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魔法公務員の仕事  作者: 椎名弥生


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1/12

1. ずれていた地蔵

夕方五時前の市役所三階は、エアコンの風より少し古い書類の匂いが強かった。


危機管理部・市民安全課の奥にある通称「夜勤魔法班」の居室。

課のフロアを抜けた突き当たりにあり、ドアの横には手書きの札が一枚だけ貼られている。

昔は印刷のプレートがあったらしいが、誰かが「魔法科」と落書きして以来、札に替わったと聞いた。


正式名称は高山市役所 危機管理部 市民安全課 魔法対応班。

山と川に挟まれた盆地の地方中核市、高山市には予算の都合で夜勤の班だけがある。

警察や消防からの回付を受け、届出と承認を経て深夜に出動する。

それが僕たちの仕事だ。


居室といっても机が四つと書類棚が三本、給湯用の小さなシンクがあるだけの部屋だ。

窓からは市役所前のロータリーと、その向こうに低く連なる山の稜線が見える。

昼間の日差しはブラインドの隙間から机の上に縞模様を落とし、夕方になると西の山に隠れて一気に暗くなる。

盆地の街は日が沈むのが早い。


居室の壁には「今期の魔力残量」と書かれたメーターがかかり、針は黄色のあたりでゆっくり揺れていた。

緑、黄、赤の三色に塗り分けられた古い計器で、班に配分された半期分の魔力がどれだけ残っているかを示している。

配分は四月から九月までの上半期と、十月から三月までの下半期の二回だけだ。

十月になるまで、魔力が補充されることはない。

八月に入った今、針はとっくに緑を抜けていた。


僕は五十嵐修(いがらし おさむ)、二十三歳、入庁一年。

去年の魔法公務員試験に合格して配属された新人で、使えるのは定位術だけだ。

首から下げた職員証の写真はまだ学生の顔をしていて、眼鏡のフレームも就職活動のときのままだった。

針の色で一日の気分が決まるのはまだ慣れないが、もう少しは諦めがついてきた。


僕はいま、出勤したばかりだった。

僕の夜勤は、夕方四時半に始まって午前一時に終わる。

前夜の報告書の残りと今夜の届出の下書きを、六車さんからの引き継ぎで受け取る。

魔法を使う時間より紙を扱う時間のほうがずっと長い。

配属初日にそれを知ったとき少しだけがっかりしたが、今は嫌いではない。


「修くん、今夜の予定票です」


ポニーテールの庶務・六車愛(むぐるま あい)さんが色分けされたファイルを抱え、僕の机の上に置いた。

六車さんは魔法班の庶務担当だ。

魔法を使うことができずに試験には一度落ちたが、魔力残量の計算と書類保管庫の棚は彼女が一人で支えている。

昼に整えた案件が、夜の出動票になるというわけだ。


ファイルは案件ごとに色が違う。

青は警察経由、赤は消防経由、黄色は市の窓口に直接来た相談。

緑は保管庫関係で、これがいちばん分厚い。

今日渡されたのは青いファイルだった。


「旧商店街かみまち、地蔵移動系、Dランク継続。110経由です」


「警察からの回付ですね」


「はい。住民の苦情が三日続いています。朝になると地蔵の場所が変わっている、と」


ファイルを開くと、交番の巡査が書いた現場メモのコピーが挟まっていた。

一日目は路地の角から二メートル、二日目は五メートル、三日目は商店街の中ほどにある店の前。

丁寧な字で距離まで測ってある。

地蔵が勝手に歩いているのでなければ、誰かが運んでいることになる。

ただ、石地蔵を毎晩運ぶのは人の力では難しい。

そこで「魔法っぽい」と判断され、危機管理連絡室を通じてうちに回ってきた。


動く地蔵。

高山市では珍しくもない話だ。

古い街で、路地の角や橋のたもとには地蔵や小さな祠があちこちに残っている。

魔法のことは一般的に知られているが、日常で見かけることはほとんどない。

ニュースの終わりに「魔法での対応が完了」と流れる程度で、僕たちの昼間はだいたいこういう紙と向き合う時間だ。


六車さんの視線がメーターへ向いた。


「残量、37.2%です。涼さん、最近ちょっと多めですね」


「先輩、まだ来てないですよ」


「だから言ってるんです」


六車さんは手元のメモ帳をめくった。

細かい数字が日付ごとに並んでいる。

出動のたびに誰がどの術でどれだけ使ったか、彼女は全部控えている。


「七月の出動は二十二回で、涼さんの遮断が全体の六割です。六月は五割でした」


「遮断は範囲が広いので、どうしても増えますよ」


「わかってます。わかってますけど、四月からもう六割以上使ってるんです。このペースだと、九月の終わりを待たずに赤です」


苦笑いする六車さんを見て、僕は机の上の用紙を二通そっと揃えた。


これは魔法を使う前に出す「魔法使用予定届」だ。

何をするか、どこで、誰が、どの術を――届出の欄に書いて課長の承認をもらってから夜の出動に出る。


ここでいう「術」は定位術や遮断術といった正式名称のことだ。

届出に書いたことと違う使い方をすると、魔法の効きが弱くなる。

公務の魔法はそういう決まりになっている。

理屈は研修で習ったが、正直よくわからない。

わかっているのは、届出の文面が雑だと現場で本当に効かないということだけだ。


今夜の僕の届出には、こう書いてある。


「定位術により、かみまち地蔵の定位置を元の場所に固定する」


「元の場所」を特定するために、昼のうちに市の文化財台帳を調べた。

かみまちの地蔵は昭和の初めに商店街の入り口近くへ置かれたもので、台帳には位置コードも載っている。

これを届出に写しておけば、現場で迷わずに済む。


一通はそれ。

もう一通はいつも遅れてくる先輩用のまっさらな用紙だ。


「もう涼さんの分まで書いてるんですか?」


「先輩が来ないと出動できないので」


六車さんは小さくため息をつき、僕の机の端にまだ温かいお茶のポットを置いてくれた。

庶務の机の横にはいつも大きな魔法瓶がある。

六車さんは昼過ぎにほうじ茶を淹れて、引き継ぎのときにもまだ残している。

魔法が使えない人の机に魔法瓶がある、と先輩が言ったことがあり、そのときの六車さんの顔はいまでも覚えている。


「ありがとうございます」


「どういたしまして。涼さんの遮断の届出、中身は空欄でいいんですか?」


「先輩が来たら一緒に書きます。今夜は魔力の流れを切る予定なので」


「わかりました。では届出が揃ったら課長の承認を受けてくださいね」


「はい。きちんと手順は踏みますから」


六車さんは頷き、自分の机に戻った。

キーボードを叩く音とプリンターの低いうなりが居室に戻ってくる。

僕はお茶を一口飲み、青いファイルをもう一度頭から読み直した。


定位術。

派手な光も叫び声もない。

元の場所に戻す、止める。

僕が使える術はそれだけだ。


研修の同期には、火を扱う術や水を操る術を持つ者もいた。

配属先の希望を書くとき、みんな県の本部や大きな市の昼間班を選んでいた。

僕は高山市の夜勤班と書いた。

地味な術に向いた仕事がここにある気がしたからだ。


---


窓の外はもう薄暗い。

西の山に日が落ちると、ロータリーの街灯が順番に点いていく。

昼の職員が一人、また一人と帰っていき、フロアの蛍光灯が半分ほど消えた頃だった。

夕方六時を過ぎて居室のドアが勢いよく開いた。


「修くん、お疲れー!」


七星涼(ななほし りょう)先輩だった。

入庁四年の班の古株で、僕の夜勤の相棒だ。

遮断術が得意で現場は頼れるが、報告書の提出はいつもギリギリ。

茶色のセミロングに寝癖、制服の上からいつものグレーのパーカー。

片手にコンビニの袋、もう片方の手にはプラカップを二つ持っていた。


「先輩、遅刻ですよ」


「ごめんごめん。途中でコンビニ寄ってたの。修くんいるし、まあいけるでしょ?」


先輩は笑って僕の机に白い報告書フォルダを置いた。

中身は空っぽだ。

昨夜の分の報告書が入っているはずのフォルダだった。


「届出、先に書いてますよ。遮断の欄は空けてあります」


「ありがと、助かるー。お礼にコーヒー買ってきたよ」


先輩がカップの一つを差し出す。

もう一つは自分のラテのようだ。

レジで別々に注文したのがカップの色でわかる。

先輩は巡回帰りにほぼ毎日コンビニへ寄るらしい。


「ありがとうございます。でもお礼なくても大丈夫ですよ」


「いいのいいの。届出、いつもありがと」


受け取って蓋を開けた。

ブラックだった。

砂糖も入っていない。


「修くんはいつもブラックでしょ?もう覚えたよ」


「ちゃんと合ってます」


「でしょ」


先輩はコンビニの袋を自分の机に置いた。

中身はおにぎりが二つとチョコレートの箱、それに栄養ドリンクが一本。

夜勤の夕食としては心もとないが、先輩はいつもこれで朝まで持たせる。


「修くん、ご飯は?」


「さっき六車さんと地下の食堂で食べました」


「え、ずるい。今日のA定食なんだった?」


「アジフライです」


「ずるい」


先輩は二回言ってから、自分のラテを机に置いた。


「じゃあ課長に電話するね。届出、見せて」


僕の用紙を覗き込み、自分の分に「遮断術により、地蔵周辺の魔力の流れを遮断する」と書き足す。

先輩の字は丸くて大きい。

欄からはみ出しそうになるのを、最後の一文字だけ小さく詰めて収めていた。

内容を確認してスマホを耳に当てる。


呼び出し音が五回鳴って、向こうで二宮課長の声がした。

正確には寝息と声が少し混ざっている。


課長は元は神社の宮司補で、神職系の魔法を実務でやっていた人らしい。

今は課長兼班長で、夜の承認はだいたい電話越しになる。

居室に来るのは月に数回で、そのときもたいてい膝掛けを肩にかけて窓際の席で目を閉じている。

それでも承認番号を間違えたことは一度もない、と六車さんは言う。


「七星です。かみまちの地蔵の件、届出二通です。定位と遮断になります」


「読め」


先輩が二通の文面を読み上げる。

電話の向こうは静かで、途中で一度だけ短い相槌が入った。


「承認した。定位は五十嵐、遮断は七星。報告書、明日中」


「了解です」


電話を切った先輩がなんとなく手を伸ばし、僕のブラックのカップに指がかかる。


「先輩、それ僕のです」


「あ、ごめん。電話してたら間違えそうになった」


先輩は自分のラテを取って一口飲んだ。


「さーて、出動、出動! 届出も揃ったし、もう行けるでしょ?」


「まだです。地蔵が動くのは夜中なので、店が閉まってからのほうがいいです」


「あ、そっか」


交番のメモによれば、地蔵が動くのは夜の十時から明け方の間だ。

商店街の店が開いているうちに行っても、原因の手がかりは残っていない。

出動は九時半と決めてあった。


先輩はおにぎりを食べながら、昨夜の報告書を書き始めた。

正確には、僕が引き継ぎのあとに作った下書きを見ながら清書を始めた。

ペンが三行進むごとに手が止まり、チョコレートを一粒口に入れる。


「修くん、昨日の狸の件って、狸だったっけ?」


「ハクビシンです。報告書にも書いてあります」


「そうそう、ハクビシン」


六車さんは鞄を閉じて、ドアのところで小さく咳払いをした。

日勤は五時十五分までだ。

残量は家の端末で見る、とさっき言っていた。


時計の針がゆっくり進む。

窓の外で最終のバスがロータリーを回っていった。

僕は届出をファイルに挟み、先輩の報告書フォルダもついでに鞄へ入れる。


出動前の確認。

位置コード、事件ランク、承認番号。

懐中電灯、封印用ストラップの予備、同意書の用紙、スマホの充電。

一つずつ指で押さえて確かめていく。

先輩はもうドアのところで足をトントン叩いている。


「修くん、遅いよー」


「確認してるんです。先輩の遮断、使う範囲、ここに書いてありますから」


「見た見た。まあいけるでしょ」


いけるが手順を飛ばす意味なのか、時間に間に合う意味なのか。

先輩の口癖ではだいたい両方だった。


スマホが震えた。


『いってらっしゃい。残量、家から見てますね』


六車さんだった。五時過ぎに帰ったあとも、端末は開いているらしい。


---


かみまちへ向かうのは市役所の軽バンだ。

車体には「市民安全」とだけ書かれ、荷台には封印用の黄色いストラップが巻き付いていた。

「魔法」の文字を入れないのは、住民を驚かせないためだと聞いている。

走行距離は二十万キロを超え、エアコンは強にしないと効かない。


「修くん、シートベルト」


「はい。ゆっくりお願いします」


「大丈夫、大丈夫」


先輩の運転はいつも少しだけ速い。

曲がり角で僕はドア側のグリップを握る。

公務員なんだから交通ルールはきちんと守ってほしい。

実際、制限速度は守っている。

守った上で、信号が黄色になる前に交差点を抜ける道を選ぶのがうまいのだ。


市役所のある新市街は、道が広くて建物が新しい。

駅前には去年できたビジネスホテルがあり、ガラス張りのロビーが夜でも明るい。

そこから高山川を渡ると、街の様子が変わる。

道が細くなり、瓦屋根の家と古い看板が増えていく。

川一本を挟んで、街の年齢が五十年ほど違う。


「修くん、窓開けていい? エアコン効かないからさ」


「どうぞ」


先輩が窓を半分下ろすと、川の匂いのする風が車内に入ってきた。

八月の盆地の夜は、日が沈んでもまだ蒸していた。


旧商店街かみまちは、川を渡ってすぐの一本道だ。

全長三百メートルほどのアーケードに、四十軒ほどの店が並んでいる。

呉服屋、乾物屋、古い時計店、最近できたらしい雑貨屋。

半分ほどはシャッターが下りたままで、貼り紙の文字が日に焼けて読めなくなっている。


軽バンを入り口近くの駐車場に停め、歩いてアーケードに入った。

店がすべて閉まった時間で、人の気配が一気に薄くなる。

昼間は買い物客で賑わう通りが、夜は蛍光灯だけ静かに光っている。

ところどころ切れかけた蛍光灯が瞬いて、足元の影を揺らしていた。

閉店後の高山市はこういう景色が多い。


「あれか。地蔵、また動いてるね」


先輩が呟いた。

路地の角に小さな石地蔵がある。

昨日の記録ではもっと北にあったはずだ。


地蔵は膝ほどの高さで、赤い前掛けをつけていた。

前掛けは新しく、誰かが最近取り替えたらしい。

足元には小さな花瓶があり、野の花が一輪挿してある。

地蔵が動いても、花瓶は一緒についてきていた。


「花瓶も一緒に動いてますね」


「律儀だねえ」


「お、今日も動いたね」


紅茶の店らしい男性が店先から顔を出した。

シャッターを半分下ろし、片付けの途中のようだった。

店の看板には英語の筆記体で店名が書かれ、ガラス越しに缶の並んだ棚が見える。


「うちの前だと客が止まるんだよ。昔からこうなんだから、あんまり気にしないでね」


「昔から、ですか」


「俺が子どもの頃から、たまにね。何年かに一回くらい。今回はちょっと長いけど」


「観光資源にしてません?」


僕が言うと先輩がくすっと笑った。


「修くん、そんなこと言うんだ?」


「言います」


「してないしてない。いや、ちょっとだけ写真は撮られてるけどさ」


店の人は笑って店に戻り、残りのシャッターを下ろした。

金属の音がアーケードに長く響き、それが消えると通りはすっかり静かになった。


僕は地蔵の前にしゃがみ目を閉じる。

定位術を使う前には、まず対象の「在るべき状態」を感じ取る。

石の中には、長いあいだ同じ場所に置かれていたものだけが持つ重さのようなものがある。

その重さが、今はどこか浮いている。

魔力の残り方が毎日少しずつずれ、定位置が落ち着いていない。


「どう?」


「誰かの魔法が上に乗ってますね。強くはないですけど、毎晩重ねてる感じです」


「じゃあさっきの届出どおり、私が遮断してから修くんが固定かな?」


「はい。先輩が魔力の流れを切って、僕が元の場所に固定します」


「わかった。じゃあいくね」


先輩が指を動かす。

右手の人差し指と中指をそろえ、空中に短い線を一本引くような仕草だ。

その瞬間、石の表面に乗っていたざわつきが少しだけ静かになった。

耳の奥で鳴っていた小さな音が止んだような感覚がある。

先輩の遮断は、いつもこういう静けさを連れてくる。


僕のスマホが震えた。

六車さんからのLINEだ。


『残量35.4%です。遮断、多めですよ』


「見られてますね」


「愛ちゃん、目が怖いのよ」


先輩が肩をすくめた。

メーターの針は居室で動いているのに、六車さんはそれを見ながら僕たちの手元まで見えているような文面を送ってくる。


僕は返信をせず地蔵に手をかざす。


いきなり戻してもまた動く。

誰がなぜどれくらい続けたのか。

それがわからないまま固定しても、明日にはまた店の前に来てしまう。

だから先に原因を探る。

これがいつもの手順だ。


石の表面に残った魔法の跡をたどると、細い筋のようなものがアーケードの奥へ続いていた。

毎晩同じ方向から来て、同じ方向へ帰っている。


「先輩、奥のほうから来てます」


「奥って、住宅のほう?」


「たぶん」


---


アーケードの奥から小さな足音が近づいてきた。

サンダルが石畳を擦る、ゆっくりした音だった。


「あら、魔法班のお兄さんたち」


七十代くらいの女性だった。

エプロンの上に羽織を着ている。

手には小さな懐中電灯と、花を一輪持っていた。

坂本トシエさんという名前は、このあと聞いた。


「この地蔵動かしてるのって、おばあさんたちの知り合いですか?」


「今日は動いている原因を調べています。届出のない移動が続いているようで」


「ああ、それね」


トシエさんは少し恥ずかしそうに笑った。

手に持っていた花を地蔵の足元の花瓶に挿し、古いほうを抜いて懐中電灯と一緒に持ち直す。


「うちの孫が夜遅くまで働いてるの。帰り道、地蔵が見えるところに置いておきたくて。昔、おばあちゃんに昔ちょっとだけ魔法を習ったのよ。それで動かしているの」


トシエさんの家はアーケードの裏手にあり、孫は駅前のホテルで夜のフロント係をしているという。

仕事を終えて帰るのは夜中の一時過ぎ。

アーケードの裏道を通るが、そこは街灯が少なく、昔からこの地蔵の前だけが明るかった。


「元の場所だと、裏道から見えないのよ。お店の前まで出してあげたら、帰り道にちょうど見えるの」


「魔法の使用には届出が必要です。このまま続けると地蔵の場所がどんどんずれてしまいます」


「ずれるの?」


「はい。今日はこの店の前ですが、明日は別の店の前かもしれません。魔法で動かしたものは、元の場所に戻ろうとする力と、新しい場所に行こうとする力が両方残ります。毎晩重ねると、そのうちどちらにも落ち着かなくなるんです」


トシエさんの顔が曇り、先輩がやわらかく口を挟んだ。


「大丈夫です。元の場所に戻せますよ。修くん、うまいから」


「先輩、誉めなくていいです」


「えー、嘘つきたいの?」


「届出に書いてあることをするだけです」


トシエさんが僕と先輩の顔を交互に見て、少しだけ笑った。


「仲がいいのね」


「仕事の相性がいいだけです」


僕が答えると、先輩がなぜか黙って懐中電灯の向きを直した。


トシエさんの魔法の名残が石の表面に薄く乗っている。

先輩が遮断術で流れを切り、僕が定位術で届出に書いたとおり元の定位置へ固定する。


手のひらに力を込める。

石の中にある「元の場所」の感覚を探り、そこへ向けて全体を押し込むように。

定位術は、例えるなら家具を元の床の跡にはめ込む作業に近い。

跡がはっきりしていれば、力はそれほどいらない。


地蔵がきしんだ。

石が元の場所と今の場所のあいだで、また少しだけずれた。

三晩ぶんの魔法が重なって、跡がぼやけている。

このまま離れた場所から押し込めば、途中で引っかかってしまう。


「修くん、これ軽バンで一気にいこう」


「え?」


「歩かせたらまたずれるでしょ。届出に『移動』は書いてないけど、固定のための移動なら課長に電話すれば許可出るでしょ」


言っていることは正しい。

元の場所まで物理的に運んでから固定すれば、術の距離はほとんどゼロになる。

届出の文面にも「元の場所に固定する」と書いてあり、運ぶこと自体は術の外の作業だ。


「じゃあ、電話します」


呼び出し音が七回鳴った。

寝息混じりの承認がまた降ってきた。


「承認した。報告書には理由を書けよ」


二人で地蔵を荷台に載せる。

重い。

膝ほどの高さなのに、腰を入れないと持ち上がらない。

先輩が「せーの」と言うので、僕は「届出に載ってない作業です」と言ったが先輩は聞いていなかった。

トシエさんが花瓶を持ってついてきてくれた。


黄色いストラップを石の胴に何重にも巻いた。

荷台の床には毛布を敷き、地蔵の頭が揺れないように角に寄せる。

六車さんに写真を送るのも手順のうちだ。

荷台に固定された地蔵の写真を撮って送ると、すぐに既読がついた。


『地蔵を荷台で運搬中。了解です。報告書に運搬の理由をお願いします』


移動の途中で通りすがりの若者がスマホを向けてきた。

アーケードを近道に使っている大学生らしい。

夜中に市役所の軽バンへ地蔵を積んでいる光景は、確かに撮りたくなるだろう。


「あ、撮られそう」


先輩が指を動かす。

若者は首をかしげてスマホをしまい、歩き去った。

何を撮ろうとしていたのか、自分でもわからなくなったような顔だった。


「それ、『周囲の認知を遮断する』って別の届出が必要なやつですよ」


「さっき課長に聞いたでしょ」


「寝てる間の承認じゃないですか」


「寝てないもん」


信じられないと言いかけて、僕は黙ってストラップを締めた。

トシエさんは「入り口ならすぐだから」と言って、花瓶を抱えて先に歩いていった。

僕は助手席に乗り、後ろの荷台で地蔵が揺れないか何度も振り返った。

軽バンが走り出す。

半分開けた窓から入る夜風は少しだけ涼しかった。


---


元の定位置は商店街の入り口近くだった。

アーケードが始まる手前の、古い石垣の角だ。

台帳の位置コードと照らし合わせると、石垣の根元に四角く苔の薄い跡が残っていた。

何十年も地蔵が座っていた場所だけ、苔が生えずに残っている。


「ここですね」


「跡、くっきり残ってるね」


地蔵を荷台から下ろし、跡の上にそっと据える。

追いついてきたトシエさんが花瓶を足元に置いた。


先輩が遮断術、僕が定位術。

届出どおりの手順で地蔵は静かに元の場所に収まった。

さっきの引っかかりが嘘のように、石が跡の上にすっと沈む。

浮いていた重さが戻り、地蔵がこの場所にいることが当たり前になった。


「戻った」


トシエさんが小さく呟いた。


「はい。今夜はここに固定しました」


「また動かしてもいいのかしら?」


「もう動かさずに済む方法があります。今日は遅いので、明日、職員が手続きの案内をしますね」


僕はトシエさんに説明した。

地蔵を動かす代わりに、裏道の街灯を増やしてもらう相談を市の窓口に出せること。

地蔵のそばに小さな灯りを置くのも、届出を出せば認められる場合があること。

どちらも六車さんが昼間に案内してくれるはずだ。


「街灯ねえ。そんなこと頼んでいいのかしら」


「頼んでいいんです。これも市役所の仕事ですから」


先輩が横から言った。

住民と話すときの先輩の声は、居室にいるときより少し低くて柔らかい。


同意書にトシエさんの署名をもらった。

今夜の対応に同意し、今後は届出なく地蔵を動かさないことを確認する書類だ。

裏面は窓口への相談票になっていて、孫の名前と連絡先も書いてもらった。

字は少し震え、孫の名前を書く欄には丁寧な漢字が並んでいた。


「この子ね、小さい頃この地蔵によく手を合わせてたのよ」


トシエさんは書き終えたペンを僕に返しながら言った。


「いつも帰り道が暗いって言うから、ついね」


「お孫さん、きっと気づいてますよ」


先輩がそう言うと、トシエさんは目を細めた。

トシエさんは何度も頭を下げて路地の奥へ消えた。

サンダルの音がしばらく聞こえ、やがて止んだ。


そのあと、僕はスマホで現地写真を撮った。

画面を見ると地蔵がブレて判別できなかった。

アーケードの外は街灯が一本しかなく、シャッター速度が落ちたらしい。


「もう一枚、撮ります」


「魔法で撮ると罰金だからね」


「知ってますよ。今度はちゃんと撮ります」


先輩が懐中電灯で地蔵を照らしてくれた。

二枚目はなんとか地蔵の顔が写った。

赤い前掛けと、足元の花もはっきり見える。


軽バンで市役所へ戻る道すがら、先輩が窓の外を見てぼそりと言った。


「うちのおばあちゃんも、夜遅い子のこと気にしてたなあ」


「先輩?」


「いや、なんでもない。仕事、仕事」


僕は何も言えなかった。

先輩の家族の話を聞くのは、配属されてから初めてだった。

荷台の地蔵はもう降ろしてあり、後部座席には先輩のパーカーだけが置かれている。

車内が暑いと言って、途中で脱いだものだ。


高山川の橋を渡ると、また新市街の明るい道に戻る。

信号の少ない夜の道を、軽バンは静かに走った。


---


居室の電気は、半分だけ消えていた。

六車さんは五時過ぎに帰っている。机の上に、メモ帳と電卓が残してあった。

そんな時にスマホが鳴った。

六車さんからだった。

家の端末で、針が下がりすぎたので電話してきたらしい。


「お疲れ様です。魔力、予想の1.5倍でした」


「ごめん」


先輩が言った。

六車さんはメーターを見てうーんと唸った。


「残量は33.1%です。九月のことを考えると、ちょっと厳しくなりますね」


「私、遮断多めに使ってしまいました」


先輩は珍しく小さな声で言った。

最初の遮断と、若者の認知の遮断。

地蔵を下ろしたあとの二度目の遮断も、念のためと言って少し広めにかけていた。


「届出の範囲内でしたから大丈夫です。報告書は届出の写しと一緒に、明日中でお願いします」


「はい」


電話の向こうで、電卓を二回叩く音がした。


「お二人とも、無理しないでくださいね。明日は私、午後からなので」


「お疲れ様です」


電話を切ると、居室には空調の音だけが残った。


僕はペンを動かした。

今夜使った魔法の内容、場所、残った魔力、現地写真。

報告書は届出のあとに書く「魔法使用報告書」だ。

何をしたかの記録。

運搬の理由の欄には「三晩分の移動術の重なりにより定位の跡が不明瞭となったため、物理的に運搬の上で固定」と書いた。

課長の口頭承認の時刻も忘れずに添える。

先輩の分はもう八割ほど書いてある。


先輩は向かいの机で、昨夜の報告書の続きを書いていた。

ハクビシンの件は、あと三行で終わるところまで来ているようだった。

チョコレートの箱はもう空になっている。


「修くん、今夜の分も下書きあとで見せて」


「もう八割できてます」


「さすがっ」


先輩はそう言って、自分のフォルダに今夜の用紙を挟んだ。

フォルダの中身は、昨夜の報告書とまだ白紙の今夜の用紙が一枚。


翌朝のために報告書を課長の机に置きに行くと、窓際の席に膝掛けが一枚畳まれていた。

課長は今夜も自宅から電話で承認している。

膝掛けの上に付箋が一枚貼ってあり、「七星 報告書」とだけ書かれていた。


そこへ、帰ったはずの六車さんが忘れ物を取りに戻ってきた。

机の上の付箋を見て、それから先輩の机のフォルダに目をやる。


「また、投げてますね」


「投げてないです!」


先輩の返事が居室に響いた。

六車さんは小さく笑って、忘れていたスマホの充電器を鞄に入れ、今度こそ帰っていった。

僕は写真の添付欄に「ブレあり、再撮影済」とだけ書き添えた。


---


報告書を片づけて、午前一時に二人で打刻した。


市役所の裏門は、正門と違って夜間も通用口が開いている。

守衛室の窓口に職員証を見せると、顔なじみの守衛さんが「お疲れさん」と手を上げた。


裏門の自動販売機前は班の非公認休憩スポットだ。

六車さんは「伝統は申請してませんよ」と笑いながら言うが、誰が始めたのか夜勤後はここでコーヒーを買うのが昔からの慣例となっているようだ。

自動販売機の横にはいつ頃置いたのかわからない古いベンチがあり、座面の塗装はところどころ剥げている。

蛍光灯の明かりに小さな虫が集まっていた。


先輩がホットコーヒーを二つ渡してきた。

真夏でも、夜勤明けにはホットを選ぶのが先輩の決まりらしい。


「報告書の下書き、助かったよ。だからお礼」


「いや、それは仕事ですから。でもありがとうございます」


「じゃあ今日のコーヒーは、私の仕事」


受け取ったカップはブラックだった。砂糖は入っていない。

夕方にもブラックをもらったので、今夜はこれで二杯目だ。


先輩は自分の分を開けて並んで立った。

影見橋の方から川の風が少しだけ流れてくる。

影見橋は高山川に架かる歩行者用の橋で、夜の巡回のたびに通る。

ここからは見えないが、風の匂いで川が近いことがわかる。

八月に入ったばかりの、まだ昼の熱が残る夜。


「明日も夜勤、一緒だね」


「はい。届出、先に用意しますね。僕の定位と先輩の遮断の分」


「うん。よろしく、修くん」


「先輩、明日はちゃんと六時に来てくださいよ」


「六時五分」


「六時です」


「じゃあ六時三分で」


交渉になっていない。

僕はため息をついて、コーヒーを一口飲んだ。


コーヒーは少し苦かった。

でも夜の終わりにはそれくらいが合っている気がした。


先輩はいつもより少しだけ優しい顔をしていた。

仕事が楽しいのは先輩と相性がいいからだ。

遮断術のあとに定位術。

順番が合うと魔力も時間も少しだけ楽になる。

夜勤の相棒がいい人で、それが嬉しい。


先輩が僕の飲みかけのコーヒーを見て何か言いかけ、やめた。

笑って空のカップを持ち上げる。


「お疲れ、修くん」


「お疲れ様です、先輩」


先輩はカップをゴミ箱に入れ、パーカーのフードを軽くかぶって自転車置き場のほうへ歩いていった。

途中で一度だけ振り返り、手を振る。

僕も手を振り返した。


居室の窓を見上げると、明かりはもう消えていた。

あの暗い部屋の壁で、メーターの針はまだ黄色だった。

明日ことは明日考えればいい。


今夜はずれていた地蔵が元の場所に戻った。それだけで十分だった。

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