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魔法公務員の仕事  作者: 椎名弥生


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2/12

2. 許可切れの狐火

地蔵の件から一週間が経ち、高山市は夏祭りの準備に入っていた。


市役所前のロータリーには、各商店街の名前を染め抜いた提灯の見本が吊るされている。

昼休みになると、職員がスマホを向けて写真を撮っていく。

空気は先週より湿って重く、西の山の稜線が少しかすんで見えた。

盆地の夏は、祭りの前に一気に暑くなる。


夜勤魔法班の居室は、相変わらず古い書類の匂いがした。

ブラインドの隙間から入る日差しが机の上に縞模様を落とし、エアコンは強にしてもどこか生ぬるい。

壁の魔力残量メーターは、黄色の真ん中より少し下で揺れていた。


先週の地蔵の出動で、残量は33.1%まで落ちた。

もちろんそのあとも出動がなかったわけではない。

用水路に落ちて動けなくなった小さな石の精を元の祠へ戻した夜があり、南口の踏切で鳴りやまない警報音の魔力漏れを切った夜もあった。

どれもDランクの小さな案件で、報告書は一枚で済んだ。

それでも勤務のたびに、針は少しずつ下がっていく。

針が赤に近づくほど、六車さんのため息は長くなる。


「修くん、今夜の予定票です。今回は赤ですよ」


六車さんが色分けされたファイルの束から一冊を抜き、僕の机に置いた。

赤は消防経由の案件だ。

青が警察、黄色が市の窓口、緑が保管庫。

ちなみに先週の地蔵は青だった。


「旧商店街かみまち、狐火系、Cランク手前。119経由です」


「消防からの回付ですね。またかみまちですか」


「そうです。今朝、乾物屋さんから通報がありました。提灯置き場に青白い火が五つ、昨夜から消えないそうです。水も効かないと」


ファイルを開くと、消防署の水谷さんという職員が書いた現場確認票が挟まっていた。

消火器、放水、どちらも効果なし。

煙はほとんど出ておらず、周囲への延焼もない。

それでも火は消えず、昼も夜も灯り続けている。

確認票の最後には、少し迷ったような字で「魔法によるものと思われる」と書かれていた。


狐火。

祭りの飾りに使う、青白く揺れる火だ。

熱がほとんどないので紙の提灯にも入れられ、かみまちの祭りでは昔から使われてきたらしい。

ただし、灯すには市の使用許可証がいる。

許可が切れた狐火は、害がなくても無許可の魔法として扱われる。

公務の魔法では、火の色より書類の日付が先に来る。


「Cランク手前、ですか」


「火ですから。害がなくても、消防が消せないものは一段上げる決まりです」


六車さんはメーターに目をやった。


「残量、32.4%です」


「まだ余裕あるね」


居室のドアが開き、涼先輩が入ってきた。

まだ五時十分だ。

いつもなら六時の合流まで南口を回っている人が、今日は巡回を切り上げて、一時間近く早い。

パーカーは腕に抱えたままで、制服の袖を肘までまくっている。


「先輩、早いですね」


「かみまちの件でしょ。朝、ニュースで見たからね」


六車さんの笑顔が一瞬だけ固まった。


「涼さん。七月の反省、忘れないでくださいよ」


「大丈夫よ。九月の終わりまで、まだ一か月半あるでしょ」


「一か月半あるのに、この残量なんです。地蔵のあと、小さいのが二件で、もう一ポイント近く減ってます」


先輩は肩をすくめて自分の机に鞄を置き、それから僕の机の用紙を覗き込んだ。


「お、Cランク用だ。記入欄が多いね」


「Dランクの倍です。消防との連携欄もあります」


魔法使用予定届は、案件のランクで様式が変わる。

Dランクなら一枚で済むが、Cランク手前は二枚に分かれている。

連携部署の欄、現地責任者の署名欄、鎮火後の確認欄。

見出しを読むだけで時間がかかる。

六車さんが今年度の様式を印刷してくれたのは今朝で、ところどころに「ここ、忘れやすいです」と書いた付箋が貼ってあった。


僕はすでに自分の欄を埋め、先輩の遮断術の欄だけを空けていた。


「修くん、もう書いてあるの?えらいね」


「先輩が来ないと出動できないので」


「今日は来てるじゃん」


「今日は、です」


先輩は笑って、空欄をペンの先で軽く叩いた。


居室の電話が鳴った。

六車さんが受話器を取ると、名乗り終える前に向こうの声が漏れてきた。

少し話すと受話器を耳から少し離し、落ち着いた声で言った。


「野口さん、落ち着いてください。魔法班が今夜対応します。許可証の件も、こちらで確認しますから」


電話の相手は、かみまち夏祭り実行委員長の野口達也(のぐち たつや)さんだ。

祭りは毎年この人が仕切っていて、商店街では頼りにされている。

書類の話になると声が大きくなる人だ、と六車さんから聞いていた。


「許可証はちゃんと取ってあるんだ! なのになんで火が消えないんだ!」


受話器の向こうの怒鳴り声は、僕の机まで届いた。

先輩が小声で言う。


「ちゃんと取ってある、って言ってるね」


「取ってあるなら、決められた時間で消えるはずなんですけど」


狐火の許可には、灯してよい時間が決められている。

許可が生きていれば、火はその時間が過ぎると自然に消える。

消えないということは、どこかで許可が外れているということだ。


六車さんは「念のため、許可証の写しをファックスでお願いします」と伝えて受話器を置いた。

それから僕たちのほうを向き、ため息を一つついた。


「たぶん、日付を見てないパターンです」


---


夕方五時過ぎに、野口さんからのファックスが届いた。

狐火の使用許可証の写しだ。

有効期限の欄には、やはり三日前の日付が書かれている。

右上の様式番号も、六車さんが今朝配った今年度版とは違っていた。


先輩はファックスを手に取り、しばらく黙って見ていた。


「あー、かみまちの祭り。毎年やるやつだ」


「先輩、詳しいんですか?」


「子どもの頃、提灯持って歩いたの。おばあちゃんと一緒にね」


先輩の声が少しだけ柔らかくなった。

すぐにいつもの調子に戻ったが、一瞬、知らない人の話し方に聞こえた。


「じゃあ、高山の出身なんですか?」


「ううん。おばあちゃんの家がかみまちの近くにあって、夏休みだけ来てたの。お祭りの夜はいつもこっちにいたよ」


先輩はファックスを僕の机に戻し、遮断術の欄にペンを走らせた。

「遮断術により、狐火の燃焼の魔力を切る」

字は相変わらず丸くて大きいが、今日は欄の中にきちんと収まっている。


僕は定位術の欄を読み直した。

「定位術により、狐火の出口を一点に固定し、拡散を止める」

狐火は小さな火がいくつも見えていても、魔力の出口は一つのことが多い。

その出口を先に固定してから燃焼を切れば、残り火が散らずに済む。

研修の教本にはそう書いてあった。

祭りの火を実際に扱うのは初めてだ。


「課長には電話ですか?」


「Cランク手前は、課長の対面承認が原則です」


六車さんが答えたとき、居室のドアが開いた。

二宮課長だった。

白髪混じりの頭に、夏でも膝掛けを肩にかけている。

Cランク手前の案件がある日は、課長は夕方に本庁舎へ顔を出す。

居室に来るのは月に数回で、目を開けたまま判を押す姿を見るのは、僕にはまだ珍しかった。


課長は窓際の自分の席に座り、届出を二通並べて、指で一欄ずつなぞっていった。

目は開いている。

声はいつもどおり眠そうだった。


「狐火は害なし。許可更新と鎮火。遮断は七星、定位は五十嵐」


先輩が僕に顔を寄せ、小声で言った。


「課長、起きてるね」


「聞こえているぞ」


課長は顔を上げずに言い、判を二つ押した。


「承認した。消防連携欄は現場で水谷さんに書いてもらえ。報告書は三枚、明日中」


「三枚ですか」


思わず聞き返すと、課長がようやく僕を見た。


「Cランク手前は三枚だ。忘れたのか、五十嵐」


「忘れてません。用意します」


「七星の分もな」


「えっ」


先輩が声を上げたが、課長はもう膝掛けを肩にかけ直して立ち上がっていた。

そのまま何も言わずに居室を出ていく。

夜はまた、自宅から電話で待機するのだろう。


ドアが閉まると、先輩が鞄からコンビニの袋を出した。

中からカップのコーヒーを一つ取り出し、僕の机に置く。


「修くん、お礼だよ。今日も届出、ありがと」


「仕事ですから」


「いいのいいの。今日は早く来たから、ついでに買ってきた」


蓋を開けると今日もブラックだった。

先輩は自分のラテを手に、窓の外の提灯の見本を眺めていた。


---


出動は夜の九時半と決めていた。

商店街の店が閉まってからのほうが、現場に人が少ない。

それに、狐火は暗くなるほど魔力の流れが読みやすくなる。


軽バンで高山川を渡ると、かみまちのアーケードはもう祭りの支度に入っていた。

天井から細い三角旗が何本も張られ、店先には紙を張る前の提灯の骨組みが積まれている。

先週はシャッターの目立った通りに、今夜は法被姿の人がちらほら残っていた。

それでも十時が近づくと、一人、また一人と帰っていく。


提灯置き場は、アーケードを抜けた奥の空き地にあった。

古い倉庫の壁に沿って木枠の棚が組まれ、骨組みだけの提灯が三段に並んでいる。

その中の五つに、青白い火が灯っていた。


風はない。

それなのに火は、呼吸をするようにゆっくり伸び縮みしている。

近づいても顔に熱は来なかった。

夏の夜の蒸し暑さのほうが、よほど肌にまとわりつく。

ただ、目をそらしても視界の端で青い光が揺れ続ける。

魔法の火は熱さより消えないことのほうが厄介だ。


空き地の入り口には消防のポンプ車が一台停まっていた。

その横で、紺の活動服を着た男性が腕を組んでいる。


「お待ちしてました。魔法班の方ですか?」


「市民安全課、魔法対応班の五十嵐です。こちらは七星。水谷さんですね。回付ありがとうございます」


水谷さんは三十代くらいで、背が高く日に焼けていた。

魔法班と一緒に現場に立つのは今回が初めてだという。

回付票の控えを、名刺でも渡すように両手で差し出してくれた。


「昼から交代で見張ってました。消せないんです。水も効かないので困っていました」


「周囲に燃えそうなものは?」


「提灯の紙はまだ張ってないので、骨組みだけです。のぼりや段ボールは、昼のうちに全部よけました」


水谷さんは棚を見上げ、困ったように頭をかいた。


「普通の火なら、どこかで勢いが落ちるんですけどね。これはずっと同じなんです。かれこれ十二時間、ずっとです」


僕は棚の前に立ち、目を閉じた。

定位術を使う前に、まず対象の在るべき状態を探る。

五つの火は、ばらばらに灯っているように見えて、根のところで一本につながっていた。

その根が、棚の下の地面あたりで広がっている。

本来なら小さくまとまっているはずの出口が、許可の切れた術のまま、じわじわと口を開けていた。


「どう?」


先輩が隣でしゃがんだ。


「出口は一つです。ただ、広がってますね。このまま燃焼だけ切っても、また別のところから出てくると思います」


「じゃあ、先に修くんが固定だね」


「はい」


そのとき、アーケードのほうからサンダルの足音が走ってきた。

五十代くらいの男性だった。

Tシャツの上に「かみまち」と染め抜いた法被を羽織り、額に汗を光らせている。

手には、クリアファイルを一枚握っていた。


「魔法班か!許可証はここだ!毎年これで通してる!」


野口さんだった。

差し出されたクリアファイルの中には、狐火の使用許可証の原本が入っていた。

夕方のファックスと同じものだ。

有効期限は三日前。

様式番号は去年のままだった。


「野口さん、これは有効期限が三日前に切れています」


「だから、更新すりゃいいんだろう。今年も同じ用紙でいいんだろ!」


「それが、用紙が去年の版なんです。今年から様式が変わっていて、この用紙では更新できません」


野口さんの口が開いたまま止まった。

先輩が、横から穏やかに言う。


「だから、届出切れは違法扱いなの。害がなくてもね」


「違法って、火を灯しただけだぞ?」


「火が消えないのも、許可が切れているからなんです」


僕はできるだけ平らな声で続けた。


「許可が生きているあいだは、狐火は決められた時間で消えるようになっています。期限が切れるとその決まりが外れます。だから消えずに、出口が広がっていく。今夜は鎮火して、明日以降に今年度の様式で許可を取り直してください」


「手続きは昼間、うちの六車が案内します。窓口に来てもらえれば、全部そろいますから」


先輩が付け加えた。

野口さんは法被の裾を握りしめ、棚の狐火を見上げた。


「祭りは、止められないんだ。もう二週間しかない」


「お祭りは止めません。消すのは、提灯のこの五つだけです」


先輩が言うと、野口さんは少し黙ってから、うなずいた。

水谷さんが一歩前に出る。


「鎮火のあいだ、こちらは周りを警戒します。何かあれば、すぐ放水の準備をしますから」


「助かります」


「効かないのは、もうわかってますけどね」


水谷さんが苦笑いすると、野口さんが「わかってるなら言うな」と小さく返した。

張りつめていた空気が、少しだけゆるんだ。


---


届出どおりの手順で進める。

先に僕が定位術で出口を固定し、そのあと先輩が遮断術で燃焼の魔力を切る。


僕は棚の下の地面に手のひらを向けた。

広がった出口の縁を探り、その中心へ向けて少しずつ寄せていく。

定位術は、家具を床に残った跡へはめ込む作業に近い。

今夜の場合は、広がりすぎた穴を元の大きさまで絞る作業だった。

力を入れすぎると、火のほうが別の出口を探しはじめる。

呼吸を一つ置くたびに、少しずつ寄せる。


五つの火が揺れた。

一つ、また一つと、棚の真ん中の提灯へ吸い寄せられていく。

最後には、骨組みの中に拳ほどの青い火が一つだけ残った。


「固定しました」


「了解。いくね」


先輩が右手の人差し指と中指をそろえ、空中に短い線を引いた。

耳の奥で鳴っていた小さな音が、すっと途切れる。

青い火が細くなり、糸のように揺れた。

けれど、完全には消えない。

提灯の骨組みの中心に、米粒ほどの光が残っている。


「しぶといね」


先輩はもう一度、今度は少し長く線を引いた。

光が瞬き、それから消えた。


空き地が急に暗くなった。

倉庫の壁に取りつけられた古い外灯だけが、棚の骨組みをぼんやり照らしている。

焦げ跡はどこにもない。


「消えた」


野口さんが呟いた。


「はい。今夜はこれで鎮火です」


僕は棚に近づき、真ん中の提灯の底を懐中電灯で照らした。

骨組みの底に、小豆ほどの青黒い塊が一つ落ちていた。

狐火の芯だ。

魔力が燃え残って固まったもので、放っておくとまた小さく灯ることがある。

手袋をはめて拾い、封印用の小箱に収めて黄色いストラップを巻いた。


「それ、どうするんだ?」


「市の保管庫で預かります。封印して月末にまとめて処理します」


「保管庫の中がまた増えるねえ」


先輩が言い、僕はうなずいた。

六車さんの渋い顔が目に浮かんだ。


水谷さんがポンプ車のそばから戻ってきて、回付票を差し出した。


「この連携欄、どう書けばいいですか?」


「鎮火の確認時刻と、立ち会った隊員のお名前をお願いします。ここに署名を書いてください」


水谷さんは一度だけ書き方を確かめ、あとは自分で埋めていった。

連携欄は、六車さんが今年度の様式に新しく加えたものだ。

消防と一緒に動く案件が増えてきたから、と言っていた。

その欄が、今夜初めて埋まった。


「魔法班、助かりました。ありがとうございます」


水谷さんは回付票を僕に返しながら言った。


「次からは早めに回付します。昼に一回、自分たちで何とかしようとして、ホース二本分を無駄にしました」


「朝のうちに回してもらえれば、昼に書類をそろえておけます」


「覚えておきます」


野口さんは、先輩から聞いた六車さんの内線番号を手帳に書き写していた。


「明日、市役所に行く。今年の用紙で出し直すよ」


「窓口で今年度の様式を渡します。去年の許可証と、実行委員会の印鑑を持ってきてください」


僕は六車さんがいつも窓口で言っている言い方を、そのままなぞった。

野口さんは手帳を閉じ、提灯の棚を一度だけ振り返ってから、アーケードのほうへ帰っていった。

水谷さんもポンプ車に乗り込み、赤色灯を消して走り去る。


空き地には骨組みの提灯と倉庫の壁だけが残った。


先輩が倉庫の壁を見上げていた。


「ここ、昔は提灯がもっとたくさん並んでたの」


外灯の光が、先輩の横顔を半分だけ照らしている。


「アーケードの入り口から、ずっと。夜になると全部に狐火が入って、青い川みたいになるの。おばあちゃんと手をつないで、端から端まで歩いた」


倉庫のシャッターは錆びて、下のほうが少しめくれていた。

その向こうにはもう新しい住宅の屋根が見える。

提灯の列が続いていたという場所は、今は駐車場と倉庫になっていた。


「懐かしいなあ」


先輩はそう言って、それから僕を振り返った。


「修くんは、この街の出身?」


「大学からです。こっちの大学に入って、そのまま就職しました」


「そっか。じゃあ私と同じよそから来た組だ」


先輩は笑って、棚の骨組みを指で軽くはじいた。

乾いた竹の音がした。


僕は先輩の後ろ姿を見ていた。

提灯の話をしているときの顔は、少しだけ幼かった。

居室で報告書から逃げ回っているときとも、住民に話しかけるときとも違う顔だった。


---


市役所に戻ると、居室には六車さんがいた。

日勤は終わっている。

針の下がりを見て、呼び出しで戻ってきたところだった。

確認が終われば帰る、と鞄はすでに肩にかけてある。

メーターの前に椅子を引き寄せ、膝の上にメモ帳を広げている。


「お疲れ様です。魔力、Cランク分で多めでした」


「ごめん。遮断、二回使った」


先輩が言った。

燃焼を切る一回目と、芯に残った光を消す二回目だ。


「二回目が長かったですね。針が一度、ぐっと下がりました」


「芯がしぶとくて」


僕は封印した小箱を六車さんの机に置いた。

六車さんは箱を見て、それからメーターを見て、最後に天井を見た。


「残量、29.5%です。それと保管庫行きが一つ」


「数字、きれいですね」


僕が言うと、六車さんは静かに首を振った。


「きれいな数字は、たいてい良くない数字です」


先輩は何も言わずにうなずいた。

上半期はまだ一か月半残っている。

それで三割を切った。


僕は報告書を三枚に分けて書き始めた。

一枚目は届出の写しと術の内容、二枚目は消防との連携欄、三枚目は現地写真と保管庫へ送った芯の記録。

写真は狐火が消えたあとの骨組みと、封印した小箱。

魔法で撮るのは禁止なので、スマホの夜景モードで撮った。

ブレはなかった。


向かいの机で、先輩が自分の報告書を広げていた。

今回は最初から自分で書いている。

僕が横から覗くと、全体の六割ほどが埋まっていた。


「先輩、けっこう書いてますね」


「課長に言われたし?でも、残りお願いしていい?」


「消防連携欄と保管庫の記録ですね。やっておきます」


「さすが」


先週は八割を僕が書いた。

今週は四割。

六車さんがそのやりとりを聞いて、メモ帳から顔を上げた。


「涼さん、進歩ですね」


「でしょ?」


「でも、投げてはいますね」


「四割だけだもん」


六車さんは小さく笑い、野口さんのファックスをクリアファイルに挟んだ。


「明日の五時過ぎ、野口さんが窓口に寄れると言っていました。涼さん、その時間ならいますか?」


「いるよ。祭りの話、聞きたいからね」


先輩はそれだけ言って、報告書の上にペンを置いた。

六車さんは少しだけ意外そうな顔をして、それから帰り支度を始めた。


---


報告書を課長の机に置いて裏門を出たのは、午前一時を過ぎた頃だった。

守衛室の窓口で職員証を見せると、今夜も顔なじみの守衛さんが「お疲れさん」と手を上げた。


いつもなら自動販売機の前で一本買うところだが、先輩は自転車を押したまま通り過ぎた。


「今日はいいの。夕方に買ったし」


「僕も、夕方のでもう二杯分くらい飲んだ気がします」


「一杯だけでしょ」


「濃かったので」


先輩が笑った。

自転車のチェーンがからからと鳴る。

先輩の家は影見橋を渡った先にあるので、橋までは同じ道だ。


川沿いの遊歩道に出ると、遠くから太鼓の音が聞こえてきた。

祭りの練習だろう。

夜中の一時に叩いていいものなのか、少しだけ気になった。

リズムは途中で何度も崩れては、また最初からやり直していた。


影見橋は、高山川に架かる歩行者用の細い橋だ。

欄干の上に等間隔で小さな灯りが並び、川面にその光が細長く映っている。

先輩は橋の真ん中で自転車を止め、欄干に肘をかけた。

川からの風が、昼の熱をまだ少し含んで通り抜けていく。


「来年の祭りには届出ちゃんと出そうね、野口さん」


先輩が川に向かって言った。

返事を期待している言い方ではなかった。


「先輩は来年も魔法班にいますか?」


聞いてから、少し唐突だったかと思った。

先輩は川を見たまま、少しだけ間を置いた。


「うん。修くんがいるなら」


「僕も、先輩と一緒なら」


遮断術のあとに定位術。

今夜も、あの順番だから芯まで残さずに済んだ。

相棒が先輩でなければ、きっともっと時間がかかっていた。

だから、それは本心だった。


先輩はこちらを見て、何か言いかけたように口を開き、それから笑った。


「じゃあ来年は、野口さんの許可証を六月に確認しようね。修くんの仕事で」


「六月だと、祭りまでひと月しかないですよ。五月のほうが」


「五月は忙しいでしょ。六月で大丈夫」


「何が大丈夫なんですか」


「修くんいるし」


よくわからないが謎の自信があるらしい。

それでも僕は手帳を開き、来年の六月の欄に「かみまち 狐火許可」と書いた。

先輩はそれを覗き込み、満足そうにうなずいた。


太鼓の音が、また最初からやり直しになった。


「帰ろっか」


「はい」


先輩は自転車にまたがり、橋の向こうへこぎ出した。

橋を渡りきったところで一度だけ振り返り、片手を上げる。

僕も手を上げて返した。


先輩の後ろ姿が、川沿いの暗がりに小さくなっていく。

提灯の話をしていたときの顔が、まだ目の奥に残っていた。

おばあちゃんと手をつないで歩いていた、小さな先輩。

居室で報告書から逃げている先輩しか知らなかった僕には、それが少し不思議だった。


市役所のほうを振り返ると、三階の居室の明かりはもう消えていた。

あの暗い部屋の壁で、メーターの針は黄色の下のほうに止まっているはずだ。

二十九パーセント台。

九月の終わりのことを考えるにはまだ早いが、考えずにいられる数字でもない。


祭りまで、あと二週間。

野口さんの許可証は、明日には今年度の様式に替わる。


今夜、消えない狐火が消えた。それだけで十分だった。

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