です。張り紙、ありがとうございました」


「剥がすのちょっと気持ちよかったです」


六車さんは笑って、壁のメーターを見上げた。


「残量、100.0%リセットです。システムの記録もちゃんと合ってました」


「よかったです」


「下半期も、節約してくださいね」


そう言ってから、六車さんは自分で吹き出した。


「四月の初日にも、同じこと言いましたね」


「言いましたね。メモ帳を見せてもらいました」


「修くん、あのとき全部メモしてましたもんね。『節約』って書いて、二重線引いてました」


「重要だと思ったので」


「重要ですよ。今もそれは変わりません」


六車さんは、黄色いファイルを僕の机に置こうとした。

そこで手が止まった。

机の上に届出の用紙がもう二通並んでいたからだ。


定位と遮断。

遮断の欄だけ、署名のところが空いている。


「……もう、涼さんの分まで」


「先輩が来ないと出動できないですからね」


六車さんは届出と僕の顔を交互に見た。

それから、ファイルを届出の横にそっと置いた。


「半年前も、そう言ってましたよ」


「そうでしたか」


「そうでした。私、あのとき『この子、真面目だなあ』って思ったんです」


「今はどう思いますか?」


六車さんは、少しだけ考えるふりをした。


「真面目で、ちょっとだけ鈍い、です」


「鈍い、ですか」


「はい。でも、それは悪いことじゃないので構いません」


何が鈍いのかを聞こうとしたら、六車さんはもうファイルを開いていた。


「今夜の予定票です。南口のコンビニの裏手で、古い看板が夜中に光るそうです」


受付票によると、光っているのはコンビニの看板ではなかった。

裏の駐車場の奥に、前にあった酒屋の袖看板が残っている。

電気はとっくに止まっている。

それなのに、夜になると「酒」の一文字だけが、ぼんやり白く光る。


「Dランクです。店長さんが、昨日窓口に電話をくれました」


「電気が来ていないのに、光るんですね」


「はい。店長さんは『お化けかと思った』って。夜勤のアルバイトの子が怖がって、裏のゴミ出しに行けないそうです」


「それは困りますね」


「困ってました。とても」


六車さんは、真顔でうなずいた。


---


六車さんが出ていったあと、僕は勤務の最初に一通だけメールを書いた。


宛先は県庁の東雲さんだ。

件名は「来年度の人事交流の件」

本文は短くした。

お誘いへのお礼と、辞退の旨と理由を一行。

理由には「今の班の手順と、相棒との組み合わせが、自分に一番合っているため」と書いた。


送信してから少しだけ画面を見ていた。

返事は夕方の四時に届いた。


『承知しました。そう返ってくると思っていました。お二人によろしく』


東雲さんらしい、丁寧な文面だった。


---


夕方になると、窓の外は早く暗くなった。


西の山に日が隠れると、ロータリーの街灯が端から順番に点いていく。

昼の職員が一人また一人と帰っていき、フロアの蛍光灯が半分消えた。

エアコンはもう冷房ではなく、送風だけになっている。

窓際に立つとガラスが少しひんやりしていた。


六時になっても、先輩は来なかった。


六時三分。

六時五分。


僕は届出の遮断の欄をもう一度見直した。

誤字はない。

見直す理由は、特になかった。


六時八分になるとドアが勢いよく開いた。


「修くん、お疲れー!」


先輩だった。

茶色のセミロングに、少しだけ寝癖がついている。

制服の上にはいつものグレーのパーカー。

片手にコンビニの袋を提げて、もう片方の手にプラカップを二つ持っていた。

腕には、きれいにたたんだ膝掛けを抱えている。


「先輩、遅刻です」


「ごめんごめん。コンビニ、レジに列ができてて」


「下半期の初日です」


「初日だから、ちょっと気合い入れてお化粧してたの」


「気合いを入れるなら、時間に入れてください」


「修くんは厳しいなあ」


先輩は笑って、僕の机に白い報告書フォルダを置いた。

中身は空っぽだ。


「修くん、今日も届出ありがと」


「先輩の分も書いてあります。遮断の欄は空けてあります」


「さすが」


先輩はカップの一つを僕に差し出した。


「はい、ブラック」


「ありがとうございます」


受け取るとまだカップは熱かった。

蓋の飲み口から湯気が細く上がっている。

九月の半ばに初めて湯気が見えた夜があった。

今はもうカップを持つたびに見える。


先輩は膝掛けを抱えたまま、窓際の席のほうへ歩いた。

課長の席だ。

椅子の上に、膝掛けをそっと置く。

角をそろえて、二回なでた。


「返却、完了っ」


「朝まで借りると言っていましたけど」


「朝までっていうか、家まで借りちゃった」


「それは、課長に言っておいたほうがいいと思います」


「言わなくていいよ。洗ってあるし」


先輩はそう言って、膝掛けの上に付箋を一枚貼った。

『ありがとうございました 七星』

付箋の端に、小さな猫の絵が描いてあった。


「その猫は何ですか?」


「お礼の気持ちだよ」


「課長、猫好きなんですか?」


「知らない。でも、嫌いな人いないでしょ?」


先輩は自分の席に戻って、袋の中身を机に出した。

おにぎりが二つと、チョコレートの箱。

それから今日は肉まんが一つ入っていた。


「今日は肉まん、売り始めてたよ。十月だからかな」


「季節ですね」


「半分あげようか」


「さっき、食堂できのこご飯を食べたので」


「えっ、秋の定食始まったの?ずるい」


「今日からでした。きのこの炊き込みご飯です」


「ずるい」


先輩は二回言ってから、肉まんを半分に割った。

半分を、なぜか僕の机に置いた。


「食べられなかったら、夜食にして」


「……ありがとうございます」


湯気の立つ肉まんの半分を、僕はとりあえず紙ナプキンの上に乗せた。


---


先輩が遮断の欄を書き足しているあいだに、居室のドアがもう一度開いた。


二宮課長だった。

紺のジャケットを着て、今日は膝掛けを持っていない。

窓際の席まで歩いて、椅子の上の膝掛けと付箋を見た。


課長は付箋の猫をしばらく見ていた。

それから、付箋をはがさずに膝掛けごと肩にかけた。


「……下半期も、よろしく」


課長はそう言って、僕と先輩を見た。


「報告書は、明日中」


「はい」


二人の返事が重なった。


課長はうなずいて、膝掛けを肩にかけたまま席に座った。

目を閉じる。

いつもの課長だった。

ただ、肩の膝掛けの端で、付箋の猫が小さく揺れていた。


先輩が僕のほうに身を乗り出した。


「付箋、はがさなかったね」


「はがしませんでしたね」


「やっぱり猫、好きなのかな?」


「たぶん、はがすのが面倒だっただけです」


「夢がないなあ」


窓際の席から、課長の低い声がした。


「聞こえている」


先輩はあわてて姿勢を戻した。


---


帰り支度をしていた六車さんがドアのところで先輩の机を見た。

空っぽの報告書フォルダがそのまま置いてある。


「涼さん。投げないでくださいね」


「投げてないです!」


先輩の返事が居室に響いた。

窓際で課長の肩が少しだけ揺れた気がした。


六車さんはくすっと笑った。


「今夜は家から残量を見ています。動いたらLINEします」


「愛ちゃん、今日は早く寝なよ。昨日も遅かったでしょ」


「涼さんこそ。報告書は明日中ですよ」


六車さんは手を振って帰っていった。


先輩は空のフォルダを開いた。

それから、僕の机をちらっと見た。


「修くん、今夜の報告書の下書きって……」


「もう八割書いてありますよ」


「え」


「現場の状況と、届出の内容と、位置コードは昼に書きました。あとは結果と、先輩の遮断の欄だけです」


先輩は、空のフォルダと僕の顔を交互に見た。


「……私、このフォルダ持ってくる意味ある?」


「あります。清書は先輩の字のほうが課長が読みやすいそうなので」


「それ、褒めてる?」


「六車さんが言っていました。先輩の字は大きいから、課長が眼鏡なしで読めるって」


「やっぱり褒めてないでしょ」


先輩はそう言いながら、少しうれしそうにフォルダを閉じた。


---


出動は、九時半にした。


課長は九時前に、膝掛けを肩にかけたまま帰っていった。

承認はいつもどおり電話でもらった。

先輩が二通の届出を読み上げ、課長が「承認した」と答える。

居室で聞くより、電話越しの声のほうが少しだけ眠そうだった。


南口までは歩いて十分だ。

軽バンを出すほどの距離ではない。


裏門を出ると空気が冷たかった。

先輩はパーカーのフードを少しだけ立てた。

僕は出動用のベストの前を閉めた。


南口の通りはまだ人がいた。

居酒屋の前で、仕事帰りの人たちが立ち話をしている。

ラーメン屋の換気扇から、湯気と豚骨の匂いが流れてくる。

駅のほうからは電車が出ていく音が聞こえた。


「十月って、夜の匂い変わるよね」


先輩が言った。


「変わりますか」


「変わるよ。夏は草の匂いで、秋は焼き芋とラーメン」


「ラーメンは、一年中ありますよ」


「秋のラーメンは、秋の匂いなの」


先輩はそう言い切った。

理屈はわからなかったが、言われてみれば、そんな気もした。


---


コンビニの明かりが見えてきた。


二十四時間営業の店は、通りの中でもひときわ明るい。

ガラスの内側で店員がおでんの鍋の様子を見ていた。

十月からは肉まんだけでなく、おでんも始まったらしい。


自動ドアが開くと、チャイムが鳴った。

レジの奥から若い店員が顔を出した。


「あ、七星さん。またお疲れ様です」


「お疲れさまー。今日は買い物じゃなくて、お仕事だよ」


「店長から聞いてます。裏の看板ですよね」


店員は、親しげに先輩と話している。

僕は先輩の横顔を見た。


「……常連なんですか?」


「うん。コーヒー買うとこ」


先輩は、当たり前のように言った。


「毎日来てるから、覚えられちゃった」


「毎日ですか?」


「出勤前に毎日。修くんのブラックもここで買ってるよ」


僕は手に持っていたカップを思い出した。

確かに蓋の縁に、この店のロゴが小さく入っていた気がする。

半年間、毎日飲んでいたのに、店の名前まで気にしたことはなかった。


店員が僕を見て笑った。


「ブラックの方ですね。七星さん、いつも二つ買っていくんです。一つはブラックで」


「……そうなんですか」


「そうなんですよ。『相棒の分』って」


先輩が、店員の腕を軽く叩いた。


「余計なこと言わないの」


「すみません」


店員はちっとも悪びれずに、レジに戻っていった。

先輩は僕のほうを見ないまま、裏口のほうへ歩き出した。


「ほら、仕事。看板の方行くよ」


「はい」


僕は先輩の後ろについていった。

耳のあたりが、少しだけ熱い気がした。

店の中が暖かかったからだと思う。


---


裏の駐車場は、店の中より暗かった。


奥のブロック塀に、古い袖看板が一枚、斜めに取りつけられたまま残っていた。

縦長の看板で、白地に赤い字で「酒」と書いてある。

字の端は雨と日差しで色が抜けていた。


その「酒」の字だけが、ぼんやりと白く光っていた。

看板の中に電球はない。

配線も途中で切られている。

光は、字そのものから滲み出ていた。


「本当に光ってる」


先輩が少し感心したように言った。


「アルバイトの子が怖がるのも、わかるね」


「夜中に一人でゴミを出しに来て、これが光っていたら怖いと思います」


「修くんでも?」


「僕はまず届出のことを考えると思います」


「それ、怖がってないよね?」


僕は看板の下にしゃがんだ。

字の周りの空気が少しだけざわついている。

何十年も同じ場所で光り続けた看板には、灯りの記憶のようなものが残る。

店がなくなって電気が止まっても、その記憶だけが浮いてしまうことがある。


在るべき状態は消灯だ。

もう、灯らなくていい看板だ。


「先輩、字の周りの流れだけ切ってもらえますか」


「了解。字だけね」


先輩の指が、短く振られた。

看板の周りの空気が、すっと静かになった。


僕は看板に手のひらを向けた。

定位術を通す。

浮いていた灯りの記憶を、看板の中のもう使われない場所に戻す。


「酒」の字が、一度だけ明るく光った。

それから、ゆっくりと暗くなった。


駐車場は普通の十月の夜に戻った。

看板はただの古い看板になった。


僕は測定アプリを起動した。

基準の範囲内だった。


先輩が腕時計を見た。


「三分で終わった」


「三分ちょうどですか?」


「三分と、ちょっと」


「ちょっとは、何秒ですか?」


「報告書には、三分って書いといて」


「正確に書きますから教えてください」


先輩は笑った。


裏口から店員が顔を出した。


「終わりました?」


「終わったよ。もう光らないと思う」


「助かりました。夜勤の子に言っておきます」


「看板の撤去は、店長さんから大家さんに相談してもらってね。今夜のは、魔法の残りだから。電気の故障じゃないよ」


先輩は住民と話すときの少し低い声で言った。

店員は何度も頭を下げた。


帰りぎわに店員がレジの横から小さな袋を差し出した。


「これ、店長からです。おでんの大根。お二人で食べてください」


「え、いいの?」


「いつも買ってもらってるので」


先輩は、袋を受け取って僕を見た。


「……業務中の受け取りって、だめなやつ?」


「市の規程では、社会通念上の範囲の手土産は、受け取りを断ると失礼になる場合は受け取ってもいい、となっています。報告書の備考に書きます」


「書くんだ」


「書きます」


店員が、笑いをこらえていた。


---


市役所に戻ると、居室はしんとしていた。


エアコンの送風の音だけが、低く鳴っている。

課長の席には、もう誰もいない。

付箋の猫は、課長の肩に乗ったまま帰ったらしい。


僕は報告書を開いて結果の欄を書いた。

主担当はいつもどおり僕だ。

先輩は隣の机で、遮断の欄を清書している。

三行進むごとに手が止まり、おでんの大根を一口食べる。


「修くん、大根冷めるよ?」


「報告書が終わったら食べます」


「冷めたら、おいしくないよ?」


「……一口だけ、いただきます」


大根は出汁がよくしみていた。

十月の夜の味がした。

先輩の言う、秋の匂いの意味が少しだけわかった気がした。


スマホが震えた。


『残量99.2%です。いいスタートです』


六車さんからだった。

すぐに、もう一通届いた。


『おでん、報告書の備考に書いてくださいね』


「……なんで知ってるの?」


先輩が画面を覗き込んで言った。


「コンビニの店長さんが、窓口に電話してくれたのかもしれません」


「こんな時間に?」


「六車さんは、残量以外も見ているので」


先輩は少しだけ身震いするふりをした。


「愛ちゃん、やっぱり怖い」


0.8ポイント。

百から引けば、99.2だ。

下半期はここから始まる。

針はまだ緑のいちばん端に近く、蛍光灯の下でまっすぐ立っていた。


報告書の最後の行に、99.2%と書いた。

備考欄には、「店舗より大根二個の提供あり。辞退が失礼にあたるため受領」と書き添えた。


---


報告書を片づけて、午前一時に二人で打刻し、裏門を出た。


守衛さんが窓口から手を上げた。


「お疲れさん。下半期もよろしくな」


「よろしくお願いします」


裏門の自動販売機の前は、蛍光灯の明かりだけが白かった。

八月の夜は明かりに小さな虫がたくさん集まっていた。

今夜は一匹もいない。

古いベンチの座面が、夜露でうっすら湿っていた。


先輩が自動販売機のボタンを二回押した。

缶の落ちる音が二つ続いた。


「はい、ブラック。寒いからホットだよ」


「ありがとうございます」


受け取ろうとしたとき、先輩の指と、僕の指が少しだけ触れた。

先輩の指は、冷たかった。


「先輩、手、冷たいですね」


「さっき、遮断したから」


「三分だけです」


「三分でも、冷えるの」


先輩はそう言って、自分のカフェオレの缶を両手で包んだ。


僕は缶を開けた。

白い湯気が、夜の空気の中に立ちのぼった。

すぐには消えずに、蛍光灯の光の中でゆっくり広がっていく。

八月の夜には湯気なんて見えなかった。

今は見えるのが当たり前になった。


先輩も自分の缶を開けた。

甘い匂いが、少しだけ混じった。


二人で並んで立った。


影見橋のほうから、川の風が流れてきた。

八月よりずっと冷たい。

風の中にどこかの家の金木犀の匂いが、ほんの少しだけ混じっていた。


「修くん」


「はい」


先輩は缶を両手で包んだまま、自動販売機の明かりのほうを見ていた。

僕のほうは、見なかった。


「……いつか、夜勤じゃない日も、コーヒー飲もうか」


僕は、少し考えた。


夜勤じゃない日。

昼間に、先輩とコーヒーを飲む。

居室ではない場所で。


「打ち合わせですか?」


先輩は答えなかった。

缶を握る指に、少しだけ力が入ったように見えた。


「……届出、いります?」


先輩はしばらく黙っていた。

それから、肩を小さく震わせた。

笑っていた。


「……ばか」


先輩は缶に口をつけて、少しだけ飲んだ。


「いらないよ、届出は」


「そうですか」


「まあ、夜勤は長いから」


先輩はそう言って、ようやく僕のほうを見た。

蛍光灯の明かりの下で、先輩の頬が少しだけ赤かった。

夜風が冷たいからだと思う。


夜勤は長い。

下半期はまだ始まったばかりだ。

その先にも、たぶん来年度の上半期がある。


僕は、手の中の缶を握り直した。


「はい。次の夜勤も一緒ですね、先輩」


先輩は少しだけ目を見開いた。

それから、缶を口元に当てたまま、小さくうなずいた。


「……うん」


それだけだった。

けれど、その「うん」は、いつもの返事より少しだけ長かった気がした。


先輩は、残りのカフェオレを飲み干した。

空き缶をゴミ箱に入れて、自転車のスタンドを蹴る。


「明日も六時ね」


「六時です」


「六時五分」


「六時です」


「じゃあ、六時三分で」


交渉になっていない。

四月から、ずっと同じだ。


先輩は自転車を押して裏門を出ていった。

途中で一度だけ振り返った。

手を振る代わりに、自分の手をもう片方の手で包むしぐさをした。

冷たい、と言いたかったのかもしれない。


僕は、手を振り返した。


パーカーのフードが、街灯の下を一つずつ通り過ぎて、影見橋のほうへ消えていった。


---


僕はベンチに座って、残りのコーヒーを飲んだ。


苦かった。

夜の終わりには、それくらいがちょうどいい。


先輩の言葉の意味は、まだよくわからない。

夜勤じゃない日のコーヒーは、打ち合わせではないらしい。

届出もいらないらしい。

それなら一体、何なのだろう。


考えているうちに、缶が少しずつぬるくなっていった。

指先に、さっき触れた先輩の手の冷たさがまだ少しだけ残っている。


わからないことは、わからないままでいい。

届出に書けないことは、書かなくていい。

それくらいは、この半年でわかるようになった。


でも、次の夜勤が楽しみだ。


それだけは、確かだった。


---


翌日の夕方、六時前。


居室のドアの前で、六車さんが帰り支度をしていた。

鞄にファイルを一冊ずつしまっている。


そこへ廊下から足音が近づいてきた。

自転車のヘルメットを手に持った先輩だった。

時計は、五時五十八分を指していた。


「涼さん。今日は早いですね」


「昨日は遅刻したからね。お詫びだよ」


先輩は、二つのプラカップを持っていた。

一つはブラックで、一つはラテだ。


僕はまだ居室の奥の机にいた。

ドアの外の声は、よく聞こえた。


六車さんは鞄を閉じる手を止めた。

それから、廊下の先輩にだけ聞こえるくらいの声で言った。


「涼さん」


「なに?」


「……いつになるんですか?」


先輩は、カップを持ったまま止まった。


「何が?」


六車さんは少しのあいだ先輩を見ていた。

それから、小さく首を振った。


「……いえ、なんでもないです」


「なにそれ」


「なんでもないです。お疲れ様でした」


六車さんは鞄を肩にかけて帰っていった。

すれ違いざま、僕に向かって小さく会釈した。

その顔が、少しだけ笑っていた。


先輩が居室に入ってきた。


「修くん、お疲れー。はい、ブラック」


「ありがとうございます。今日は、時間どおりですね」


「でしょ」


「六車さんと、何を話していたんですか」


先輩は自分のラテを机に置いた。

それから僕の届出を覗き込んだ。


「なんでもないって」


「そうですか」


「そうなの。……あ、遮断の欄、また空けてくれてる」


「先輩が来ないと、出動できないので」


先輩は少しだけ笑った。

いつもより、やわらかい笑い方だった。


「知ってる」


僕はカップの蓋を開けた。

湯気が、ゆっくりと立ちのぼった。


壁のメーターは、緑だった。

窓の外でロータリーの街灯が端から順番に点いていく。


今夜も、夜勤が始まる。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。