7. 取れない同意書
東雲さんの視察から、二週間が経った。
六車さんの夏休みは無事に終わった。
木曜と金曜の二日間は課長が窓口を受けたが、届出の差し戻しは一件もなかった。
月曜の朝、カレンダーの赤い丸を見ながら六車さんは「奇跡です」と言った。
課長がどんな顔で窓口に座っていたのかは、誰も見ていない。
九月も半ばを過ぎ、市民祭の準備が本格的になってきた。
ロータリーの案内板には、出店の名前が毎日一枚ずつ増えていく。
焼きそば、りんご飴、地元の高校の吹奏楽部。
昼間はまだ半袖の職員が多いが、朝夕は上着を持って出勤する人が目立つようになった。
裏門の自動販売機では、ホットと冷たい缶の売れ方がちょうど半分ずつになったと古田さんが言っていた。
この二週間も夜勤は続いていた。
駅前の案内板が夜中だけ裏返る件。
公民館の倉庫で、封印箱の蓋がひとりでに開く件。
廃線跡の入り口で、古い踏切の遮断機が一度だけ下りる件。
どれも小さな出動で、報告書は一枚ずつで済んだ。
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九月十六日、水曜日の五時前。
居室には僕しかいなかった。
先輩は夜勤の日、四時半から南口を回って、たいてい六時を少し過ぎてから居室に来る。
窓の外では市民祭の幟を運ぶ軽トラックがロータリーをゆっくり回っていた。
六車さんが入ってきた。
手には赤いファイルを抱えている。
消防経由の案件の色だ。
「修くん、今夜の予定票です。今回は赤です」
「消防からですか」
「はい。でも火事じゃありません。救急のほうです」
六車さんはファイルを僕の机に置き、表紙を開いた。
救急隊の活動記録のコピーが挟まっている。
「南口の坂の上の、森下さんのお宅です。回復系で、Cランクです」
記録を読んだ。
森下キミエさん、八十二歳。
三日前の夕方、家の前の石段で転倒。
左足首の打撲で病院に搬送され、骨に異常はなく、湿布と安静で帰宅。
ところが夜になると痛みが強くなる。
昼間はそれほどでもないのに、日が沈むとずきずきして眠れない。
病院で再検査をしても原因がわからず、医師が魔力の検査をすすめた。
簡易測定の結果、転んだときに足首から魔力が漏れていて、それが痛みを大きくしているとわかった。
病院から消防、消防から市へ回ってきた、という流れだった。
「魔力の漏れで、痛みが増えているんですね」
「はい。漏れ自体は小さいそうです。ただ、お年なので、このまま放っておくと痛みが広がっていくかもしれないと」
「それで回復の届出ですか」
「本人はそれを希望しています」
六車さんは同意書の写しを一枚出した。
本人同意の欄に大きな字で名前が書いてある。
少し震えているが、ちゃんと読める字だった。
「本人の同意はあります。でも、家族の同意がありません」
回復系の案件では、そこがいちばん重要だ。
回復系の術は、本人と家族の両方の同意書がそろわないと使えない。
本人が望んでいても、家族の署名がなければ届出は通らない。
研修ではそれは高齢の人の意思を軽く見るためではなく、あとで家族との揉め事にならないためのルールだと教わった。
「ご家族は?」
「息子さんがいます。森下太郎さん、五十三歳。市内で別に暮らしています。お昼に電話したんですけど」
六車さんは少し言いよどんだ。
「同意しない、と言われました」
「理由は聞けましたか?」
「聞けました。お母さんの施設への入所が、来月に決まっているそうです。治ったら、母はまたひとりで大丈夫だと言って施設に行かなくなる。だから同意はしない、と」
僕は同意書の写しを見下ろした。
本人の欄は埋まっている。
家族の欄だけが、白いまま残っている。
「回復は今夜できますか?」
「同意がそろえばできます。そろわなければ、もちろんできません」
六車さんは別の用紙を二枚、ファイルから出した。
悪化防止の届出と、回復の届出の見本だ。
回復のほうには、赤字で「家族同意書の写し添付」と書いてある。
「なので、今夜は悪化防止の届出で行ってください。定位術で痛みがこれ以上広がらないように止めるだけです。治すのではなくて、今の状態で止めるようになります」
「わかりました」
「回復の届出は、家族の同意書が窓口に届いてからです」
六車さんはメーターを見上げた。
針は黄色のいちばん下に近いところで、小さく揺れていた。
「残量、22.1%です。二週間でまた少し減りました。九月の終わりまで、あと二週間です」
「回復をしない分、今夜は抑えられますね」
「抑えられます。……それはそうなんですけど」
六車さんは、同意書の写しに目を落とした。
「抑えられてよかった、って言っていいのか、ちょっとわからないです」
僕は返事ができなかった。
回復をしなければ魔力は減らない。
それは、六車さんにとってはいい知らせのはずだった。
けれど、六車さんは喜んでいなかった。
「キミエさん、電話でずっと謝ってたんです。息子が迷惑かけてすみませんって。迷惑なんて、誰もかけてないのに」
六車さんはそれだけ言って、ファイルを閉じた。
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夕方六時を三分過ぎて、居室のドアが開いた。
「お疲れー。ごめんごめん、自転車のタイヤがパンクしてね」
「三分です。先週もパンクでしたよね?」
「先週は後ろで、今週は前だよ」
「……順番に壊れてるんですね」
「そう。だから次は大丈夫」
先輩はパーカーを椅子の背にかけた。
今日はちゃんと袖を通してきたらしく、パーカーの袖口が少し湿っている。
外は霧雨が降り始めていた。
コンビニの袋から、おにぎりが二つ出てきた。
鮭と梅だ。
「今日は、何?」
先輩は僕の机の赤いファイルを覗き込んだ。
僕は救急の記録と同意書の写しを先輩に渡した。
先輩は立ったまま、黙って読んだ。
いつもより読むのが遅かった。
「……息子さん、同意しないんだ」
「施設の入所が来月だそうです。治ったら、お母さんが行かないって言い出すからと」
「そっか」
先輩は記録を机に置いて、椅子に座った。
おにぎりの包装を剥がしかけて、手を止めた。
「回復、したいよね」
「本人は希望しています」
「うん。でも、飛ばしたくないな」
「飛ばす、って?」
「家族の同意、飛ばして治しちゃうこと」
先輩は、包装を剥がしかけたおにぎりを机に置いた。
「おばあちゃん本人がしてほしいって言ってて、痛がってて、目の前にいたらたぶんしたくなるでしょ。修くん、そういうときに迷うタイプじゃない?」
「迷いません。でも、届出がないのでしません」
「今はそう言うけど」
先輩は少し笑った。
「もし修くんが飛ばしそうになったら、私が止める。それ、二人のルールね」
「先輩も手順派だったんですか」
「修くんがいるから、手順派に見えるだけだよ」
先輩はそう言って、ようやくおにぎりをかじった。
僕は悪化防止の届出を書いた。
定位術の欄に、魔力の漏れの出口を一点にまとめて固定する文面を入れる。
回復の欄は空けておく。
位置コードは、六車さんの台帳と施設図で照合した数字だ。
先輩が二次確認欄に書き写した数字も、一致していた。
課長への電話は、先輩がかけた。
呼び出し音が三回鳴って、低い声が返ってきた。
「七星です。森下さんのお宅の件、届出二通です。定位と遮断。回復は、家族の同意が取れていないので今夜は出しません」
位置コードを一桁ずつ読み上げる。
いつもなら、そこで「承認した」が返ってくる。
今夜は、少し間があった。
『……森下か』
「はい」
『承認した。定位は五十嵐、遮断は七星』
また、間があった。
『無理はしない。手順を守れ』
「はい。守ります」
電話が切れた。
先輩は受話器を置いて、しばらくそれを見ていた。
「課長が一言多いの、珍しいね」
「珍しいです」
「寝ぼけてたのかな」
「たぶん、起きてたと思います」
先輩は「そっか」と言って、残りのおにぎりを口に入れた。
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出動は八時にした。
霧雨はまだ降っていた。
軽バンのワイパーが、ゆっくり一往復ずつ動く。
南口の住宅街を抜けると、道は急な上り坂になった。
両側に古い家が並び、ところどころの軒先に市民祭の小さな提灯が吊るしてある。
雨に濡れて、紙の色が少し濃く見えた。
「この坂、毎日上り下りしてるんだね、おばあちゃん」
「病院の記録だと、買い物は坂の下のスーパーだそうです」
「八十二で、この坂か……」
先輩はギアを一段落とした。
軽バンのエンジンが少しうなった。
坂の上の突き当たりに、森下さんの家があった。
木造の平屋で玄関の横に小さな庭がある。
鉢植えの朝顔が支柱に巻きついたまま枯れかけていた。
玄関の前には三段だけの石段。
キミエさんが転んだのはたぶんここだ。
石段の端の苔が一か所だけ削れていた。
チャイムを鳴らすと、少し時間がかかってから足音が近づいてきた。
片方だけ引きずるような、ゆっくりした足音だった。
ドアが開いた。
杖をついた小柄なおばあさんが立っていた。
白い髪を後ろでまとめ、寝間着の上に薄紫のカーディガンを羽織っている。
「市役所の方?雨のなか、ごめんなさいねえ」
「夜勤魔法班の五十嵐です。こちらは七星です。森下キミエさんですね」
「はい、キミエです。どうぞ上がって。散らかってるけど」
散らかってはいなかった。
玄関の靴は二足だけで、きちんとそろえてあった。
居間に通された。
畳の部屋に、低いちゃぶ台がひとつ。
壁際の仏壇には小さな花が供えてあり、写真立てには若い頃のキミエさんと、背の高い男の人が並んで写っていた。
部屋には、湿布の薬の匂いがかすかにしていた。
ちゃぶ台の上には麦茶のグラスが三つと、同意書の原本が置いてあった。
本人の欄は埋まっていて、家族の欄は空いている。
「お茶、どうぞ。冷たいのしかなくて」
「ありがとうございます。すみません、お気遣いいただいて」
先輩が座布団に座って、グラスを受け取った。
住民の家に上がると先輩の声は少し低くなる。
居室で聞くときより、ずっと落ち着いた声だ。
キミエさんは自分の座布団に座り、左足をそっと前に伸ばした。
足首からすねにかけて、湿布が二枚貼ってある。
「ここなの。昼はそうでもないんだけど、夜になるとね、じんじんして。今もちょっと痛いの」
「痛みが強くなるのは、何時ごろからですか?」
「暗くなってからかしら。七時くらいね」
僕は届出の写しを膝の上に置いた。
「キミエさん、先にお伝えしないといけないことがあります」
「なあに」
「今夜は、回復の術は使えません。ご家族の同意書がないので」
キミエさんは、少しだけ目を伏せた。
「……やっぱり。太郎ね」
「はい」
「あの子、昼間に市役所の人と電話してたみたい。終わってから、うちにも電話がかかってきてね。母さん、勝手に頼むなって」
キミエさんは小さく笑った。
困ったような笑い方だった。
「でもね、治してほしいって言うより、痛いのが嫌なのよ。夜、眠れないの」
「痛みが広がらないようにすることなら、今夜できます」
「そうなの?」
「はい。痛みを消すのは回復なので、できません。でも、これ以上増えないように止めることならできます。湿布は貼ったままで大丈夫です」
「それでいいわ。お願いします」
僕はキミエさんの足首の前に膝をついた。
手のひらを、湿布の少し上にかざす。
目を閉じると、足首の内側に小さな流れが感じられた。
転んだときに開いた魔力の出口だ。
そこから細い糸のように漏れた魔力が、痛みのまわりにまとわりついて少しずつ範囲を広げている。
定位術を通した。
在るべき状態は、出口がこれ以上開かず、漏れが一点にとどまっている状態だ。
治すのではない。
今のところで、止める。
手のひらの下で、糸がすっと動かなくなった。
「……あら」
キミエさんが、自分の足を見下ろした。
「じんじんしてるけど、上に上がってこない」
「出口を一か所にまとめました。今夜からは、痛みが広がることはないはずです」
「ありがとうねえ。それだけでもずいぶん違うわ」
キミエさんは、伸ばした足の膝を両手でさすった。
先輩が、ちゃぶ台の上の写真立てを見ていた。
「キミエさん、この方は?」
「主人よ。十年前にね」
「背の高い方ですね」
「太郎もね、背だけはお父さん似なの」
キミエさんがそう言ったとき、外の砂利を踏む音がした。
車のドアが閉まる音。
急ぎ足が、石段を上がってくる。
玄関のドアが、勢いよく開いた。
「母さん」
濡れたジャンパーを着た男の人が、居間の入り口に立っていた。
背が高い。
写真の人とよく似た目をしていた。
ジャンパーの下はスーツで、ネクタイを緩めている。
手には、雨で角が湿った封筒を握っていた。
「太郎」
「市の人、呼ぶなって言ったよね」
太郎さんは僕と先輩を見て、それから同意書の原本に目を落とした。
「同意はしないって、昼に言いました」
「伺っています」
僕は立ち上がって頭を下げた。
「夜勤魔法班の五十嵐です。今夜は回復の術は使っていません。痛みが広がらないように止めただけです」
「止めただけ?」
「はい。治してはいません」
太郎さんは、少しだけ肩の力を抜いた。
けれど、すぐにキミエさんのほうを向いた。
「母さん、施設の書類、持ってきた。来月の十日に入所。もう決まったから」
「決まったって、私は行くって言ってないでしょ」
「言ってないけど、もう無理なんだよ。こないだも転んだじゃないか」
「転んだのは石段が濡れてたからよ」
「濡れてなくても転ぶよ。八十二なんだから」
太郎さんの声が大きくなった。
キミエさんの声も、それに引っ張られるように高くなる。
「勝手に決めないでって言ってるの」
「勝手じゃない。母さんのためだよ」
二人の声がぶつかるたびに、居間の空気がざわついた。
キミエさんの足首で、さっき止めた出口が小さくきしんだ。
感情が強く揺れると、漏れかけた魔力はそれに引っ張られる。
声そのものに、薄い刃のような魔力が乗り始めていた。
このままだと、止めた出口がまた開く。
「先輩」
声をかけたときには、先輩はもう立ち上がっていた。
右手を軽く上げる。
いつもの短い構えだった。
居間の空気から、とげのようなものがすっと抜けた。
声は聞こえている。
けれど、声に乗っていた刃だけが切られて、ただの声に戻った。
キミエさんと太郎さんが、同時に口をつぐんだ。
何が起きたのかわからない顔で先輩を見る。
先輩は二人のあいだに膝をついた。
「すみません。今、お二人の声に魔力が乗りかけていたので、それだけ切りました。キミエさんの足に響くので」
それから、少しだけ声をやわらげた。
「今夜は、話し合いにしませんか。魔法は、もうこれ以上使いません」
太郎さんは、何か言いかけて黙った。
キミエさんは、膝の上で両手を握っていた。
---
しばらく、誰も話さなかった。
雨の音が聞こえた。
軒先から落ちる雫が、石段の上で小さく跳ねている。
仏壇の線香の煙が、まっすぐ上に伸びていた。
太郎さんは、ゆっくりちゃぶ台の前に座った。
封筒を膝の上に置く。
ジャンパーの肩から、雨の雫が畳に落ちた。
先輩は自分の麦茶のグラスを太郎さんの前に置いた。
「よかったら。まだ口つけてないので」
「……どうも」
太郎さんは、グラスを持ったまま飲まなかった。
僕は届出の写しを膝の上に置いたまま、二人の顔を見た。
定位術も、遮断術も、もう使わない。
今夜できることは、もう終わっている。
あとは、聞くことしか残っていなかった。
「キミエさん」
「はい」
「さっき、治してほしいというより、痛いのが嫌だっておっしゃってましたよね」
「言ったわね」
「施設に入りたくないから、治してほしかったんですか」
キミエさんは、すぐには答えなかった。
湿布の上に、手のひらを置いた。
「……違うのよ」
小さな声だった。
「治って、ひとりで暮らしたいわけじゃないの。施設が嫌なのも、本当は少しだけあるけれど……」
キミエさんは、太郎さんのほうを見ないで言った。
「痛くなくなって、太郎の家に行きたかったの。週に一回でいいから。孫の顔を見に。施設に入ったら、たぶんもう行けないでしょう。だから、入る前に、足が痛くないうちに」
太郎さんの手の中で、グラスが小さく揺れた。
「……そんなこと、一回も言わなかったじゃないか」
「言ったら、あんた困るでしょう。仕事も忙しいし、お嫁さんにも気を遣わせるし」
「困らないよ」
「困るわよ」
キミエさんは、少しだけ笑った。
「だから、施設のことは、本当はもういいの。転んで、私もわかったから。ただ、その前に一回だけ、ちゃんと歩いて、あんたの家に行きたかった」
太郎さんは、うつむいた。
しばらく、何も言わなかった。
それから、グラスをちゃぶ台に置いて、両手で顔を覆った。
「……母さんが元気になったら、施設の話がまた止まると思ったんだよ」
声が震えていた。
「去年も一回、決まりかけたんだ。でも母さんが、まだひとりで大丈夫だって。それで延ばして、延ばして。そしたら、こないだ石段で」
太郎さんは、顔を覆ったまま続けた。
「救急から電話があったとき、会社にいた。病院に着くまで、ずっと最悪のことばかり考えてた。もう、ああいう電話を受けたくないんだよ」
キミエさんが、太郎さんの袖をそっとつかんだ。
「ごめんね」
「謝るなよ」
「ごめんね、太郎」
太郎さんの肩が、小さく震えた。
先輩は、何も言わなかった。
膝の上で手を重ねて、二人を見ていた。
僕も、何も言わなかった。
こういうとき、届出に書けることは何もない。
---
雨の音が、少し弱くなった。
太郎さんは目元をジャンパーの袖で拭いて、顔を上げた。
「……回復の術って、施設に入るのを止めたりはしないんですよね」
「しません」
僕は答えた。
「回復は、足の痛みを治すだけです。入所の日を変える術はありませんし、そういう届出は出せません。書けないことは、しません」
「治ったら、母さんはまた歩けますか」
「病院の記録だと、骨に異常はありません。魔力の漏れが止まって痛みが引けば、元のように歩けるはずです」
太郎さんは、しばらくちゃぶ台の上の同意書を見ていた。
家族の欄が、白いまま残っている。
「ペン、ありますか?」
僕は胸ポケットからボールペンを出して渡した。
太郎さんはそれを受け取って、家族同意の欄に名前を書いた。
少し右に傾いた、角ばった字だった。
キミエさんの字の隣に並ぶと、どこか似ていた。
「これで、回復してもらえますか?」
「はい。ただ、今夜はもう悪化防止の届出で術を使ってしまったので、回復は別の届出が必要になります。明日、同意書の写しを窓口に出して、承認が下りたら夕方に伺います」
「明日の夕方」
「はい。六時半くらいになると思います」
太郎さんは、うなずいた。
「じゃあ、明日の夕方まで、僕がここにいます。会社には連絡しておきます」
「でも太郎、仕事は」
「休む。一日くらい、休んだっていいだろ?」
太郎さんは、そう言って母親のほうを見た。
「足が治ったら、うちに来なよ。週に一回でも、二回でも。施設に入っても、迎えに行くから」
キミエさんは、何度もうなずいた。
声は出ていなかった。
僕は同意書を受け取り、写しを二部取った。
一部は六車さんの窓口用、もう一部は明日の届出に添付する分だ。
原本はキミエさんに返した。
玄関で靴を履いていると、キミエさんが杖をついて見送りに出てきた。
さっきより、足取りが少しだけ軽かった。
「ありがとうね。雨のなか、二人で」
「いえ。明日、また伺います」
「お二人は仲がいいのね」
キミエさんは、僕と先輩を交互に見て言った。
「相棒なので」
僕が答えると、キミエさんはおかしそうに笑った。
先輩は、何も言わずに頭を下げた。
石段を下りるとき、先輩が僕の腕を軽く引いた。
「濡れてるから、気をつけて」
「先輩もです」
三段目の苔が削れたところを、二人とも避けて下りた。
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帰りの坂道は、来たときより暗かった。
霧雨はほとんど止んで、ワイパーは止まったままだった。
軒先の提灯が、ヘッドライトの光の中で次々と後ろへ流れていく。
助手席で、僕は使用報告書を書いていた。
定位術、悪化防止のみ。
回復の術は不使用。
家族同意は現場で取得。
回復は翌日、別の届出で対応予定。
遮断術は、声に乗った魔力の刃の切断。
「修くん」
運転しながら、先輩が言った。
「はい」
「さっき、迷わなかった?」
「何をですか」
「回復。キミエさんが泣いてたとき」
僕はペンを止めた。
迷わなかった、と言えば嘘になる気がした。
キミエさんの足首の出口に手をかざしていたとき、ほんの少しだけ考えた。
このまま出口を閉じれば、たぶん痛みは消える。
術の量も、そんなに変わらない。
でも、届出に書いてあるのは「止める」だけだった。
「少しだけ、考えました」
「だよね」
「でも、届出にないので、しませんでした」
「うん」
先輩は前を見たまま、少しだけ笑った。
「私、ずっと見てたよ。修くんの手」
「見てたんですか」
「止めなきゃいけないかなって思って。でも、修くんの手、ちゃんと止まってた」
坂を下りきったところで、先輩はハザードランプを点けて、軽バンを路肩に寄せた。
エンジンはかけたままだった。
窓を少しだけ開けると、雨上がりの冷たい空気が入ってきた。
土と、濡れたアスファルトの匂いがした。
「ちょっとだけ休憩」
「報告書、まだ途中です」
「いいの。五分だけ」
先輩はハンドルに両腕を乗せて、フロントガラスの向こうを見ていた。
信号のない交差点の先で、街灯がひとつだけ点いている。
「……手順、守れてよかったね」
「先輩が止めてくれたからです。声の刃、あのままだと出口がまた開いてました」
「ううん。修くんが、飛ばさなかったからだよ」
先輩は、そう言ってから少し黙った。
「太郎さんがさ、同意書に名前書いたとき。あれ、私たちが治しちゃってたら、なかったよね」
「なかったと思います。治ったあとで同意書を持っていっても、たぶん書いてもらえませんでした」
「だよね」
先輩は、ハンドルの上で指を組み直した。
「魔法でぜんぶ治せたら楽なのにって、たまに思うんだ。でも、今夜みたいなのは、魔法じゃないほうがよかった」
「はい」
「キミエさん、太郎さんの家に行けるといいね」
「行けると思います。太郎さん、迎えに行くって言ってましたから」
先輩はうなずいた。
それから、ふっと息を吐いた。
「今日はいい夜勤だったなあ。修くんと一緒で、ほんと……」
そこで、先輩の言葉が止まった。
何か続きを言おうとして、口を閉じる。
フロントガラスに、街灯の光がにじんでいた。
「……ううん。なんでもない」
先輩は、僕のほうを見ないで言った。
「ね?」
何が「ね」なのか、よくわからなかった。
けれど、いい夜勤だったのは確かだった。
同意書は埋まった。
キミエさんの痛みは広がらない。
明日の夕方には、回復の届出が出せる。
「はい。お疲れ様です、先輩」
先輩は、少しだけ笑った。
あきれたような、ほっとしたような笑い方だった。
「うん。お疲れ、修くん」
ハザードランプが消えて、軽バンはまた走り出した。
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市役所の居室に戻ったのは、十時半を過ぎた頃だった。
六車さんは、まだ自分の席にいた。
赤いファイルを開いたまま、電話の前で待っていたらしい。
「お帰りなさい。どうでしたか」
「悪化防止だけで済ませました。それと、これ」
僕は同意書の写しを渡した。
家族の欄に、太郎さんの名前が書いてある。
六車さんは、しばらくその字を見ていた。
「……取れたんですね」
「現場で書いてもらいました。明日の夕方、回復の届出で出直します」
「わかりました。明日の朝一番で、課長の承認を取っておきます」
六車さんは写しをクリアファイルに入れ、赤いファイルの一番上に挟んだ。
それから、少しだけ鼻をすすった。
「すみません。お昼の電話のとき、キミエさんがずっと謝ってたので」
「明日は、たぶん謝らないと思います」
先輩が言った。
「太郎さん、明日の夕方まで一緒にいるって」
「……そうですか」
六車さんは、ほっとしたように笑った。
それから、いつもの顔に戻ってメーターを見上げた。
「残量、21.0%です。回復をしなかった分、今夜はかなり抑えられました」
「明日、回復で少し使います」
「はい。でも、それは使っていい分です」
六車さんはそう言って、手元のメモに数字を書き込んだ。
「九月の終わりまで、あと二週間。21%で二週間なら、なんとか持ちます。大きいのが来なければ」
「来ないといいですね」
「来ないでほしいです。本当に」
六車さんは赤いファイルを抱えて、席を立った。
ドアの前で、一度だけ振り返った。
「お二人とも、お疲れ様でした。……いい夜勤でしたね」
先輩が、ぴくりと肩を動かした。
「愛ちゃん、それ」
「なんですか」
「……なんでもない」
六車さんは不思議そうな顔をして、帰っていった。
僕は報告書の最後の欄を書き終えた。
回復の届出の下書きも、明日の分として作っておいた。
添付書類の欄に、家族同意書の写しと書き込む。
今夜は空欄だった欄が、明日は埋まる。
先輩は、自分の机で報告書の控えに判を押していた。
いつもより、ゆっくりと押していた。
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裏門を出たのは、零時前だった。
雨はすっかり上がっていた。
雲の切れ目から、少しだけ星が見える。
自動販売機の明かりが、濡れたアスファルトに白く映っていた。
先輩は自動販売機の前で足を止めた。
小銭を入れて、ボタンを二回押す。
ごとん、ごとんと缶が落ちた。
「はい。今日もホット」
「ありがとうございます」
二段目の、ブラックだった。
先輩の分は、カフェオレだ。
ベンチは雨で濡れていた。
先輩はパーカーの袖で座面を拭こうとして、やめた。
「今日は立って飲もう」
「はい」
自動販売機の横に並んで立って、缶を開けた。
湯気が、夜の空気の中に白く立ちのぼった。
九月の半ばで、初めて湯気が見えた夜だった。
「明日の夕方、晴れるといいね」
「天気予報だと、晴れでしたよ」
「キミエさん、明日の夜は眠れるかな」
「回復が終われば、眠れると思います」
先輩は缶を両手で包んで、うなずいた。
「明日も六時ね」
「六時です。明日は、坂の上に六時半なので」
「じゃあ、六時ちょうどに来る」
「本当ですか」
「本当。明日は、遅れたくない」
先輩はそう言って、カフェオレを飲み干した。
空き缶をゴミ箱に入れ、自転車にまたがる。
今夜は振り返らずに、片手だけ上げて走っていった。
僕は残りのコーヒーを飲みながら、濡れたベンチを見ていた。
同意書の欄は、紙の上ではただの空欄だった。
名前を書けば埋まる。
けれど今夜、その空欄を埋めたのは、届出でも術でもなかった。
九月の終わりまで、あと二週間。
針は21.0%。
今夜は、空いていた欄がひとつ埋まった。
それだけで十分だった。




