6. 先輩の同期
裏門の自動販売機が静かになってから、一週間が経った。
九月に入ると、市役所前のロータリーは少しずつ顔つきを変えた。
交通安全の横断幕の下に、秋の市民祭の出店案内が一枚ずつ増えていく。
昼の日差しはまだ残暑のままだ。
けれど夕方になると、西の山から下りてくる風に乾いた草の匂いが混じる。
蝉の声はもうほとんど聞こえない。
代わりに植え込みのあちこちで、短い虫の声が鳴き始めていた。
この一週間も夜勤はあった。
北口の公衆電話の受話器が、夜中だけ外れて垂れ下がる件。
旧市街の路地で、閉めたはずの木戸が勝手に開く件。
どちらもDランクで、報告書は一枚ずつで済んだ。
位置コードの確認は、もうすっかり班の決まりになっている。
六車さんが台帳と施設図で数字を照合してから、USBメモリを渡してくれる。
僕の確認用の紙は、提出の前に外して六車さんに見せる。
六車さんはそれを見てうなずくだけで、もう何も言わない。
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九月最初の火曜日。
五時前の居室には、エアコンの音がほとんどしなかった。
今週から設定温度が一度上がったらしい。
窓際の机に置いたペンが日差しでほんのり温かい。
六車さんが居室に入ってきたとき、抱えているファイルがいつもより厚かった。
黄色のファイルの上に、水色の封筒が一枚重なっている。
「修くん、今夜の予定票です。黄色が一件と、それから視察が一件」
「視察、ですか?」
「県庁の方が今夜の出動に同行されます。東雲隼さん。涼さんの研修の同期だそうです」
六車さんは封筒から書類を出して、僕の机に並べた。
視察の日程表と、名刺のコピーが一枚。
県の市民安全部、魔法対応室と印字されている。
「先輩の同期の方ですか」
「はい。私も昨日、県庁から電話があって初めて知りました」
僕は名刺のコピーを手に取った。
名前の横に、小さく「風切」と術の種類が書いてある。
県の名刺には術まで載せるらしい。
市の名刺には、課の名前と内線番号しか載っていない。
「現場はどこですか?」
「廃線跡ウォーキングコースです。微震系で、Cランク手前」
「廃線跡ですか」
思わず声に出た。
三角公園の位置コードを間違えて、空振りで向かったあの遊歩道だ。
あのときは現地確認をして「魔力反応なし」と記録に書いたのは記憶に新しい。
六車さんも同じことを思い出したようだった。
「今度はちゃんと廃線跡で起きています。位置コードは三回確認しました」
「三回も」
「台帳と施設図と、道路課の現地写真です。もう空振りで行ってほしくないですからね」
六車さんは受付票をめくって、内容を読み上げた。
「昨夜、散歩中の方から二件の通報がありました。夜九時過ぎ、遊歩道を歩いていると足元が細かく揺れる。地震かと思ったけれど、スマホの速報は出ていない。今朝、道路課が見に行ったら、歩道の一部が二センチほど沈んでいたそうです」
「簡易測定は?」
「反応ありです。古い封印のゆるみではないか、と道路課のメモにあります。廃線跡には線路を外したときに打った封印の杭がいくつか残っているので」
廃線跡が怪異の多い場所だということは、研修で聞いていた。
古い線路には長いあいだ同じ方向に重いものが通り続けるから、魔力の筋が残りやすい。
廃線にするときに市はその筋を杭で留めた。
その杭がゆるむと留めていたものが少しずつ動き出す。
「Cランク手前なので、課長の承認はもう取ってあります。東雲さんは見学が基本ですけど、必要なら補助に入っていいと県から許可が来ています」
「わかりました。届出、書きます」
六車さんはメーターを見上げた。
針は黄色の下のほう、25%の目盛りより少し下にあった。
「残量、24.3%です。今夜はCランク手前で、三人分の記録が残ります。東雲さんの分は県の様式なので、私が別に整理します」
「三人分ですか」
「はい。……それと修くん、届出はいつも通り丁寧にお願いしますね。県の人も見るので」
「もちろんです」
「いつもと同じで十分です。いつもが丁寧なので」
六車さんはそう言ってから、壁のカレンダーに目をやった。
九月のページには、まだ丸が一つもついていない。
「それから、来週の木曜と金曜に私、休みを取ります」
「夏休みですか?」
「夏休みです。九月に二日だけ、ってずっと言ってたやつです」
六車さんはカレンダーの前まで歩いていき、赤いペンで二つの日付に丸をつけた。
丸はきれいな形をしていた。
何度も頭の中で練習していたのかもしれない。
「そのあいだの予定票は、前の日までに全部作っておきます。窓口は課長が受けてくれるそうです」
「課長が昼に窓口ですか?」
「昼に起きている課長は、私も見たことありません」
六車さんは真顔で言って、自分の席へ戻っていった。
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東雲さんが居室に来たのは、夕方の五時半だった。
ノックの音が三回。
返事をすると、紺のスーツの男の人が入ってきた。
背が高く、髪は短く整えてある。
首から下げた入館証には、赤い字で「視察」と書いてあった。
「失礼します。県庁魔法対応室の東雲です。今夜はお世話になります」
「五十嵐です。よろしくお願いします」
僕は立ち上がって頭を下げた。
東雲さんも同じ角度で頭を下げた。
顔を上げるタイミングまで、ほとんど同じだった。
「七星さんはまだですか」
「先輩はいつも六時を少し過ぎてから来ます」
「変わってないですね」
東雲さんは小さく笑った。
居室を見回し、壁のメーターに目を留める。
「24.3%。九月の初めでこれだと、厳しいですね」
「厳しいですね。六車さんが毎日見上げています」
「県の室も似たようなものです。うちは赤に入ってから二週間たちました」
「もう赤なんですか?」
「はい。なので県の出動は、今月はほとんど市にお願いしています。今夜の視察も半分はそのお礼です」
東雲さんはそう言って、空いている椅子に浅く腰かけた。
背筋は伸びたままだった。
「差し支えなければ、今夜の届出を拝見してもいいですか。県では市の届出の実例を集めていまして」
僕は六車さんを見た。
六車さんは自分の席で、小さくうなずいた。
「どうぞ。コピーはだめみたいですが」
「見るだけにします」
僕は届出の写しを一枚渡した。
確認用の紙は、先に外して引き出しにしまってある。
東雲さんは用紙を両手で持ち、上から順に読んでいった。
定位術の文面。
位置コードと、その根拠になった台帳のページ番号。
魔力の使用見込み。
課長の承認欄。
指で行をたどるわけでもなく、目だけでゆっくり下りていく。
読み終えるまで、居室にはエアコンの音しかしなかった。
「正確ですね」
東雲さんは用紙を机に戻した。
「位置コードの根拠まで書いてある届出は、県でもなかなか見ません。術の対象も範囲も、一度読めばわかる。県でも欲しい人材です」
「……ありがとうございます」
返事をしてから、それしか言えなかったことに気づいた。
届出を褒められたことは、あまりない。
課長は「承認した」としか言わないし、六車さんは様式が合っていれば何も言わない。
間違っていないことは、普通は話題にならない。
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六時八分に、居室のドアが勢いよく開いた。
「お疲れー。ごめんごめん、自転車のチェーンが外れたんだ」
先輩だった。
パーカーを肩に引っかけ、片手にコンビニの袋を提げている。
額にうっすら汗がにじんでいた。
それから、椅子に座っている東雲さんに気づいた。
「あ、はやとくん。もう来てたんだ」
「お久しぶりです、七星さん。研修以来ですね」
「三年ぶり? 全然変わってないね。スーツなのも」
「七星さんも変わっていませんね。遅刻なのも」
「八分は遅刻じゃないの。誤差よ」
「研修のときも同じことを言っていました」
先輩は笑って、コンビニの袋を僕の机に置いた。
中からおにぎりが三つ出てきた。
鮭と、昆布と、梅。
「はやとくんの分も買ってきた。梅でいい?」
「ありがとうございます。いただきます」
東雲さんは梅のおにぎりを受け取り、両手で持ったまま膝の上に置いた。
食べる前に、もう一度礼を言った。
「さっき、五十嵐さんの届出を拝見していました」
「そうなの?うちの修くん、すごいでしょ」
先輩は、自分のことのように胸を張った。
「すごいです。県に欲しいくらいです」
「でしょ。届出、全部修くんが書いてくれるんだよ」
「先輩が書かないからです」
「書かないんじゃなくて、修くんのほうが上手いから任せてるの」
「それを書かないって言うんです」
東雲さんが、声を出して笑った。
肩はほとんど動かなかった。
「七星さんは現場、五十嵐さんは手順。いい組み合わせですね。研修のときから七星さんは動くのが早かったですけど、書類はいつも最後でした」
「余計なこと言わない」
先輩は鮭のおにぎりの包装を剥がした。
いつもならそのまま、僕の届出を覗き込んでくるところだ。
今日は覗き込まなかった。
おにぎりを一口かじって、窓の外を見ていた。
僕は昆布のおにぎりを手に取った。
先輩が昆布を買ってくるのは珍しい。
いつもは鮭と梅の二つだ。
三人分にしようとして、何を選べばいいか迷ったのかもしれない。
課長への電話は、今夜は僕がかけた。
先輩がおにぎりで手がふさがっていたからだ。
呼び出し音が四回鳴って、低い声が返ってきた。
「五十嵐です。廃線跡の微震の件、届出二通です。定位と遮断。県の東雲さんが視察で同行されます」
位置コードを一桁ずつ読み上げる。
電話の向こうで、紙をめくる音がした。
『……東雲か』
「はい」
『承認した。定位は五十嵐、遮断は七星。東雲は補助。報告書、明日中』
電話が切れた。
受話器を置くと、東雲さんが感心したように言った。
「二宮課長は、相変わらず短いですね」
「課長のこともご存じなんですか?」
「研修で一コマだけ講義を受けました。九十分の予定が、二十分で終わりました」
「残りの七十分は何を」
「自習でした」
先輩が「そうだった」と言って笑った。
課長は昔から課長だったらしい。
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出動は八時半にした。
軽バンの運転席に先輩、助手席に僕、後ろの席に東雲さんが座った。
東雲さんは後ろの席でも背筋を伸ばし、膝の上に視察用のノートを置いている。
ナビにUSBのデータを読み込ませる。
目的地の数字は、届出の位置コードと一致していた。
六車さんの三回確認つきだ。
市街地を抜けると、道の両側が暗くなった。
田んぼの稲は八月よりずっと背が伸び、穂が重そうに垂れている。
ヘッドライトに照らされると、一瞬だけ黄色く光った。
「稲刈り、もうすぐですね」
後ろから東雲さんが言った。
「この辺は、来週あたりからかな」
先輩が答えた。
「はやとくん、今はどこに住んでるの?」
「県庁の近くです。歩いて十分ですね」
「いいなあ。私、自転車で二十分だよ」
「七星さんの家からなら、軽バンで送ってもらえばいいんじゃないですか」
「軽バンは公用車。私用は禁止だよ」
「知ってます。言ってみただけです」
二人の会話は、研修のころの続きのように軽かった。
僕は地図を見ながら、二人の声を後ろと横から聞いていた。
三年分の空白が、どこにもないように聞こえた。
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廃線跡の入り口の駐車場に着いたのは、八時五十分だった。
車を降りると、空気が一段冷たかった。
八月に来たときよりも、さらに季節が進んでいる。
足元の草むらで鳴く虫の声も、あのときより数が増えていた。
入り口の古い踏切の遮断機は、相変わらず白と黒の縞が色あせたままだった。
案内板の駅の写真には、昭和四十八年の文字。
三本だけの街灯も、変わらずに点いている。
「ここが、例の空振りの場所ですか」
東雲さんが言った。
「ご存じなんですか」
「市の報告書は、県にも写しが来ます。位置コードの訂正と現地確認の記録も読みました」
僕は少し顔が熱くなった。
あの報告書には、訂正の経緯がこと細かに書いてある。
小数点の位置まで書いた。
「訂正の書き方が、すごく丁寧でした。誰の責任とも書かずに、どこで何がずれたかだけ書いてあった」
「課長にも誰も責めるなと言われましたから」
「そういうところも含めて、いい報告書でした」
先輩は少し前を歩いていた。
懐中電灯で遊歩道を照らしながら、振り返らずに言った。
「沈んでるの、どのへんだっけ?」
「入り口から三百メートル先です。カーブを過ぎたあたりですね」
カーブを過ぎると、木のベンチが見えてきた。
お守りが背もたれの裏に落ちていた、あのベンチだ。
その少し先の歩道に、黄色と黒のロープが張られていた。
道路課が昼に張っていったものだ。
ロープの内側の舗装が、ほんのわずかにへこんでいた。
懐中電灯を低く当てると、影の形でそれがわかる。
僕はロープの手前にしゃがみ、舗装に手のひらを当てた。
まだ揺れはない。
けれど舗装の下で、何かがじっと力をためているような感じがした。
「下です。舗装の下、三十センチくらい。何かが定位置からずれています」
「杭ですか?」
「たぶん。まだ揺れていないので、はっきりとはわかりません」
腕時計を見た。
八時五十八分。
通報では、揺れは九時過ぎから始まっている。
「揺れが始まるまで、少し待ちます。揺れているあいだのほうが、ずれの向きがわかるので」
「わかった」
先輩はロープの横に立ち、懐中電灯を消した。
東雲さんも少し離れた場所で懐中電灯を消した。
街灯の光だけが、遊歩道の先を薄く照らしている。
虫の声が急に大きく聞こえた。
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九時三分。
靴の裏に、細かい震えが伝わってきた。
地震のような横揺れではない。
下から小刻みに突き上げてくる揺れだ。
数秒続いて止まり、また数秒して始まる。
「来た」
先輩が小さく言った。
僕は舗装に手を当てたまま、目を閉じた。
定位術を薄く広げる。
在るべき場所からずれているものの輪郭が、手のひらの下に浮かび上がってくる。
細長い。
縦に埋まっていたものが、斜めに傾いている。
傾いた先端が、揺れのたびに舗装の裏を押し上げていた。
「杭です。一本、斜めに傾いています。傾きは北のほうへ」
「掘り出す?」
先輩が聞いた。
「掘るのは道路課の仕事です。届出にもありません」
「でも、見えたほうが固定しやすいでしょう」
東雲さんが言った。
「土を払うだけなら、風切でできます。舗装の継ぎ目から、表面の土を吹き出すくらいなら。補助の範囲です」
僕は少し考えた。
見えないままでも、定位術で杭は固定できる。
ただ、傾きの角度を目で確かめられれば、術の量は少なく済む。
残量は24.3%だ。
「お願いします。舗装は壊さないでください」
「もちろん、壊しませんよ」
東雲さんはロープの内側に一歩入り、右手を水平に振った。
風が鳴った。
細い刃のような風が、舗装の継ぎ目に吸い込まれていく。
継ぎ目から砂と土が噴き出し、遊歩道の脇に小さな山を作った。
それを三回繰り返すと、継ぎ目の奥に黒っぽい木の頭がのぞいた。
杭だった。
先端に、古い封印の刻印が彫られている。
懐中電灯を当てると、刻印の溝だけがかすかに青く光った。
「お見事」
先輩が言った。
声は明るかった。
「研修のときより速くなってない?」
「三年、県で土ばかり払っていましたから」
東雲さんは右手を下ろし、刻印を覗き込んだ。
「刻印は残っていますね。封印そのものは生きている。杭が傾いたせいで、留めていた線路の筋がすき間から漏れて、舗装を押している」
「はい。なので、杭を元の角度に戻せば止まると思います。戻した瞬間に漏れが一度だけ強く出るかもしれないので、それを先輩に切ってもらいます」
「任せて」
先輩が、ロープの反対側に回った。
右手を軽く上げる。
いつもの、短い構えだった。
僕は杭の頭に意識を向けた。
在るべき場所は、四十年前に打たれたときの垂直だ。
届出に書いた文面を、頭の中でもう一度なぞる。
廃線跡、遊歩道、封印杭一本、定位置への固定。
術を通した。
手のひらの下で、杭がゆっくり起き上がっていく。
土の中で、何かがきしむような手応えがあった。
垂直に戻った瞬間、刻印の青い光がぱっと強くなった。
「先輩」
「切った」
先輩の声と同時に、光が消えた。
足の裏の震えも、ぴたりと止まった。
虫の声が戻ってきた。
僕は手を離して、立ち上がった。
膝が少し痛い。
ずっとしゃがんでいたせいだ。
「固定しました。揺れも止まりましたね」
「止まった。お疲れ、修くん」
東雲さんは、しばらく何も言わずに杭を見ていた。
それから、ゆっくり顔を上げた。
「五十嵐さん、さすがです」
「何がですか」
「術を使う前に、杭の傾きの向きまで言葉にしていたでしょう。だから七星さんが、どこに立てばいいかわかった。私も、どこに風を通せばいいかわかった」
「届出に書いたことを、言っただけです」
「それが、現場ではなかなかできないんです」
僕はどう答えればいいかわからなくて、写真を撮ることにした。
スマホで三枚。
杭の頭、刻印のアップ、遊歩道全体。
魔法で撮影するのは禁止されている。
街灯の明かりが足りなくて、三枚とも少しぶれた。
「修くん、もう一枚撮っといたら。ぶれてるよ」
「ぶれてるのは、いつもです」
「いつもなのがよくないんでしょ」
先輩が懐中電灯で杭を照らしてくれた。
四枚目は、少しだけましに撮れた。
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駐車場へ戻る途中、遊歩道の暗がりを三人で歩いた。
先輩は先頭で懐中電灯を揺らしている。
僕はその後ろ。
東雲さんは最後を歩いていた。
「七星さん」
東雲さんが、前に向かって声をかけた。
「なに?」
「今夜の視察、上司からは市のC手前の対応を見てこいと言われたんですが」
「うん」
「もう一つ、個人的に見たかったものがあって。同期がちゃんとやれているかどうか」
先輩の懐中電灯が、一瞬だけ止まった。
「何それ。心配してたの?」
「少しだけ。研修のとき、七星さんは書類で一回、課題を落としていたので」
「その話は、ここでしない」
「失礼しました」
東雲さんは、少しも失礼そうではない声で言った。
「でも、安心しました。五十嵐さんがいるなら」
先輩は返事をしなかった。
懐中電灯がまた揺れ始めた。
遊歩道の先に、駐車場の街灯が見えていた。
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市役所に戻ったのは、十一時を少し過ぎた頃だった。
居室の明かりはまだついていた。
六車さんが、机の上に書類を三種類並べて待っていた。
市の使用報告書、県の視察記録、補助記録。
同じ一件の出動を、三つの様式がそれぞれ別の言葉で書くことになる。
「お帰りなさい。どうでしたか」
「止まりました。封印杭が一本傾いていたので、元の角度に固定しました。漏れは先輩が切りました」
「一度で、ですか」
「一度でです。東雲さんが土を払ってくれたので、杭の角度が見えました」
六車さんは、ほっとした顔で東雲さんに頭を下げた。
「ありがとうございます。県の方に補助していただくと、様式が一枚増えますけど、魔力は減らないので助かります」
「様式のほうは、こちらで書きます」
「いえ、県の様式の欄の順番が市と違うので、最初の一枚だけ一緒に見させてください」
六車さんと東雲さんが、補助記録の欄を一つずつ確かめていく。
僕は自分の机で使用報告書を書き始めた。
定位術の対象、範囲、時刻。
杭の傾きの向きと、固定後の状態。
漏れの遮断の記録は、先輩の分も下書きして隣に並べた。
先輩は、自分の椅子に座って下書きを読んでいた。
いつもならすぐに「ありがとう」と言って判を押すところだ。
今日は、二回読み直してから判を押した。
「修くん、ここ」
先輩が下書きの一行を指さした。
「『漏れを遮断した』の前に、『固定と同時に』って入れたほうがいいかも。順番、大事でしょ」
「……そうですね。入れます」
僕は一行を書き足した。
先輩が届出の文面に口を出すのは、珍しかった。
県の様式を書き終えた東雲さんが、僕の机のそばに来た。
「五十嵐さん。報告書の根拠欄の書き方、県の教材の参考にしてもいいですか。名前は出しません」
「名前を出さないなら、大丈夫です」
六車さんが顔を上げた。
「コピーは一枚までです」
「では、一枚お願いします」
六車さんはコピー機の前に立ち、一枚だけ取った。
それをクリアファイルに入れて、東雲さんに渡す。
渡す前に、ファイルの表に「市・複写一部」と書いた付箋を貼った。
それから、メーターを見上げた。
「残量、22.5%です」
「思ったより、下がりませんでしたね」
「はい。Cランク手前で三人出動なので、もっと下がると思っていました。一度で収まったおかげです」
六車さんは、ペンで手元のメモに数字を書き込んだ。
「来週、私が休みのあいだに、これ以上下がらないといいんですけど」
「休みは気にしないで取ってくださいよ」
「気にします。でも、今回は取りますからね」
六車さんはそう言って、赤い丸のついたカレンダーを見た。
東雲さんが時計を見た。
「そろそろ失礼します。県の車が、零時に裏門へ迎えに来るので」
「裏門の自動販売機のところですか」
「はい。そこがわかりやすいと言われました」
「じゃあ、記録番号の照合だけ一緒にさせてください。東雲さんの視察記録の番号と、市の報告書の番号を対応表に書くので」
「わかりました。お願いします」
先輩は、まだ自分の机に座っていた。
報告書の控えをそろえながら、こちらを見ずに言った。
「私、課長の机に報告書置いてくる」
「お願いします」
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裏門の外は、もう秋の夜の空気だった。
自動販売機の白い明かりだけが、細い道に浮かんでいる。
二段目のホットの列は、今夜もちゃんと温まっているはずだ。
もう缶は揺れない。
東雲さんは自動販売機から少し離れた場所に立ち、薄いコートの前を留めた。
僕はタブレットを開いて、記録番号を一つずつ入力した。
二分ほどで終わった。
「照合、終わりました。県の記録番号と市の報告書番号、対応表に入れておきます」
「ありがとうございます」
東雲さんは礼を言ってから、少し黙った。
道の先を見ている。
県の車は、まだ来ていない。
「五十嵐さん。一つ、お話があります」
「はい」
「うちに来ませんか?」
僕は、タブレットを閉じる手を止めた。
「県庁の魔法対応室です。市の届出の書き方を、県で教材にしようという話が前から出ていまして。それを作る人を探しています。今夜の届出と報告書を見て、五十嵐さんにお願いしたいと思いました」
「僕に、ですか」
「はい。正式な話にするなら、来年の人事交流の枠になります。今すぐ返事をいただく必要はありません」
夜風が、植え込みの葉を鳴らした。
自動販売機のモーターが、低く唸っている。
県でも欲しい人材、と言われたのは嬉しかった。
それは本当だった。
届出を書くのは好きだ。
誰かが読んで、すぐにわかる文面を書くのも好きだ。
それを教材にする仕事は、きっと僕に向いている。
けれど、頭に浮かんだのは、教材の表紙ではなかった。
居室で、先輩が僕の届出を覗き込む顔。
廃線跡で、短く右手を上げる構え。
このベンチで、ホットの缶を渡してくれる手。
定位のあとに遮断が来る、あの順番。
「お誘い、ありがとうございます」
僕は東雲さんのほうを向いた。
「でも、ここがいいです。先輩と相性がいいので」
東雲さんは、少しだけ目を見開いた。
「相性、ですか」
「はい。僕が定位で固定して、先輩が遮断で切る。その順番が合うと、魔力も時間も少なく済みます。今夜もそうでした。先輩は、僕が言う前にどこに立てばいいかわかってくれます。それは、たぶん他の人とだとできないので」
東雲さんは、しばらく僕の顔を見ていた。
それから、僕の肩越しに通用口のほうを見た。
振り返ると、先輩がいた。
通用口のすぐ外で、自転車のハンドルを握って立っている。
課長の机に報告書を置いて、そのまま降りてきたらしい。
いつからそこにいたのかは、わからなかった。
「七星さん」
東雲さんが声をかけた。
先輩は自転車を押して、ゆっくり近づいてきた。
「車、まだ?」
「あと五分ほどです」
「そっか」
先輩は自動販売機の明かりの下で立ち止まった。
東雲さんは、少し間を置いてから言った。
「今、五十嵐さんをスカウトしたんですけど、振られました」
「……そうなんだ」
「七星さんと相性がいいそうです」
先輩は、すぐには答えなかった。
自動販売機のほうを向いて、ボタンの列を眺めている。
何も買わなかった。
「……そうだね」
小さな声だった。
「うちの班は、いい班だよ」
東雲さんは、ふっと笑った。
研修の話をしていたときとは違う、少し柔らかい笑い方だった。
裏門の道に、ヘッドライトが差し込んできた。
黒い公用車が、植え込みの角をゆっくり曲がって止まる。
運転席から県の職員が降りて、東雲さんに会釈した。
東雲さんはクリアファイルを鞄にしまい、僕と先輩に向き直った。
「今夜はありがとうございました。とても勉強になりました」
「こちらこそ、土を払っていただいて助かりました」
「七星さんも、お元気で。書類は五十嵐さんに任せすぎないように」
「余計なお世話だよ」
東雲さんは笑って、後部座席のドアに手をかけた。
乗り込む前に、もう一度振り返った。
「二人とも、大事にしてください」
ドアが閉まった。
公用車は静かに走り出し、テールランプが植え込みの角の向こうへ消えていった。
---
裏門には、僕と先輩だけが残った。
先輩は自転車のスタンドを立て、ベンチに腰を下ろした。
僕も隣に座った。
塗装の剥げた座面は、夜気でひんやりしていた。
「スカウト、されてたね」
「されてました」
「断ったんだ?」
「断りました。来年の人事交流の枠だそうです。今すぐ決めなくていいと言われましたけど」
「でも、断ったんでしょ」
「はい。ここがいいので」
先輩は、自動販売機の明かりを見上げた。
「県のほうが、たぶん残量に余裕あるよ」
「県は赤だそうです。二週間前から」
「……そうなの?」
「東雲さんが言ってました。今月の県の出動は、ほとんど市に回してるって」
先輩が吹き出した。
「なんだ。どこも一緒なんだ」
「一緒です」
先輩は立ち上がって、小銭を入れた。
ボタンを二回押す。
ごとん、ごとんと缶が落ちた。
「はい。今日はホット」
「ありがとうございます」
渡されたのは、二段目のブラックだった。
手のひらに熱が移ってくる。
先輩は自分の分のカフェオレを開けて、もう一度ベンチに座った。
「修くんがいなくなったら、届出、全部私が書くことになるでしょ?」
「なりますね」
「それは困る」
「困るのは、先輩だけじゃないです。六車さんも困ります。差し戻しが増えるので」
「そこ?」
「そこです」
先輩は笑った。
笑ってから、缶を両手で包んで、少し黙った。
「……ありがとね」
「何がですか」
「なんでもない。ここがいいって言ってくれたこと」
「本当のことを言っただけです。相性がいいのは、間違いないことなので」
「うん。わかってる」
先輩はカフェオレを一口飲んだ。
わかってる、と言った声が、少しだけ低かった。
夜風のせいで、喉が冷えたのかもしれない。
「明日も夜勤ね。六時」
「六時です。今日は八分でした」
「チェーンのせい」
「チェーンのせいでも八分です」
先輩は缶を飲み干し、ゴミ箱に入れて自転車にまたがった。
ペダルに足をかけて、一度だけ振り返る。
「おやすみ、修くん」
「おやすみなさい、先輩」
自転車のライトが、裏門の道をゆっくり遠ざかっていった。
僕はベンチに残って、半分になったコーヒーを飲んだ。
県の教材を作る仕事は、きっと面白いだろう。
でも、教材作りには相棒がいない。
定位のあとに遮断が来ない。
それは、仕事として何かもの足りないと思った。
---
翌朝、報告書の控えを課長の机から回収して、僕は裏門へ向かった。
夜勤明けの九時過ぎ。
空は高く、日差しはまだ夏の名残を残している。
けれど植え込みの影に入ると、風はもう秋のものだった。
自動販売機の前に、人影が二つあった。
ベンチに座っている先輩と、その横に立っている六車さんだ。
夜勤明けにいったん帰ったはずなのに、私服に着替えて戻ってきたらしい。
パーカーを着て、缶を膝の上に置いている。
声をかけようとして、植え込みの手前で足が止まった。
六車さんの声が聞こえたからだ。
「よかったんですか?」
「……うん。修くん、言ってくれた」
先輩の声は、昨夜より少しだけ柔らかかった。
「先輩と相性がいいので、って」
「聞いてたんですか」
「通用口で。たまたま」
六車さんは、ファイルの角を指でそろえていた。
それから、少し首をかしげた。
「それ、恋愛的な意味じゃないですよね?」
先輩の肩が、ぴくりと動いた。
「……仕事の話よ、仕事」
「そうですよね。修くんですもんね」
「そう。修くんだから」
二人は、同じタイミングで小さく笑った。
何の話かは、すぐにわかった。
昨夜の、東雲さんへの返事のことだ。
相性がいいのは仕事の話で、恋愛の話ではない。
先輩の言うとおりだった。
六車さんも、それを確認したかったのだろう。
県から問い合わせが来たときに、人事交流を断った理由を説明できるようにしておきたいのかもしれない。
僕は植え込みの影から出た。
「おはようございます」
二人が同時にこちらを向いた。
先輩の手から、缶が落ちかけた。
「お、おはよう修くん。いつからいたの」
「今来たところです。報告書の控えを回収してきました」
「そ、そっか」
六車さんは、何事もなかったようにファイルを抱え直した。
「おはようございます、修くん。東雲さんの視察記録、県から受領の連絡が来ました。問題なしです」
「よかったです」
「それから、来週の木曜と金曜の予定票をもう作り始めています。私がいないあいだは届出の様式違いは課長が見ますので、くれぐれも」
「確認用の紙は、外してから出しますよ」
「お願いします。私の夏休みがかかっていますからね」
六車さんは真顔でそう言って、庁舎のほうへ歩いていった。
足取りは、昨日よりずいぶん軽かった。
裏門には、僕と先輩が残った。
先輩は缶を握り直して、こちらを見上げた。
「……ほんとに、今来た?」
「今来ました。仕事の話をしてたんですよね」
先輩は、しばらく僕の顔を見ていた。
それから、長い息を吐いた。
「うん。仕事の話」
「僕もそう思います」
「……そうだよね」
先輩は笑った。
どこか、あきれたような笑い方だった。
僕は自動販売機に小銭を入れて、ブラックを一本買った。
朝のコーヒーは、夜とは少し味が違う気がする。
ベンチの端に座ると、先輩が少しだけ横にずれて場所を空けてくれた。
植え込みの向こうで、虫が一匹だけ鳴いていた。
夜の虫が、朝まで鳴き残っているらしい。
九月の終わりまで、あと四週間。
メーターの針は22.5%。
六車さんの夏休みまでは、あと一週間。
今夜も、先輩と夜勤だ。
それで十分だった。




