12. 次の夜勤も
十月一日の五時前、僕は居室のメーターの前に立っていた。
零時に針は百まで戻った。
夜中の蛍光灯の下でもそれは見ていた。
けれど、夕方の光の中で見る緑は少し違って見えた。
ブラインドの隙間から入った日差しが、針の上に細い縞を落としている。
100.0%。
緑色、いちばん端だ。
ドアの出動停止の張り紙は、今朝になって六車さんが剥がしたらしい。
四隅にセロハンテープの跡だけが残っていた。
その上に、新しい紙が一枚貼ってある。
『下半期 よろしくお願いします』
六車さんの字だった。
最後の「す」だけ、少しはねている。
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十月の市役所は、九月とは空気が違った。
廊下の掲示板では、上半期の行事のポスターが外され、年末調整の案内に替わっていた。
ロビーには、来月の市民文化祭のチラシが積まれている。
窓口に並ぶ人も半袖より長袖のほうが多い。
地下の食堂からは、今日から始まった秋の定食の匂いが上がってきていた。
きのこの炊き込みご飯らしい。
居室の窓の外では、ロータリーのハナミズキが赤い葉を落とし始めていた。
清掃の人がほうきで植え込みの根元を掃いている。
掃いても少し風が吹くとまた落ちてくる。
ドアが開いて六車さんが入ってきた。
両腕にファイルを抱えている。
今日は黄色が一冊だけだった。
「修くん、お疲れ様です。下半期、初日ですね」
「お疲れ様です。張り紙、ありがとうございました」
「剥がすのちょっと気持ちよかったです」
六車さんは笑って、壁のメーターを見上げた。
「残量、100.0%リセットです。システムの記録もちゃんと合ってました」
「よかったです」
「下半期も、節約してくださいね」
そう言ってから、六車さんは自分で吹き出した。
「四月の初日にも、同じこと言いましたね」
「言いましたね。メモ帳を見せてもらいました」
「修くん、あのとき全部メモしてましたもんね。『節約』って書いて、二重線引いてました」
「重要だと思ったので」
「重要ですよ。今もそれは変わりません」
六車さんは、黄色いファイルを僕の机に置こうとした。
そこで手が止まった。
机の上に届出の用紙がもう二通並んでいたからだ。
定位と遮断。
遮断の欄だけ、署名のところが空いている。
「……もう、涼さんの分まで」
「先輩が来ないと出動できないですからね」
六車さんは届出と僕の顔を交互に見た。
それから、ファイルを届出の横にそっと置いた。
「半年前も、そう言ってましたよ」
「そうでしたか」
「そうでした。私、あのとき『この子、真面目だなあ』って思ったんです」
「今はどう思いますか?」
六車さんは、少しだけ考えるふりをした。
「真面目で、ちょっとだけ鈍い、です」
「鈍い、ですか」
「はい。でも、それは悪いことじゃないので構いません」
何が鈍いのかを聞こうとしたら、六車さんはもうファイルを開いていた。
「今夜の予定票です。南口のコンビニの裏手で、古い看板が夜中に光るそうです」
受付票によると、光っているのはコンビニの看板ではなかった。
裏の駐車場の奥に、前にあった酒屋の袖看板が残っている。
電気はとっくに止まっている。
それなのに、夜になると「酒」の一文字だけが、ぼんやり白く光る。
「Dランクです。店長さんが、昨日窓口に電話をくれました」
「電気が来ていないのに、光るんですね」
「はい。店長さんは『お化けかと思った』って。夜勤のアルバイトの子が怖がって、裏のゴミ出しに行けないそうです」
「それは困りますね」
「困ってました。とても」
六車さんは、真顔でうなずいた。
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六車さんが出ていったあと、僕は勤務の最初に一通だけメールを書いた。
宛先は県庁の東雲さんだ。
件名は「来年度の人事交流の件」
本文は短くした。
お誘いへのお礼と、辞退の旨と理由を一行。
理由には「今の班の手順と、相棒との組み合わせが、自分に一番合っているため」と書いた。
送信してから少しだけ画面を見ていた。
返事は夕方の四時に届いた。
『承知しました。そう返ってくると思っていました。お二人によろしく』
東雲さんらしい、丁寧な文面だった。
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夕方になると、窓の外は早く暗くなった。
西の山に日が隠れると、ロータリーの街灯が端から順番に点いていく。
昼の職員が一人また一人と帰っていき、フロアの蛍光灯が半分消えた。
エアコンはもう冷房ではなく、送風だけになっている。
窓際に立つとガラスが少しひんやりしていた。
六時になっても、先輩は来なかった。
六時三分。
六時五分。
僕は届出の遮断の欄をもう一度見直した。
誤字はない。
見直す理由は、特になかった。
六時八分になるとドアが勢いよく開いた。
「修くん、お疲れー!」
先輩だった。
茶色のセミロングに、少しだけ寝癖がついている。
制服の上にはいつものグレーのパーカー。
片手にコンビニの袋を提げて、もう片方の手にプラカップを二つ持っていた。
腕には、きれいにたたんだ膝掛けを抱えている。
「先輩、遅刻です」
「ごめんごめん。コンビニ、レジに列ができてて」
「下半期の初日です」
「初日だから、ちょっと気合い入れてお化粧してたの」
「気合いを入れるなら、時間に入れてください」
「修くんは厳しいなあ」
先輩は笑って、僕の机に白い報告書フォルダを置いた。
中身は空っぽだ。
「修くん、今日も届出ありがと」
「先輩の分も書いてあります。遮断の欄は空けてあります」
「さすが」
先輩はカップの一つを僕に差し出した。
「はい、ブラック」
「ありがとうございます」
受け取るとまだカップは熱かった。
蓋の飲み口から湯気が細く上がっている。
九月の半ばに初めて湯気が見えた夜があった。
今はもうカップを持つたびに見える。
先輩は膝掛けを抱えたまま、窓際の席のほうへ歩いた。
課長の席だ。
椅子の上に、膝掛けをそっと置く。
角をそろえて、二回なでた。
「返却、完了っ」
「朝まで借りると言っていましたけど」
「朝までっていうか、家まで借りちゃった」
「それは、課長に言っておいたほうがいいと思います」
「言わなくていいよ。洗ってあるし」
先輩はそう言って、膝掛けの上に付箋を一枚貼った。
『ありがとうございました 七星』
付箋の端に、小さな猫の絵が描いてあった。
「その猫は何ですか?」
「お礼の気持ちだよ」
「課長、猫好きなんですか?」
「知らない。でも、嫌いな人いないでしょ?」
先輩は自分の席に戻って、袋の中身を机に出した。
おにぎりが二つと、チョコレートの箱。
それから今日は肉まんが一つ入っていた。
「今日は肉まん、売り始めてたよ。十月だからかな」
「季節ですね」
「半分あげようか」
「さっき、食堂できのこご飯を食べたので」
「えっ、秋の定食始まったの?ずるい」
「今日からでした。きのこの炊き込みご飯です」
「ずるい」
先輩は二回言ってから、肉まんを半分に割った。
半分を、なぜか僕の机に置いた。
「食べられなかったら、夜食にして」
「……ありがとうございます」
湯気の立つ肉まんの半分を、僕はとりあえず紙ナプキンの上に乗せた。
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先輩が遮断の欄を書き足しているあいだに、居室のドアがもう一度開いた。
二宮課長だった。
紺のジャケットを着て、今日は膝掛けを持っていない。
窓際の席まで歩いて、椅子の上の膝掛けと付箋を見た。
課長は付箋の猫をしばらく見ていた。
それから、付箋をはがさずに膝掛けごと肩にかけた。
「……下半期も、よろしく」
課長はそう言って、僕と先輩を見た。
「報告書は、明日中」
「はい」
二人の返事が重なった。
課長はうなずいて、膝掛けを肩にかけたまま席に座った。
目を閉じる。
いつもの課長だった。
ただ、肩の膝掛けの端で、付箋の猫が小さく揺れていた。
先輩が僕のほうに身を乗り出した。
「付箋、はがさなかったね」
「はがしませんでしたね」
「やっぱり猫、好きなのかな?」
「たぶん、はがすのが面倒だっただけです」
「夢がないなあ」
窓際の席から、課長の低い声がした。
「聞こえている」
先輩はあわてて姿勢を戻した。
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帰り支度をしていた六車さんがドアのところで先輩の机を見た。
空っぽの報告書フォルダがそのまま置いてある。
「涼さん。投げないでくださいね」
「投げてないです!」
先輩の返事が居室に響いた。
窓際で課長の肩が少しだけ揺れた気がした。
六車さんはくすっと笑った。
「今夜は家から残量を見ています。動いたらLINEします」
「愛ちゃん、今日は早く寝なよ。昨日も遅かったでしょ」
「涼さんこそ。報告書は明日中ですよ」
六車さんは手を振って帰っていった。
先輩は空のフォルダを開いた。
それから、僕の机をちらっと見た。
「修くん、今夜の報告書の下書きって……」
「もう八割書いてありますよ」
「え」
「現場の状況と、届出の内容と、位置コードは昼に書きました。あとは結果と、先輩の遮断の欄だけです」
先輩は、空のフォルダと僕の顔を交互に見た。
「……私、このフォルダ持ってくる意味ある?」
「あります。清書は先輩の字のほうが課長が読みやすいそうなので」
「それ、褒めてる?」
「六車さんが言っていました。先輩の字は大きいから、課長が眼鏡なしで読めるって」
「やっぱり褒めてないでしょ」
先輩はそう言いながら、少しうれしそうにフォルダを閉じた。
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出動は、九時半にした。
課長は九時前に、膝掛けを肩にかけたまま帰っていった。
承認はいつもどおり電話でもらった。
先輩が二通の届出を読み上げ、課長が「承認した」と答える。
居室で聞くより、電話越しの声のほうが少しだけ眠そうだった。
南口までは歩いて十分だ。
軽バンを出すほどの距離ではない。
裏門を出ると空気が冷たかった。
先輩はパーカーのフードを少しだけ立てた。
僕は出動用のベストの前を閉めた。
南口の通りはまだ人がいた。
居酒屋の前で、仕事帰りの人たちが立ち話をしている。
ラーメン屋の換気扇から、湯気と豚骨の匂いが流れてくる。
駅のほうからは電車が出ていく音が聞こえた。
「十月って、夜の匂い変わるよね」
先輩が言った。
「変わりますか」
「変わるよ。夏は草の匂いで、秋は焼き芋とラーメン」
「ラーメンは、一年中ありますよ」
「秋のラーメンは、秋の匂いなの」
先輩はそう言い切った。
理屈はわからなかったが、言われてみれば、そんな気もした。
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コンビニの明かりが見えてきた。
二十四時間営業の店は、通りの中でもひときわ明るい。
ガラスの内側で店員がおでんの鍋の様子を見ていた。
十月からは肉まんだけでなく、おでんも始まったらしい。
自動ドアが開くと、チャイムが鳴った。
レジの奥から若い店員が顔を出した。
「あ、七星さん。またお疲れ様です」
「お疲れさまー。今日は買い物じゃなくて、お仕事だよ」
「店長から聞いてます。裏の看板ですよね」
店員は、親しげに先輩と話している。
僕は先輩の横顔を見た。
「……常連なんですか?」
「うん。コーヒー買うとこ」
先輩は、当たり前のように言った。
「毎日来てるから、覚えられちゃった」
「毎日ですか?」
「出勤前に毎日。修くんのブラックもここで買ってるよ」
僕は手に持っていたカップを思い出した。
確かに蓋の縁に、この店のロゴが小さく入っていた気がする。
半年間、毎日飲んでいたのに、店の名前まで気にしたことはなかった。
店員が僕を見て笑った。
「ブラックの方ですね。七星さん、いつも二つ買っていくんです。一つはブラックで」
「……そうなんですか」
「そうなんですよ。『相棒の分』って」
先輩が、店員の腕を軽く叩いた。
「余計なこと言わないの」
「すみません」
店員はちっとも悪びれずに、レジに戻っていった。
先輩は僕のほうを見ないまま、裏口のほうへ歩き出した。
「ほら、仕事。看板の方行くよ」
「はい」
僕は先輩の後ろについていった。
耳のあたりが、少しだけ熱い気がした。
店の中が暖かかったからだと思う。
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裏の駐車場は、店の中より暗かった。
奥のブロック塀に、古い袖看板が一枚、斜めに取りつけられたまま残っていた。
縦長の看板で、白地に赤い字で「酒」と書いてある。
字の端は雨と日差しで色が抜けていた。
その「酒」の字だけが、ぼんやりと白く光っていた。
看板の中に電球はない。
配線も途中で切られている。
光は、字そのものから滲み出ていた。
「本当に光ってる」
先輩が少し感心したように言った。
「アルバイトの子が怖がるのも、わかるね」
「夜中に一人でゴミを出しに来て、これが光っていたら怖いと思います」
「修くんでも?」
「僕はまず届出のことを考えると思います」
「それ、怖がってないよね?」
僕は看板の下にしゃがんだ。
字の周りの空気が少しだけざわついている。
何十年も同じ場所で光り続けた看板には、灯りの記憶のようなものが残る。
店がなくなって電気が止まっても、その記憶だけが浮いてしまうことがある。
在るべき状態は消灯だ。
もう、灯らなくていい看板だ。
「先輩、字の周りの流れだけ切ってもらえますか」
「了解。字だけね」
先輩の指が、短く振られた。
看板の周りの空気が、すっと静かになった。
僕は看板に手のひらを向けた。
定位術を通す。
浮いていた灯りの記憶を、看板の中のもう使われない場所に戻す。
「酒」の字が、一度だけ明るく光った。
それから、ゆっくりと暗くなった。
駐車場は普通の十月の夜に戻った。
看板はただの古い看板になった。
僕は測定アプリを起動した。
基準の範囲内だった。
先輩が腕時計を見た。
「三分で終わった」
「三分ちょうどですか?」
「三分と、ちょっと」
「ちょっとは、何秒ですか?」
「報告書には、三分って書いといて」
「正確に書きますから教えてください」
先輩は笑った。
裏口から店員が顔を出した。
「終わりました?」
「終わったよ。もう光らないと思う」
「助かりました。夜勤の子に言っておきます」
「看板の撤去は、店長さんから大家さんに相談してもらってね。今夜のは、魔法の残りだから。電気の故障じゃないよ」
先輩は住民と話すときの少し低い声で言った。
店員は何度も頭を下げた。
帰りぎわに店員がレジの横から小さな袋を差し出した。
「これ、店長からです。おでんの大根。お二人で食べてください」
「え、いいの?」
「いつも買ってもらってるので」
先輩は、袋を受け取って僕を見た。
「……業務中の受け取りって、だめなやつ?」
「市の規程では、社会通念上の範囲の手土産は、受け取りを断ると失礼になる場合は受け取ってもいい、となっています。報告書の備考に書きます」
「書くんだ」
「書きます」
店員が、笑いをこらえていた。
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市役所に戻ると、居室はしんとしていた。
エアコンの送風の音だけが、低く鳴っている。
課長の席には、もう誰もいない。
付箋の猫は、課長の肩に乗ったまま帰ったらしい。
僕は報告書を開いて結果の欄を書いた。
主担当はいつもどおり僕だ。
先輩は隣の机で、遮断の欄を清書している。
三行進むごとに手が止まり、おでんの大根を一口食べる。
「修くん、大根冷めるよ?」
「報告書が終わったら食べます」
「冷めたら、おいしくないよ?」
「……一口だけ、いただきます」
大根は出汁がよくしみていた。
十月の夜の味がした。
先輩の言う、秋の匂いの意味が少しだけわかった気がした。
スマホが震えた。
『残量99.2%です。いいスタートです』
六車さんからだった。
すぐに、もう一通届いた。
『おでん、報告書の備考に書いてくださいね』
「……なんで知ってるの?」
先輩が画面を覗き込んで言った。
「コンビニの店長さんが、窓口に電話してくれたのかもしれません」
「こんな時間に?」
「六車さんは、残量以外も見ているので」
先輩は少しだけ身震いするふりをした。
「愛ちゃん、やっぱり怖い」
0.8ポイント。
百から引けば、99.2だ。
下半期はここから始まる。
針はまだ緑のいちばん端に近く、蛍光灯の下でまっすぐ立っていた。
報告書の最後の行に、99.2%と書いた。
備考欄には、「店舗より大根二個の提供あり。辞退が失礼にあたるため受領」と書き添えた。
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報告書を片づけて、午前一時に二人で打刻し、裏門を出た。
守衛さんが窓口から手を上げた。
「お疲れさん。下半期もよろしくな」
「よろしくお願いします」
裏門の自動販売機の前は、蛍光灯の明かりだけが白かった。
八月の夜は明かりに小さな虫がたくさん集まっていた。
今夜は一匹もいない。
古いベンチの座面が、夜露でうっすら湿っていた。
先輩が自動販売機のボタンを二回押した。
缶の落ちる音が二つ続いた。
「はい、ブラック。寒いからホットだよ」
「ありがとうございます」
受け取ろうとしたとき、先輩の指と、僕の指が少しだけ触れた。
先輩の指は、冷たかった。
「先輩、手、冷たいですね」
「さっき、遮断したから」
「三分だけです」
「三分でも、冷えるの」
先輩はそう言って、自分のカフェオレの缶を両手で包んだ。
僕は缶を開けた。
白い湯気が、夜の空気の中に立ちのぼった。
すぐには消えずに、蛍光灯の光の中でゆっくり広がっていく。
八月の夜には湯気なんて見えなかった。
今は見えるのが当たり前になった。
先輩も自分の缶を開けた。
甘い匂いが、少しだけ混じった。
二人で並んで立った。
影見橋のほうから、川の風が流れてきた。
八月よりずっと冷たい。
風の中にどこかの家の金木犀の匂いが、ほんの少しだけ混じっていた。
「修くん」
「はい」
先輩は缶を両手で包んだまま、自動販売機の明かりのほうを見ていた。
僕のほうは、見なかった。
「……いつか、夜勤じゃない日も、コーヒー飲もうか」
僕は、少し考えた。
夜勤じゃない日。
昼間に、先輩とコーヒーを飲む。
居室ではない場所で。
「打ち合わせですか?」
先輩は答えなかった。
缶を握る指に、少しだけ力が入ったように見えた。
「……届出、いります?」
先輩はしばらく黙っていた。
それから、肩を小さく震わせた。
笑っていた。
「……ばか」
先輩は缶に口をつけて、少しだけ飲んだ。
「いらないよ、届出は」
「そうですか」
「まあ、夜勤は長いから」
先輩はそう言って、ようやく僕のほうを見た。
蛍光灯の明かりの下で、先輩の頬が少しだけ赤かった。
夜風が冷たいからだと思う。
夜勤は長い。
下半期はまだ始まったばかりだ。
その先にも、たぶん来年度の上半期がある。
僕は、手の中の缶を握り直した。
「はい。次の夜勤も一緒ですね、先輩」
先輩は少しだけ目を見開いた。
それから、缶を口元に当てたまま、小さくうなずいた。
「……うん」
それだけだった。
けれど、その「うん」は、いつもの返事より少しだけ長かった気がした。
先輩は、残りのカフェオレを飲み干した。
空き缶をゴミ箱に入れて、自転車のスタンドを蹴る。
「明日も六時ね」
「六時です」
「六時五分」
「六時です」
「じゃあ、六時三分で」
交渉になっていない。
四月から、ずっと同じだ。
先輩は自転車を押して裏門を出ていった。
途中で一度だけ振り返った。
手を振る代わりに、自分の手をもう片方の手で包むしぐさをした。
冷たい、と言いたかったのかもしれない。
僕は、手を振り返した。
パーカーのフードが、街灯の下を一つずつ通り過ぎて、影見橋のほうへ消えていった。
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僕はベンチに座って、残りのコーヒーを飲んだ。
苦かった。
夜の終わりには、それくらいがちょうどいい。
先輩の言葉の意味は、まだよくわからない。
夜勤じゃない日のコーヒーは、打ち合わせではないらしい。
届出もいらないらしい。
それなら一体、何なのだろう。
考えているうちに、缶が少しずつぬるくなっていった。
指先に、さっき触れた先輩の手の冷たさがまだ少しだけ残っている。
わからないことは、わからないままでいい。
届出に書けないことは、書かなくていい。
それくらいは、この半年でわかるようになった。
でも、次の夜勤が楽しみだ。
それだけは、確かだった。
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翌日の夕方、六時前。
居室のドアの前で、六車さんが帰り支度をしていた。
鞄にファイルを一冊ずつしまっている。
そこへ廊下から足音が近づいてきた。
自転車のヘルメットを手に持った先輩だった。
時計は、五時五十八分を指していた。
「涼さん。今日は早いですね」
「昨日は遅刻したからね。お詫びだよ」
先輩は、二つのプラカップを持っていた。
一つはブラックで、一つはラテだ。
僕はまだ居室の奥の机にいた。
ドアの外の声は、よく聞こえた。
六車さんは鞄を閉じる手を止めた。
それから、廊下の先輩にだけ聞こえるくらいの声で言った。
「涼さん」
「なに?」
「……いつになるんですか?」
先輩は、カップを持ったまま止まった。
「何が?」
六車さんは少しのあいだ先輩を見ていた。
それから、小さく首を振った。
「……いえ、なんでもないです」
「なにそれ」
「なんでもないです。お疲れ様でした」
六車さんは鞄を肩にかけて帰っていった。
すれ違いざま、僕に向かって小さく会釈した。
その顔が、少しだけ笑っていた。
先輩が居室に入ってきた。
「修くん、お疲れー。はい、ブラック」
「ありがとうございます。今日は、時間どおりですね」
「でしょ」
「六車さんと、何を話していたんですか」
先輩は自分のラテを机に置いた。
それから僕の届出を覗き込んだ。
「なんでもないって」
「そうですか」
「そうなの。……あ、遮断の欄、また空けてくれてる」
「先輩が来ないと、出動できないので」
先輩は少しだけ笑った。
いつもより、やわらかい笑い方だった。
「知ってる」
僕はカップの蓋を開けた。
湯気が、ゆっくりと立ちのぼった。
壁のメーターは、緑だった。
窓の外でロータリーの街灯が端から順番に点いていく。
今夜も、夜勤が始まる。




