憎しみと赦し
『貴女は麻衣を助けてくれたじゃないですか……俺にとってそれは何よりも大事です』
その言葉を聞いた瞬間、私は小さく息の飲み──そして胸に大きな感嘆を覚えた。
(覚えててくれたんだ……あの時のことを)
とうに忘れられていると思っていた。
それは亮介が薄情だと考えていた訳ではない。
冤罪が分かってから大きな善意に救われてきた亮介にとって、当時の『敵』だった私の行動なんて覚えている価値なんてないと諦めていたのだ。
「……そうか」
「そうです」
涙子がなんとか絞り出した返事に、亮介は優しい口調で答える。
それは憎まれていた数年前では信じられない程に優しい瞳で涙子に答えてくれた。
もちろん、態度を軟化させた理由には時間経過も大いにある。だけど、一番は彼女のこれまでの行動だった。
亮介の不在から転校するまでの僅かな期間ではあるが、涙子がずっと麻衣を気に掛けてくれていた事を亮介は知っていた。
そして、あの辛くて悲しい日々の数あるターニングポイントで、彼女は幻覚として何度も亮介を助けてくれている。
これこそ彼女に関係のない、妄想の産物でしかないのだが、それでも亮介にとっては大きな助けとなっていた。
あの時、涙子と渚沙が幻覚として現れてくれたのは、二人が亮介にとっての光となっていたからに他ない。
絶対に許せないと思っていた悪人達の中に、無意識でも許そうと思える人物が存在していた事が、架空の「涙子」と「渚沙」を生み出す結果となった。
そう考えると、二人は亮介の社会復帰に大きな役割を担っていた事は間違いない。
涙子は受け取った招待状を握り締めた。
「……まさか、これを届けに来てくれたの?」
「はい、なんか偶然コンビニで出会った感じになっちゃいましたけどね」
「そう……誰に居場所を聞いたの?」
それが楓でないのは理解している。
あの後の出来事は楓と凛花から聞いていた。
「母さんから聞きました」
「……そうなんだ」
この時の亮介に楓は認識できない。なので凛花という予想通りの答えが返ってくる。
何度も楓を訪ねていた涙子は、偶に娘達の様子を見に来る凛花とも偶に顔を合わせていたのだ。
その時に事情を説明し、亮介への仕打ちを酷く叱られ後、楓と麻衣を気に掛けていた事を感謝されていた。
ずっと俯いたままの涙子を見て小さく息を吐いたあと亮介は言葉をかける。
「変な事を聞いて良いですか?」
「……う、うん」
返事を聞き亮介は視線を少し地面に落とす。それから言葉を続けた。
「人を憎み続けるのと、人を許すの……どっちが難しいと思いますか?」
「……え?」
予想外の質問に涙子は顔を上げて亮介を見上げた。そこには俯いている亮介の横顔があり、その表情は読み取り辛い。
この問いにどれだけの意味があるのか……何となく聞いただけか、それともコレからの関係に直結する大事な問い掛けなのか……涙子には分からなかった。
その葛藤が分かったのか、亮介は少し笑いながら助け舟を出す。
「特に意味はない雑談ですよ。少し、姫川さんはどっちなのか気になっただけです」
「そ、そうなんだ」
それを聞いて涙子は安堵する。
今後を左右する大きな選択肢を迫られた場合、正しい方を選ぶ自信は今の涙子にはない。
亮介の言葉で安堵するも気を緩めず、涙子は真剣に考える。
憎むと許す……どちらが簡単なのかを。
少し考え涙子は思った事を口にする。
「………憎み続けること……じゃないかな」
「……そうですか」
「……でも許すのも難しいかも」
「……そうですか」
「ごめんなさい……どっち付かずな回答で……」
「え?──いや別に正解とかないですよ。他愛もない質問ですし、むしろ姫川さんらしいと思いますよ」
「……それって、良い意味の私らしさかな?」
それを聞き亮介は正直に答える。
「良い意味というより……苦労しそうだなって」
「………そう、かな?」
「因みに僕は許すのが難しかったです。本当に、自分でも制御ができない位に難しかったです」
「………うん」
事情は知ってる。
だから苦しくなってしまう。
「恨み続けるのは簡単──に、いつの間になってました。本当は難しい筈なんですけどね」
「…………」
「いま、コイツ性格悪いな……とか思ってます?」
「ッッ!?いや全然全然全然全然全然!?」
涙子は心底慌てて飛び跳ねた。
弁明するように亮介に顔を近付ける。
しかしその顔が笑っており、ここで揶揄われただけだと知る事になった。
「………うぅ」
顔を真っ赤にしながら急いで離れた後、唐突に涙が溢れてくる。まさかこんな風に冗談を言い合えるとは夢にも思ってなかったからだ。
「……少し冗談が過ぎましたね」
「わ、私が冗談通じないだけだよ!」
そんな彼女を見た亮介は、少し申し訳なさそうにしながらも、どこか遠い場所を見つめるような表情で話を続ける。
「でも、その本当に難しい事が、貴女相手には出来たんですよ」
「………あ」
「そんな希少な相手……呼ばなきゃ損でしょ?」
許す……彼にとってそれは本当に難しいこと。
それを亮介は冗談めかしに話した。
そこには数年前に見せた憎悪は欠片もなく、穏やかな笑みを浮かべている。
涙子と再会するまでに亮介は渚沙とも和解した。
そして今は結婚を間近に控えた幸せ者だ。
麻衣を助けた相手を……何より心から反省している相手を、今の亮介が責める事はない。
──今ならこの言葉がきっと届く。
彼が遠回しに誘導してくれた……きっと今なら。
「亮介くん………あの時は……本当に、ごめんなさい……」
「………はい」
「それに、君に助けて貰わないと謝る勇気を持てなくて……ごめんなさい」
「……気を遣ってくれたんでしょ?これ以上、僕を傷付けないように」
「……だけど」
「それに、貴女には麻衣を助けて貰った時に、保健室でだいぶ強い言葉を投げかけました……渚沙とは最近ですけど、あなたにはあの時に腹を割って話せました」
「……亮、介……くん……」
その言葉を聞いた涙子は、とうとう耐え切れずに顔を両手で覆い隠す。まるで何処からか溢れ出る暖かい水を覆い隠すかのように。
その姿を目にした亮介は、少し微笑んで──
「……謝罪の言葉、確かに受け取りました」
……と、優しくそう答えた。
──涙子が長い年月を掛けてようやく発せられた言葉だった。一人の人間を追い詰めた自分が口にしてはならないと諦めていた謝罪の言葉だった。
涙子は救われた。
長年溜め込んだ心の垢を全て綺麗に洗い流すように、涙が瞼から止めどなく流れ続けた。
その涙はきっと、教員を辞めるかどうかの岐路に立たされていた彼女を奮い立たせる事だろう。
だが、救われたのは亮介も同じだった。
渚沙に続き、もう一つ残っていた心の引っ掛かりが取れた瞬間でもあったのだから。
亮介に涙はなかった。
それでも大きな荷物を下ろしたように大きく息を吐き、ベンチに深く腰を沈める。
──そんな二人を遠くから見ていた凛花も、微笑みながらそんなやり取りを遠くから眺めていた。
どんな会話かは聴こえない。
しかし、少し離れた所からでも見える二人の表情が幸せな結末を物語っているのであった。




