3. 迷子の使い魔
狐火の件から五日が経ち、かみまちの夏祭りは本番まで十日を切っていた。
市役所前のロータリーでは、提灯の見本が本番用の朱色に掛け替えられている。
昼休みに写真を撮る職員は先週より減り、代わりに日傘を差して足早に通り過ぎる人が増えた。
盆地の真夏は、風が止まる。
山に囲まれた空気が街の上にふたをされたように溜まり、日が傾いてもなかなか冷えない。
夜勤魔法班の居室では、エアコンが強の設定のまま、苦しそうな音を立てていた。
ブラインドを半分下ろしても、窓際の机は触ると温かい。
壁の魔力残量メーターは、黄色の下のほうで小さく揺れている。
狐火の出動で、残量は二十九パーセント台まで落ちた。
この五日のあいだに、夜勤は二日あった。
祭りの準備で提灯の骨組みに残っていた古い魔力を、野口さんの立ち会いで抜いた夜。
駅前の歩道橋で、勝手に向きを変える案内板を元の向きに固定した夜。
どちらも小さな仕事だったが、メーターの針はそのたびに少しずつ下がった。
「修くん、今夜の予定票です。今回は青です」
六車さんがファイルの束から一冊を抜き、僕の机に置いた。
警察経由の案件だ。
狐火の赤のあとだと、青い表紙を見るだけで少しだけ肩の力が抜ける。
「南口住宅街、使い魔迷子系、Dランク。110経由です」
「警察からの回付ですね。使い魔ですか?」
「はい。昨夜十一時ごろ、三角公園の近くの方から通報がありました。路地に黒い猫みたいなのがいて、近づくと逃げる。目が光っていて普通の猫じゃない気がする、と」
ファイルを開くと、交番の巡査が書いた現場メモのコピーが挟まっていた。
猫に似た動物が一匹。
毛は黒く目は琥珀色で、普通の猫より一回り大きい。
鳴き声はなく、子どもが近づくと毛を逆立てて逃げた。
メモの最後には「魔法っぽい」と書かれ、そのあとに小さく「たぶん」と書き足されていた。
使い魔。
民間の魔法使いが契約を結んで手元に置く、小さな生き物のような存在だ。
登録制で、契約者の住所と一緒に市の台帳に載っている。
迷子になった使い魔は、契約者が見つかれば返し、見つからなければ市の保管庫で一時的に預かる。
人や動物そのものは保管庫に入れない、というのが市の基本方針だが、使い魔だけは例外になっている。
引き取り手のない使い魔を、夜の路地に放っておくわけにはいかないからだ。
「契約者は、台帳でわかりますか?」
「それが、わかるようでわからないんです」
六車さんは台帳の写しを一枚抜いて、僕の机に並べた。
「この付近で登録されている猫型の使い魔は一件だけです。契約者は黒川ハルさん、二十八歳。住所は三角公園のすぐ裏のアパートです。でも、お昼に電話したらつながらなくて、アパートの管理会社に聞いたら、先週退去したそうです」
「引っ越し先はわからないんですか?」
「個人情報なので、管理会社からは教えてもらえませんでした。転居届もまだ市に出ていません」
「じゃあ、縁を辿るしかないですね」
「はい。なので今夜の届出は、定位術で縁を辿る内容でお願いします」
六車さんはそう言ってから、緑のファイルを胸に抱え直し、長いため息をついた。
「もし契約者が見つからなかったら、保管になります。でも、保管庫の棚はいっぱいなのでもう無理です」
「そんなにですか」
「三列目が天井まで届きました。先月の封印箱がまだ処理待ちで、そこに先週の狐火の芯が入って、返却待ちの使い魔用のケージは残り一つです」
「狐火の芯はすみません」
「修くんのせいじゃないです。期限切れのせいです」
六車さんは笑ったが、目はあまり笑っていなかった。
それからメーターに目を向ける。
「残量は28.9%です。狐火のあとの二件で、また少し減りましたね」
「小さい案件でも、数が出ると積もりますね」
「積もります。Dランクなので、今夜は控えめで済むはずです」
「なるべく節約するようにします」
「お願いします。涼さんにも、よろしくお伝えください」
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僕は届出を二通書いた。
一通目は自分の分だ。
「定位術により、使い魔と契約者を結ぶ縁を辿り、契約の定位置を確認する」
定位術は、物や場所の「在るべき状態」を固定する魔法だ。
地蔵なら元の場所、狐火なら出口の一点。
使い魔の場合は、契約者とのあいだに結ばれた縁の結び目が在るべき場所になる。
研修では応用編として習った。
教本には図解つきで二ページ載っていた。
実際に使うのは初めてだった。
もう一通は、いつもどおり先輩の分だ。
遮断術の欄は空けておく。
使い魔に遮断をかけすぎると、縁そのものが見えなくなってしまうおそれがある。
今夜の遮断は最小限にしたほうがいい。
そう書き添えた付箋を、先輩の用紙に貼っておいた。
夕方六時を少し過ぎた頃、居室のドアが開いた。
「修くん、お疲れー」
涼先輩だった。
パーカーを腕にかけ、片手にコンビニの袋を提げている。
時計を見ると、六時四分だった。
「先輩、四分ですよ」
「三分の約束だったっけ?」
「六時の約束です」
「じゃあ誤差だよ」
先輩は笑って自分の机に袋を置き、パーカーを椅子の背にかけた。
それから僕の机の上の用紙を覗き込む。
「今夜はどんな案件?」
「使い魔の迷子です。南口の住宅街ですね」
「使い魔?珍しいね。民間契約のはずだけど、迷子で回ってくるのは久しぶりかも」
「前にもあったんですか」
「私が入った年に一回だけあったかな。インコみたいなやつ。電線の上から降りてこなくて、ずっと見上げてた」
「どうやって降ろしたんですか?」
「契約者のおじいちゃんが口笛吹いたら降りてきた。私たち、何もしなかったんだよね」
先輩は懐かしそうに言いながら、僕が貼った付箋に目を落とした。
「遮断は最小限、ね。了解」
「接触するときだけでいいと思います。住民の方が近くにいたら、その視界を少しだけ遮れば十分です」
「修くん、もう書いてあるじゃん。えらい」
「先輩の分も用意していますよ」
「知ってる。だからえらいって言ったの」
先輩は自分の欄に「遮断術により、使い魔への接触時のみ、周囲の視界を遮断する」と書き込んだ。
相変わらず字は丸いが、今日も欄の中にきちんと収まっている。
それから先輩は、鞄から白いフォルダを取り出した。
いつもの報告書フォルダだ。
いつもなら中身は空っぽで、僕の机に置かれる。
今日の先輩は、それを自分の机に置いて開いた。
中には、今夜の報告書の用紙が一枚入っていた。
日付、案件名、出動者、届出番号。
上半分が、もう埋まっている。
「先輩、まだ出動してないのに、もう書いてるんですか」
「書けるところだけ先に書いといた。半分くらい」
「珍しいですね」
「珍しい言わない」
先輩は少しむっとしたように言い、フォルダを閉じた。
「狐火のとき課長に言われたでしょ、七星の分もなって。あれ、ちょっと刺さったの」
「刺さったんですか」
「刺さった。だから今週は、先に書く週」
今週は、と言うあたりが先輩らしかった。
来週のことは、来週の先輩に任せるつもりなのだろう。
「じゃあ課長に電話するね」
先輩がスマホを耳に当てた。
呼び出し音が四回鳴ったあと、向こうで寝息と声が混ざった音がした。
「七星です。南口の使い魔の件、届出二通です。定位と遮断」
先輩が二通の文面を読み上げる。
電話の向こうはしばらく黙っていたが、やがて低い声が返ってきた。
『定位で縁を辿れ。遮断は接触時のみ。保管は最終手段だ』
「了解です」
『承認した。報告書、明日中』
電話を切った先輩が、僕の顔を見た。
「保管は最終手段、だって。愛ちゃんの棚のこと、課長も知ってるんだね」
「六車さん、昼に課長にも電話してましたから」
「根回し済みか。さすが」
先輩はコンビニの袋からカップのコーヒーを取り出し、僕の机に置いた。
蓋を開けるとブラックだった。
「修くん、お礼だよ」
「ありがとうございます。今日は何のお礼ですか?」
「付箋のお礼」
先輩はもう一つのカップを手に取った。
いつものラテだ。
袋の中には、ほかにおにぎりが二つと、魚の形をしたスナック菓子の小袋が入っていた。
「先輩、それは?」
「これ? 猫用じゃないよ。私用だよ」
「まだ何も言ってません」
「言いそうな顔してた」
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出動は夜の九時にした。
住宅街は、遅くなりすぎると呼び鈴を鳴らせなくなる。
契約者の新しい住まいまで辿れたとしても、日付が変わってから訪ねるわけにはいかない。
軽バンで市役所を出ると、南口へ向かう道はまだ車が多かった。
新市街の大通りを駅の方へ抜け、線路の高架をくぐると景色が住宅地に変わる。
かみまちのような瓦屋根の古い家並みではなく、三十年ほど前に開発された分譲地だ。
道は碁盤の目のようにまっすぐで、街灯は等間隔に並んでいる。
窓からはテレビの音や食器を洗う音が漏れてくる。
まだ眠っていない街の音だった。
「この辺、来るの久しぶりかも」
ハンドルを握った先輩が言った。
「南口のコンビニは、毎日来てるじゃないですか」
「コンビニは駅前でしょ。こっちは住宅街。夜に来る用事がないもん」
三角公園は、その住宅街の真ん中にあった。
名前のとおり、三つの道路に挟まれた三角形の小さな公園だ。
滑り台とブランコが一つずつ、ベンチが二つ。
公園の外周に街灯が四本立っているが、そのうちの一本が切れていた。
切れた街灯の真下だけが、ぽっかり暗い。
軽バンを公園の脇に停めて降りると、むっとした夜の空気が足元からまとわりついてきた。
虫の声が、街灯のまわりで重なっている。
通報のあった路地は、公園の裏手に延びる細い道だった。
片側にブロック塀、もう片側に古い二階建てのアパートが並んでいる。
アパートの一階の角部屋だけ窓に明かりがなく、カーテンも外されていた。
黒川さんが先週まで住んでいた部屋だろう。
その部屋のベランダの下に、黒い影がうずくまっていた。
それは猫に似ていた。
黒い毛は夜の色に溶けそうなほど深く、街灯の光が届いたところだけ、わずかに青みを帯びて見える。
耳の先が普通の猫より少し尖っていて、尻尾は体の長さと同じくらいあった。
琥珀色の目が二つ、こちらを見ている。
首輪はない。
それでも毛並みは整っていて、野良には見えなかった。
路地の入り口には、住民が三人ほど集まっていた。
サンダル履きの中年の男性と、Tシャツ姿の女性、それに小学生くらいの男の子。
「あ、市役所の人?」
女性が声をかけてきた。
「市民安全課の五十嵐です。通報していただいた件で来ました」
「あの子、昨日からずっとあそこにいるのよ。ご飯置いても食べないし」
「近づくと、シャーって言うんだよ」
男の子が言った。
腕に、ひっかき傷はない。
「触ると何かなるって、おじいちゃんが言ってた」
「何かって?」
先輩が男の子の目線までしゃがんで聞いた。
「わかんない。呪われるとか?」
「呪われないよ。大丈夫」
先輩は笑って男の子の頭をなでかけ、それから手を引っ込めて、代わりに自分の膝を軽く叩いた。
「でも、今日はお姉さんたちに任せてね。ちょっと下がって待っててくれる?」
男の子はうなずき、女性の後ろに隠れた。
中年の男性が「頼むよ」とだけ言って、腕を組んだ。
先輩が路地に一歩踏み出した。
「じゃあ、まず私が行ってみる」
「遮断は、まだですよね」
「まだまだ。まずは普通に。こういうのは第一印象が大事なの」
先輩はパーカーのポケットに手を入れ、ゆっくり路地を進んだ。
使い魔まであと三メートルほどのところでしゃがみ、片手を差し出す。
「こんばんは。迷子なんだって?怖くないよ、おいで」
声は、住民と話すときの柔らかい声だった。
使い魔の耳が、ぴくりと動いた。
次の瞬間、黒い毛が一斉に逆立った。
低く短い音が喉から漏れ、使い魔は後ろへ跳んだ。
ベランダの下から塀の上へ、一息で移る。
先輩の手は、何もない空気の中に残された。
「えっ」
先輩は差し出した手のまま固まった。
「先輩、大丈夫ですか」
「大丈夫。大丈夫だけど」
先輩はもう一度、塀の上に向かって手を伸ばした。
「ほら、何もしないって」
使い魔は塀の上をさらに二歩下がった。
尻尾が、ぱしん、と塀を打つ。
「えー」
先輩はゆっくり立ち上がり、パーカーのポケットから魚の形のスナック菓子を一つ取り出した。
「先輩、それ私用って言ってませんでしたか」
「緊急事態だから」
「使い魔はたぶん、食べ物では釣れないです」
「やってみないとわかんないでしょ」
先輩は塀の上に向かって、スナック菓子をそっと差し出した。
使い魔は匂いを嗅ぐ素振りも見せず、琥珀の目でじっと先輩を見下ろしている。
しばらくして、ふいと横を向いた。
「無視された」
「見ればわかります」
先輩は肩を落とし、スナック菓子を自分の口に入れた。
路地の入り口で、男の子が小さく笑った。
「修くん、やってみて」
「僕ですか」
「縁を辿るの、修くんの担当でしょ。どうせ近づかないとできないし」
それはそうだった。
僕は路地に入り、塀の手前で膝をついた。
手のひらを上に向けて、膝の上に置く。
定位術で縁を読むときの姿勢だ。
使い魔に手を伸ばすのではなく、こちらは動かずに、相手から出ている糸を感じ取る。
目を閉じると、細い糸のようなものが感じられた。
使い魔の胸のあたりから一本、まっすぐ伸びている。
糸は、すぐ横のアパートの角部屋へ向かっていた。
空っぽになった部屋の床のあたりで、結び目がほどけかけたように、ふわふわと浮いている。
そして結び目の先から、もう一本、細く頼りない糸が北のほうへ延びていた。
契約は切れていない。
ただ、結び目が古い住まいに残ったままになっている。
目を開けると、使い魔が塀から降りてきていた。
音はしなかった。
黒い影が地面を滑るように近づき、僕の膝の前で止まる。
琥珀の目が、すぐ下から僕を見上げていた。
それから前足を片方、僕の膝にのせた。
もう片方ものせ、最後に体ごと乗ってくる。
膝の上に思っていたより軽い重さがかかった。
毛は夏の夜なのにひんやりしていて、絹の布を触っているようだった。
喉の奥で、小さく低い音が鳴りはじめる。
「乗った」
男の子が言った。
「乗ったね」
女性が言った。
「乗りました」
僕が言うと、後ろから先輩の声がした。
「見てる。ちゃんと見てる」
振り返ると、先輩は路地の真ん中で腕を組んでいた。
いつもの飄々とした顔だが、口の端だけが少し下がっている。
「なんで修くんだけ……」
「たぶん、定位の性質かもしれません。縁を読んでいるあいだ、こっちは動かないので。縁が、僕に引き寄せられてるんだと思います」
「それ、説明になってる?」
「なってないですね」
正直に言うと、僕にもよくわからなかった。
教本の二ページには、使い魔が術者の膝に乗るとは書いていなかった。
「修くん、動物に好かれるタイプ?」
「実家の犬には、よく吠えられてました」
「じゃあ、使い魔にだけ好かれるタイプだ」
「そんなタイプあるんですか」
「今、できた」
先輩は腕を組んだまま、膝の上の使い魔をじっと見た。
使い魔は先輩のほうを一度も見なかった。
---
「契約者のところまで、縁を辿ります。糸は北に延びています」
僕は使い魔を膝から抱き上げて立ち上がった。
使い魔は嫌がらず、僕の腕の中で丸くなった。
重さは、子猫を抱いているくらいしかない。
「北って、駅のほう?」
「たぶん。それほど遠くないと思います」
路地の入り口に戻ると、住民の三人が少し下がった。
男の子だけが、女性の後ろから顔を出して使い魔を見ている。
「その子、どうするの?」
「飼い主さんのところに返します。引っ越しのときに、はぐれちゃったみたいです」
「よかった。ちゃんと飼い主さんいるのね」
女性はほっとしたように笑い、男の子の肩に手を置いた。
「ほら、帰るよ。お兄さんたちに任せとけば大丈夫」
男の子は名残惜しそうに使い魔を見ていたが、やがて手を振って帰っていった。
中年の男性も「ご苦労さん」と言って、公園の向こうの家へ戻っていく。
路地に僕たち二人と、腕の中の使い魔だけが残った。
軽バンには乗せずに、歩いて辿ることにした。
車で動くと、糸の向きがわかりにくくなる。
先輩が軽バンを公園の脇に停めたままにして、僕の半歩後ろを歩いた。
住宅街の道は、夜になっても明るかった。
等間隔の街灯の下を、使い魔を抱えて歩く。
ときどき家の窓が開いていて、風鈴の音や、野球中継の歓声が聞こえた。
使い魔は、そのたびに耳だけをそちらへ向けた。
二つ目の角を曲がったところで、向こうから犬の散歩をしている男性が歩いてきた。
柴犬がこちらに気づいて立ち止まる。
鼻をひくつかせ、低くうなった。
腕の中で、使い魔の体がこわばった。
毛が逆立ちかける。
「先輩」
「うん」
先輩が右手の人差し指と中指をそろえ、空中に短い線を引いた。
耳の奥で鳴っていた小さな音が、すっと途切れる。
柴犬が首をかしげ、何事もなかったように前を向いた。
飼い主の男性も、こちらに軽く会釈しただけで通り過ぎていく。
犬から見ても、人から見ても、僕たちは夜道を歩いている普通の二人連れになっていた。
腕の中の使い魔の毛が、ゆっくり元に戻る。
「接触時のみ、ですね」
「接触っていうか、遭遇時だね。でも届出の範囲内でしょ」
「範囲内です。報告書にそう書きます」
「細かいなあ」
先輩はそう言ったが、声は少し得意そうだった。
使い魔は先輩の遮断が解けるまで、一度だけ先輩のほうに目を向けた。
すぐに、また僕の腕の中に顔をうずめた。
「今、見たよね。私のこと見たよね」
「見ましたね」
「ちょっとは好感度上がったかな」
「どうでしょう」
糸は、駅へ向かう大通りの手前で東へ折れていた。
そこから五分ほど歩くと、新しいマンションの前に出た。
四階建てのまだ外壁の白い建物だ。
エントランスのガラス扉の向こうに、オートロックの操作盤が光っている。
糸はエントランスの上を通り、三階の角のあたりへまっすぐ延びていた。
その先で、もう一つの結び目が途中まで結ばれたまま止まっている。
「ここです。三階の角部屋だと思います」
「部屋番号、わかる?」
「たぶん、三〇一か三〇四です」
集合ポストを確かめると、三〇四号室のポストに手書きの紙が一枚だけ貼られていた。
「黒川」
テープの端がまだ新しかった。
僕は操作盤で三〇四を押した。
呼び出し音が二回鳴り、スピーカーから少しかすれた女性の声がした。
『はい』
「夜分にすみません。高山市役所、市民安全課魔法対応班の五十嵐です。使い魔の件で伺いました」
スピーカーの向こうで、息をのむ音がした。
返事より先に、操作盤の横の扉が開く音がした。
ほどなくして、エレベーターの扉が開いた。
出てきたのは、二十代後半くらいの女性だった。
部屋着のTシャツにハーフパンツ、髪は後ろで雑にまとめている。
足元はサンダルで、片方がかかとまで履けていなかった。
エントランスのガラス扉を押し開け、僕の腕の中を見る。
「ポチ」
黒川ハルさんだった。
その声を聞いた瞬間、腕の中の使い魔が顔を上げた。
僕の腕からするりと抜けて地面に降り、黒川さんの足元に駆け寄る。
黒川さんはその場にしゃがみこみ、黒い体を両腕で抱きしめた。
「ごめん。ごめんね。引っ越しのとき、呼び戻せなかった」
使い魔は黒川さんの肩に前足をかけ、頬に頭をこすりつけた。
喉の音が、僕の膝の上にいたときよりずっと大きく鳴っている。
先輩が僕の横で小さく言った。
「ポチ」
「ポチ、ですね」
「猫なのに」
「猫ではないので」
先輩は何か言い返そうとして、やめた。
黒川さんはしばらく使い魔を抱いたままでいたが、やがて顔を上げ、僕たちに頭を下げた。
「すみません。わざわざ探してもらって」
「いえ。通報があったので。黒川さんの使い魔で間違いないですか」
「間違いないです。登録もしてあります。ポチです」
黒川さんは、ポチを肩に乗せたまま立ち上がった。
ポチは黒川さんの肩の上で、器用に体を丸めている。
そこが、本来の居場所なのだろう。
「捨てたわけではないんですね」
確認のために聞くと、黒川さんは首を強く振った。
「捨ててないです。先週、急に引っ越すことになって。前のアパートの更新が、思っていたより早く切れちゃって」
黒川さんは駅前の病院で看護師をしているという。
夜勤明けに荷物をまとめ、その日のうちに業者のトラックで運び出した。
ポチはいつも、呼べば肩に戻ってくる。
引っ越しの当日も、新しい部屋に着いてから呼べば来ると思っていた。
「でも、何度呼んでも来なくて。前のアパートの近くも探しに行ったんですけど、見つからなくて。仕事も続いてて、市役所に相談しようと思ってたところでした」
「ポチは、前のアパートのベランダの下にいました」
「え、ずっとですか?」
「たぶん、ずっとです。契約の結び目が、前の部屋に残ったままになっていました」
僕は膝をついて縁を読んだときのことを、できるだけ簡単に説明した。
使い魔と契約者のあいだには縁の糸があり、その結び目は契約者の住まいに置かれる。
ポチにとっての「帰る場所」は、黒川さん本人というより、結び目のある場所だった。
引っ越しで黒川さんが移っても、結び目は前の部屋に残った。
だから呼ばれても、ポチは前の部屋から離れられなかった。
「契約は有効です。迷子というより定位置がずれていただけですね」
「定位置?」
「はい。契約の結び目を新しい部屋に結び直します。それで、呼べば戻ってくるようになるはずです」
「お願いします」
黒川さんはポチの背中に手を添え、少し緊張した顔で僕を見た。
僕は二人の前に立ち、手のひらを肩の上のポチに向けた。
目を閉じると、さっきより糸がはっきり見える。
前のアパートに残った古い結び目と、ここで途中まで結ばれかけて止まっている新しい結び目。
古い結び目をほどいて、新しいほうへ寄せる。
定位術ははめ込む作業だ。
地蔵なら床の跡へ、狐火なら出口の一点へ。
今夜は、結び目を新しい部屋へはめ直す。
力を入れすぎると、糸が切れる。
呼吸を一つ置き、少しずつ寄せていく。
遠くで古い結び目がほどける感触があった。
糸が一本になり、まっすぐ黒川さんの部屋へ延びる。
新しい結び目がきゅっと締まった。
目を開けると、ポチが黒川さんの肩の上でゆっくりまばたきをした。
琥珀の目の色が、さっきより少しだけ深く落ち着いて見える。
「結び直しました」
「ポチ」
黒川さんが呼ぶと、ポチは肩から降り黒川さんの足元を一周して、また肩に飛び乗った。
迷いのない動きだった。
「戻った」
黒川さんが呟いた。
目の端が、エントランスの灯りで少し光っていた。
僕は返却届の用紙を取り出した。
保管庫に入れずに契約者へ返したことを記録する書類だ。
契約者の署名欄と、使い魔の名前の欄がある。
黒川さんはエントランスの壁に用紙を当て、丁寧な字で書き込んでいった。
使い魔の名前の欄には「ポチ」と書いてあった。
「転居届は近いうちに市役所に出してください。台帳の住所も直しておかないと、また迷子になったときに見つけにくいので」
「明日、夜勤明けに行きます」
「窓口に来ていただければ、六車という者が案内します」
署名を終えた用紙を受け取るとき、ポチが黒川さんの肩から首を伸ばして僕の指先に鼻を寄せた。
冷たくて、少しだけ湿っていた。
先輩はエントランスのガラス扉のそばに立っていた。
一歩だけ近づこうとすると、ポチの耳がすっと後ろへ伏せられた。
先輩はその場で足を止め、手を下ろした。
「ばいばい、ポチ」
先輩が小さく手を振った。
ポチは返事をせず、黒川さんの首元に顔をうずめた。
黒川さんは何度も頭を下げ、ポチを肩に乗せたままエレベーターに乗った。
扉が閉まる直前まで、ポチの琥珀の目がこちらを見ていた。
エントランスの前には僕と先輩だけが残った。
マンションの植え込みで虫の声が鳴っている。
僕は書類をファイルに挟み、スマホで現地写真を撮った。
マンションのエントランスと、集合ポストの「黒川」の紙。
使い魔そのものは写さない決まりだ。
先輩が少し離れたところから言った。
「修くん、いいな」
「え?」
振り返ると先輩はもうこちらに背を向けて、軽バンを停めた公園のほうへ歩き出していた。
「仕事、うまくいってよかったね!」
声は明るかった。
僕は「はい」と答えて、ファイルを抱え直し、先輩のあとを追った。
先輩の歩く速さが、いつもより少しだけ速かった。
---
市役所に戻ると、居室の明かりがまだ点いていた。
六車さんが保管庫の在庫表を机いっぱいに広げていた。
日勤は終わっている。
返却の連絡を受けて、呼び出しで戻ってきたところだった。
「お疲れ様です。どうでしたか?」
六車さんは顔を上げるなり聞いた。
質問の中身はわかっていた。
「返却です。契約者の黒川ハルさんに返しました。保管庫には入れません」
六車さんの肩から目に見えて力が抜けた。
手に持っていたボールペンを机の上にそっと置く。
「よかった」
それから、もう一度言った。
「本当によかったです。返却待ちのケージ、最後の一つだったんです。今夜埋まったら、来週の使い魔はどこに入れようかと、ずっと考えてました」
「来週も迷子が出る予定なんですか」
「予定はないですけど、出ないとも限らないので」
六車さんは在庫表の端に、小さく丸を一つ書いた。
空いているケージの欄だろう。
「転居届は、明日黒川さんが窓口に来るそうです」
「わかりました。台帳の住所は直しておきますね」
六車さんはメーターを見上げた。
「残量、28.0%です。今夜はほとんど動きませんでしたね」
「遮断も一回だけです」
先輩が言った。
柴犬の前で使った一回だけだ。
「接触時のみ、ですね」
「うん。遭遇したときだけ」
「どちらでも、届出の範囲内なら大丈夫ですよ」
六車さんは笑い、メモ帳に数字を書き込んだ。
地蔵の夜は予想の一・五倍、狐火の夜はCランク分。
今夜は、久しぶりに予想どおりの数字だった。
僕は自分の机で報告書を広げた。
定位術の欄に「使い魔と契約者を結ぶ縁を辿り、旧住所に残存していた契約の結び目を新住所へ結び直した。使い魔は契約者へ返却」と書く。
遮断術の使用欄には、柴犬と飼い主への一回分を記入した。
写真はマンションのエントランスと集合ポスト。
夜景モードで撮ったのでブレはなかった。
向かいの机で先輩が白いフォルダを開いた。
出動前に半分書いてあった用紙の続きにペンを走らせている。
チョコレートも栄養ドリンクも出てこなかった。
二十分ほどで、先輩はペンを置いた。
「修くん、届出の残りお願いしていい?」
渡された用紙を見ると、半分どころか六割ほど埋まっていた。
残っているのは、縁の結び直しの細かい記述と返却届の番号だけだ。
そこは僕の担当なのでもともと僕が書くところだった。
「先輩、ほとんど書いてありますね」
「先に書く週だから」
「来週は?」
「来週の私に聞いて」
六車さんが在庫表から顔を上げ、先輩の用紙を覗き込んだ。
しばらく黙って眺め、それから僕の顔を見た。
「涼さん、今日は投げてないですね」
「でしょ?」
「珍しいので、写真撮っていいですか」
「だめ」
六車さんは笑って、在庫表を緑のファイルにしまった。
「じゃあ私、帰ります。お二人ともお疲れ様でした」
「お疲れ様です」
六車さんが出ていくと、居室にはエアコンの音だけが残った。
昼間あれほど苦しそうだった音が、夜は少しだけ静かに聞こえた。
---
報告書を課長の机に置き、午前一時に二人で打刻して裏門を出た。
守衛さんに職員証を見せて通用口を抜けると、昼の熱がまだアスファルトに残っていた。
自動販売機の明かりの前で、先輩が足を止めた。
小銭を入れ、ボタンを二回押す。
ごとん、ごとんと缶が落ちる音がした。
「はい。今日は缶」
渡されたのは、ブラックの缶コーヒーだった。
冷たかった。
「ホットじゃないんですね」
「今日は無理。暑すぎる」
先輩は自分の缶を首筋に当てて、目を細めた。
カフェオレの缶だった。
ベンチに並んで座った。
自動販売機のモーターが低く唸り、蛍光灯のまわりで小さな虫が回っている。
川のほうから風が来るかと思ったが、今夜は来なかった。
盆地の夏は、夜中になっても風が止まったままだ。
「使い魔、可愛かったね」
先輩が缶を開けながら言った。
「可愛かったです。思ったより軽かったです」
「膝、乗ってたもんね」
「乗ってましたね」
「ずっと乗ってたもんね」
「ずっとでもないです。三分くらいです」
「三分も」
先輩は缶を一口飲み、ため息のように息を吐いた。
「先輩も触れればよかったのに」
僕は本心から言った。
先輩は住民と話すのがうまい。
男の子に話しかけたときの声も、犬の前で遮断をかけたときの手際も、僕にはまねできない。
使い魔がなぜ先輩を嫌がったのか、僕にはわからなかった。
先輩は缶を両手で持ち、自動販売機の明かりを見ていた。
「私には、向いてないのかも」
冗談の声ではなかった。
いつもなら「まあいけるでしょ」と言うところで、先輩はそう言わなかった。
「そんなことないです」
僕は缶を膝の上に置いた。
「今日の遮断、すごかったです。犬がうなったとき、ポチの毛が逆立ちかけてたんです。あそこで先輩が切ってくれなかったら、たぶん腕から逃げてました。そうしたら、縁を辿り直すのにもう一時間かかってたと思います」
「そう?」
「そうです。一回できれいに切れてました。犬も飼い主さんも、何も気づいてなかったです」
先輩は少し黙って、缶の縁を指でなぞった。
それから、ふっと笑った。
「そう。班の仕事ね」
「はい。班の仕事です」
僕がうなずくと、先輩はもう一度笑った。
さっきより少しだけ、困ったような笑い方だった。
そのとき、裏門の前の道を大きなトラックが一台通り過ぎた。
タイヤの音とエンジンの音が、夜の通りいっぱいに広がる。
先輩の口が小さく動いた気がしたが、何を言ったのかは聞こえなかった。
「先輩、今何か言いました?」
「ううん。なんでもない」
先輩は首を振り、カフェオレの残りを一気に飲んだ。
僕も缶を開けて、一口飲んだ。
冷たいブラックが、喉の奥まで落ちていく。
暑い夜には、こっちのほうが合っている気がした。
明日の届出のことを考えた。
今夜の案件は片づいた。
明日の予定票はまだ来ていないが、何が来ても定位の欄を先に書いて、先輩の遮断の欄を空けておけばいい。
付箋もまた貼っておこう。
「明日も夜勤、一緒だね」
先輩が空の缶をゴミ箱に入れながら言った。
「はい。届出、先に用意しておきます」
「明日も、先に書く週だからね」
「知ってます。今週は、ですよね」
「そう。今週は」
先輩は笑い、自転車置き場のほうへ歩き出した。
数歩進んだところで振り返り、片手を上げる。
「お疲れ、修くん」
「お疲れ様です、先輩」
先輩の自転車のライトが、裏門の通りを遠ざかっていった。
居室の窓を見上げると、明かりはもう消えていた。
あの暗い部屋の壁で、メーターの針は黄色の下のほうに止まっているはずだ。
二十八パーセント。
十月の配分まで、あと一か月と少しある。
ポチは今ごろ、新しい部屋で黒川さんの肩の上にいるだろう。
保管庫の最後のケージは、今夜も空いたままだ。
迷子の使い魔が、在るべき場所に帰った。それだけで十分だった。




