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魔法公務員の仕事  作者: 椎名弥生


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8/12

8. 棚が倒れる前に

森下さんのお宅の件から、二日が経った。


あの夜の次の日の夕方、僕と先輩はもう一度坂の上へ向かった。

家族同意書の写しは、朝一番で六車さんの窓口に届いていた。

回復の術をかけるのは、市立病院から来てくれた魔法療法士の先生だ。

僕は定位で足首の出口を押さえ、先生が回復を通すあいだ漏れが散らないように支えた。

先輩は玄関で、太郎さんと並んで待っていた。


術が終わると、キミエさんは杖を使わずに立ち上がった。

二、三歩だけ畳の上を歩き、太郎さんの腕につかまって笑った。


「歩けるわ。ほら、太郎」


「わかったから、座って」


太郎さんはそう言いながら、母親の腕を離さなかった。


翌朝、報告書を読んだ六車さんは、同意書の写しに付箋を一枚貼った。

「完了」と書いてある。

その下に、少し小さな字で「日曜、太郎さん宅へ」と書き足してあった。


「キミエさん、朝に電話をくれたんです。日曜にお孫さんの顔を見に行くそうです」


六車さんは、そう言ってうれしそうに付箋を指で押さえた。


この二日間は、ほかに一件だけ出動があった。

公民館の倉庫で、市民祭用の古い提灯が夜中にひとりで揺れる件だ。

Dランクで、定位だけで済んだ。

それでも針は下がった。

回復の支えと提灯の分で、メーターは20%の目盛りのすぐ上まで来ている。


---


九月十八日、金曜日の五時前。


窓の外では、市民祭の幟がロータリーの柵に一本ずつ結びつけられていた。

赤と白の布が、風を受けて同じ方向にはためいている。

本番は来週の土日だ。

昼休みに通りかかった職員が、出店の案内を見上げて何か話していた。


居室の僕の机の横に、緑のファイルが積み上がっていた。

保管庫関係の色だ。

いちばん上のファイルは角が少し潰れている。


六車さんがそのファイルの山の前に立った。


「修くん、今夜の予定票です。今回は緑です」


「……保管庫?」


「はい。市立第3保管庫です。今夜は怪異の出動じゃありませんよ。棚の整理です」


六車さんはタブレットを僕に向けた。

画面に写っているのは、天井まで届く金属の棚だった。

上のほうが、わずかに右へ傾いている。

いちばん上の段では、ラベルの剥がれかけた箱が縁から半分はみ出していた。


「3列目です。今朝の月次点検で見つけました。床との角度が、二度狂ってます」


「二度ですか」


「見ただけだとわからないくらいですけど、分度器を当てたら二度でした」


六車さんは、真顔で分度器を当てる仕草をしてみせた。

本当に当てたのだろう。


「原因は二つあります」


六車さんは指を一本立てた。


「一つは、単純に詰め込みすぎです。返却待ちも廃棄待ちも書類待ちも、とりあえず3列目に置いてしまうんです。入口から一番近いのも原因ですね」


二本目の指が立った。


「もう一つは、月次処理が一回飛んだことです。私が休んだ週の分です」


「ああ、夏休みの」


「はい。窓口は課長が受けてくれましたけど、保管庫の中までは誰も触れませんでした。その週に入った物が、そのまま上に積まれてました」


六車さんは、少しだけ肩を落とした。


「休みを取ったこと自体は、後悔してないです。でも棚は正直ですね」


「棚は休めませんからね」


「そうなんです」


六車さんは小さく笑ってから、タブレットの画面を拡大した。

棚の中段に、透明な袋と小さな木箱が並んで写っている。


「それと、ここ。干渉も起きてるみたいなんです」


袋には、試験用の練習チケットが一枚入っていた。

裏門の自動販売機から回収した、先輩のものだ。

その隣の木箱は、かみまちの夏祭りの前に回収した狐火の芯だった。


「どちらも、まだ少し魔力が残ってます。一つずつなら問題ないんですけど、隣に並べると、残った魔力どうしが引っ張り合うんです。それで箱が重くなったり、棚全体がざわついたりする。重心がずれたのは、そのせいもあると思います」


「ひょっとして、これはうちの……」


「うちの班の回収物です」


六車さんは、きっぱり言った。


「今夜は干渉している物の分離と移動、それから棚の固定です。封印も回復もありません。Dランク扱いです」


「移動と固定だけで済ませます」


「お願いします」


六車さんはメーターを見上げた。

針は黄色のいちばん下で、20%の目盛りに触れそうなところを震えていた。


「残量、20.4%です。九月の終わりまで、あと十二日あります」


「十二日で20%なら大丈夫ですね」


「実は、今日はもう一つお伝えしておかないといけないことがあります」


六車さんは、ファイルの山から一枚だけ紙を抜いた。

課内の通知文だった。

いちばん上に「魔力配分の運用について」と印字されている。


「今期の出動停止ラインは15%です。残量が15%を下回ったら、通常の届出では出動できなくなります。そこから先は、課長の専決承認が必要です」


「専決?」


「課長が一件ずつ、自分の責任で判断するということです。毎年、九月の終わりにだいたいこの話になるんですけど」


六車さんは、通知文の端を指でそろえた。


「今年は、少し早いです」


僕はメーターをもう一度見た。

20.4%から15%まで、5.4ポイントしかない。

今夜のような整理なら、たぶん一回の出動で一、二ポイントで済む。

けれど、Cランクが一件来たら、それだけで大きく持っていかれる。


「なので今夜は、遮断も定位もできるだけ控えめにお願いします。私は今日は帰りますけど、家から課の端末で残量を見てます。減り方が早かったら連絡します」


「ということは、僕と先輩の二人ですか?」


「はい。棚の整理は修くんと涼さんの二人でお願いします。課長は電話待機です」


六車さんは緑のファイルを僕の机に置いた。

中には作業の手順書と保管庫の平面図が挟まっていた。

3列目の位置に、赤いペンで丸がつけてある。

手順書の最後には、小さく「無理はしないでください」と書いてあった。


---


夕方六時五分、居室のドアが開いた。


「お疲れー。ごめんごめん、五分遅れたね」


「今日もタイヤですか?」


「今日は鍵。自転車の鍵、家に置いてきちゃって。一回取りに戻ったんだ」


「それは、来る前に気づくものじゃないですか?」


「駐輪場で気づいたの。だから五分で済んだんだよ」


先輩はパーカーを椅子の背にかけて、僕の机の平面図を覗き込んだ。


「保管庫?」


「はい。3列目の棚が傾いているので、整理と固定です」


「愛ちゃんは?」


「今日は帰りました。残量は家から課の端末で見てくれるそうです。課長は電話待機です」


「じゃあ、今夜は二人だけ?」


「二人だけです」


先輩は少しのあいだ、平面図の赤い丸を見ていた。


「……そっか。まあいけるでしょ」


先輩はコンビニの袋を机に置いた。

中からおにぎりが二つ出てくる。

今日はツナマヨと昆布だった。


「先輩、最近昆布を買うようになりましたね」


「この前の三人分のとき、余ったやつを食べたらおいしかったの」


「あれ、僕が食べましたけど」


「半分もらったでしょ」


「……もらわれましたね」


先輩は笑って、ツナマヨの包装を剥がした。

それから平面図の写真を指さした。


「これ、何が乗ってるの?」


「干渉しているのは、狐火の芯と試験用の練習チケットです」


先輩の手が止まった。


「……私のチケット?」


「先輩のチケットです。廃棄待ちのまま狐火の芯の隣の段にあったそうです」


「まだ処分されてなかったんだ」


「月次処理が一回飛んだので」


先輩はツナマヨを一口かじって、しばらく噛んでいた。


「愛ちゃん、何か言ってた?」


「『うちの班の回収物です』と、はっきり言ってました」


「だよね」


先輩は天井を見上げた。


「あのチケット、裏門で鳴って、今度は棚で暴れて。どれだけ私に迷惑かけるんだろ」


「チケットは、先輩に置いていかれただけだと思います」


「修くん、どっちの味方なの?」


「手順の味方です」


先輩は「はいはい」と言って、昆布のおにぎりを僕のほうへ押しやった。


僕は届出を二通書いた。

定位術の欄には、3列目の棚の傾きを床に垂直な状態へ固定する文面を書く。

遮断術の欄には、干渉している回収物のあいだの魔力の流れを、移動のあいだだけ切る文面を入れた。

回復と封印の欄は空けておく。

位置コードは保管庫の施設番号だ。

台帳と平面図の数字を照合して、先輩にも二次確認欄に書いてもらった。


課長への電話は、先輩がかけた。


「七星です。第3保管庫の棚の整理です。届出二通。定位と遮断。移動と固定だけです」


位置コードを一桁ずつ読み上げる。

電話の向こうで、紙をめくる音が一度だけした。


『承認した。定位は五十嵐、遮断は七星。報告書、明日中』


それで切れるかと思ったら、もう一言続いた。


『……3列目は重い。気をつけろ』


電話が切れた。

先輩は受話器を置いて、首をかしげた。


「課長って保管庫の中、知ってるのかな」


「昔からある棚らしいので、知っていても不思議じゃないです」


「でも、課長が棚を運んでるところ、想像できない」


「僕もです」


出動は九時にした。

第3保管庫は、旧市立図書館の地下にある。

正面の入口は閉鎖されていて、裏手の業務用入口から入る。

鍵は、六車さんが昼のうちに僕の机の引き出しに入れてくれていた。

鍵には、緑のタグがついていた。


---


旧図書館は、市役所から軽バンで五分ほどの場所にある。


新しい図書館が駅前にできてから、建物は書庫と保管庫だけに使われている。

外壁の白い塗装はところどころ剥げていて、一階の窓には内側から板が打ちつけてあった。

正面の階段の脇に、昔の開館時間を書いた看板が残っている。

文字はほとんど消えかけていた。


建物の裏に回ると、業務用入口の上に小さな電球が一つだけ点いていた。

蛾が二匹、その周りを回っている。

隣の公民館の窓には明かりがついていて、市民祭の準備をしている人たちの笑い声が、ときどき風に乗って聞こえてきた。


鍵を差し込んで回すと、重たい音がした。

鉄の扉を押すと、冷たい空気が内側から流れ出てきた。

古い紙の匂いがした。

インクと糊と、長いあいだ閉め切られた部屋の、ほこりっぽい匂いだ。


先輩が壁のスイッチを探した。

天井の蛍光灯が、二度ほどまたたいてから点いた。


「ここ、夜に来るの初めてだ」


「僕もです。昼に一度、六車さんの棚卸しを手伝ったきりです」


「昼でも暗そうだね」


「暗かったです」


廊下の突き当たりに、地下へ下りる階段があった。

壁の案内板には、かすれた字で「第3保管庫」と書いてある。

階段を下りるにつれて、空気がさらにひんやりしていった。


地下の部屋は、思っていたより広かった。

天井は低く、金属の棚が六列、奥まで並んでいる。

通路の真ん中に、六車さんの作業机が一つ置いてあった。

机の上には色分けされたラベルのシートと油性ペンが三本。

それから、のど飴の袋が一つ。


ラベルの見本が、机の端にテープで貼ってあった。

黄色は廃棄待ち。

青は返却待ち。

赤は書類待ち。

緑は班の備品。

どの色にも六車さんの字で小さく説明が書き添えてある。


「愛ちゃん、ここで一人で作業してるんだね」


先輩が、のど飴の袋を見ながら言った。


「月次処理のときは、だいたい一人みたいですね。昼の窓口が終わってから来るそうです」


「知らなかったなあ」


先輩は机の上のペンを一本、きちんとそろえ直した。


---


3列目は、入口から一番近い列だった。


近くで見ると傾きははっきりわかった。

棚の上の端が右隣の4列目のほうへ少しだけ寄っている。

上から三段目あたりまで箱がぎっしり詰まり、いちばん上の段は箱が二重に積まれていた。


「……これは、ひどいね」


「六車さんが分度器を当てた理由がわかりました」


棚の前に立つと、肌の表面がかすかにざわついた。

定位術を使わなくてもわかる。

何かと何かが、棚の中で引っ張り合っている。


中段に透明な封印袋があった。

中には半透明の細長い紙片。

黄色いラベルに「試験用魔力チケット 廃棄待ち」とある。

そのすぐ右隣に手のひらほどの木箱が並んでいた。

ラベルには「狐火の芯 かみまち 廃棄待ち」。

二つの境目のあたりが、ほんの少しだけ青く光って見えた。


「これ、うちのだ」


先輩が言った。


「うちのですね」


僕も言った。

二人で、なんとなく苦笑した。


「こうして並んでると、夏の思い出の棚みたい」


「思い出なら、もう少し静かにしていてほしいです」


六車さんの手順書を開いた。

作業は三段階に分かれている。

最初に、干渉している二つを別々の列へ離す。

次に、上の段の箱を床へ下ろして、棚の重さを減らす。

最後に傾いた棚を定位で固定する。

手順書の余白には、「芯とチケットは、絶対に同じ列に戻さないこと」と赤字で書いてあった。


「先に、チケットと芯を離します。先輩、二つのあいだの流れを切ってもらえますか。運んでいるあいだだけでいいです」


「了解。チケットは私が持つね。自分のだし」


「お願いします」


先輩は透明な袋の前に立ち、右手を軽く上げた。

袋と木箱のあいだにあった青い光が、すっと消えた。

肌のざわつきも、半分くらいになった。


先輩が袋を持ち上げた。

僕は木箱を両手で抱えた。

小さい箱なのに見た目よりずっと重かった。

干渉が切れても、芯そのものに残った魔力の重さはある。


チケットは5列目の黄色の段へ。

狐火の芯は、反対側の1列目の黄色の段へ。

二つのあいだに、棚が三列はさまる位置だ。

置いた瞬間、3列目のほうからきしむような小さな音がした。

棚が少しだけ息をついたように聞こえた。


「軽くなった気がする」


「引っ張り合いがなくなったので」


先輩は5列目の前で、袋に貼られたラベルを指でなぞった。


「ごめんね。今度こそちゃんと処分してもらいな」


「なんでチケットに話しかけてるんですか」


「元の持ち主としてのけじめだよ」


---


次は、上の段の箱を下ろす作業だった。


脚立を3列目の前に立てる。

先輩が上に登り、僕が下で受け取る。

先輩が箱を持ち上げる前に、箱と棚のあいだの流れを遮断で切る。

切れているあいだに僕が受け取って、床の空いた場所に置く。

置き終わったら、先輩が遮断を解く。


最初の何箱かは、いちいち声をかけていた。


「切ったよ」


「受けます」


「解くね」


「はい」


十箱を過ぎたころから、声が減った。

先輩が箱に手をかけると、僕は手を上げる。

箱が下りてくると、先輩の遮断がちょうど切れる。

床に置いて振り返ると、先輩はもう次の箱に手を伸ばしている。


許可切れのお守りがまとめて入った箱には、黄色のラベルが二枚重ねて貼ってあった。

一枚目の日付は去年の十二月で、二枚目は今年の六月だった。

返却待ちの封印箱には、「中身確認済」と六車さんの字で書いてある。

その隣の書類待ちの箱には、赤いラベルに「同意書待ち」とあった。

どの箱にも誰かの夜の出動が一つずつ入っている。

班の報告書を書いたのは僕たちだけれど、そのあとの箱を片づけてきたのは六車さんだった。


二十分ほどたったころ、ポケットのスマホが震えた。

六車さんからのLINEだった。


『残量、19.5%です。遮断、控えめに』


「愛ちゃん、見てるね」


脚立の上から、先輩が言った。


「家でも見てるんですね」


「たぶん、テレビつけたまま端末の画面見てるよ。愛ちゃん、そういうとこ真面目だから」


僕は短く返信した。


『控えめに使っています。上の段は、あと半分です』


すぐに既読がついた。

返事の代わりに、ペンギンが頭を下げているスタンプが送られてきた。


作業を続けるうちに、汗が額ににじんできた。

地下の空気は冷たいのに、体だけが熱い。

先輩もパーカーの袖をまくり上げていた。

脚立の上で前髪を手の甲で払うたびに、蛍光灯の光が髪に当たって茶色く見えた。


「修くん、喉かわかない?」


「かわきました」


「愛ちゃんののど飴、一個ずつもらっちゃおうか」


「勝手にですか」


「あとで言う」


先輩は脚立を下りて、作業机の袋から飴を二つ取り出した。

一つを僕の手のひらに乗せる。

はちみつレモン味だった。


「明日、六車さんに言ってくださいね」


「言う言う。届出、いる?」


「飴は、いりません」


先輩は笑って、飴を口に入れた。

それからまた脚立に登っていった。


---


十一時を過ぎたころ、上の段がようやく空になった。


床には、下ろした箱が通路に沿って並んでいた。

棚の上半分は、骨組みが見えるくらい空いている。

残っているのは、中段から下の箱だけだ。


いよいよ棚の固定に入る。

僕は3列目の脚の前に膝をついて、手のひらを金属の脚に当てた。

冷たい。

その冷たさの奥に、わずかなねじれを感じた。


在るべき状態は、床に垂直に立っている状態だ。

今は上が右に二度ほど傾いている。

重い物を下ろしたので、棚にかかる力は小さくなっている。

これなら、術の量は少なくて済む。


定位術を通した。


金属が小さくきしんだ。

棚の上の端が、ゆっくりと左へ戻っていく。

4列目のほうへ寄っていた影が、少しずつ離れていった。

脚の下で、床との接点がしっかり噛み合う感触があった。


「固定できました」


「助かったー」


先輩は脚立の上で、大きく伸びをした。

それから、中段に残っていた最後の箱に手を伸ばした。

青いラベルの使い魔用のケースだ。

返却待ちの使い魔を一時的に入れておくためのもので、今は空になっている。

南口の路地で迷子のポチを保護した夜、最後の一つだと六車さんが言っていたケースだった。


「これだけ青の列に移しとこうか。使うときに取りやすいように」


「お願いします」


先輩がケースを持ち上げた。

その瞬間だった。


棚の奥で、何かが鳴った。

低く、うなるような音だった。


ケースの置いてあった場所の奥に、小さな金属の箱が一つ隠れていた。

ラベルはない。

古い封印のテープだけが巻いてある。

ケースに押さえられていた箱が、急に自由になって震え出していた。


棚全体が、ぎしりと鳴った。

さっき固定したはずの脚が、床の上でわずかに滑る。

上の空いた段が、先輩のいる脚立のほうへ傾いた。


「修くん、下がって!」


先輩が叫んだ。

ケースを抱えたまま、片手で棚の縁を押さえている。

脚立がぐらりと揺れた。


「先輩が下がってください」


僕は脚から手を離さなかった。


「定位の届出は僕です。先輩、そのまま箱の流れを切ってください。棚は僕が止めます」


「でも」


「切ってください」


先輩は唇を噛んで、片手を金属の箱に向けた。

遮断が通る。

箱の震えが、半分ほどに弱まった。


僕は脚にもう一度定位を通した。

今度は棚全体ではなく、床との接点を四つの脚の一点ずつに固定する。

在るべき場所は、床のこの位置。

ほかのどこでもない。


脚の滑りが止まった。

けれど、上の段はまだ先輩のほうへ傾いたままだった。

先輩が両手で棚の縁を押し返す。

ケースが、脚立の上から落ちかけた。


僕は立ち上がって、片手でケースを受け止めた。

もう片方の手は、棚の脚に当てたままだ。

先輩の肩が、僕の肩にぶつかった。

パーカーの袖が、僕の腕をこすった。

すぐ近くで、先輩の息が聞こえた。


定位を、もう一段だけ強めた。

棚の上の端が、ゆっくり垂直に戻っていく。

きしみが、小さくなっていく。

最後に一度だけ、かちんと何かがはまるような音がした。


棚は、もう動かなかった。


奥の金属の箱も、先輩の遮断で静かになっていた。


しばらく、二人とも動けなかった。

僕の肩と先輩の肩は、まだ触れたままだった。


「……止まった?」


先輩がかすれた声で聞いた。


「止まりました」


先輩はゆっくり棚の縁から手を離した。

僕もケースを床に下ろした。

手のひらが少し震えていた。

脚立の上の先輩の手も、まだ震えていた。


ポケットのスマホが震えた。


『残量、18.6%です』


画面を見せると、先輩は脚立の上で天井を仰いだ。

僕も同じタイミングで息を吐いた。

地下の通路にため息が二つ重なった。


すぐにもう一通、届いた。


『何かありましたか?』


僕は少し考えてから返信した。


『棚の奥に、ラベルのない箱がありました。今は止まっています。明日、報告します』


既読がつくまで、少し時間がかかった。


『無事ならいいです。その箱、たぶん私も知らないやつです』


---


ラベルのない金属の箱は、先輩が遮断をかけたまま、空いた赤の列へ移した。

赤は書類待ちの色だ。

中身がわかるまで、触らないでおくことにした。

僕は六車さんのラベルシートから赤いラベルを一枚もらい、「中身不明 要確認 9/18」と書いて貼った。


それから床に下ろした箱を一つずつ、色ごとに正しい列へ戻していった。

廃棄待ちは黄色の列へ。

返却待ちは青の列へ。

空になった使い魔用のケースは、青の列のいちばん手前の段に置いた。

次に迷子の使い魔が来たら、すぐに取り出せる場所だ。


3列目には半分だけ箱を戻した。

六車さんの手順書に「3列目は半分まで」と書いてあったからだ。

空いた上の段には、何も置かなかった。


作業が終わったのは、零時を少し過ぎたころだった。


僕はタブレットで使用報告書を書いた。

定位術、棚の傾きの固定と、脚の接点の固定。

遮断術、回収物のあいだの干渉の切断と、ラベルのない箱の一時遮断。

先輩はスマホで現場の写真を撮っていた。

魔法での撮影は禁止なので、いつもどおりスマホのカメラだ。

蛍光灯の下でも、三枚のうち一枚はぶれた。


「もう一枚撮っとく」


「お願いします」


四枚目は、まっすぐ立った3列目がきれいに写っていた。


---


最後に作業机のまわりを片づけて、階段の下まで来た。


先に階段に足をかけようとしたとき、先輩が僕を呼んだ。


「修くん」


「はい」


「ちょっと、こっち向いて」


振り返ると、先輩がパーカーの袖を指先まで引っ張っていた。


「おでこ。汗、すごいよ」


僕が袖で拭おうとするより先に、先輩の手が伸びてきた。

パーカーの袖口が、僕の額の横をそっと押さえた。

布のやわらかさと、その奥にある指の温かさが、一瞬だけ伝わってきた。


「……先輩」


声が、思ったより小さく出た。


先輩は、はっとしたように手を引っ込めた。


「え、ごめん。汗、ついてたから」


「いえ」


僕は額に手を当てた。

もう汗は残っていなかった。


「……ありがとうございます」


先輩は「うん」とだけ言って、袖をまくり直した。

蛍光灯の下で、先輩の耳が少し赤く見えた。

階段の上から入ってくる夜気が、地下の空気より冷たかったからかもしれない。


胸のあたりが、少しざわついていた。

さっき棚が傾いたときとは違う。

もっと静かで、理由のわからないざわつきだった。


先輩は優しい人だ。

夜勤のあとに、いつもコーヒーを買ってくれる。

報告書の下書きのお礼も、毎回ちゃんと言ってくれる。

汗を拭いてくれたのも、たぶんその延長だ。

後輩が汗だくで階段を上がろうとしていたら、きっと誰にでもそうする。


そう考えると、ざわつきは少しだけおさまった。


「先、上がって。電気消すから」


「お願いします」


僕は階段を上がった。

一段上がるごとに、紙の匂いが薄くなっていく。

後ろで、スイッチの切れる音がした。


暗くなった地下から、先輩の声が小さく聞こえた気がした。


「……言えないよ、こんなの」


僕は階段の途中で足を止めた。

振り返っても、暗くて先輩の顔は見えなかった。


「先輩、何か言いましたか?」


「なんでもない。足元、気をつけてね」


先輩の足音が、階段を上がってきた。

いつもと同じ速さだった。


僕はそれ以上聞かなかった。

聞いても、たぶん届出に書けるような答えは返ってこない気がした。


---


業務用入口の外は、すっかり夜の空気になっていた。


隣の公民館の明かりは消えていた。

市民祭の準備の人たちは、もう帰ったらしい。

入口の上の電球の周りには、蛾がまだ一匹だけ残っていた。


鍵をかけて、軽バンに乗った。

今夜は先輩が助手席で、僕が運転席だ。

先輩は、帰りは運転したくないと言った。

腕が疲れたらしい。


市役所までの道は、信号がほとんど黄色の点滅になっていた。

街灯の光が、フロントガラスを一定の間隔で通り過ぎる。

そのたびに、助手席の先輩の横顔が明るくなって、また暗くなる。


先輩は、膝の上で報告書の下書きを読んでいた。


「今夜、うまくいったね」


「棚が倒れなかったので」


「それもあるけど」


先輩は下書きから顔を上げなかった。


「修くん、下がらなかったでしょ。私が下がってって言ったのに」


「定位の届出は僕のでしたからね。先輩がケースを持っていたから、先に脚を固定したほうが早いと思いました」


「理由がちゃんとあるんだよね、修くんは」


「ないと、届出に書けないので」


先輩は、ふっと笑った。


「うん。そうだね」


それから、少し間を置いた。


「うまくいった」


「はい。うまくいきました」


僕はうなずいた。

胸のざわつきも、班の夜勤のあとだから出たものなのだろう。

棚が倒れかけたあとで、まだ体がどこか緊張しているのかもしれない。

そう思うと、少し落ち着いた。


先輩は窓の外を見ていた。

それきり、市役所に着くまで何も言わなかった。


---


市役所に戻ったのは、一時を少し過ぎたころだった。


居室の明かりは消えていた。

六車さんの机の上に、保管庫の鍵と報告書の控えを置いた。

控えの一番上に、メモを一枚添えておいた。


「3列目、固定済み。上半分は空けてあります。赤の列に、ラベルのない金属の箱を一つ移しました。中身不明です。のど飴を二つもらいました。七星・五十嵐」


先輩がメモを覗き込んで言った。


「のど飴のことも書くんだ」


「明日言うと言っていたので。言い忘れないように」


「……修くんらしい」


壁のメーターを見上げた。

針は18.6%を指して、静かに止まっていた。

出動停止ラインの15%まで、あと3.6ポイント。


九月の終わりまで、あと十二日。


今夜は、棚が倒れる前に止められた。

それだけで十分だった。

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