5. 鳴り続ける自動販売機
三角公園の件から五日が経った。
位置コードのずれは、六車さんの窓口で手順の申し合わせとして残った。
入力した人とは別の人が台帳と地図で数字を照合する。
届出の様式は変わらないが、USBメモリを渡す前に二人の目で同じ場所を指しているか確かめることになった。
僕が作った確認用の紙は、今も用紙の下に挟んでいる。
六車さんはもう何も言わない。
ただ提出のたびに用紙の端をちらりと見る。
この五日のあいだに、夜勤は二日あった。
南口の郵便ポストの投函口が夜中だけ開きっぱなしになる件。
児童館の窓の鍵がひとりでにかかってしまう件。
どちらもDランクで、報告書は一枚ずつで済んだ。
市役所前のロータリーでは、交通安全の横断幕の隣に「秋の市民祭」の案内が貼られ始めた。
昼間の暑さはまだ残っている。
けれど夕方になると、西の山から下りてくる風の温度がはっきり変わる。
蝉の声は先週の半分くらいになった。
盆地の八月の終わりは、いつも急に季節が進む。
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五時前の居室に、六車さんの足音が近づいてきた。
いつもより少し速い足音だった。
「修くん、追加の予定票です。黄色が一件です」
緑のファイルから受付票が一枚抜かれ、僕の机に置かれた。
丁寧な字だった。
怒っている書き方ではないが、最後の一行だけ筆圧が強い。
「裏門の自動販売機、鳴動系、Dランクです。三晩連続で、住民の方から苦情が一件」
「裏門の自動販売機ですか?」
僕は受付票から顔を上げた。
市役所の裏門には、通用口を出てすぐのところに自動販売機が一台だけある。
横には古いベンチが置いてあって、夜勤明けにはたいていそこでコーヒーを飲む。
「……休憩スポットのですよね?」
「そうです。あの、休憩スポットのです」
向かいの席で先輩が顔を上げた。
今日は珍しく、五時前から来ていた。
研修の資料を取りに来たついでだと言っていたが、さっきから資料は一枚もめくられていない。
「えー、あそこ?あそこでコーヒー買うのは魔法班の伝統でしょ?」
「伝統は申請してません」
六車さんは表情を変えずに言った。
「愛ちゃんだって、たまに買ってるじゃない」
「私は昼休みに普通に買っています。音が鳴るのは夜中です」
六車さんは受付票を指でたどりながら読み上げた。
「夜中の一時から三時ごろ、五分おきに缶が落ちる音がする。見に行っても誰もいない。取り出し口にも何も出ていない。お隣のマンションの三階の方からの苦情です」
「五分おき、ですか」
「『ガコン』と書いてあります。同じ階のお宅でも聞こえているそうです」
僕は苦情の日付を見た。
最初の電話は三日前の夜だった。
「業者さんには連絡しましたか?」
「昨日のうちに連絡済みです。委託の古田さんが昼に点検してくれて、機械には異常がないそうです。それで、うちに回ってきました」
先輩が頬杖をついた。
「私、昨日の夜勤明けもあそこで買ったけど。普通だったよ?」
「先輩が帰ったの、零時半くらいでしたよね。苦情は一時からです」
「あ、そっか」
先輩は少し考えるように、自動販売機のある窓の外のほうを見た。
居室の窓からは裏門は見えない。
見えるのは、隣の庁舎の壁と空調の室外機だけだ。
六車さんがメーターを見上げた。
針は黄色の下のほう、26%を少し切ったあたりで小さく震えていた。
「残量、25.9%です。ここ五日の小出動でまた少し減りました。九月の終わりまであと五週間ほどあります。このペースだと最後の一週間が本当に苦しくなります」
六車さんはそう言って、ファイルの角をそろえた。
「なので、今夜も控えめにお願いします。場所が裏門なので移動の分は浮きますけど」
「今日も節約で行きます。軽バンも出しません」
「助かります。燃料費も別の予算ですからね」
六車さんはそこで少しだけ笑った。
それから今度はゆっくりした足取りで自分の席へ戻っていった。
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夕方六時を四分過ぎて、先輩が居室に戻ってきた。
一度家に戻って、着替えてから出直してきたらしい。
制服の上に、いつものパーカーを羽織っている。
夕方の風が涼しくなったので、今日はちゃんと袖を通していた。
「お疲れー。四分?」
「四分です」
「先週は七分だったから、上達してるね」
「上達の基準がおかしいです」
先輩は笑いながら、コンビニの袋を僕の机に置いた。
中からおにぎりが二つ出てきた。
鮭と梅だった。
「今日は近場だから、パンじゃなくておにぎり」
「関係あるんですか?」
「ある気がする。気分の問題だよ」
僕は梅のほうをもらった。
先輩は鮭の包装を剥がしながら、僕の届出を覗き込んだ。
「定位と遮断。いつもどおりだね」
「はい。音の出どころを押さえて、漏れている魔力があれば先輩に切ってもらいます」
「位置コード、今日は二回書かなくていいんじゃない? すぐそこだし」
「すぐそこでも書きます。むしろ、すぐそこだから間違えやすいんです」
「なんで?」
「確かめなくてもわかる気がするからです」
先輩は鮭のおにぎりをくわえたまま、少し黙った。
それから二次確認欄にペンを走らせた。
今日の数字は、六車さんの台帳と庁舎の施設図の両方から拾ってある。
先輩が書き写した数字も、僕のものと一致していた。
課長への電話は、いつもどおり先輩がかけた。
呼び出し音が三回鳴ったところで、低い声が返ってきた。
「七星です。裏門の自動販売機の件、届出二通です。定位と遮断」
先輩が文面を読み上げる。
位置コードを一桁ずつ読んだあと、電話の向こうで少し間があった。
『……裏門か』
「はい、裏門です」
『承認した。定位は五十嵐、遮断は七星。報告書、明日中』
それだけ言って、電話は切れた。
先輩は受話器を置いて、首をかしげた。
「今、課長ちょっと笑わなかった?」
「笑ってはいなかったと思います。間はありましたけど」
「課長もあそこでコーヒー買ってるのかな?」
「でも課長が夜中に裏門にいるところ、見たことないです」
「だよね」
出動は零時五十分と決めた。
苦情が始まるのは一時ごろだ。
音が鳴っているあいだに出どころを押さえたほうが、定位術は少なく済む。
それまでのあいだに、僕は先週分の報告書を二件片づけた。
先輩は研修の資料をようやく三枚めくった。
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零時四十五分に居室を出た。
廊下の非常灯だけが緑色に光っている。
階段を下りると、夜の庁舎の音がよく聞こえた。
どこかの部屋の空調。
自動ドアのセンサーが切れる小さな音。
昼間には気づかない音ばかりだ。
守衛室の窓口で職員証を見せると、守衛さんが顔を上げた。
「お、魔法班さん。今夜は裏かい?」
「はい。自動販売機の件です」
「あれなあ。ここまで聞こえるんだよ、夜中に。ガコン、ガコンって。泥棒かと思って二回見に行ったけど、誰もいなくてさ」
「守衛さんも聞いてたんですか」
「聞いてた聞いてた。三日くらい前からだよ。それまでは静かなもんだったのに」
守衛さんは、ほっとした顔で通用口の鍵を開けてくれた。
裏門の外は、正門側よりずっと暗い。
細い道の先に自動販売機の白い明かりだけが浮かんでいた。
上にかかった街灯は一本きりで、その光も半分は庁舎の植え込みに吸い込まれている。
自動販売機の前には、作業着の男の人がいた。
足元に段ボール箱を置き、懐中電灯で機械の側面を照らしている。
「あ、魔法班の方ですか。古田です。委託でここの補充をやってます」
「五十嵐です。夜分にすみません」
「いえいえ。昼に点検したら何ともなかったんで、音が鳴るところを一度見ておきたくて。六車さんに伺ったら、今夜来られるということなので待っていました」
古田さんは四十代くらいで、日に焼けた腕をしていた。
懐中電灯の持ち方が慣れていて、夜の作業も多いのだろうと思った。
先輩が軽く会釈した。
「古田さん、こんばんは」
「七星さん、どうも。今日はブラックとカフェオレ、ちゃんと入れときましたよ」
「ありがとうございます」
二人のやりとりがあまりに自然だったので、僕は少し驚いた。
「お知り合いなんですか?」
「知り合いっていうか」
古田さんは笑った。
「この機械、もう十年くらい担当してるんでね。ここで買う人の顔は、だいたい覚えちゃうんですよ。夜勤の方の好みも」
「好みまで」
「ホットのブラックが減るのが早い週は、夜勤が忙しい週ですよね」
僕はなんとなく先輩のほうを見た。
先輩は聞こえないふりをして、ベンチに腰を下ろした。
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零時五十八分。
風が裏門の道を抜けていった。
植え込みの葉がこすれ合い、乾いた音を立てる。
夏の夜の重たい風とは違う。
どこか川の水を含んだような、薄い冷たさがあった。
一時ちょうど。
機械の中で、低いモーター音が少しだけ大きくなった。
ガコン。
缶が落ちる音だった。
けれど取り出し口のふたは動かない。
硬貨の投入口にも、ボタンにも、誰も触れていない。
先輩がベンチから立ち上がった。
「……鳴った」
「鳴りましたね」
古田さんが懐中電灯を握り直した。
「これです。昼は絶対に鳴らないんですよ。売れた記録も残ってない」
僕は届出の写しを開き、定位術を薄くかけた。
音そのものは固定できない。
けれど音を出しているものが在るべき場所からずれているなら、そのずれは追える。
機械の中に、ひとつだけ位置の落ち着かないものがあった。
上から二段目。
左から三列目のあたりだ。
「中です。上から二段目の左から三列目」
古田さんが手元のメモをめくった。
「二段目の三列目……ホットのブラックですね」
「ホットに切り替えたのは、いつですか?」
聞きながら、自分でもその質問の意味を考えていた。
音が始まったのは三日前。
昼は鳴らず、夜だけ鳴る。
この時期に変わったことがあるとすれば、それくらいしか思いつかなかった。
古田さんが顔を上げた。
「ちょうど三日前です。この辺は朝晩が冷えるのが早いんで、毎年八月の終わりに二段目だけ先にホットにするんですよ。夜勤の方も多いし」
「その日の夜から、音が」
「……あ」
古田さんは、自分で言ってから口を開けたまま止まった。
五分が過ぎた。
ガコン。
今度は音のする場所がはっきりわかった。
古田さんの懐中電灯が、商品見本の並んだ窓を照らしている。
その奥の二段目で、ホットのブラックの見本缶が細かく揺れていた。
「あの缶、動いてる」
先輩が低い声で言った。
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古田さんが鍵を開け、自動販売機の扉を大きく開いた。
中は思っていたよりずっと整然としていた。
商品の缶が縦の列にきっちり詰まり、配線は束ねられ、どこにも埃がない。
冷えた空気と温かい空気が、扉の境目でゆっくり混ざっていく。
二段目の三列目だけ、うっすら熱を持っていた。
ホットの加熱が入る列だ。
そのいちばん上の缶と、列の仕切り板とのあいだに、細い紙のようなものが挟まっていた。
「古田さん、触らないでください。まだ魔力が残っています」
「は、はい」
古田さんは懐中電灯を持ったまま、半歩下がった。
僕は先輩を振り返った。
「先輩、遮断お願いします。漏れているのは、あの紙からだけです。切ってもらったら、僕が缶を元の位置に固定して回収します」
「うん。任せて」
先輩は扉の前に立ち、右手を軽く上げた。
いつもと同じ、短い動きだった。
一瞬、モーターの音が遠くなった気がした。
仕切り板のすき間で小さくざわついていた気配が、ふっと消える。
「切れたよ」
「ありがとうございます」
僕は定位術で、ブラックの缶を本来の高さに固定した。
缶の揺れが止まり、列の中にまっすぐ収まる。
手袋をはめ、仕切り板のすき間から紙をそっと引き抜いた。
それは半透明の細長い紙片だった。
大きさは電車の切符くらい。
角が丸く、表面には細い線で円と記号が刷られている。
光にかざすと、線の部分だけがかすかに青く見えた。
見覚えがあった。
研修のときに一度だけ、教材として見せてもらったものだ。
「先輩、これ」
振り返ると、先輩はチケットを見たまま固まっていた。
「……あー」
長い、長いため息だった。
「魔法公務員試験の、練習用チケットですよね?」
「うん。たぶん、私のだ」
「先輩の、ですか?」
「私、試験の前の年、ここで勉強してたの。夜中に、このベンチで」
先輩はベンチのほうをちらりと見た。
「練習用のチケットって、手で握って温めると起動するでしょ。で、術を通してまた冷めると止まる。それを毎晩やってたんだけど」
「一枚、なくしたんですか」
「なくした。風が強い夜でね。飛ばないように、見本の窓のすき間に差し込んでおいたの。そしたらすうっと中に落ちちゃって」
「それ、取り出さなかったんですか?」
「取り出せないでしょ、鍵かかってるんだから。冷たいところに落ちたし、そのうち魔力も抜けるだろうって思って」
僕は手の中のチケットを見下ろした。
何年も冷たい列の上に乗っていたのなら、起動しなくても不思議はない。
それが三日前、列がホットに切り替わった。
加熱が入るたびに少しずつ温まり、半分だけ目を覚ます。
冷めかけると止まり、また温まる。
「五分おきって、加熱の周期ですか」
古田さんが、こくこくとうなずいた。
「温度が下がったら、ヒーターが入るんです。夜は冷えるから、ちょうどそのくらいで」
「昼に鳴らないのは」
「昼は暑いんで、ヒーターがほとんど入らないんですよ」
全部がつながった。
古田さんの点検で異常が見つからないのも、当然だった。
機械はちゃんと、言われたとおりに缶を温めていただけだ。
先輩が気まずそうに頭をかいた。
「ごめんなさい、古田さん。三晩も」
「いやあ、原因がわかってよかったです」
古田さんは笑って、それから少しだけ懐かしそうな顔をした。
「七星さん、昔からここ好きだね」
僕は思わず古田さんを見た。
「……知ってたんですか」
「補充で夜に来ると、ベンチで何か書いてる女の子がいたんですよ。毎週。ブラックを一本だけ買って、ずっと置いたままにして」
先輩が、ぱっと顔を上げた。
「覚えてたんですか」
「覚えてますよ。急に来なくなったと思ったら、次に会ったときは制服でした。それで、ああ受かったんだなって」
先輩は何も言わなかった。
自動販売機の明かりに照らされた横顔が、少しだけ赤く見えた。
僕はチケットを封印用の袋に入れ、口を閉じた。
袋の上に、日付と場所を書き込む。
「先輩、これ、届出の必要な教材ですよ」
「知ってる」
「練習用でも、未登録の魔力物になります。廃棄届を出さないと、保管庫に入れられません」
「知ってるってば」
先輩は両手で顔を覆った。
「何年越しに怒られてるんだろう、私」
「怒ってはいません。手順の話です」
「修くんの手順の話は、怒られてるのと同じだよ」
古田さんが、声を出して笑った。
---
そのあとは五分待っても、十分待っても、ガコンとは鳴らなかった。
古田さんは二段目の缶をひとつずつ確かめ、仕切り板の位置を直してから扉を閉めた。
鍵がかかる音が、静かな裏門に小さく響いた。
「これで大丈夫そうですね。マンションの方には明日、私からも一言入れておきます」
「ありがとうございます。市からも窓口の六車が連絡すると思います」
「六車さんによろしく。あと七星さん」
古田さんは段ボール箱を抱え直しながら言った。
「もうチケットは挟まないでくださいね?」
「もう持ってません」
先輩は少しむっとしたように答えた。
古田さんは笑って、裏門の道を歩いていった。
懐中電灯の明かりが、植え込みの角を曲がって見えなくなる。
裏門には、僕と先輩だけが残った。
自動販売機は何事もなかったように白く光っている。
モーターの音も、さっきより穏やかに聞こえた。
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居室に戻ったのは、二時を少し過ぎた頃だった。
廊下の向こうに、まだ明かりがついていた。
六車さんの席だ。
「六車さん、まだいたんですか」
「結果を聞いてから帰ろうと思って。ここで寝てました」
六車さんの頬には、うっすらと袖の跡がついていた。
机の上には、畳んだカーディガンが枕代わりに置いてある。
「裏門、解決しましたよ。原因は、試験用の練習チケットの置き忘れです。三日前にホットに切り替えたのがきっかけで、温まって反応していました」
六車さんは、ゆっくりと先輩のほうを見た。
「……涼さんの、ですか?」
「どうして私だってわかるの?」
「この班で、裏門のベンチに一番長くいるのは涼さんなので」
先輩は反論しかけて、やめた。
「……私のです。試験の前の年に、なくしたやつだと思う」
「わかりました」
六車さんは引き出しを開け、用紙を一枚取り出した。
未登録魔力物の廃棄届だった。
それを僕の机ではなく、先輩の机に置いた。
「涼さん、自分で出してくださいね」
「えっ」
「いつもは修くんが涼さんの分まで書いてくれていますけど、これは涼さんの私物です。修くんの仕事ではありません」
先輩が僕を見た。
僕は自分の使用報告書から顔を上げなかった。
「僕は定位と遮断の記録と、回収の経緯を書きます。廃棄届の『取得の経緯』の欄は、先輩しか書けません」
「修くんまで」
「経緯を知らないので」
先輩は観念したようにペンを取った。
取得の経緯の欄に、ゆっくりと文字を書いていく。
いつもの大きくて丸い字が、今日は少しだけ小さかった。
封印袋は六車さんの受け取り箱に入れた。
六車さんが黄色いラベルを貼り、「廃棄待ち」と書き込んだ。
それから、メーターを見上げた。
「残量、24.8%です」
「25%を切りましたね」
「はい。でも今夜は、移動がなかった分よく抑えられています。原因を一度で特定してもらえたので」
六車さんはそう言って、少しだけ目元をゆるめた。
「お疲れ様でした。私、今度こそ帰ります」
「お疲れ様です。気をつけて」
六車さんはカーディガンを羽織り、鞄を肩にかけた。
ドアの前で一度だけ振り返る。
「涼さん。経緯の欄は『風が強かった』だけだと差し戻しになりますからね」
「……書き直します」
六車さんが出ていったあと、先輩はしばらく黙って廃棄届に向かっていた。
僕は使用報告書の最後の欄に、加熱周期と鳴動の間隔が一致していたことを書き足した。
今後、同じ時期に似た苦情が出たときのためだ。
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報告書を課長の机に置いて裏門を出たのは、三時の少し前だった。
守衛さんが「静かになったな」と言って笑った。
通用口を抜けると、さっきよりも空気が冷えていた。
空の端は、まだ夜の色のままだ。
自動販売機の前で、先輩が足を止めた。
小銭を入れ、ボタンを二回押す。
ごとん、ごとんと缶が落ちた。
今度はちゃんと、取り出し口に二本並んでいた。
「はい。今日はホット」
「二段目の、ですか」
「二段目の。せっかく温まってるし」
渡されたのはブラックだった。
手のひらに、じんわりと熱が移ってくる。
先輩のは、いつものカフェオレだった。
ベンチに並んで座った。
塗装の剥げた座面は夜気で冷たく、缶の温かさがちょうどよかった。
植え込みの向こうで、虫が細く鳴いている。
夏の虫とは声が違う。
先輩は缶を開けずに、両手で包んだまま持っていた。
「このベンチでね、合格するまで毎晩座ってた」
「毎晩ですか」
「毎晩。家だと寝ちゃうし、図書館は閉まるし。ここなら明るいし、静かだし、コーヒーもあるし」
先輩は自動販売機の明かりを見上げた。
「市役所の裏で勉強してたら、なんか受かりそうな気がしたんだよね。我ながら単純」
「……すごいですね」
僕は本気でそう思った。
毎晩ここに通って、冷えたベンチで術の練習をして、それを一年続ける。
僕にはたぶん、場所を変えずに続けることはできても、それを楽しそうに話すことはできない。
先輩は少し笑って、ようやく缶を開けた。
「修くんも毎晩届出書いてるでしょ。同じだよ」
「それは仕事です」
「仕事でも、毎晩は毎晩」
「先輩の分も書いてますからね」
「それは感謝してます」
先輩はカフェオレを一口飲んで、息を吐いた。
白くはならなかった。
それでも、あと少しで白くなりそうな夜だった。
「ここで勉強してたとき、夜中に市役所の窓を見てたの。三階の端っこの部屋。いつも電気がついてて」
「夜勤魔法班の居室ですね」
「うん。あそこに入りたいなって思ってた」
先輩は缶を膝の上に置いた。
「入ってみたら、残量はいつも黄色だし、愛ちゃんは怖いし、課長は寝てるし」
「全部本人に言わないでくださいね」
「言わない。でも、修くんが来てから書類が早く出るようになったし」
先輩はそこで、言葉を少しだけ探すように黙った。
「だから、この班好きなんだよね」
「え?」
僕が顔を向けると、先輩は慌てたように缶を持ち直した。
「仕事の話!」
「はい。仕事の話ですよね」
「そう。仕事の話」
先輩はそれきり前を向いた。
耳のあたりが、自動販売機の明かりで少し赤く見える。
寒さのせいだろうと思った。
さっきから、風が一段冷たくなっている。
「僕も、この班はいいと思います」
「……そっか」
「手順を守ると、先輩がちゃんと現場で動いてくれるので。順番が合うと、魔力も少なく済みますし」
先輩は一瞬だけこちらを見て、それから小さく吹き出した。
「修くんらしい」
「何がですか」
「なんでもない」
先輩はカフェオレを飲み干し立ち上がった。
空き缶をゴミ箱に入れて、自転車置き場のほうへ歩いていく。
途中で一度だけ振り返った。
「明日も夜勤ね。六時集合だよ」
「六時です。四分は上達じゃありませんよ」
「じゃあ三分だ」
交渉になっていない。
僕が手を振ると先輩も手を振り返し、植え込みの角の向こうへ消えていった。
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僕はもうしばらくベンチに残った。
缶の中のコーヒーは、まだ半分くらい残っている。
ゆっくり飲みながら、庁舎の三階を見上げた。
居室の窓はもう暗い。
あの壁の向こうで、メーターの針は24.8%のところで止まっているはずだ。
先輩は何年か前、このベンチからあの窓を見ていた。
今、僕はそのベンチに座って、同じ窓を見ている。
不思議な感じがした。
けれど、それ以上のことは考えなかった。
先輩がここで勉強して、試験に受かって、夜勤魔法班に入った。
だから今夜、僕の隣でコーヒーを飲んでいた。
順番どおりの、筋の通った話だ。
二段目のホットの列は、静かに温まり続けている。
もう缶が揺れることはない。
僕は空になった缶をゴミ箱に入れて、通用口へ戻った。
九月の終わりまで、あと五週間。
今夜は、裏門の音が止んだ。
それだけで十分だった。




