4. 位置の入力ミス
かみまちの夏祭りが終わって三日が経った。
市役所前のロータリーからは提灯の見本が外され、代わりに「秋の交通安全運動」の横断幕が張られていた。
文字の色はまだ新しく、夏の日差しに少しまぶしい。
昼間の暑さは相変わらずだが、夕方になると西の山から乾いた風が下りてくるようになった。
蝉の声も気がつけば数が減っている。
盆地の八月は終わりが近づくと急に風の匂いが変わる。
夜勤魔法班の居室ではエアコンの音が先週より少しだけおとなしかった。
ブラインドの隙間から入る光は角度が低くなり、机の上の縞模様が長く伸びている。
壁の魔力残量メーターは、黄色の下のほうで小さく震えていた。
この三日のあいだに夜勤は二日あった。
祭りの翌朝、アーケードに張られた旗が勝手にほどけては結び直されるという相談があり、旗の結び目を元の位置に固定した。
その翌晩は、南口の児童公園で止めたはずの噴水が夜中に一度だけ水を噴き上げる件だった。
出口を一点に固定し先輩が漏れた魔力を切った。
どちらもDランクで報告書は一枚で済んだ。
「修くん、今夜の予定票です。今回は黄色です」
六車さんがファイルの束から一冊を抜き、僕の机に置いた。
黄色は市の窓口に直接届いた相談だ。
警察や消防を通らず、住民から六車さんの窓口へ直接電話が来たものがこの色になる。
「三角公園、街灯系、Dランク継続です。昨夜から三件、同じ内容の電話がありました」
「三角公園って、ポチがいたところの?」
「はい。あの路地のすぐ表です」
六車さんはファイルを開き、苦情の受付票を三枚並べた。
「夜になると、公園の街灯だけが一晩じゅう点きっぱなしになるそうです。周りの道路の街灯は深夜になると半分消える設定なんですけど、公園の四本だけは消えない。それどころかだんだん明るくなっている気がする、と」
「電気の故障ではないんですか?」
「道路課が昼に見に行ってくれました。配線もタイマーも正常で、スイッチを切れば消える。でも、夜になるとまた全部点くそうです。それで原因不明ということでうちに回ってきました」
受付票の文字は、三枚とも少しずつ違う字だった。
寝室のカーテン越しでも明るい。
子どもが夜中に起きてしまう。
虫が集まって網戸が真っ黒になる。
どれも困ってはいるが、怒ってはいない書き方だった。
ポチを探した夜に会った住民たちの顔が浮かんだ。
「位置データはこちらに入れてあります」
六車さんが、小さなUSBメモリをファイルの上に置いた。
出動先の位置コードは、届出に書き写す前にこうしてデータで受け取ることになっている。
軽バンのナビにも同じデータを読み込ませることになる。
僕はUSBメモリをパソコンに差し、中の数字を確かめた。
長い数字の並びが一行。
その下に、街灯四基の番号が並んでいた。
「残量、27.6%です。祭りのあとの二件でまた少し減りましたね」
六車さんはメーターを見上げて言った。
「九月の終わりまで、あと一か月とちょっとです。この残量だと、余裕はほとんどありません。Dランクなので、今夜は控えめでお願いします」
「なるべく節約します」
僕は届出用紙を二通取り出した。
定位術の欄に、街灯の点灯に絡んだ魔力の出口を固定する文面を書く。
位置コードの欄にはUSBメモリの数字を書き写した。
それから、引き出しから小さな紙を一枚出して用紙の下に挟んだ。
昨日の夜、自分で作っておいたものだ。
「位置コード 一次確認」
「位置コード 二次確認」
二つの欄には同じ数字を書き込む枠がある。
ポチの件で、台帳の住所と実際の住まいがずれていたことが、ずっと頭に残っていた。
届出の位置がずれていれば、現場で術はきちんと効かない。
研修でも位置の確認は大切なので二回と教わった。
一次確認欄にはUSBメモリの数字を書き写す。
届出の位置コード欄と見比べて、一桁ずつ指でなぞった。
一致している。
六車さんが僕の用紙の端からはみ出した紙に気づいた。
「修くん、それ、何ですか?」
「位置コードの確認欄です。自分で作りました」
「ダメですよ。届出に欄を増やさないでください。フォーマットが変わります」
「挟んでいるだけです。提出するときは外します」
「外すなら、まあいいです」
六車さんは少し考えてから、付け足した。
「でも、外し忘れて課長に出したら、様式違いで差し戻しになります。差し戻しの処理をするのは私です」
「外し忘れません」
「お願いします。様式番号が一つ増えるだけで、私の夏休みが一日減るんです」
「六車さん、夏休み取ったんですか?」
「これから取る予定です。九月に、二日だけ」
六車さんはそう言って、少しだけ遠い目をした。
---
夕方六時を過ぎても、先輩はまだ来なかった。
窓の外では、西の山の稜線が赤から紫へ色を変えていく。
日が沈む時刻は、先週より明らかに早くなっていた。
ロータリーの街灯が順番に点き、帰っていく職員の影が長く伸びる。
六時二分。
六時五分。
六時七分になったところで、居室のドアが開いた。
「修くん、お疲れー。ごめん、遅くなった」
「七分です」
「……誤差だよ」
「先週は三分でした」
「先週は先に書く週だったから」
「今週は?」
「今週は、普通の週」
先輩は笑ってコンビニの袋を机に置き、パーカーを椅子の背にかけた。
袋の中から、カップのコーヒーが二つとメロンパンが二つ出てきた。
「パンもですか」
「なんか今日、夜が長くなる気がしたの」
「なんでですか」
「勘」
先輩はメロンパンを一つ僕の机に置いた。
ブラックのカップも一緒に置く。
「ありがとうございます」
「いいのいいの。お祭り、結局行けなかったからさ。その分のお祭り気分だよ」
「メロンパンが、ですか?」
「屋台っぽいでしょ。丸いし」
屋台っぽいかどうかはよくわからなかった。
確かに祭りの三日間、僕たちはずっと夜勤だった。
本番の夜、居室の窓からはかみまちの方角の空がほんのり青く明るく見えた。
野口さんが今年度の様式で取り直した許可証の狐火だ。
先輩はその夜、報告書を書く手を何度か止めて、窓の外を見ていた。
「先輩、狐火、来年は見に行けるといいですね」
「来年は休み取るよ。六月に許可証確認して、八月に休みだ」
「六月の許可証確認は、僕の仕事でしたよね?」
「そう。だから私は休める」
先輩は得意そうに言い、僕の届出を覗き込んだ。
「位置コード、二回書く欄がある」
「確認用です。さっき六車さんには欄を増やすなと言われました」
「挟んでるだけでしょ。えらい。私も書く」
先輩は二次確認欄に、USBメモリの数字を自分で書き写した。
数字の一つ一つが大きく丸いが、並びは合っている。
これで、二人とも同じ数字を確かめたことになる。
課長への電話は、いつもどおり先輩がかけた。
呼び出し音が四回鳴り、寝息とも返事ともつかない声が返ってきた。
「七星です。三角公園の街灯の件、届出二通です。定位と遮断」
先輩が文面を読み上げる。
位置コードの数字まで、一桁ずつ読んだ。
電話の向こうで紙をめくる小さな音がした。
『承認した。定位は五十嵐、遮断は七星。報告書、明日中』
「了解です」
電話を切った先輩が、何気なく僕のカップに手を伸ばした。
「先輩、それ僕のです」
「あ、ごめん。手が勝手に」
「手が勝手に、は届出に書けません」
「書かなくていいのよ、そういうのは」
先輩は自分のラテを取り、一口飲んだ。
出動は九時半と決めた。
三角公園は住宅街の真ん中にある。
夕方は子どもが遊んでいるし、夜の早いうちは犬の散歩の人も多い。
人が引いてからのほうが、住民を驚かせずに済む。
---
九時半に市役所を出た。
軽バンのナビには、六車さんのUSBメモリからデータを読み込ませてある。
助手席で僕は届出の位置コード欄と、ナビの画面に表示された目的地の数字を見比べた。
一致していた。
新市街の大通りはこの時間になると信号の青が長くなる。
先輩は今夜も制限速度ぴったりで、黄色になる前にきちんと交差点を抜けていった。
駅前のビジネスホテルの前を過ぎ、線路の高架をくぐる。
いつもなら、ここで右に曲がって南口の住宅街へ入る。
ところが、ナビがまっすぐ進めと言った。
「この先、直進です。およそ八キロメートル先、目的地周辺です」
「八キロ?」
先輩が声を上げた。
「三角公園、もうすぐそこだよね?」
「そこの角を右です」
画面を見ると、ナビの線は南口の住宅街を素通りして、市の南の外れへ延びていた。
線の先には、細長い緑色の帯がある。
地図の表示を拡大すると、帯の脇に小さな文字が出た。
廃線跡ウォーキングコース。
「先輩、三角公園、こっちじゃないです」
「でも、ナビはこっちだって」
「ナビは、USBのとおりに案内してます。USBの位置が、廃線跡になってるんです」
先輩はハザードランプを点けて、路肩に軽バンを寄せた。
僕は届出の位置コード欄をもう一度見た。
一次確認欄と二次確認欄。
三つの数字は、きれいにそろっている。
そろっているのに、場所が違う。
そこで気づいた。
三つとも、同じUSBメモリから書き写した数字だった。
元のデータがずれていれば、何回書き写しても、同じずれ方をする。
僕の確認欄は、書き写し間違いを防ぐことはできても、元の数字が正しいかどうかは確かめられない。
「修くん、どうしたの?顔、固まってるよ」
「……確認の仕方が、間違ってました」
「確認はしてたじゃん。二人で」
「二人で、同じものを見てただけでした」
僕はスマホを取り出し、六車さんに電話をかけた。
呼び出し音が一回鳴らないうちに、六車さんが出た。
「はい、六車です」
「五十嵐です。三角公園の位置コードを確認させてください。USBメモリから入力した位置コードで、ナビが廃線跡のウォーキングコースに向かっています」
電話の向こうでキーボードを叩く音がした。
マウスのクリック音が二回。
それから、六車さんの息がふっと止まる気配があった。
「あ」
「え?」
「小数点、一つずれてました」
隣で、先輩が小さく繰り返した。
「小数点、一つ」
「台帳から写すとき、桁を一つ読み違えたみたいです。三角公園は、正しくはこちらの数字です。今すぐ送ります」
六車さんの声は、いつもより少し低かった。
すぐにメールが届いた。
メールを開くと、位置コードの末尾近くで数字が一つ横にずれていた。
小数点の位置が一つ違うだけで、地図の上では八キロも離れる。
「本当にすみません」
「いえ。僕も、元の台帳と照らし合わせてませんでした」
「それは、私の仕事です」
六車さんはきっぱり言い、それから続けた。
「それで、二つお願いがあります。一つは、届出の位置コードを書き直して、課長にもう一度承認をもらってください。届出の位置と現場が違うと、術がきちんと効きません」
「はい」
「もう一つは、廃線跡のほうにも一度寄ってもらえませんか」
「廃線跡にですか?」
「さっき課長が承認した届出には、廃線跡の位置コードが書いてあります。その数字で出動記録が残ってしまっているので、その位置で何もなかった、という現地確認の記録がないと、記録の上では廃線跡で何かが起きて、そこに出動したことになってしまうんです」
先輩がハンドルにもたれて、小さく笑った。
「記録の上では、廃線跡の街灯を直しに行ったことになるんだ」
「廃線跡には街灯が三本しかありません」
六車さんは真面目に答えた。
「訂正の書類は私が作ります。ただ、現地確認の記録だけは、現場の人にしか書けないので」
僕は先輩の顔を見た。
先輩は、肩をすくめた。
「じゃあ、まず行ってみよ。遠回り」
「三角公園はそのあとすぐ向かいます。手順通りに、まず現地確認からです」
「お願いします。三角公園のほうは、私がしばらく様子を見ておきます。住民の方から電話があったら、もうすぐ着くとお伝えします」
電話を切ると、僕は届出の位置コード欄に二重線を引いた。
その横に、六車さんから届いた正しい数字を書き込む。
今度はスマホで市の地図を開き、三角公園の位置を表示して、その数字とも照らし合わせた。
一次確認欄にも、二次確認欄にも、新しい数字を書く。
二次確認欄は、先輩が地図を見ながら自分で読み上げた数字だ。
それから課長に電話をかけた。
呼び出し音が六回鳴った。
「五十嵐です。三角公園の件、位置コードに誤りがあったので、届出を訂正します。正しい位置コードを読み上げます」
数字を読み上げると、電話の向こうで長い息が聞こえた。
寝ているのか考えているのか、わからない息だった。
『承認した。訂正の経緯は報告書に書け。誰も責めるな』
「はい」
電話が切れた。
最後の一言が、少しだけ耳に残った。
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廃線跡ウォーキングコースは、市の南の外れ、田んぼと丘のあいだを縫うように延びている。
三十年ほど前に廃止になった私鉄の線路を、市が舗装して遊歩道にしたものだ。
昼間は散歩やジョギングの人が多いが、夜は人通りがぐっと減る。
入り口の駐車場に軽バンを停めて降りると、空気がひんやりしていた。
市街地より標高が少し高く、田んぼを渡ってくる風に水の匂いが混じっている。
足元の草むらでは、蝉ではなく秋の虫が鳴いていた。
同じ高山市の中なのに、ここだけ季節が一つ先に進んでいるようだった。
遊歩道の入り口には、古い踏切の遮断機が一本だけ、記念に残されていた。
白と黒の縞模様は色あせ、根元には案内板が立っている。
その横には背の低い街灯が一本。
六車さんの言ったとおり、見える範囲の街灯は三本しかなかった。
どの街灯も普通に点いている。
僕は届出の写しを開き、元の位置コードが指していた場所まで歩いた。
入り口から二百メートルほど先、遊歩道が小さくカーブするあたりだ。
そこには木のベンチが一つあり、そばに錆びたレールが一区間だけ埋め込まれていた。
ベンチの前でしゃがみ、目を閉じる。
定位術を使うわけではない。
ただ、魔力の残り方を感じ取るだけなら、術を使わなくてもできる。
石や木やレールには、ずっと同じ場所にあるものだけが持つ落ち着いた重さがあった。
ずれも、漏れも、何もない。
「反応、なしです」
「平和だねえ」
先輩が言い、ベンチの横の案内板を懐中電灯で照らした。
昔この場所にあった駅の写真が載っている。
小さな木造の駅舎と、ホームに立つ駅員。
「昭和四十八年」と書いてあった。
僕はスマホで、ベンチとレールと街灯の写真を撮った。
現地確認の記録欄に、時刻と「魔力反応なし。異常なし」と書き込む。
そのとき、遊歩道の先からスマホのライトが二つ揺れながら近づいてきた。
大学生くらいの男女だった。
二人とも地面を照らしながら、ゆっくり歩いてくる。
女性のほうが、少し泣きそうな顔をしていた。
「あの、すみません」
男性が、僕たちの制服に気づいて声をかけてきた。
「市役所の方ですか?この辺にお守りが落ちてませんでしたか?」
「お守りですか?」
「赤いやつです。小さい鈴のついたのなんですけど」
女性が両手の指で、親指ほどの大きさを作ってみせた。
「さっきまで、このへんを歩いてて。家に帰ろうとして駐車場まで行ったら、鞄につけてたのがなくなってて」
「どこで落としたか、心当たりはありますか?」
「わからないんです。入り口からずっと奥の橋のところまで行って、戻ってきたので」
奥の橋までは、一キロ以上ある。
暗い遊歩道を二人でスマホのライトだけで探すのは、たしかに大変そうだった。
先輩が僕の顔を見た。
「修くん、定位で探せない?」
小声だった。
僕は首を振った。
「届出にないので、使えません。今夜の届出は、三角公園の街灯です」
「だよね。言ってみただけ」
先輩はあっさり引き下がった。
それから、二人のほうに向き直った。
「一緒に探しましょうか。四人いたほうが早いし」
「いいんですか?」
「ここでの作業はもう終わったので大丈夫ですよ」
先輩が僕を見る。
僕はうなずいた。
三角公園には六車さんが連絡を入れてくれている。
十分だけなら、と思った。
僕は、女性の鞄を見せてもらった。
肩掛けの布の鞄で、持ち手の付け根に小さな金具がついている。
お守りの紐を通していたのはここだろう。
金具の口が、少しだけ開いていた。
「この金具、どこかに引っかけましたか?」
「引っかけたのかな……」
女性は首をかしげた。
男性が、あ、と声を出した。
「さっき、このベンチで休んだよね。鞄、背もたれにかけてた」
僕はベンチを見た。
背もたれの板と板のあいだに、指が入るくらいの隙間がある。
鞄を背もたれにかけて、立ち上がるときに引っ張れば、金具が板の角に当たる。
そこで口が開けば、お守りは紐ごと抜けて背もたれの後ろに落ちる。
物には、落ち着く場所がある。
地蔵には地蔵の、狐火には狐火の、使い魔には使い魔の。
落とし物にも、落ちるべくして落ちる場所がある。
定位術の研修で最初に習ったのは、術の使い方だけではなく、その考え方だった。
僕はベンチの後ろに回り、懐中電灯で地面を照らした。
背もたれの真下は、少しだけ土がくぼんでいる。
そこに、草に半分隠れるようにして、赤いものが落ちていた。
拾い上げると、小さな鈴がちりんと鳴った。
「ありました」
「あった」
女性の声が、急に明るくなった。
お守りを両手で受け取り、胸の前で握りしめる。
赤い布地に、金の糸で「縁結び」と刺繍されていた。
「よかった。これ、二人で初めて行った神社のなんです」
「大事なものですね」
「はい。ありがとうございます。本当に」
男性も深く頭を下げた。
二人はお守りを鞄の内ポケットにしまい、何度も振り返りながら駐車場のほうへ歩いていった。
スマホのライトが二つ、今度は並んで揺れていた。
先輩が、僕の横で腕を組んだ。
「修くん、魔法使ってないのに見つけたね」
「落ちそうな場所を、順番に見ただけです」
「そういうのを、優しいって言うんだよ」
「仕事のついでです」
「ついでで、ベンチの後ろまで回る人はあんまりいないの」
先輩はそう言って、遊歩道の暗がりに目をやった。
「縁結び、だって」
「書いてありましたね」
「いいなあ」
「お守りがですか?」
「そう。お守りが」
先輩はなぜか少し笑って、くしゃみをした僕の背中を叩いた。
いつの間にか、僕は半袖の腕に鳥肌を立てていた。
田んぼを渡ってくる風は、市街地の夜より二度か三度は冷たい。
「寒いでしょ。これ、持ってて」
先輩が肩にかけていたパーカーを外して、僕の肩にかけた。
グレーのいつものパーカーだ。
少しだけコンビニのコーヒーの匂いがした。
「先輩が寒くなりますよ」
「私は平気。運転するとき暑いし」
スマホが震えた。
六車さんからのLINEだった。
『三角公園、住民の方からまた電話がありました。街灯がさっきより明るくなっているそうです。早めにお願いします』
「先輩」
「うん。行こう」
僕たちは、駐車場まで小走りで戻った。
---
三角公園に着いたのは、十時四十分を過ぎていた。
予定より一時間以上遅い。
軽バンを公園の脇に停めた瞬間、先輩が小さく声を漏らした。
「うわ、明るい」
公園が、白く光っていた。
四本の街灯がすべて点き、それぞれの真下に地面が見えないほどの丸い光だまりができている。
光は街灯の高さを超えてふくらみ、公園全体を白い膜で包んでいるように見えた。
周りの道路の街灯は、深夜の設定どおり一本おきに消えている。
そのせいで、三角形の公園だけが夜の住宅街にぽっかり浮かび上がっていた。
街灯の笠のまわりには、虫が渦を巻いていた。
羽音が近づくだけで聞こえる。
公園の向かいの家の前に、住民が四、五人集まっていた。
パジャマの上にカーディガンを羽織った女性、抱っこ紐で赤ちゃんを抱えた若い父親、自転車にまたがった高校生。
「市役所の方?」
女性が声をかけてきた。
「市民安全課、魔法対応班の五十嵐です。遅くなって申し訳ありません」
「いいのよ。さっき電話くれた六車さんも、すごく丁寧だったから」
女性は、公園の光に目を細めた。
「でもこれ、三晩目なの。今夜はとくにひどくて。うちの寝室、公園のほうに窓があるのよ」
「うちは、この子が夜中に三回起きました」
若い父親が抱っこ紐の中をのぞきこんだ。
赤ちゃんはまぶしそうに眉を寄せて眠っている。
「今夜中に片づけます。もう少しだけ、離れて待っていてもらえますか?」
先輩が、住民と話すときのやわらかい声で言った。
「お願いね」
住民たちは、道路の向こうへ少し下がった。
先輩は自転車の高校生にだけ、小声で付け加えた。
「受験生?」
「まあ」
「夜、明るいと勉強はかどった?」
「ちょっとだけ」
高校生が照れたように笑うと、先輩も笑った。
「でも今夜で暗くなるからね。もう遅いし、帰り道は気をつけてね」
高校生は軽く頭を下げ、自転車で角の向こうへ消えた。
住民と話すのは、やっぱり先輩のほうがうまい。
僕は四本の街灯を、一本ずつ見て回った。
目を閉じると、四本ともに魔力が絡んでいる。
ただ、出どころは一本だけだった。
公園の入り口に一番近い街灯から、細い糸のような魔力が残りの三本へ延びている。
懐中電灯でその一本の柱を照らした。
地面から一メートルほどの高さに、子どもの落書きがあった。
黄色いクレヨンで描いた、五つの角のある星。
角が少し丸く、線が一本はみ出している。
その横に、小さな字で「よる、まっくらでこわい」と書かれていた。
「先輩、これです」
先輩が懐中電灯をのぞきこんだ。
「落書きだ。星、かな?」
「子どもの落書きです。たぶん、この子に少しだけ魔力があったんだと思います。夜が暗くて怖い、明るくなればいい、と思いながら描いた絵に願いが少しだけ乗ったんです。普通なら、それだけで消えるくらいの弱いものです」
「でも、街灯に描いちゃった」
「はい。街灯の点灯の魔力と絡んで、星の形に引っかかりました。夜になるたびに、街灯の光を吸って少しずつ大きくなってます」
星の線の縁に、目に見えないざわつきがあった。
五つの角から光が少しずつにじみ出して、柱を伝って笠まで上っていく。
笠から先は、隣の街灯へ。
四本が、星一つでつながっていた。
「消しちゃうの、ちょっとかわいそうだね」
先輩が言った。
「絵は消しません。絵に引っかかってる魔力の出口を固定して、光が広がるのを止めるだけです。落書きそのものは、明日、道路課の人に相談します」
「そっか。じゃあ、いつもの順番でいこう」
「はい。先に僕が固定しますので、先輩が光の広がりを切ってください」
僕は星の前に立ち、手のひらを向けた。
訂正した届出の位置コードが、ここを指している。
今度は、ずれていない。
星の縁を探り、五つの角からにじみ出している魔力を絵の真ん中の一点へ寄せていく。
定位術ははめ込む作業だ。
今夜は星の中にあふれた願いを星の中に戻す。
少しずつ、呼吸を一つ置いて。
にじみが止まり、星の輪郭がクレヨンの線の内側へ収まった。
「固定しました」
「了解。いくね」
先輩が人差し指と中指をそろえ、一本目の街灯に向かって短い線を引いた。
耳の奥の小さな音が、すっと途切れる。
笠のまわりにふくらんでいた光が、しぼむように元の大きさに戻り、それから消えた。
二本目。
三本目。
先輩はそのたびに、街灯の方向へ体を向け直して丁寧に線を引いた。
一本消えるごとに公園の白い膜が薄くなっていく。
虫の渦がほどけ、羽音が遠のく。
四本目が消えたとき、公園は急に暗くなった。
周りの道路の街灯と、家々の窓から漏れる明かりだけが、三角形の敷地の輪郭をなぞっている。
滑り台とブランコの影が、ようやく地面に戻ってきた。
道路の向こうで、誰かがほっと息をつく音がした。
「暗くなった」
パジャマの女性が言った。
「普通の暗さね。ちょうどいい暗さだわ」
「明日からは、普通に点いて普通に消えるはずです」
僕は言い、それから付け加えた。
「街灯の柱の落書きの魔力はもう切れています。道路課には消すかどうか相談しておきます」
「落書きって、子どもの?」
「はい。星の絵です。夜が怖い、と書いてありました」
女性は少し驚いた顔をして、それから公園の暗がりを見た。
「三丁目のリンちゃんかもね。最近、夜泣きがひどいってお母さんが言ってたから」
「そうなんですか」
「お母さんに明日言っとくわ。怒らないようにって」
女性はそう言って、家の中に戻っていった。
若い父親も赤ちゃんを抱え直して頭を下げ、玄関の明かりの中に消えた。
僕は写真を撮った。
消灯した四本の街灯と、柱の星の落書き。
いつものように夜景モード、ブレはなかった。
「街灯は消したけど、リンちゃんは今夜も暗いの怖いんだろうね」
先輩が柱の星を懐中電灯で照らしながら言った。
「明日、六車さんにこの周りの夜間照明の相談窓口を案内してもらいます。常夜灯を一本足すとか、方法はあると思います」
「動かさずに済む方法だね」
「はい。地蔵のときと同じですね」
先輩は小さく笑って、懐中電灯を消した。
---
軽バンで市役所へ戻る道は、もう車がほとんど走っていなかった。
信号は黄色の点滅に切り替わり、新市街の大通りが、がらんと広く見える。
先輩が窓を少し開けた。
入ってきた風は、廃線跡ほどではないが昼の熱がすっかり抜けていた。
「修くん、怒ってる?」
「怒ってませんよ」
「愛ちゃんのこと」
「ミスはミスです。でも、僕の確認も確認になってませんでしたからね」
「二人で同じUSB見てたもんね」
「次からは別のもので確かめます。台帳と、地図と、USBと」
先輩はハンドルを軽く指で叩いた。
「課長、電話の最後になんて言ってたの?」
「訂正の経緯は報告書に書け。誰も責めるな、と」
「課長らしい」
「課長らしいんですか」
「うん。あの人、そういうとこだけは起きてるの」
先輩はそう言って、メロンパンの袋を片手で開けた。
夕方に買った二つのうちの一つだ。
結局、出動中には食べる暇がなかった。
「先輩、運転中ですよ」
「信号、点滅だから」
「点滅でも運転中です」
「じゃあ、赤で止まったら食べる」
先輩は袋を膝の上に置いたまま、次の交差点まで待った。
でも、点滅の信号ばかりで赤で止まる交差点は一つもなかった。
市役所の裏門に着くまで、メロンパンは膝の上にあった。
---
居室に戻ると、六車さんがいた。
日勤は終わっている。
位置の訂正が入ったと連絡を受けて、呼び出しで戻ってきたところだった。
机の上には、位置データの台帳と訂正の書類が三枚並んでいた。
六車さんは、僕たちが入ってくるなり椅子から立ち上がり、深く頭を下げた。
「本当にすみませんでした」
「顔、上げてください」
先輩が言った。
「三角公園、ちゃんと暗くなったよ。住民の人、愛ちゃんの電話が丁寧だったって言ってた」
六車さんは顔を上げたが、表情は硬いままだった。
「入力したのは私です。確認も、私一人でしていました」
「僕たちも、六車さんのデータを二回書き写しただけで元の台帳と比べてませんでした。二人とも、同じものを見ていただけです」
六車さんは少し黙って、僕の机に置かれた補助欄の紙を見た。
二重線で消した古い数字と、その横の新しい数字。
「位置確認、今後は二人でお願いします。入力した人と別の人が、別の資料で」
「はい」
「私も台帳から写すときには地図で一回確かめる手順を入れます。ダブルチェックです」
「お願いします」
六車さんは、ようやく少しだけ表情をゆるめた。
それから、補助欄の紙をつまみ上げた。
「あと、これは様式には入れられません。でも、個人のメモとして使うのは止めません」
「外し忘れないようにします」
「外し忘れたら、差し戻しですからね」
「夏休みが一日減るんですよね」
「減っちゃいます」
先輩が、横でくすっと笑った。
六車さんはメーターを見上げた。
「残量、26.2%です。出動時間は予定の倍でしたけど、魔力はそこまで使っていません。廃線跡で何もしなかったので」
「遮断、四回です。街灯が四本だったので」
先輩が言った。
「一本ずつ、丁寧でしたね」
「一回で四本まとめて切ると、広くなるでしょ。広いと、愛ちゃんが怖い顔するから」
「怖い顔なんてしてません」
六車さんはそう言いながら、メモ帳に数字を書き込んだ。
口の端が、少しだけ上がっていた。
僕は報告書を広げた。
位置コード入力の誤り、正しいデータの再送、届出の訂正と再承認、廃線跡での現地確認、三角公園への到着遅延。
起きたことを、起きた順に書いた。
入力者の欄には六車さんの名前を、確認者の欄には僕と先輩の名前を書いた。
誰が悪かったかは書かなかった。
課長に言われたからではなく、書く必要がないと思ったからだ。
廃線跡でのお守りの件は、少し迷ってから備考欄に一行だけ書いた。
「現地確認中、住民の遺失物捜索に協力。魔法の使用なし」
先輩の報告書は、今夜も六割ほど自分で書いてあった。
普通の週だと言っていたのに、と思ったが言わなかった。
残りの四割を埋め、二通を課長の机に置いた。
窓際の膝掛けの上には、付箋が一枚貼ってあった。
「訂正、ご苦労」
それだけ書いてあった。
「課長、さっき寄っていきましたよ」
六車さんが帰り支度をしながら言った。
「お二人が廃線跡にいるあいだです。訂正の書類に判を押して、それを貼ってすぐ帰りました」
「起きてたんですか」
「起きてました。珍しく」
---
報告書を片づけて裏門を出たのは、午前一時を過ぎた頃だった。
守衛さんは、もう僕たちの顔を見るだけで手を上げるようになった。
先輩は自転車を押し、僕はその横を歩いた。
影見橋までは同じ道だ。
川沿いの遊歩道に出ると風が頬に当たった。
昼の熱をまったく含んでいない、さらりとした風だった。
川面には街灯の光が細長く揺れ、どこかの草むらでまた秋の虫が鳴いている。
三日前まではこの時間でもまだ蒸し暑かったはずだ。
影見橋の真ん中で先輩は自転車を止めた。
欄干に肘をかけて、川の下流を見る。
「遠回りしたね」
「しましたね。一時間以上」
「廃線跡、きれいだったな。駅の写真のとこ」
「昭和四十八年、でしたね」
「修くん、見てたんだ?」
「現地確認も仕事のうちなので」
先輩は笑った。
それから制服の半袖から出た腕をさすった。
パーカーはずっと僕の肩にかかったままだった。
僕はそこでようやく気づいた。
廃線跡で借りてから、市役所に戻って報告書を書いているあいだも、ずっと肩にかけていた。
先輩はそのあいだ、一度も返してと言わなかった。
僕はパーカーを肩から外して、先輩に差し出した。
「先輩、これ。ありがとうございました」
「いいよ、持ってて」
「先輩のです。寒そうじゃないですか」
「平気」
「腕、さすってましたよ」
先輩は、さすっていた手を止めた。
「僕は制服で十分です。もう、廃線跡ほど寒くないので」
「そっか」
先輩は、少しだけ間を置いてから言った。
パーカーを受け取る手はなかなか出てこなかった。
僕はパーカーを畳んだ。
袖を内側に折り、フードを中に入れて四角くまとめる。
先輩の自転車のかごにそっと入れた。
「六車さんに、位置確認の手順の提案をしようと思います。様式は変えられないので、手順の申し合わせとして。入力した人と別の人が別の資料で確かめる、というのを班の決まりにできないかと」
先輩が、ふっと吹き出した。
「そこ?」
「そこです。今夜の一番の反省点なので」
「うん。修くんらしい」
先輩は、かごの中の四角いパーカーを見下ろした。
それから、それを広げずにそのまま自転車にまたがった。
「遠回りしたけど、悪くなかった夜だったね」
「出動が長引いただけです」
「長引いただけ、ね」
先輩はペダルに足をかけ、橋の向こうへこぎ出した。
今夜は渡りきったところで振り返らなかった。
自転車のライトが、川沿いの暗がりの中を、少しだけ速く遠ざかっていった。
僕は橋の上に残って、川面の光を見ていた。
位置がずれていた夜だった。
届出に書いた位置コードは、廃線跡を指していた。
三角公園の街灯は、四本とも暗くなった。
廃線跡のお守りは、二人のところへ戻った。
小数点一つ分の遠回りで、メーターの針は二十六パーセント台まで下がった。
パーカーを返したとき、先輩は少し残念そうに見えた。
寒くないと言っていたのに、と思ったが理由はよくわからなかった。
寒さのせいか、遠回りのせいか。
たぶん、夜風のせいだろう。
市役所のほうを振り返ると、三階の居室の明かりはもう消えていた。
九月の終わりまで、あと一か月と少し。
次の夜勤では、位置コードを台帳と地図で確かめよう。
遠回りはした。
でも、訂正した位置コードと僕たちが立った三角公園は、同じ場所を指していた。
今夜はそれで十分だった。




